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ボロディンJr奮戦記~ある銀河の戦いの記録~

作者:平 八郎
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第101話 憂国 その1

 
前書き
お疲れ様です。

前回GWの前に書いていたせいで意外と楽しく書かせていただきましたが、今回はGWの末端で書いていたせいで、実に出来が悪くなっております。ダメですね。心情が現れるようでは。

Jr.の自己矛盾性と肝っ玉の小ささが、書いていて正直きつかったです。
本当は全部書き直したいくらいなのですが、次のステージに行くためにはどうしても必要だったので。 

 
 
 宇宙暦七九〇年一〇月から バーラト星系 惑星ハイネセン
 
 造船ドックの見学を終えた後、ホテル・ミローディアスに戻ると、オールドバーラウンジ『アクア』での接待でベロベロになったアイランズに頼んで、『外泊証明書』にサインをさせた。俺の後ろでチェン秘書官が僅かに首を傾げていたが個人的なことだ。多少文字が曲がっているが構わない。

 翌日、二日酔いが酷いアイランズはミローディアスに残るということで、俺は一人でバウンスゴール大佐と他のドックや兵器工廠の方を回ることとなった。ただホテル専用のシャトル発着ラウンジで、どこかで見覚えのある艶のある若い金髪の女性とすれ違ったので、アイランズの体調は気にしないことにした。

「仕方ありませんなぁ」
 俺が最敬礼でアイランズの不参加を告げると、バウンスゴール大佐は頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「まぁこれはこれで、ボロディン中佐と個人的に三ランク上のお話しが出来そうなので、こちらとしても願ったりかなったりですよ」
「三ランク上?」
「昨日のアガートラム、戦闘士官の立場から見て、貴官はどう思った?」

 大佐の口調が急に軍の平常に戻ったので、俺も観光客モードから通常モードに更新する。どう思った、とは実にファジーな質問だ。軍人とはいえ優れた技術者でもある大佐が、技術者ではないとはいえ一応の軍人である俺にそんな抽象的な質問をするというのはおかしい。

「お聞きになりたいのは個艦の運用についてでしょうか? それとも別のことでしょうか?」
「流石、首席殿。技術者の性分をよく分かっておられる」
 意外とがっちりとした体格のバウンスゴール大佐は、シャトルのシートに深く腰を押し込みつつ、腕を組んで天井を見上げて呟くように言った。
「もう限界なのだ。現在のアイアース級の機関余力は」
 その言葉の裏に込められる苦難は察して余りある。

 巨大戦艦といえども、艦隊戦における戦力としての意味は本当にささやかなものでしかないのだが、用兵側としては搭載できる可能な限りの火力を艦に配備したいと考えている。それは国力で劣る同盟軍の宿命であり、大口径・強力な主砲を少数配備するよりも、威力・射程はとにかく面を制圧する為に各艦の主砲門数を多くしたい。艦隊戦における必要火力は点ではなく面である、というのはロボスの言うとおり、同盟軍の基本スタンスだ。

 全長一〇〇〇メートル弱、全幅七二メートル弱、全高三六〇メートル弱のアイアース級は既に二〇隻前後が建造され、適時改修・改造も行われてきているが、プラットフォームの拡張余地はもう限界にきている。砲火力の増強にしてもシールドの強靭化にしても、搭載できる核融合炉の飛躍的な容積出力比向上がない限り意味がないのだが、この新型艦船用核融合炉の開発が遅れに遅れている。

 アガートラムししろ、クリシュナにしろ、シヴァにしろ、限られた収納空間と機関出力の中でどうやったら火力を強化できるか模索した結果、あぁもヘンテコリンな形にならざるを得なかった。
 船体を大きくして今より搭載できる核融合炉を多くすればいいというのは簡単だが、今度はどうやって整備するんだという話になる。プラットフォームの大幅な改変は、建造・整備の為の設備を一から作り上げる必要があるから、かなりの問題がある。

 全長は縮んでも横と縦にズンと大きくなったトリグラフが次世代旗艦用大型戦艦としての開発に成功しながら、たった一隻しか建造されなかった、あるいは建造されても配備されなかったのは、そういう整備性の問題でお金の限界があったのであろうというのは容易に想定できる。二回イゼルローン攻略に失敗し、アスターテでは金髪の孺子にボコボコにされ、帝国領侵攻で遠征軍の七割を失い、とどめを刺されたのは人的資源だけではない。

「大佐は賭け事が強いほうですか?」

 故に大佐が俺に問いかけてきた理由は分かる。答えは二つ。新型核融合炉の研究促進のための予算付けか、次世代旗艦用大型戦艦(トリグラフ級)建造用ドックの建設予算付けか。研究開発予算は限られている上に、艦船関連の予算は中でも金額が大きく動く分野であるので、大佐の言い分だけを聞くわけにはいかないし論理づけもしっかりしなければならないが、どちらにしても大佐の考えを頭の片隅には入れておくべきだろう。

「……一技術者としてはどうかとは思うが、管理職としてこの件に関しては輝かしい革新的成功よりも、堅実な技術進捗を望まざるを得ない。ボロディン中佐、どうかよろしくお力添えを願いたい」

 そう言うと、大佐は軍用ジャンパーの胸から高耐久型の携帯端末を取り出して、俺に機密書類を映して見せてくれた。そこにはアイアース級よりも横にデカい宇宙母艦用の大出力核融合炉を主機関とした、三つの頭を持ち天空と地上と地下の全てを支配する、スラブの大神の姿があった。

 それからバウンスゴール大佐とマン・ツー・マンで軌道上にある複数の兵器廠を巡った。標準型巡航艦を建造する第二軌道造兵廠では、バウンスゴール大佐と同じ立場の管理官から、部品メーカーからの恒常的な納品遅れや精度不適合品の納入が頻発し、それを取り除いたり再加工したりする余計な手間がかかって生産効率が低下していることを滾々と説かれた。

 レーザー水爆ミサイルを製造する兵器廠では、逆に生産ラインからの熟練整備員の前線基地への配備について涙ながらに抗議された。ここの全自動製造ラインは一時間当たり一万二〇〇〇発を製造できる能力を持つが、それはあくまでも完全にラインが機能する時に発揮できるスコアだ。工作機械自体の経年劣化だけでなく、整備員の能力低下によるメンテナンス不良が原因でラインの製造力・加工精度が低下し、定期検査以外での製造ラインの停止が何度かあって、製造能力を十全に発揮できていないとのこと。

「耳が痛い話ばかりして申し訳ない」

 帰りのシャトルの中で、ハッキリとした口調でバウンスゴール大佐は俺に謝罪した。聞く相手がアイランズだった場合、もう少しソフトな言いようになることは推測できる。失政を推測させるような話ばかりして下手に機嫌を損ねては、せっかく来てもらったのに聞く耳を持たなくなってしまう可能性があるからだ。

 だから御伴一人だけになったので、各担当者とも口調に遠慮がなくなった。予算不足による技術開発の遅れ、サプライヤーの製造技術能力の低下、熟練労働者の前線抽出による運用能力の低下。国家事業としての軍事生産分野にすら不都合が現れてきている。民生分野の不都合は恐らくもっと多いだろう。俺のようにズルするわけでもなく、こうやって誰か言われなくとも状況をハッキリと把握していた、ピラート中佐の観察力は専門とはいえやはり尋常ではない。

「いいえ、皆さんの本音がハッキリ聞けて、逆に良かったです」

 いずれにしても一朝一夕で解決できる話ではない。生命の大消費活動である戦争がある限り、状況が好転することはなかなか難しいだろう。内政努力だけで何とかなるとは到底思えない。せめてイゼルローン攻略を中止し、回廊封鎖により帝国軍の侵略を阻止できうる状況が出来れば、一縷の望みはある。

 その為に首飾りのビーズを回廊出口に敷き詰めることを俺は考えていたわけだが、日常的に主力として建造・製造されている艦艇・兵器ですらこのありさまだ。首飾りの量産という命題について予算もさることながら、より技術的な問題の方が大きい可能性も出てきた。

「来年度予算について、恐らく総額概算は近々に出るでしょう。折衝は三ヶ月後くらいから始まると思います。予算案の修正については統合作戦本部から提出されるので、バウンスゴール大佐や皆さんのご希望に添えるかどうかは分かりません。ですが国防委員会参事部として、補佐官全体でこれらの問題は共有するつもりです」
「統本(統合作戦本部)の一課(戦略部)連中は、自分達の給与と作戦経費のことばかり頭にあるから、それだけでも助かるよ」
「ははは……」

 チェン秘書官が余計なことする前の見学申請の段階で俺の『身体検査』はしているはずだから、一課には戦略研究科の俺の先輩や後輩がうじょうじょいることを知っている。知っててそう言うのだから、バウンスゴール大佐も意外と人が悪い。自然と頬が引きつっていくような感覚を覚えるが、師匠直伝の補正機能を使って何とか笑顔に戻していく。

「二日間ありがとうございました。もし参考人質疑になりましたら、よろしくお願いします」
「それはこちらとしても望むところ。是非にも」

 敬礼ではなく握手で。それがここでの流儀ならば、それに従う。そうやってミローディアスのシャトル発着ラウンジでバウンスゴール大佐と別れると、出口でチェン秘書官がいつもの白黒スタイルで待っていた。

「いかがでしたか。『ツアー』の方は?」

 朝に同伴拒否したのを根に持っているのか、少しばかり棘がある口調だがそれは演技だろう。そうやすやすと来れないこのホテルに金髪を呼べるのは彼女しかいない。はじめから金髪には話を通し、アイランズを『ツアー』から一時離席させるのも計画の一つだったのだろう。トリューニヒトの使える『カード』を一枚増やす為の。

「実に有意義だった。有給休暇を使っても惜しくはなかった。ところでアイランズ先生は今、お忙しいかな?」
「そのようですわ。夕刻にはご一緒できるとは思われますが」
「お忙しいようだったら、『視察報告』は地上に戻ってからにするとお伝えしてくれ」
「承知いたしました……ところで、なにか良い事でもございましたか?」

 チェン秘書官がそう言うからには、おそらく俺は無意識のうちに笑っていたのかもしれない。そう考えれば、有給休暇を潰された感じではあるが、結果としては良かったのだろう。この任務に就いてからずっと、道路標識どおりに歩いてきたような気がする。それで間違いではなかったし、軍部・官僚・政治家の円滑化を推進できたのは間違いないが、やはりどことなく気が抜けていたのかもしれない。

「たぶん。良い事だったのだろうと思う。地上に降りたら、ちょっと忙しくなるだろうね」

 そう俺が応えた後、チェン秘書官がちょっとだけ不満そうな顔を見せたのが、俺にとっては痛快だった。





 それから俺はほんの少しだけ仕事のやり方を変えることにした。

 民間の面会者については今まで通り目的や希望を掬い取って、関連する軍組織や国防委員会部局に対してアポを取ることは変わらないが、相手にこちらの階級とか職責とか意識させず、ただの二六・七の若造と意識させ、キャバ嬢のように会話は趣味の話を交えてゆっくりと、私も板挟みで大変なんですよと同志愛を囁きつつ面会者が抱えている公私両方の不満を聞き出し、心がほぐれたところで相手の仕事の中で自慢したいことを好きなだけ喋らせるようにした。

 官僚や軍人に対しては仕事においてはスタンスを変えず理詰めで話をするが、その話の前後で軍内部の経験について少しだけ話を零すようにした。武勲譚のような勇ましいものではなく、爺様の拳骨の痛さとか、ブライトウェル嬢の珈琲の味とか、参謀の多彩な趣味(カステル大佐の料理やモンティージャ大佐の地質研究)とか。実戦経験のない官僚達は軍人もごく普通の人間なんだと理解してくれるし、軍人側は同じような経験をしてきているから「俺んところではねぇ」と思わず零してくれて、色々と口が軽くなってくる。

 政治家に対してはそうやって集まってきた小ネタを取捨選択して質問取りレクや接待などの場で披露しつつ、そんな面白いネタを持っている彼らがちょっと困っているんですよねと、問題点をシンプルになるべく短い言葉で簡単に説明するようにした。その場で問題が解決することはまずないが、あとから「あれなんだっけ」と連絡が来て、改めてレクをする状況を作り出せるようにした。

 一ケ月もそんなことをしていると、この仕事についてから集中線のように広がっていた人脈が、ただの線だけではなく面や立体へと進化していく。

 なにしろ俺を挟んで利害対立していた者同士が、宴席や俺の執務室で酒や肴を持ち寄って勝手にあぁだこうだと議論し始めるようになったのだ。一番偉い連中はエングルフィールド大佐のオフィスに行くが、実際に原稿を書いたり調整したりする実務者は、俺のオフィスで管を巻いているなんてことがしばしば。そんな彼らが微妙に酔った段階で、ほんの少しずつ毒を混ぜるように『同盟ってもしかして足腰が弱まってますかね』みたいな話を囁いていく。

 瞬時に反応したのは経済・財務関係の中堅から下級官僚達で、俺が何を言いたいのか直接探ろうと色々と資料を勝手に持ち寄ってくるようになった。上級官僚達もその動きに気付いているみたいだったが、国防委員会の考え方を知る意味でも見て見ぬふりをしているようだった。

 軍関係者では特に人的資源と造兵関連の管理実務者達が、俺がどういう考えの持ち主か軍内部で探りを入れ始めた。第五・第八艦隊司令部や査閲部・情報部などの旧職や知人のいる部局、直接会ったバウンスゴール大佐などに聞いてまわってようで、モンティージャ大佐が「進取果敢・温厚篤実・海闊天空・英邁闊達な人物だと言っておいたぞ」と爆笑しながら教えてくれた。

 政治家や民間人には特にそう言う囁きはしていないが、「なんか最近やたらとボロディン君のことを嗅ぎまわっている軍人や行政職員がいるけど大丈夫かね?」と心配して教えてくれるようになった。何しろ法に反することはこの一件については、「職場における飲酒」以外にはない。

 そうやって官僚が持ち寄ってくれた資料、探りを入れに来る軍の中堅管理実務者の愚痴、実際に経済活動を行っている民間企業の中堅幹部の噂話、その他いろいろな人々からの話や情報を纏めながら、二ヶ月。表も裏も通常通りの仕事をしながら、暇な時間を見てはレポートを書き進めた。内容は一般に公開されている統計資料を基礎資料として、今後イゼルローン攻略を数年おきに『失敗』しつつ宇宙艦隊による機動縦深防御ドクトリンを継続する場合と、自説であるイゼルローン回廊出口付近に重層防衛ラインを構築する場合での国家経済力と軍事力のシミュレーション比較について。

 本来ならばこういうレポートの作成は統合作戦本部戦略一課の仕事であり、また実際所属課員によって各種毎年のように作成されているが、何故か大半がイゼルローン攻略戦の必要性を補強するものばかり。これは最初から宇宙艦隊司令部と統合作戦本部がタッグを組んで、艦隊戦力強化の為の予算取りの補強資料として作成しているのが理由だ。

 俺のレポートはそんな軍主流のドクトリンに対して真っ向喧嘩を売るものであり、膨れ上がる国防予算の半分を起債によって賄うような内容から言って素人が見ても『夢物語』と一笑に付されるような代物だ。だが少なくとも原作でヤンがイゼルローン要塞をペテンで陥落させるまでの五年間に失われた、最低でも五個艦隊六万隻に及ぶ艦艇と約七〇〇万人の労働生産人口と比較すれば、起債による国家財政不健全化の方がはるかにマシだと俺は思う。まして帝国領侵攻で三倍満になるような事態は絶対に避けなければならない。

 レポートを作成している最中、チェン秘書官は特に何も干渉らしいことは仕掛けてこなかった。俺が何らかのレポートを作成していることは恐らく察しているだろうし、俺の気が付かない方法で未完成の内容を調べている可能性はある。私的な文章と考えているのか、それとも彼女の『ボス』があえて見逃すように指示しているのか。それは分からない。

 ただこのレポートを怪物に提出すれば、喧嘩を売られた形になる戦略一課は間違いなく俺に敵意を持つ。身の程知らずの夢想家として人事に干渉して左遷くらいは平気でする。宇宙艦隊司令部も支持するだろう。シトレの腹黒親父もビュコック爺様も、現時点ではそれを覆すだけの力を持っていない。二人に言えば『絶対に提出するな』と言うのは容易に推測できる。言葉だけならともかく現物として提出すれば、俺が怪物に「擦り寄った」と考えてもおかしくない。

 しかしそれでも機動縦深防御ドクトリンとイゼルローン攻略の継続による国家へのリスクついて、政治側の人間が現時点で明白に認識しておかねば、同盟の国家としての衰弱死は免れない。元々人口において一.八倍の差がある帝国と戦っているのに、戦争における損害が同数であれば、先にノックアウトするのは自明の理だ。せめて二倍近い損害を与えなければ、勝利はおろか引き分けにすら持ち込めない。

 誰かに相談したいが、誰にも相談できない。自分で勝手に作っておきながら、結局持て余しているレポートを前に苦悶する愚かさ。いっそのこと何事もなかったように廃棄すべきではないかと思わないでもない。人間関係が原作のシナリオとは僅かに異なる位で、大きな流れは変わっていない。レポートを怪物に提出したところでなにも変わらず、ただ自分の首を縄に潜らせるだけではないのか……

 来季予算審議に向け財務委員会側からの税収想定提示が終わり、さらにはダゴン星域に帝国軍が侵略してきて惑星カプチェランカが戦闘状態になったり、その迎撃の緊急予算に対する各所への根回しで追っかけまわされたりして、さらに半月経過した年明け一月中旬。俺は怪物の別荘に招待された。

「新年休みボケを解消する意味で、本格的な予算審議が始まる前に一度、ここの澄んだ空気と冷気で頭を冷やすのが私のルーティンでね」

 惑星ハイネセンの北半球。積雪はそれほどではないが、それなりに冷えるシェムソスン渓谷の中腹。市街地ともスキー場ともさほど離れていないが、周辺にいくつかある別荘の住人と周辺警備を兼ねる管理人以外の人通りのない場所。一〇メートル四方のリビングは適切な温度管理下にあり、南壁面のガラスウォールからは真っ白な衣をまとった雄大な山嶺を一望できる。

「今年の国防予算審議はかつてなく議論が活発になるだろう。ダゴンに入ってきた無粋な帝国軍さえいなければと思わずにはいられないね」

 ややすぼまった吞口のテイスティンググラスにウィスキーを注ぎ、その一方を俺に差し出すトリューニヒトの目は顔ほどには笑っていない。トリューニヒトは政治家であり腹芸をこなすのは仕事のようなものだが、わざわざ予算審議が本格化する寸前に、嫌いな男を自分の別荘に招待するようなマゾではないはずだ。

 俺がグラスを受け取ると、トリューニヒトはグラスを小さく掲げて見せる。俺もそれに応じてグラスに口を寄せるとフローラルな、おそらくはラベンダーの香りが鼻の奥に流れ込んできた。もっとスモーキーなものを予想していたので意外だったが、舌先だけ含むと、らしくない花の蜜のような甘い感覚に驚いた。

「驚いたようだね。私も初めてこれを口にした時は、本当にウィスキーかどうか疑ったものだよ」

 トリューニヒトがそう言いながら、酒のCMのようにゆっくりと少しずつ傾ける。俺も同じようにすると、口の中では甘みが広がるのに、喉の奥は大火事の如く燃え盛る。酒側からの強烈なリアクションに思わず小さく咳き込むと、トリューニヒトは笑いを隠さなかった。

「はははっ。そこまできてこそ、この酒の醍醐味だよ中佐。実は『初見殺し』という異名があるんだ、このウィスキーは」
「今度、後輩に試させてもらいます。トリューニヒト先生」
「ぜひそうしてくれ。これは気の合う相手じゃなければ到底許されない『イタズラ』だからね」

 君のことは私の気の合う相手だと思っているよ、ということ。少なくとも害意あっての行動ではない。だが爬虫類を思わせるトリューニヒトの瞳には、まだ何か言いたいことがあるように思える。先に俺がソファに囲まれたチーズやサラミのパーティーオードブルのあるセンターテーブルに視線を送ると、わかったわかったと言わんばかりに肩を竦めてソファを俺に勧めた。

「トリューニヒト先生。本日のお招き、なにかお話があってのことでしょうか?」

 改めて注がれたウィスキーを前に、俺はトリューニヒトに問う。ただ単に気分で酒の相手をさせたくて、俺を呼んだのではないのは、この別荘にトリューニヒトの家族が誰一人来ていないことでも明らかだ。

「そうだね。君がここ最近、悩んでいるようだといろいろな人から聞いてね。差し出がましいと思うかもしれないが、私で力になれることはないかなと思ってね」

 私にできることなど大したことではないなどと謙遜するが、明らかに俺に対して『自白』を強要しているようなものだ。バグダッシュの言う通り、女狐の正式な飼い主はC(中央情報局)七〇(国外諜報部)で、目の前の元警察官僚も一枚嚙んでいる。『物的証拠』も手にしているかもしれないが、この場合捜査令状もなく抜き取った証拠品は、当人が認めない限り証拠能力はない。

「先生には謝ってばかりですが、余計なご心配をおかけして申し訳ございません」
「君が知崇礼卑だということはよく知っているとも。だからこそ癖の強い政治家も、頭でっかちな官僚達も、みんな君のことを心配してくれるんだよ」
「皆さんの心広いご配慮に、非才の身としては常々恐れ多いと思っております」
 
 じっとトリューニヒトの目を見ながら、俺は応える。トリューニヒトの目も俺の目を見ている。自白を拒否する被疑者を見る刑事の目だ。前世で警察にこういう形でお世話になったことはなかったが、実際に浴びせられると本当に気味が悪い。だがここは警察署ではなく別荘で、トリューニヒト以外の刑事がいる様子もない。

「君は一体何を恐れている?」
 左肘を肘掛けにのせ、組んだ右足の太腿を右手人差し指の先で叩きながら、トリューニヒトは口を開いた。
「砲火溢れる戦場すら恐れぬ君が、一体何を恐れているのかね?」
「人の見えない部分を少し知っただけで『世の中の全てを知っている』と勘違いしそうになる傲慢をです」
「それを知っているだけで十分ではないかね」
「は?」
「君の表面的に現れる行動も思考自体も軍人のそれではないが、肝心なところではやはり軍人だね。地位・権限・命令・行動。超えるべきところと越えてはいけないところの線引きが実に現実的で、かつ巧妙だ」

 シトレから始まり、多くの人から『軍人らしくない』『政治家みたいだ』とさんざん言われてきたが、そういう評価は初めてだ。驚きはしたがコイツの前で表情に出すわけにはいかない。グッと唇を噛み締め、トリューニヒトを真正面から見据える。俺の表情に気付いたのか、トリューニヒトは小さく鼻で笑う。

「だからこそ私は君に最初からこう言わなければならなかったんだね。『国防委員会理事として命じる。貴官の作成したレポート一切を私に提出したまえ。国防委員会機密文書として処理する』、と」
「……」
「防衛ドクトリンの変更は、あくまでも政治側が主導していかねばならない。軍人による国家軍事戦略立案独占を、軍人である君自身が一番危惧していた」

 国防委員会にあっても軍事の経験も知識も乏しい議員(アイランズ)と親交を深め、官僚達の軍人に対する精神的な距離感の解消に努め、特に日の当たらない後方勤務の軍人に政治への関心を意図的に高めさせ、独自の『サロン』で現在同盟が抱える問題の共有を図り、最終的にはボトムアップにより国防政策局長を巻き込んでのドクトリン変更の機運を盛り上げようとした……

「半年前に私の前であれだけの啖呵を切っておきながら、同じ内容を実際の書面として残すのは避ける。根拠となるような資料を作ったのが、結局は軍人であったという物的証拠を残しては後々不味いという配慮だろう」
「小官の保身から故とはお考えにならないのですか?」
「保身を第一に考えるような軍人であるなら、私とこうやって会うことは避けただろうね」

 そんなの元から断れないではないか、とは言えない。どうしても嫌ならばシトレなりビュコック爺様なり、あるいはボロディン家の名前を使って断ることはできた。この怪物と仲良くしたいなどと今でも思っていないが、一つの契機であると考えていたこともまた確かだ。抱える自己矛盾に、自分自身の存在自体が疎ましくなってくる。

「少し時間をいただきたいと思います」

 とにかく考える時間が欲しい。考えたところでレポートの存在にトリューニヒトが気付いている以上、今更どうしようもないのだが、落ち着いて状況を再認識する必要がある。

「いいとも。ゆっくり考えたまえ」

 俺の回答にトリューニヒトは、例のウィスキーが入ったテイスティンググラスを掲げ、いつもの舞台俳優を思わせるキラキラ笑顔を見せて言った。

「ただし時間がそれほどないことは、君も十分承知していると思うがね」 
 

 
後書き
2024.05.08 更新
2024.05.13 誤字修正

難聴もそうですが、胃も痛いです。GWが終わってたった2日なのに。 
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