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その一手を紡いでいげば

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緒方

『まさか本気でタイトルを取りに……』

 囲碁雑誌に載っている桑原のらしくない対局結果を見て、緒方は少しばかり驚いた。桑原は本因坊のタイトルを守るために死力を尽くしているが、それ以外の棋戦では棋士の勝利への執念を見せない。

 それが、どういうわけか緒方のタイトルを狙える予選で、勝利への貪欲さを見せつける碁を打っている。

『いや、これはきっと何時もの番外戦だ』

 緒方はエレベーターの奧に寄りかかり、片手に持った週間囲碁を顔の前に広げて慎重に検討を始めた。

 その時、エレベーターの外から騒がしい声が近づいてきた。と思ったら、完全に閉まりきる直前の扉が一瞬とまり開き始める。運の悪いことに元気過ぎる院生達が乗り込んでくる。しかも、一人遅れた院生を待つためか、トップ棋士の乗ったエレベーターの扉をご丁寧に押さえていた。

 それなりに寛大な緒方は我慢して桑原の棋譜に注意を戻そうとしたのだが、自然と耳に届く院生達の会話に引き込まれていく。院生達の話題は最近のネット碁の強い棋士。緒方は桑原のことを考えるのをやめ、全力で聞き耳を立てていた。

「おっ、ついたぞ」

 エレベーターが院生達の下りる階についた。緒方は居たたまらない気持ちで情報通の院生の肩に手をかける。

「その話、最初から俺にしてくれ」
「お、緒方先生。おはようございます」

 エレベーターの中でトップ棋士である緒方にいきなり声をかけられ、緒方に肩を掴まれていない幸運な院生達は飛び上がって驚いた。緒方が顔の前で週間囲碁を広げて読んでいたため、トップ棋士と同じエレベーターに乗っていることに、院生達は全く気づかなかったのである。

 いたいけな院生を誘い出した緒方は彼等の顔が緊張で硬直していることに気づき、大人としての落ちつきを取り戻す。

「いや急にすまない。君たちは院生だろ。ならまだ対局まで時間はあるな。良かったら一柳先生を破ったというトラジロウの話を最初からしてくれないか」

 進藤のような特殊な事例もあるが、緒方が院生に丁寧に頼めば、大抵知っていることを洗いざらい話してくれる。緒方はトラジロウのことを聞き出し、お礼として全員に指導碁を打つと約束をした。約束といえば緒方もそろそろインタビューを受ける約束の時間だ。


「おはようございます」
「緒方先生。おはようございます。今日はインタビューを受けていただきありがとうございます」

「そのことなのですが、もし天野さんと吉川君の都合が良ければインタビューを後日にしていただけないでしょうか?」

「まだ、紙面に載せる日まで一週間ほどあります。その間にもうインタビューをさせて頂けるなら、私達は構いませんよ」

「申し訳ない。では後日にして下さい。今日はこれで失礼させていただきます」
「緒方さん。大丈夫ですか? 顔色も何時もと違うようです」

「いえ、少し気になることがあるだけです」

 緒方は心配する天野に棋士の病ですと冗談?を言ってから愛車のもとへ急いだ。

 その愛車を、緒方は法定速度ギリギリのスピードで飛ばしていた。赤に変わった信号に理不尽な怒りを覚えたが、もちろん緒方はきちんと停車する。

 その僅かな時間に、緒方は無意識のうちに煙草をくわえて火を付けた。

『確か進藤は棋院で対局中だったな』

 まだSaiと断定できたわけでないのに、緒方はつい進藤と結びつけて考えてしまう。 それは仕方ないことだろう。

 碁打ちなら誰もが刮目するであろう名人とSaiの名勝負。その直後に進藤と塔矢名人の会話を聞く機会を得た緒方は、進藤とSaiに何らかの繋がりを持っていると半ば確信めいた疑いを抱いていたのだから……

 とはいえ、緒方が決定的な証拠を掴んだわけではない。実際、緒方の師匠である塔矢名人の庇護に入った進藤が惚けられ、それ以上この線から追及の仕様がなかった。

 そして、手をこまねいているうちに肝心のSaiはネット碁界から姿を消してしまった。さらに、緒方自身も塔矢名人の引退後にタイトルホルダーとなり、Saiの調査に時間を割けくなる。

 結局、緒方はSaiと対局する機会を逃してしまった。

「こいつがSaiと思われているユーザー……」

 帰宅した緒方は早速パソコンを立ち上げてネット碁サイトにアクセスした。そしてすぐにToraJirouなるユーザーを見つけて棋譜を映し出す。

『打ち筋はSaiを思い出す。隙のない円熟した読み、そして一柳先生を一捻りにする棋力か。確かにSaiであってもおかしくない』

 しばらくしてから、緒方は納得するように頷いた。緒方の勘は本物と告げている。

『対局を申し込みする際は棋譜、強いユーザーとの対局結果を示して、お気に入りユーザーに登録してくれるのを待つだったな』

 院生から教わったルールを思い出し、緒方は手順通りに対局を申し込んだ。Torajirouも対局したことのある一柳に勝った棋譜を出した緒方は、お気に入りユーザーに選ばれる自信はあった。


 あとはTorajirouの出現を待つだけなのだが、残念ながらログイン日時に規則性はないようだ。緒方は集中出来ないことを自覚しつつ、再び週間碁を広げて宿敵の対局を分析する。

『ようやくTorajirouがログインしたか』

 Torajirouがお気に入りユーザーの登録を始めた。当然、緒方もお気に入りユーザーに選ばれる。

 院生の話によれば、ToraJirouは新規のユーザー登録を終えると、対局可能日時を知らせて対局者を求めることが多いらしい。

 緒方は興奮しながらお友達ユーザー登録作業を終えたToraJirouからのお知らせを待った。

 だが、緒方のパソコンがうんともすんとも言わない。何故かToraJirouのお気に入りユーザーが一斉に対局を申し込み始めている。

 呆然とその様子を眺めていた緒方は、自分だけ音沙汰なしということに思い至った。

「どういうことだ? まさか、オレにだけ連絡が来てないのか。それとも何か手順を間違えたのだろうか」

 若干焦りを感じながらも、緒方はパソコンを軽く叩いたりさすったりしてみた。が、何も変わらない。緒方は自分を落ちつかせようと熱帯魚の餌を取り水槽に近寄った。

◆◆◆◆◆◆◆◆

「緒方君は今頃、パソコンの故障を疑っているかもな。いや、繊細な奴のことじゃ、大好きなデメキンと戯れているかもしれんな。ヒャッヒャッヒャッ」

 アルバイトで雇った孫にユーザー管理を任せていた桑原は、予め探っておいた緒方のアカウントにだけ、お知らせ通信を送らないよう指示していた。

『桑原殿、あの者が真実を知ったら気分を害するのでは?』

「なーに、ワシと緒方君の仲じゃ。こめかみに皺を作って喜びを現し、鍛えてくれてありがとうと感謝するよ。これも年長者としての務め。結局は緒方君の成長の糧となるはずじゃ」

「そうなのですか……」
「それよりも対戦相手を誰にするかの?」

 今回はすぐに対局できる相手を募集しており、桑原はその対局をパソコンにかじりついているであろう緒方に見せてやるつもりだった。

「では、この者を相手にしたいと思います」
「ほう? 棋譜を見る限りプロのようじゃの」

 桑原は棋譜を見ながら呟いた。

「おそらく和谷と同じ森下殿の門下かと」
「森下か。世間は狭いというがよくよく縁のあることじゃな」

 桑原は『果たして偶然かの』と内心でつぶやくと、おぼつかない手つきで虎次郎の対局を組んだ。そして佐為は心ここにない桑原を顎で使い、あっけなく大差で勝利した。 
 

 
後書き
半年ぶりの更新です。難産で修正しまくり最後は勢いで更新させていだきました。なお、次話の更新は未定です。 
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