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ドン=カルロ

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第二幕その九


第二幕その九

「我等とて多くの問題がある。ハプスブルグとヴァロワは信じる神は同じだが不倶戴天の敵同士だ」
 これは長くから、そう彼の曽祖父マクシミリアン一世の頃より変わらない。彼の父カール五世はイスラムのオスマン=トルコだけでなくフランスともイタリアやフランドルを巡って激しく対立していた。
「あの好色な男の時より前からフランスはイタリアを狙っていたのだ」
 フランス王フランソワ一世のことである。彼はイタリアに攻め込んでいる。カール五世もそれに対抗した。しかも時のローマ教皇は反ハプスブルグ派であった。しかもそこに新教徒まで入っていた。イタリアは大混乱に陥っていた。
 このフランソワ一世も時の教皇クレメンス七世も狸であった。彼等は激しくカール五世と対立した。そして遂にローマで衝突が起こった。『サッコ=ディ=ローマ』である。古の都ローマは灰燼に帰した。
「あの時までバチカンは我等に何かと嫌がらせをしてくれた。しかしあの男が出ると態度は一変した」
 その男こそマルティン=ルターである。
「バチカンは信仰で動いているのではない。政治、そして自らの権勢の為にのみ動くのだ。言っておくが神を信ずる教皇などこの世にはおらんぞ」
 そのことは彼が最もよく知っていた。
「だが我々はそのバチカンを護らずにはおれぬのだ」
 神聖ローマ帝国、その王冠はローマ教皇より授けられる。神聖ローマ帝国皇帝、すなわちハプスブルグ家とは教会を護ることがその責務であるのだ。それを否定することは出来ない。カール五世もバチカンには手を焼いていた。彼はエラスムスに共感するところが多かった。しかしそれでもバチカンの守護者であったのだ。
「それがわからぬ卿ではあるまい」
「はい・・・・・・」
 それはロドリーゴにもわかっていた。だがそれでもフランドルのことを思うと言わずにはおれなかったのだ。
「ですが陛下、フランドルの民は」
「言うな」
 王は首を横に振った。
「言っただろう、ハプスブルグ家はバチカンの守護者なのだと」
「は・・・・・・」
 ロドリーゴはその言葉に対し片膝を折った。
「世界には神以外にはどうすることも出来ないことが多々あるのだ。わしはこのスペインの王だ。だがわしも人間に過ぎない。わしはこの領地の下僕なのだ。わしが出来ることはこの領地とそこにいる民達の中の最も多くの者の幸福を守ることなのだ。だがそれでも果たせぬことがある。いや、果たせぬことばかりだ。わしは皆が思っている程無限の力を持っているわけではない」
「・・・・・・・・・」
 今度はロドリーゴが沈黙した。それは彼もよくわかっていたのだ。だがそれを理解出来ない者が殆どなのだ。人の力など知れているということが。
「特に教会はな。ドイツ程ではないがここにもバチカンの目が光っている」
 異端審問官だ。バチカンが作り出した最も忌まわしいものであろう。魔女狩り、欧州をそのドス黒い炎で覆った邪悪な悪行だ。
 これもまた旧教と新教の対立の中で激化していった。皆悪魔を恐れていた。悪魔は魂を奪い地獄に導くと。だが彼等は気付いてはいなかった。人の心に地獄があり悪魔もまた人の心に棲むのだと。
 欧州の空は魔女と断定された哀れな女達を焼く炎と煙で赤と黒に染められた。青い空はその中に消えていった。自白、密告、陰謀、嫉妬、憎悪・・・・・・。人々の心から神は消え悪魔が棲んだ。否、それは悪魔であったのだろうか。悪魔とは何ぞや、と言われると神の反逆者である。元々は異教の神であったり天使であったのだ。失楽園等に見られる彼等は悪であろうか。彼等もまた正義なのではなかろうか。正義とは一つではないのだ。
 人の心には光も闇もある。ここに出て来たのは闇であった。それは悪魔よりも邪悪なものであった。
 血生臭い拷問に処刑・・・・・・。そこには人の光はなかった。ただ闇があった。その中で多くの者達が苦悶のうちにその命をすり潰されていった。まるで物のように。ドイツでもスペインでもイングランドでも。このスペインでも王の言葉通りドイツ程ではないが彼等がいたのだ。
「あの者達の後ろにはバチカンがいる。わしとてそうそう手出しができるものではない」
「はい・・・・・・」
「侯爵よ、立つがいい。卿に跪くのは似合わぬ」
「勿体無き御言葉」
 彼は王に促され立ち上がった。
「卿は怖れぬな。だが怖れを知っている」
 意味深い言葉であった。
「だがそんな卿だからこそわしは気に入ったのだ」
 彼は言葉を続ける。
「わしの家族を見てどう思う」
「それは・・・・・・」
 これにはさしものロドリーゴも言葉を詰まらせた。
「わしはあまり家族の愛を知らぬ」
 彼は幼い頃に母と死に別れている。そして一度目の結婚は妃に先立たれ二度目の結婚はあのメアリー一世であった。狂信的な旧教徒である彼女を彼はどうしても愛せなかった。そして彼女は子供が産めなかった。やがて彼はスペインに戻った。それから程なくして彼女もこの世を去った。
「今はエリザベッタがいるが」
「大変聡明でお美しいお方ではないですか」
「だが幸福とはそれで訪れるものなのか?」
「それは・・・・・・」
 やはり彼は答えられなかった。幸福なぞというものは自分以外の誰にもわかりようがないものなのだから。
「わしは気になって仕方がないのだ」
 王の顔は暗さを増していく。
「何がでしょうか?」
 ロドリーゴはようやく尋ねることが出来た。
「妃と息子のことだ」
「殿下が!?」
「そうだ。まさかとは思うが」
 王の顔は一言一言ごとに暗さを増していく。
「取り越し苦労であれば良いが。だが疑惑は晴れぬのだ。いや、一刻ごとに増していく」
「それは杞憂です」
「そうとも言い切れぬ。少なくともわしにとってはな」
「・・・・・・・・・」
 最早その顔は闇の中に消え入りそうであった。
「卿に頼みがあるのだ」
「はい」
 王はここでその顔の闇を何とか消そうとした。そして完全ではないが幾分かは消した。
「あの二人をよく監視してくれ。間違いがないようにな」
「わかりました」
 ロドリーゴはそれを聞いてカルロが何故あのように思い詰めているか理解した。
「わしは卿を信じる。それに応えてくれよ」
「御意に」
 ロドリーゴは頭を垂れた。
「頼んだぞ、全ては卿にかかっている」
「はい・・・・・・」
 ロドリーゴは顔を上げた。そして意を決した。
(陛下と殿下、そしてフランドルをお救いするには)
 彼はカルロがいる宮殿に顔を向けた。
(やはりあれしかない)
 その瞳に強い思いが宿った。
「侯爵」
 そこで王が彼を呼んだ。
「はい」
 彼はその声に応え再び顔を向けた。
「期待しているぞ」
「わかりました。必ずや陛下のご期待に添えます」
 王は右手を差し出した。ロドリーゴはその前に跪きそれに接吻をした。
 そして二人はその場を後にした。後には何も残ってはいなかった。
 
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