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その一手を紡いでいげば

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本因坊

 ヒカルと倉田の対決から二年ほどさかのぼったある日。都心の一等地の大邸宅を心地よいそよ風が吹き抜けていた。穏やかな日差しが差し込む中、本因坊の称号を持つ老棋士が、対局のように時間をかけて一人で碁石を並べていた。老棋士の名は桑原。日本のプロ棋士では最長老の人物である。

「……五目差か。さすがに行洋を打ち負かしただけのことはある。いや、ワシの最大の武器である経験で圧倒されているのじゃ、当然と言えば当然の結果かの」

 桑原は独り言を言った。周囲には誰もいないはずなのだが、桑原の瞳は幽霊のような着物姿の美男子を捉えていた。

『あなたの碁は長い経験を持つ私にも学ぶべきところがあります。楽しませていただきました』

「こちらも年甲斐もなく、血が騒いだわい。佐為との対局はワシを若返らせたようじゃ。このワシが全盛期の自分に今の経験を授けて勝負したいなどと夢見るとはの」

 桑原は心底残念そうに言った。桑原は長い人生で達観することを学んだが、佐為の碁からはそれを突き破り、魅せられてしまうほどの魔力を感じたのである。

『失礼ながらあなたの全盛期はおそらく今かと』

「ふむ、厳しい誉め言葉と受け取っておこう。さて、勝負はわしの負けじゃ、約束を守ることは本因坊の名に掛けて誓おう」

『感謝いたします』

「じゃが、わしにも碁打ちのプライドがある。例えそなたに劣ろうとも、代わりに打って貰ってまで勝ちたいとは思わぬ」

『お気持ちは重々承知しております。私は再び碁を打てるだけで十分です。そして、いつか、この喜びをヒカルと分かち合えれば……』

 佐為は胸を抱きしめながら希望を告げた。

「運命に身を任して機会を待つか……」
『はい』
「もともとわしも死に物狂いで進藤等若手を待つつもりであったから構わぬが、別に進藤に知らせてやっても良いのだぞ」
『碁の神は私に最後の機会を与え下さったのです。私の最期が目前に迫りながら、時間の流れが止まっていると感じます。おそらく、一度ヒカルと相まみえれば、私の残された時間は非常に限られたものになるでしょう』

 佐為はすぐに消えてしまいそうなはかない表情を浮かべた。

「ふむ、わしのシックセンスみたいなものか。それにしても碁の神は残酷なことをする。師弟ともいうべき碁打ちがやっと会えると思えば、別れの時だとは……」

『いえ、私は感謝しているのです。例えこの身が消え去る身であっても、今の私には成長したヒカルとの対局を待つ楽しみがあるのですから』

「欲のない奴じゃな。ネット碁とやらはどうじゃ? 佐為の影には気づくかもしれないが、確証と居場所を隠せる。どうじゃ」

『さあ、どうでしょうか? あの箱は行洋殿と私の碁を見せる役目を立派に果たしましたが、今の私の時間に影響するかは、試してみなければ分かりません』

 佐為は期待と不安の混ざった表情をして、パソコンの姿を思い返した。

 その後、桑原は対局の暇をぬって精力的に動き、大学生の孫を高給で雇ってネット碁の準備を整えた。時給はそんじょそこらの家庭教師より割高な代わりに、桑原がネット碁をしている秘密を守る約束だ。
 
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