| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

蒼き夢の果てに

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第5章 契約
  第75話 夜の森

 
前書き
 第75話を更新します。

 次の更新は、

 11月13日、『私は何処から来て、何処に向かうのでしょうか?』第15話。
 タイトルは、 『今度は黒き死に神が相手だそうですよ?』です。

 その次の更新は、

 11月20日、『蒼き夢の果てに』第76話。
 タイトルは、 『名付けざられしもの』。
 

 
 ゴアルスハウゼンの村の各所に防御用の結界の構築は終了。
 俺とタバサに対する防御用の護符の装備も当然の如く終了。
 そして、このベルナール村長宅も強力な結界で覆い尽くしました。

 天井の一点。……おそらく、その延長線上にはこのハルケギニア世界の夜を支配する蒼き偽りの女神が存在するであろうと言う場所に視線を送りながら、誰に問われるでもなく、自らの心の中のみで最終確認を行う俺。

 そう、今宵はスヴェルの夜。
 何処までも昏く、何処までも黒い夜。しかし、それは瞳で見る事は叶わない昏さ。
 肌で感じ、臭いで感じ、気配で感じる。

 ただ、漠然とした感覚でしか掴む事の出来ない闇の感覚。

 蒼き偽りの女神のみが蒼穹(そら)に君臨し、夜の子供たちが世界に跳梁跋扈する。
 そんな、剣と魔法のファンタジー世界に相応しい闇に対する恐怖を、非常に強く感じさせる夜。

 このハルケギニア世界に召喚されてから経験して来た、スヴェルの夜に発生した事件は厄介な事件が多く、流石に準備を怠る訳には行きません。
 何故ならば、少なくとも、現在(いま)のこの村に存在する強者(せいえい)と言うのは、俺とタバサ。そして、二人が連れて来ている式神たち以外には存在して居ないのですから。



 タバサの食事が終わり、ベルナール村長が去り、俺とタバサが順番に休息を終えた後。
 現在、俺の腕時計が示す時刻は夜の十一時半を過ぎた辺り。

 流石に地球世界のスイスと比べると温かい……いや、かなり暑いハルケギニア世界のヘルヴェティア地方とは言っても、今は十一月(ギューフの月)第二週(ヘイムダルの週)。夜が更けて来るに従って気温も下降の一途を辿っています。

 夜の帳の降りた室内は、魔法に因って灯された明かりと、蒼き吸血姫の膝の上に広げられた和漢に因り綴られた書籍のページを捲る音のみが支配する静寂の世界と成っていた。
 そう。夕刻……。蒼茫と暮れ行く森の繁みにて保護をした翼人の少女は、未だ目を覚ます事もなく規則正しい寝息を発するのみ。彼女からの証言を得られるのは、どうやら日が変わってからの事と成りそうな雰囲気。

「サラマンダー」

 流石に気温の低下、及びこれから先の危険度を考えると式神を現界させる事で時間を費やす因りは、初めから傍らに居て貰った方が安全と考えた結果、炎の精霊サラマンダーを現界させて置く事とする俺。

 そして次の瞬間。西洋風の紅い炎を連想させるドレスと、紅玉に彩られた美少女姿の炎の精霊が姿を顕わす。
 そう。炎を連想させる紅の長い髪の毛を持つ彼女が現界した瞬間に、下降の一途を辿っていた室温が快適と表現すべき温度にまで一気に上昇したのでした。

 そうして、

「術に因りて飛霊を生ず、顕われよ!」

 引き続き俺自身の完全なるコピー、飛霊を一体呼び出す。これで、俺の飛霊とサラマンダー。それに俺本人とタバサの合計の四人がこの村に存在しているのですから、かなり危険な事態が起きたとしても対処出来るはずです。

 そう考えながら、再び周囲に探知用の気を飛ばす俺。
 一瞬の空白。その隙間に、再び、タバサの手の中に有る書物のページが一枚、余分に捲られる。

 大丈夫。東西南北、すべて異常なし。村の各所に配置した防御用の結界も問題なく展開して居ます。

 ただ……。
 ただ、漠然とした不安。
 最初に行うべき、この村を守護する土地神の召喚に失敗している点が今夜の……。この世界のスヴェルの夜の危険度を証明しているようで……。

 もっとも、だからと言って、この夜の内に危険を伴わない方法でこの地に起きて居る異常な事態の原因を調べる方法が有るかと言うと、そんな便利な方法が俺に有る訳でもなく……。故に、今はダンダリオンを通じてイザベラにゴアルスハウゼンの村で表面上からは見えないけど、何か危険な事件が進行中の可能性有りと言う連絡を入れて置くに止めて有ります。

 夜の森。まして、ここが西洋風剣と魔法のファンタジー世界で有る以上、このハルケギニア世界の森の中にはオークやトロールなどの危険な魔物が数多く存在して居り、翼人のコミュニティも近くに存在している以上、探知魔法の効果範囲を広げて捜査を行ったトコロで、雑多な気を拾い上げて、その中のどれが一番危険なモノかを判断するには、このゴアルスハウゼン村の周囲と言う漠然とした範囲設定では少し範囲が広すぎますから。

 イザベラに連絡を行って有るから、明日の朝には増援が送り込まれるのは間違いなし。故に、今夜一晩を現有戦力で乗り切れば、明日には積極的な捜査を開始して、今のゴアルスハウゼン村周辺で何が起きて居るのかを調べる事は可能だとは思うのですが……。

 そんな、かなり消極的な思考の海に沈み込んでいる俺。
 その瞬間。
 一日の内で二度存在する、時計の針がまったく同じ場所を指す一度目の時の始まりと同時に、彼女の静謐な時間が終りを告げた。
 世界が終った後も、きっと彼女はそうしているのだろうと考えさせずには居られない見慣れた体勢から、自らの膝の上に広げられた書物のページを静かに閉じ、僅かに顔を上げた少女は俺の顔を真っ直ぐに見つめる。
 普段通りの紅いフレーム越しの蒼き瞳に俺を映す彼女。

 そして、

「今夜から捜査は開始すべき」

 ……と、短く俺に対して覚悟を要求して来た。何時ものように、すべての感情を削ぎ落した何の感傷も感慨もない、ただ事実のみを突き付けて来る者の口調で。
 しかし、故に良く磨がれた刃物の如き鋭さで、俺の心の弱い部分を斬り裂いて居た。

 そう。彼女は間違いなく、ひとつの覚悟を俺に要求して来て居る。
 俺に、彼女を危険に晒す覚悟を。

 何故ならば、現在の状況は、この任務に派遣されたのが俺一人ならば何の迷いもなく夜の森に踏み込み、当座の危険はないと判断出来る材料を得てから、明日以降の行動の準備を始める状況。
 しかし、今夜それを行わずに先に防備を固めたのは、手持ちの駒が少なく、俺がウカツに動けば彼女を危険な事件に巻き込む可能性が高いと判断したから。
 但し、だからと言って、彼女が眠った後に俺一人で行動を開始するなどと言う事は、彼女が吸血姫の血に目覚めた以上、現状では不可能。

 間違いなく彼女自身が同行を求めて来るので、それならば明日の朝まで待って、増援が到着してから動き出した方がマシだと判断した結果ですから。
 ゴアルスハウゼン村の安全を担保した上で行動するには、今の手持ちの戦力では……。

「方法としてはふたつ」

 自らの相棒に促されて、今、俺が持って居る策の内で、実現可能なレベルの積極的な作戦を口にする俺。
 但し、これは積極的な方法故に、多少の問題点を内包しているのですが。

「最初は、その翼人の少女を無理矢理叩き起こして、何故怪我をするに至ったのか事情を問う」

 これが一番、実現度が高い方法。
 この村と諍いを起こしている翼人の少女が、この村の入り口に等しい位置で生命に関わるような大怪我で倒れていたのです。
 まして、精霊魔法を操る翼人にこれほどの大怪我を負わす事の出来る存在は、系統魔法使いではかなり限られて来るはずです。

 彼女の証言を得られれば、この地方の裏側で起きて居る事件を知る取っ掛かりに成る可能性は少なく有りません。

 但し、これは人道的な問題が残るのも事実。流石に死に至る手傷を負った少女を、幾らその少女を助けた人間で、その他の人間に危険が及ぶ可能性が有るからと言って、眠って居る状態の人間をたたき起こすのは……。

 更に、彼女は手傷を負って居ましたが、それがこの土地神が召喚出来なく成って居る事態にイコールで繋がっていると決まった訳では有りません。
 まったく関係のない事象で、偶然、怪我をした少女を俺とタバサが見つけた可能性だって有るのです。

 まして、この怪我をした少女が必ずしも善なる存在だとも決まった訳でも有りません。
 残念ながら俺と言う人間は、怪我を負った存在が必ず弱く、正しい存在だと決めつけられる程のお人好しと言う訳では有りませんから。

 眠って居る少女の顔を見つめるのは非常に失礼に当たるのですが、それでも、その少女に視線を向けてそう話す俺。
 そして、続けて、

「次に可能なのは人海戦術」

 土地神を召喚して助力を願う事は出来ませんでしたが、その他の存在たち。例えば、この家に存在する荒神様。つまり、かまどの神さまや、その他の雑多な精は召喚可能。
 そんな連中を急場しのぎに召喚して、更に手持ちの剪紙鬼兵を総動員して山狩りを行えば、某かの情報の断片程度は得られる可能性もゼロでは有りません。

 但し、この程度の連中が為せるのは……。
 それに、この村の規模では、かまどの神として召喚を行い、真面に仕事を熟せるのはこの村長の家に存在する炎の精のみ。
 他の家々の連中では……。

 もっとも、森の妖精に関しては、この村の住人が森の手入れを小まめに行って居る事に因って邪妖精化してはいないようなので、善良な森の妖精が召喚出来るとは思いますが。

「一応、もう一人分飛霊を作り出して、俺とタバサと飛霊二人で方角を定めて探知魔法を行使したら、少しは術の精度も上がるとは思うけど」

 それでも、今晩がスヴェルの夜で有り、ここが辺境の村で有る以上、森の中には元々危険な魔獣・凶獣・亜人などの存在が居て、そいつらが月の魔力の影響で精神的に高ぶって居る可能性が有る以上、高い精度での探知魔法の結果を期待する事は難しいと言わざるを得ないでしょう。

 俺の今から行動可能な策の説明が終わった後、室内はまた、晩秋の夜の静寂が支配する世界と成った。
 但し今回、この室内に存在しているのは耳が痛くなるほどに騒々しく感じる静寂のみ。
 夜の風も。獣の遠吠えも。魔鳥のけたたましいまでの叫びも聞こえて来る事はなかった。

 静か過ぎる。そう、不自然なまでに静か過ぎる夜が、ここには存在して居るだけで有ったのだ。
 まるで、何か膨大な量の黒い物質に、この村の周囲すべてが覆い尽くされているかのような錯覚さえ感じられるほどに……。

 ゆっくりと彼女に用意された寝台から立ち上がるタバサ。その手には何時の間にか愛用の魔法使いの杖が握られ、魔術師の証の闇色のマントを五芒星のタイピンで留める。
 彼女が決断した以上、俺も動かざるを得ない状態。
 本当は、霊的な守りを固めたこの村で一晩を過ごし、明日の朝から捜査を開始した方が安全なのですが……。
 それでも、何かが起きつつ有る可能性を無視する事が出来なかったのですから。

 その瞬間。
 それまでこんこんと眠り続けるだけで有った翼人の少女に、ほんの僅かな違和感が発生する。
 そう。その瞬間に規則正しく続くだけで有った寝息に、少しの乱れが発生したのだ。

 そうして、

 ゆっくりと開かれて行く翼人の少女の瞳。僅かな呻き声のようなモノを発したのは、未だ倒れた瞬間から記憶が続いて居るのかも知れない。

「怪我の方は治療済みやから大丈夫なはずやけど、未だ何処か痛む場所は有るのか?」

 完全に目覚めたとは言い難い少女に対して、そう問い掛ける俺。
 そう。数度の瞬きを繰り返したその翼人の少女でしたが、未だ夢の世界に意識を半分残して来ているかのような様子で、かなり茫洋とした雰囲気でタバサと俺の事を見つめていたのですから。

 俺の言葉に反応し、何か答えを返そうとして少し咳き込む少女。その少女に対して、ペットボトル入りの飲料水を自らが飲んで見せた後に差し出すタバサ。
 その飲料水を受け取り、少し不思議な物を見つめる視線で見つめた後に、しかし、ゆっくりと一口、二口と飲み込む翼人の少女。

 そして、

(ありがとう御座います)

 そう言いながら、少女はペットボトルをタバサに返す。
 優しい声。ただ、何処かで聞いた事が有るような……。何と言うか、記憶の奥深くに引っ掛かりが有るような気がする声なのですが……。

 こちらの世界に来てから何度目かの奇妙な既視感を覚えながらも、それでも思考の海に沈む事もなく、その少女を見つめ続ける俺。
 その俺を、こちらも少し怪訝そうな雰囲気の瞳で見つめ返す翼人の少女。
 彼女の視線と俺の視線が、ちょうど俺と彼女の中心辺りで結ぶ。その時、矢張り強く成る奇妙な既視感。

 黒い髪の毛。黒い瞳。肌の色は……西欧人の白とは違う、どちらかと言うと東洋人の色の白い女性を思わせる白。
 妖精女王ティターニアの容姿にも同じ事が言えるのですが、矢張り西洋人が主に暮らして居る場所で、東洋人風の面差しや雰囲気を持つ相手に出会えると、それだけで故郷。未だ帰る方法の目処さえ立っていない日本を思い出して、望郷の念に囚われて仕舞うと言う事なのかも知れません。

(それで、私は何故、こんなトコロで眠って居たのでしょうか)

 俺の方から何のリアクションが起こされない事に不安と成ったのか、俺の方に向かって、少し意味不明の内容で問い掛けて来る翼人の少女。
 いや、厳密に言うと意味不明と言う訳では有りませんが……。おそらくこれは、生命に重大な危険に晒される事に因る一時的な記憶喪失の可能性が有り、と言う事。この黒い翼人の少女の置かれた立場から考えると、これはそれほど珍しい事では有りません。
 良くドラマなどで演じられる、ここは何処。私は誰、状態だと思いますね。

 そんな俺と翼人の少女のやり取りを、彼女に相応しい普段通りの興味の無さそうな瞳で見つめるタバサ。ただ、ペットボトル入りの飲料水を飲んで見せてから差し出したりして居るので、彼女の表情や雰囲気が興味なげに見えると言うだけで、心の奥深くでは判らないと言う事。
 この辺りも、通常運転中のタバサと言う感じですか。

 そんな、こちらの世界にやって来てから無表情な少女の心を読む技術ばかりが上手く成って行く俺に対して、視線を移すタバサ。
 そして……。

【わたしには彼女が何と言って居るのか判らない】

 口調としては普段通りの抑揚の少ない口調で、但し、かなり異常な内容を【念話】を使用して問い掛けて来る。
 もっとも、これは表面上で起きた出来事を取り上げると、かなり異常な出来事と言うだけ。少し考えると、この世界に召喚された俺にならば、こう言う事態が起きたとしても何ら不思議でも何でもない事が起きたと言うだけ。

【どうやら、彼女は命に係わるような重大な怪我に因る一時的な記憶喪失状態に陥って居るようで、自分が何故、ここに居るのかも理解出来ていないらしい】

 事実を有りのままに【日本語】で伝える俺。
 そう。俺には、このハルケギニア世界に召喚されて使い魔契約を交わした際に、相手の話した言葉を自動的に脳内で日本語に翻訳して貰える便利な自動翻訳能力が授けられて居ます。
 つまり、今まではガリア共通語と言う言語にしか接触して来なかったので感じた事は有りませんでしたが、可能性だけで言うのなら俺の授けられた言語の自動翻訳能力は、ガリア共通語以外のハルケギニア世界で人型の生命体に使用されている言語すべてに作用する可能性だって存在しているのですから。

 それに、今までも人間の発声器官では発声出来ないはずの邪神召喚用の呪文の意味が、何故か自動的に翻訳されて聞こえて来た事も有りましたから。
 まして、すべての翼人がガリア共通語を話して居るとは限りません。

 そもそも、ここは地球世界で言うのならスイス。フランス語がまったく通じないとは思えませんが、それでもどちらかと言うとドイツ語圏の方が多い国。更に言うと、このゴアルスハウゼンの辺りなら間違いなくドイツ語圏だったと記憶して居ます。
 流石に、俺のハルケギニア世界の知識の源のタバサでも、翼人の話す全ての言語。方言を知って居るとは思えませんからね。

 タバサに経過を告げた後、再び、翼人の少女の方に視線を戻す俺。不自然な空白の間も、俺の事を何故か訝しげな瞳で見つめ続ける翼人の少女。
 流石にこれ以上、そのまま。何の説明もせずに放置して置く訳には行きませんか。
 もっとも、

「怪我をして倒れていた貴女を治療する為に、ここまで運んだのです」

 かなり簡略化された事実のみを告げる俺。
 そう。その怪我がどう考えても人為的に付けられた傷で有ったとか、人間と翼人が現在、生息域を巡っての諍いの最中で有るとか言う部分を完全に無視した説明を行ったと言う事です。
 どうやら、彼女の発して居る雰囲気から察すると現在の状態に多少、困惑しているような雰囲気は感じますが、人間……。つまり、俺やタバサを恐れるような雰囲気は発して居ません。
 まして、嘘を吐く際に発せられる暗い感情の色も発して居る訳でも有りません。
 この辺りから推測すると、彼女は人間と翼人の間に発生した諍いの部分に関しても知らない……とは思えないので、一部の記憶を失ったと言う事なのでしょう。

 医療従事者ではないので定かな事は言えませんが、おそらく、彼女が生死の境を彷徨うほどの傷を負った原因がその辺り。……つまり、人間との間に発生した生息域を巡る争いに端を発して居ると言う事になると思います。

 そして、これで彼女の証言から事件の真相に辿り着くのは難しく成ったのは確実。
 流石に、心的外傷からの一時的な記憶の封印に過ぎない症状だったとしても、彼女の記憶を無理に呼び覚ますような真似が出来る訳は有りません。
 それは、流石に問題が有り過ぎますから。
 その後の心のケアの方法までは、流石に俺は知りませんから。

 但し……。

【タバサ。この感じだと、森の中を当てもなく彷徨う必要はなくなった可能性が高いな】

 俺は【念話】でタバサにそう伝えた。
 そう。この寝台の上で上半身のみを起こした形で俺の方を訝しげに見つめる黒髪黒い瞳の少女の心的外傷の原因が、人間との諍いに端を発するモノの可能性が有る以上、最初に向かうべきは翼人たちのコミュニティ。
 確かに真夜中に訪れるのは多少……。いや、かなり問題も有りますが、それでも当てもなく森を彷徨うよりは余程マシです。

 それに、もし、何の関係もなく、平穏な夜が翼人のコミュニティに訪れて居たのなら、気付かれないように、そっと立ち去れば良いだけですから。

 俺の【念話】に対してタバサは、彼女にしては珍しい事に他者から見ても判る形で首肯いて答えてくれたのでした。


☆★☆★☆


 ふぅんぐぅ~るういぃぃ む、む、む、むぐるうぅぅふなふぅ~



 ゴアルスハウゼンのベルナール村長を叩き起こして、飛霊を目の前で呼び出して見せる。
 驚く村長に、これが風のスクウェア魔法の偏在(ユビキタス)だと説明した後、

「もしかすると敵に成るかも知れない翼人の集落と言う物を夜の間に調べて置きたいのですが、場所を教えては貰えないでしょうか?」

 ……と問い掛けた。
 もっとも、俺の仙術は厳密に言うのなら、風の系統魔法とはかなり違う種類の魔法と成るのですが。
 まぁ、それでも結果が同じなら、素人目には判断が付く訳はないので同じ物として説明しても問題はないでしょう。

 それで、村長に諍いが起きて居る翼人のコミュニティの大体の位置を聞いた後、ゴアルスハウゼンの村の護りに、サラマンダーと俺の飛霊二体。更に、五体の剪紙鬼兵を配置。
 万全とは言えないまでも、ある程度。……俺の見込みが外れてこのゴアルスハウゼンの村に何モノかが顕われたとしても、飛霊二体にサラマンダーが存在するのですから、瞬間に村が壊滅する、などと言う事はないと思います。



 いあぁ~ いい、いあぁああぁ、ははは、はすと はすと



 そして……。

 蒼穹を完全に合一した蒼き偽りの女神のみが支配する夜の世界。
 木と木の間に広がる蒼穹には、頂点からはやや西側に移動した蒼き偽りの女神がその満面に讃えた冷たき笑みを地上へと投げ掛け、
 そして、瞬く星の光りからは普段以上に妖しい気配を感じさせる。

 いや、星座の位置に詳しい訳では有りませんが、今宵の蒼穹に見える星座は、何故か奇妙に歪んで見えて居るように俺には感じられたのですが……。
 もっとも、数万年単位でならば星座の位置と言うのは変わる可能性も有りますが、昨日今日の単位で変わる訳はないので、これは単なる気のせいと言う事なのでしょう。

 そんな、奇妙な感覚に囚われて居た俺とタバサの周囲を、この季節に相応しい風が吹き抜けて行った。

 流石に、いくら火竜山脈と言う真っ当な科学的知識の向こう側に存在するファンタジー世界の代表的な場所だったとしても、十一月と言う季節は地球世界と同じように晩秋に当たる季節で有る以上、大気自体の冷たさはどちらの世界でもそう変わりは有りません。
 そう。森の僅かな風の流れさえ忌まわしい呪文に聞こえて来る不気味な夜。正に、魔の夜と言う表現こそ相応しい今宵。
 この世界のスヴェルの夜。

 ぼんやりとした意識の片隅で、この間近に迫った冬を感じさせる冷たい風の音でさえ、何か巨大な生き物が、その冒涜的なまでに奇妙な形の咽喉の奥から発せられるこの世のモノとも思えないような歌。……まるでむせび泣くような声で歌い上げて居るような、そんな気さえして来る状況。

「寒くはないか、タバサ」

 自らの不安を無理矢理ねじ伏せ、普段と変わらない口調で相棒に向けて問い掛ける俺。
 サラマンダーを村の護りに置いて来て仕舞った以上、今の俺とタバサの二人を寒さから護るのはシルフの大気を操る技能で、冷たい空気をシャットアウトするぐらいしか方法はなく、間接的にでは有りますが外気温がその薄くはない空気の層を伝わって俺たち二人に届いて来て居ました。

 この瞬間、時折吹き込んで来る十一月の風に、すっかり葉を落として仕舞った木が寒そうにその枝を震わせた。
 そう。ここは冬を間近に控えた冬の森。普段は精気に溢れた森でも、流石にこの季節の森は、来年の春を目指して冬籠りの最中。
 生あるモノの気配を感じ取る事は有り――――

 かさり――

 ――ません。そう考え掛けた時、明らかな葉擦れの音が上空から聞こえて来る。
 普通の人間ならば絶対に気付かないレベルの微かな物音。その瞬間、反射的に上空を仰ぎ見る俺。
 其処に存在して居たのは……。
 蒼い偽りの女神のみに支配された、普段よりは少し暗い蒼穹に浮かぶ複数の黒い影。

 その正体を見極めようと、瞳に更に霊力を籠めて行く俺。

 其処には……。
 蒼き月の光輝を浴びても尚、黒き生命体。頭の部分に目立つのは内側に向かい……つまり、お互い同士に向かって曲がって居る不快なふたつの角。その不気味なコウモリの羽根にも似た翼を広げて飛ぶ様と相まって、彼らこそが伝説に伝えられている悪魔と思わせるに相応しい姿形。
 腕と脚が二本ずつ。この辺りは人間や、そして、今日の夕刻に出会った翼人と同じフォルム。但し、その手足の先にカギ爪の如き物が存在している点が、人間や翼人とは違う種族で有る事を窺わせる。

 しかし、何より違うのは、その上空を飛ぶ生命体たちには、多くの棘を持った尾が存在して居た事で有ろうか。

「黒いコウモリのような羽根の有る怪物。あいつらがガーゴイルならば良いんやけど……」

 かなり危険な予想を頭に浮かべながらも、最悪ではない方の予想を口にする俺。
 いや、最早これは祈りに近いもの。あいつらが、俺の予想通りの連中などではなく、単なるガーゴイルであって欲しいと言う願望。
 但し、ガーゴイルを扱うような貴族や、軍がこの近辺で動いて居るなどと言う報告を俺たちはイザベラから受けていないので……。
 その刹那。樹木の上空で闇の中でもなお一層黒い影が躍動した。

 そして次の瞬間、大きな音を立てて大地に這いつくばる黒い影。

 一瞬の黒い疾風(かぜ)と蒼き光輝(ひかり)の邂逅。
 遙か上空から一気に高度を下げ、俺とタバサをそのカギ爪に引っかけ、全体に針状の突起の有る尾を巻き付ける事により上空――自らの生息領域へと連れ去ろうとした黒き影を、俺と、そして、同じように半身に構えたタバサが迎え討つ。

 仮にヤツらが超音速で飛行出来たとしても、此方も神の領域での戦いに身を置く存在。高速で飛行する物体が発生させる衝撃波などで、俺やタバサの精霊の護りを切り裂く事など出来はしない。

 相手の爪が、そして尾が此方に届く正にその刹那。突然、俺。そして、タバサの手の中に現れる光輝。
 鎧袖一触(がいしゅういっしょく)。急降下をして来た四体の魔物を下段より斬り上げられた一刀の元、無力化して仕舞う俺とタバサ。
 その姿は正に比翼連理。完全に同調した達人同士の重なり。

 地に転がり、のたうち回るその姿を何に例えたら良いのだろう。
 不快なまでに痩せこけた肢体。更に、斬り上げた瞬間、分厚いゴムを斬り裂いたかのような手ごたえを感じさせた肌は漆黒。下から見上げた時に確認した悪魔の如き角、羽根、そして尾。
 しかし、其処に存在する黒き影たちを、ヤツらだと確信させるのは……あるべき場所に顔が存在しない事。

「ヤツらは話す事もなければ、笑う事もない。伝承や書物に描かれている通りの姿やな」

 まるで黒いストッキングを被った銀行強盗の成りそこないのような、その不気味な生命体を見つめながら小さく呟く俺。
 いや、未だヤツらだと確実に決まった訳では有りませんか。

「タバサ。このハルケギニア世界に、今、この目の前に転がって居る無貌の生命体が生息して居る、……と言う事はないか。出来る事なら実際に存在している事が望ましいけど、伝承や伝説の中に残されているだけでも構わないから」

 瞳は未だ不気味な生物に向けたままの姿勢で、右隣に並ぶ少女に問い掛ける俺。かなり緊張した雰囲気にて。実際、こんなヤツらが単独で……。コイツら一種族だけが顕われているとは考え難い状況だと思いますから。
 まして、コイツらの役割は……。



 はぁす はぁす、はすつー はすとぉーる ずぃ~ああぁんんすくーくくぅぼぁ~ん



「伝承や伝説に付いては不明」

 無味乾燥実用本位の答えを返すタバサ。しかし、その彼女も未だ視線をこちらに向けた雰囲気はない。
 そして、更に続けて、

「わたしの知る限り、現実にこのような生命体が存在して居る事など知らない」

 ほぼ予想通りの答えを続けたタバサ。
 彼女の言葉が晩秋の冷たい大気と、蒼き偽りの女神が支配する世界に散じた瞬間、それは起こった。
 羽根を、四肢を断たれ、致命傷を負いながらも未だ地上で落ち葉を撒き散らし、大地を叩き続けて居た黒き影。ナイトゴーントたちの姿が徐々に闇と同化して行き始めたのだ。

 もがき苦しむように足が、棘で覆われた尾が空しく虚空を掻き、風をはらむ事の出来なくなった羽根が大地を叩く。
 その黒き身体を覆い隠す……。いや、違う。その黒き闇自体が、ヤツら。ナイトゴーントから発生していたのだ。

 その闇に呑み込まれた個所から、徐々に。徐々に、まるでお湯に放り込まれた角砂糖のように、てらてらとした黒き光りを放つゴムの如き肌が溶け落ちて行く。
 そう。その崩壊を止める術はもうない。俺とタバサの見ている目の前で、コウモリの如き羽根が溶け落ち、禍々しきカギ爪を持つ手が、脚が先の方から消えて行く。

 腕も、首も、脚も、尾も関係なく細かな闇の粒子と化して黒き闇に同化して行くナイトゴーンド。
 最期の瞬間。まるで声なき声を発するかのように、一度首をもたげて俺の方に首を向ける無貌の夜魔。
 そして、存在しないはずの瞳に怨嗟の炎を宿し、口からは呪詛の苦鳴を残して完全に闇へと還って行く。

 次々と……。

 その声なき声が響き渡った瞬間、まるで表皮全体が粟立つかのような感覚に苛まれ、森と夜は更に闇の濃さを増して行った。
 そう。その瞬間に木々の間より、月光は煌々と降りそそぐ晩秋の相応しい静寂に満ちた夜が戻って来たのだ。

 この世界のスヴェルの夜に相応しい狂気に支配された静寂の夜が……。

「大いなる深淵の大帝に仕える存在。夜魔ナイトゴーント」

 木々のざわめきすら聞こえない、死に満ちた静寂の中に俺の声のみが不気味に響いた。
 但し、旧き神のノーデンス……ケルト神話に伝えられる銀腕のヌアザと同一視される存在に仕えるナイトゴーントならば大きな危険はない。
 本当に危険なナイトゴーントの主人と言うのは……。

「但し、這い寄る混沌も必要で有るのなら、彼らを支配出来るはず」

 確か、ヤツら……ナイトゴーントの仕事は神の領域を荒らす侵入者を捕らえ、想像出来る内のもっとも恐ろしい場所に置き去りにする事。

 ここがもし、ヤツらの言うトコロの神の領域だった場合、侵入者とは俺とタバサの事。
 そして、クトルゥフの邪神どもの言う神域と言うのは……。

 普段以上に濃い闇を纏った森の奥を一度見つめ、

「何が起きつつ有るのか判らないけど、ナイトゴーントが顕われるなどと言う事は、生半可な厄介事やない」

 実際、本能が告げて居るのはここからの即時撤退。何が起きて居るのか判らない以上、一度下がって戦力を整えてから出直して来る事が最善の策。
 しかし、クトゥルフの邪神が関係している以上、星辰などが重要な意味を持って居て、正に今この瞬間にも重大な事態が引き起こされる可能性を秘めて居る。

 そう、今、森の奥に向かって流れて居るこの風の動きすらも、何か異常な事態の前触れかも知れない。
 まして、ゴアルスハウゼンの村に残して来た飛霊やサラマンダーからは何の報告を入れられてはいない。

 つまり、村に今、危険な出来事は起きてはいないと言う事。

「さっさとこの森の奥に有る翼人。彼らのコミュニティに辿り着く。其処から次の行動を考えたとしても遅くはない」

 最後の言葉を告げる瞬間だけ、それまで森の奥。深淵の向こう側に向けていた視線を、自らの傍らに存在する少女に向ける俺。
 同じ時。それまで同じ方向を見つめて居た少女もまた、俺の方向に視線を移し微かに首肯く。



 けぅひゅぅはぁやぉあく ぶるぐぅとぉむ ぶ、ぶ、ぶぐとぅらあぐりゅん



 その瞬間。矢張り、風の音とも、不気味な異世界の生命体が発する苦鳴とも、呼吸音とも付かない音が一際高く成ったように俺には感じられたのだった。


☆★☆★☆


 ゴアルスハウゼンの村長に教えられた其処が近付いた事が、否応なく感じられる。
 そう。闇の気配と言う物がまるで生き物で有るかのように蠢き、何かに導かれるようにして一方向へと流れて行くのが簡単に察知出来るように成って来て居たのだ。

 その刹那。眩暈のような奇妙な感覚を捉える。
 それは……。まるで、何か強い力に引き寄せられるかのような。急に、前方に向かって地面自体が傾いで、二歩、三歩と蹈鞴を踏まされたような感覚。



 ぶるぐぅとむ ぶぐとらぐりゅん ぶぐるとん いあいあ はぁすたー!



 そして、その眩暈に似た感覚を覚えた瞬間、まるで何かの境界線を越えたかのような強い口調で、それまで不気味な風の音にしか聞こえなかったその不気味な音が、とある存在を讃える呪文へと変わって居た事に初めて気付く。
 そう、気味が悪いまでに滑らかな響き。聞く者を夢幻の彼方へと誘う旋律。しかし、それでも尚、此の世ならざる歪みを内包したその歌声。

 これはヤバい!

 異世界の歌。いや、邪神を讃える呪文に誘われるように走り出す俺。
 大木の根を躱し、身体の彼方此方に引っ掛かる小枝が折れるのを無視し、その歌が、彼の邪神を呼び寄せようとする呪文なのか、それとも、単なる彼の神の信奉者たちが闇のミサを行って居るだけなのかを見極める必要が有りますから。

 そう。いくら俺でも吠え猛る風の邪神。名状し難き者ハスターが顕現されて、それを異世界に送り返す事を簡単に為せるとは思えません。
 少なくとも、この一命を以て追い返す、ぐらいの覚悟は必要な事態のはずですから。



 最後は加速すら使用して一気に森を走り抜け辿り着いた先。其処はむせ返るような異様な臭気と、赤とも黒とも付かない色。
 そして、その状況にそぐわない耳をふさぎたく成るほどに喧しい静寂に支配された場所で有った。

 そう。先ほどまでは確かに聞こえていた異世界の存在を賛美する歌声は、何時の間にか終了していたのだ。

 おそらく翼人たちによって切り開かれた森の一角であった場所。まるく広場状に切り開かれた直径三十メートル程度の広場。その周囲には大小様々な形の木造の小屋が存在している。
 そんな広場に……。いや、違う。このコミュニティ内の彼方此方に黒、白、茶色の羽根が舞い散り、そして、それに付随するかのように、手が。脚が。首が。人間を構成するすべての部品が散乱している。

 太歳星君や違法カジノ事件で牛角の邪神が顕われた際に匹敵するほどの赤とそれ以外の毒々しいまでの色彩と臭気に、流石の俺も胃がうねるような吐き気を覚え、思わず視線をそむけそうに成る。
 そう。今宵の翼人のコミュニティは本来、人なる者が踏み込んでは成らない忌むべき場所。俺とタバサは足を踏み入れてはいけない場所に足を踏み入れて仕舞って居たのだ。

 その場所。昨日の陽の有る内は間違いなく翼有る人たちが暮らして居た平和な村に、蒼き偽りの女神が支配するこの時間に立ち込めているのは生者とは無縁の空気。怨恨と邪神を讃える歌が謳われる異常な空気は、物理的なまでの威圧感となって俺と、更にタバサに対して迫って来る。

 そうして、

「なんだ、またお前らか」

 
 

 
後書き
 矢張り、原作小説の内容とはかけ離れた内容と成って仕舞いました。
 もっとも、クトゥルフ神話の邪神が関係している事件ですから、原作小説の通りの内容に成る事自体、不可能だと思いますけどね。

 それでは、次回タイトルは『名付けざられしもの』です。

 ……色々な意味でヤバいタイトルだ。

 追記。
 終に百万文字を超えた。ただ、手の中には更に五万文字以上のストックが。 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧