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その一手を紡いでいげば

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和谷

『こいつ、Sai並みに強い……』

 プロの和谷がネット碁の対局相手に大差で押されていた。相手のハンドルネームはTorajirou。

 和谷が初めて見るハンドルネームだったが、その打ち筋は本因坊秀策やSaiに似ている。和谷は起死回生の手を探したが、最終的に中押しで投了した。

『シツレイデスガ アナタハ モシカシテ “Sai” デスカ?』

 和谷は逃がしてなるものかと大急ぎで疑問に思ったことを送信した。その文章はパソコンに不慣れな爺さんにきちんと届いた。

「まだ三局目だというのに、もうSaiと疑わてしまったようじゃな」

『だから言ったでしょう。相手はヒカルと同期でプロになった和谷に間違いないと。和谷はZeIdaというハンドルネームで私と対局して以来、何かと私を気にかけていたのです』

「名前が違っていたのだ、仕方あるまい。それに、まさか途中で対局を放棄するわけにもいかんじゃろ。いや、どうせすぐにSaiの打ち筋に似ていると分かってしまうのじゃ。こそこそ逃げようなどと考えず、堂々としておれば良かろう」

『私が何時逃げたいなどと申したのです。相手がヒカルに近い和谷と分かった時点で、あなたが打ったらどうかと提案しただけでしょう』

 佐為の目が勝負師のものとなり、鋭い視線で桑原を見つめる。だが、桑原はしてやったりと嬉しそうな顔をした。

「佐為が逃げたくないと言うなら、細かいことなど気にしてはおられんな。碁は基本的に二人で打つもじゃ。ころころと打ち手を変えてゆくわけにもいくまい」

『ですが、和谷はどうするのですか。以前対局した時はヒカルが、強いだろオレ、と書いて面倒事に発展しましたよ』

「ふむ……」

 Saiの話を聞いて少し考え込んだ桑原は、何も言わずにつたない手つきでキーボードを叩き始めた。Saiはそれを目で追っていく。

『ツヨイ ジャロ ワシ……!? 何を考えているんですか』

「なーに、ただの小僧共への挑戦状じゃよ。ひゃっひゃっひゃっ」

 佐為が驚いた顔をして抗議するのを見て、真面目な顔をしていた桑原は楽しそうに笑った。

『ひょっとして、私が困るのを見て楽しんでいるのですか』

「ふむ……。佐為にわしが何か含むところを持つとすれば、若さ溢れる外見くらいかの。その上でわしが佐為の反応を見て楽しむような棋士に見えるのか?」
『……いえ、言い過ぎました。申し訳ありません』
「分かってくれさえすれば構わぬよ。これも全て、進藤をネット碁に釣り出すための行動じゃ」

「ヒカルを釣り出すですと?」

「慎重を期して進藤を避けると決めたならともかく、ネット碁で佐為が進藤と戦えるかを確かめるならば、早いに越したことはあるまい」

 桑原は優しく佐為を諭した。佐為はその知見と労りに感激してした。

「桑原殿……」

「それに、緒方君は君に痛くご執心のようじゃからの。もし緒方君がTorajirouのことを知ったら、間もなく始まる本因坊戦に集中できるか見物よ」

 桑原は人の悪そうな笑みを浮かべた。その横で佐為が、まっすぐなヒカルが懐かしいですと嘆き始めた……。

◇◆◇◆◇◆◇◆

 Torajirouが意味深な発言を残して消えた後、和谷はTorajirouの数少ない対局を徹夜で検討した。そして、眠気を振り払って進藤に電話して自宅に呼び出す。

「はあ? 強いじゃろ、わしだって? 和谷は負けたんだ」

 和谷のネット碁の対局相手が秀策風の打ち筋で佐為並に強いと聞いて、真っ青な顔で駆けつけてきた進藤は、和谷の話に気の抜けた声で応えて大声で笑い始めた。

 自分を差し押いてネット碁をするくらい佐為が何かに怒っている可能性を想像して、進藤は不満や不安、恐れの感情にさいなまれた。だが、およそ佐為に似つかわしくない言葉を聞き、妙な安堵感に包まれた進藤は、笑いのタガが外れてしまった。

 無論、笑われた和谷の方は不機嫌になる。進藤が秀策フリークで有名な上、Saiと似ているから真っ先に知らせてやったのに、話の始まりでこの扱いでは当然かもしれない。

「進藤には俺がSaiと初めて打った時の話を聞かせたよな。あの時Saiは、強いだろオレ、って応えてくれたんだ。この書き込みの内容と似ていると思わないか」

「でも和谷って、それをあちこちで言いふらしてただろ。緒方さんあたりが和谷をからかおうと、なりすましてんじゃねーか」

「なんで現役のトップ棋士が俺をからかうんだ。それより、真面目な推理を思いついたんだ」

「へー、何?」

「驚くなよ。最初の……強いだろオレ……発言は院生を名乗った俺に、自分を子どもと思わせるためのもの。その実は塔谷名人みたいに引退した元トップ棋士であり、子ども並に時間もたっぷりあるってわけだ」

「はあ、佐為が引退したトップ棋士?」

 進藤は再び笑い声を上げた。

「だから笑うな、今からTorajirouとの対局を並べてやるから」

 そう言ってから、和谷は碁石を並べていく。すると、進藤の笑いはみるみると小さくなっていき、いつの間にか真剣な表情で碁盤を見つめていた。

「まさか、佐為?」

「やっぱり進藤もそう思うか。俺が驚いたのもわかるだろ」

 ようやく我が意を得たりと和谷が嬉しそうになる。進藤みたいな碁馬鹿には言葉より碁で見せる重要性を、和谷は改めて認識した。

「Saiの棋譜は他にもあるの」

「ある。って、まだSaiと決まったわけではないだろ。それに、お前、寝不足の俺より顔色が悪いぞ? 休んだらどうだ」

 和谷は進藤のただならない様子にTorajirouのことを教えたことをちょっぴり後悔し始めたが、進藤に「棋譜」と言われてToraJirouの対局を慌ててパソコンに出した。

 その後、徹夜の疲れで睡眠に突入した和谷に見向きもせず、進藤が和谷のパソコンを占有をしたことは言うまでもないだろう。
 
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