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ソードアート・オンライン 穹色の風

作者:Cor Leonis
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アインクラッド 後編
  空の最も暗い時

「ギィィィィィィ――!」

 赤茶けた土が覆う細い山道を踏みしめ、幅の広いカトラスを右手に持ったガイコツ剣士(スケルトン)が声なのか骨が軋んでいるのか分からない音を立てて突っ込んでくる。直線的、かつレベルに圧倒的な差のある攻撃ではあったが、敏捷極振りの影響で防御力が文字通り布っぺら一枚しかないマサキにとっては決して楽観できる代物ではない。
 とは言えマサキとてもう一年以上もこのゲームの最前線で戦い続けてきたプレイヤーだ。単純なカトラスの軌道を読み切ると、突進してくるスケルトンに向かって自分から駆け出す。ひたすら鍛え上げた俊敏さで4メートル程の距離を一呼吸で詰め、まだカトラスを振りかぶる最中だったスケルトンのあばらを逆袈裟に切り上げる。ごく僅かの硬直を挟んでガイコツ剣士が霧散したのを視界の端で確認し、今度はそれより3メートル後方のもう片方へ猛スピードで突っ込んだ。慌ててカトラスで迎え撃とうとしたスケルトンの脇を一度スルー、後方へ回りこんだところで赤い砂塵を巻き上げつつ急停止し、身体を捻って飛び上がった力を利用して右足を振りぬく。背骨に強烈な一撃を喰らったスケルトンは二、三歩よろめきながら前へ進み片膝を着く。行動不能(スタン)状態のサインだ。マサキの目が、スケルトンの向こうから細身のレイピアを片手に駆け寄るアスナの姿を捉える。

「スイッ――『退け!』えっ!?」

 スイッチを宣言しようとした彼女へ怒号にも似た声を叩き付け、アスナが到着するよりも早く《蒼風》を横薙ぎに振るい頭蓋骨を斬り飛ばす。戦闘終了を示すアイテムドロップとコル入手のウィンドウを片目に、ソードスキルを中断した結果長い硬直を課せられたアスナが心配するような視線をマサキに向けていた。

 アインクラッド第三十八層中央に位置する《衝天の連峰》。その名の通り、天を衝くほど高い山が連なる高山地帯というコンセプトのマップだが、上空に次層があるというアインクラッドの構造上百メートルを超えるオブジェクトが存在できないため、些か名前負けしている感は否めない。ただ、その山々を繋ぐ山道がこれでもかと言うほど激しいアップダウンを繰り返しているせいで、実際の標高より数倍は登ったような気分になる。
 そしてそんな山道が、筋力値が平均より著しく低いマサキの体力にクリティカルヒットしていた。この世界では、基本的に筋力が低いほど筋力的な疲労を感じやすくなってしまうのだ。もっとも、根っからのインドア派であるマサキの場合、現実世界の体力なんて今よりも余程少ないだろうが。
 疲労で集中力が低下してきたのか、そんな枝葉的なことを考え始めたマサキの少し先で、疲れを微塵も感じさせずつかつかと歩いていたアスナが振り返った。

「そろそろ日も暮れるわ。今日はここでキャンプしましょう」
「ああ……そうだな」

 マサキは内心で安堵しつつ頷いた。上がらなくなってきた腿を手で持ち上げるようにして何とかアスナのところまで辿り着く。そこは五メートル四方ほどの小さな広場で、奥側では小さな穴から水が湧き出ている。その影響か、土と岩ばかりの山であるにも関わらず、湧き水の近くに高さ5メートルはありそうな一本の木が生えていた。遠くまで延ばした枝にはうっそうと緑の葉が茂っていて、この木の下ならば雨も凌げそうだ。と、息を整えつつ軽く地形を確認したマサキがアスナに目をやると、アスナは丸めた手で口元を隠しながらクスクスと笑っていた。

「晩御飯は少し休んでからにしましょうか」

 余計なお世話だ――アスナのからかい口調にそう言い返したいマサキだったが、疲れているのは事実だし、情けないことに言い返すことによる体力と気力の消費さえ躊躇ってしまうのが実情だった。
 ほんの僅か顔をしかめて不満をアピールしつつ、木の幹に背を預けて腰を下ろす。

「高難度クエストとは聞いていたけれど……正直、この方向は予想してなかったわね」

 余裕そうに見えていた彼女も、やはりそれなりには疲れていたのだろうか、一つ息を吐きながらマサキの隣に人一人分のスペースを空けて座るアスナ。ただ、疲れたと言うのであれば、それはマサキも一切の余地を挟まずに同意見だと言えた。何せ、アルゴと別れてから準備を整えてクエスト受注地点である《衝天の連峰》麓の村に辿り着くまで二時間、そこからフラグ立てのために村中のNPCから話を聞いて回ること二時間、聞き出した情報を集約し、アイテムの存在を秘匿したがる村長に証拠として突きつけ詳細を聞くこと一時間、そこから山登りを始めて三時間半。しかも、そこまで時間を掛けて分かったのは「この山々に棲む精霊のどれかがそのようなアイテムを持っているらしい」という、なんともぼやっとした情報のみ。中でも最もやる気を削がれたのは、精霊を倒してドロップしたアイテムを一度村まで持ち帰り、鑑定してみない限りそれがお目当てのものかどうか分からないという情報。要約すると「アタリを引くまで村と山の往復を繰り返してね」というあまりにもふざけた条件に、マサキもアスナも大きく脱力したものだ。

「何日探して見つからなければ撤退する予定なんだ?」
「……決まっているでしょう。アイテムの詳細が判明するか、あるいはデマだったとの裏が取れるまで、撤退はありません」

 きっぱりと言い切ったアスナの目に、「帰りたい……」という願いが垣間見えたような気がしたのは、思い過ごしと断言できないかもしれない。

「いいのか。俺みたいなソロならともかく、《血盟騎士団》副団長が長い間素性も知れないソロプレイヤーと二人きりでダンジョン探査だなんて」
「心配には及ばないわ。団長から許可は取ってあります」

 次に会ったら文句の一つでもぶつけてやる――。イメージしたヒースクリフの金属めいた冷たい容貌に投げつける罵倒の言葉を練っていると、アスナの少々戸惑ったような声が耳を打った。

「……わたしからも聞かせて。その、どうして今朝、キリト君の名前を……?」
「キリト? ……ああ、あの喫茶店での話か」

 てっきりクエストや報酬かもしれないアイテムについて話を振られると予想していたマサキは意外な話題に返答まで少々のタイムラグを要してしまった。が、アスナは全く気にした素振りを見せず頬を赤らめている。その態度が最早答えだろうと内心で思いながらマサキは答えた。

「単純に、お前が誰かをパーティーに誘うならあいつだと考えた。だが俺に話が回ってきたということは、キリトには請け負わせたくないということだろう。であれば、そこに個人的感情が働いているのではと邪推しただけだ」
「そ、そう……」

 皿のように丸めた目をぱちぱちと何度か瞬きながら、神妙な面持ちでコクコクと頷くアスナ。どうにも不思議な反応だと思ったが、気にすることでもないと意図的に流す。

「話は終わりか?」
「……いいえ。これからが本題です」

 純粋な疑問ではなく確認の意味で飛ばした質問に対する返答は、マサキの予想とは違ったものだった。アイテムストレージから保存食を取り出そうと動いていた右手が静止する。アスナはまつ毛が綺麗に上を向いているまぶたを一度閉じ、自らを落ち着けるようにふうと小さく息を吐いてから、彼女が放つ刺突にも似た美しくも鋭い視線をマサキに向ける。

「先ほどの戦闘で、何故強引に割り込んでまでスイッチさせなかったの?」
「必要がなかった」
「それは、わたしが実力不足だと言うこと?」
「いや? 仮に同行していたのがヒースクリフだったとしても、あの場面なら俺は一人で片付けた。その方が速かった」

 ぎろり、という擬音が相応しい威圧感を眉一つ動かさずに受け流し、「そうだろ?」と目線でうそぶく。

「一緒にいたのがエミだったとしても?」
「ああ、勿論」

 マサキにとって今のアスナの質問は予想した通りのものだった。どんなに鋭い攻撃でも、来ることが分かっていれば対処など容易い。
 話は終わったとアピールするように空を見る。既に日は沈み、星のない夜空が広がっていた。

「そう。……やっぱり」

 アスナの言葉から怒気がすっと消えたのを感じたマサキが怪訝に思い振り返ると、彼女は暗がりの口元を微笑で彩っていた。訊き返すべきか、受け流すべきか、逡巡した隙を逃さずアスナは続ける。

「あなた、やっぱり似てるわ。以前の死にたがっていたわたしと瓜二つ」
「俺は安全マージンも休息も取ってる。マージンも武器の耐久値も無視して倒れるまでフィールドに居続けたりはしない」
「そう? ここ一ヶ月はホームにも帰らず前線の街に滞在してるって聞いたけれど」
「誰から聞いたのかは大体想像付くが、単純に攻略に勤しんでいただけだ。サボっていると、何処ぞの副団長様に叱られるからな」
「その想像、多分間違ってるわ。アルゴさんから情報を買ったの。まあ、エミも相当心配しているでしょうけどね」
「……心配するのは、あいつの勝手だ」
「以前のわたしも、全く同じ返答をしていたと思うわ」

 口元に手を当て、面白そうにくすくすと笑うアスナ。マサキは小さく舌を打つと、苛立ちを隠さない荒々しい動作で顔を背ける。

「そろそろお腹も減ったわ。ご飯にしましょう」
「ああ。勝手にしてくれ」
「そう拗ねないの。キミの分も用意するから、ちょっと待ってて頂戴」

 その言葉から少し遅れて、アスナが火を焚いたのだろう、地面がほんのりとオレンジに色づき、自分の折り曲げた膝を頂点にした三角形の影が身長よりもずっと遠くまで伸びていた。マサキは一瞬、要らない、と噛んで吐き出すような口調で断ろうと思ったのだが、そこまで意固地になるのも馬鹿馬鹿しくなって喉元で言葉を引っ込めた。時々、こんな風に自分でも何をしたいのか分からなくなることがある。

「これはわたしの想像だけれど……エミは下手に騒いでキミに嫌な思いをさせるより、一人でキミと会って真意を聞きたかったんだと思うの。だから、わたしにもアルゴさんにもそのことを話さなかった。そういう気遣いも、キミにとっては必要のないものなの?」

 背後からの声を聞いた瞬間、頭にエミが浮かんだ。彼女を意図して避けていた自分と会った時、彼女はどんな顔で、どんな言葉を紡ぐのだろう。「良かった、会いたかった!」とでも言って、安心したような笑顔を見せるのか、それとも、「心配したんだから!」とでも言ってむくれるか。どちらだったとしても同じように言えるのは、マサキにとって、それこそが彼女を避ける一番の原因だということだった。

「違うな。ああ、訂正しよう。必要ないんじゃない、邪魔なんだよ、全て。目に入れたくないものを遠ざけるのは当然だ」
「そう。……でも、きっとそのうち気が付くと思うわ。わたしも、つい最近気付いたばかりなんだけどね」

 心なしか弾むような声と一緒に、コンソメのような香りが漂ってきた。夕食が完成したようだ。

「あいつが邪魔な存在ではないと?」
「いいえ、もっと簡単なこと。……はい、できたわ」

 左耳の横に熱を感じて眼球をそちらへ動かすと、野菜やつみれが入った琥珀色のスープが湯気を立てていた。受け取るために腰を回転させて振り返ると、思ったよりも近くにアスナの顔があった。そう思わせるほどに、夜風に揺らめく火のオレンジを顔の半分に浴びた彼女の笑顔は優しかった。
 アスナはスープの入った器を寄越すと、今度は少し苦笑交じりに言った。

「ずっと仏頂面を続けているのって、結構大変なのよ」

 そんな奇妙な二人旅は、五日目の夜、三体目の精霊を倒して得たドロップアイテムを街まで持ち帰ったところで終わりを告げた。目当てのアイテムが見つかったわけでも、見つからないと分かったわけでもない。
 攻略組で、緊急の会合が行われるとのメッセージがアスナに入ったためであった。



 アスナに続いて頑丈な金属製の扉をくぐった途端、場に流れていた空気が一変した。入り口側へ向かって口を開けた半円状のテーブルに向かって歩くアスナとマサキを中心に、波紋が広がるようにざわめきが伝播していく。水面に投げ込まれた小石の気分だとマサキは思った。

「『血盟騎士団』副団長、アスナ。緊急会議の報を聞き参上しました」

 タン、とタップダンスのような高い音を鳴らし敬礼したアスナを横目にマサキは部屋の中を一瞥した。攻略組の会議、とだけは聞いていたが、夜も遅い時間帯ながらこの場にいるのはいずれも攻略組に所属するギルドのトップ、あるいはそれに近い幹部たちが合わせて十数人。ただ一人、悪趣味な全身真っ赤の落ち武者(クライン)が口をあんぐりと開けて硬直しているのがどうにもシュールな光景であるが、彼の他にも中小の攻略ギルドからメンバーが召集されているところを見ると、それだけ大きな話題なのだろう。ソロの面々が呼ばれていないが、彼らは元々ギルド間の話し合いには呼ばれず、攻略会議にのみ出席するのが通例だ。ということは、純粋な攻略以外の議題ということになる。ちなみに、当然の如くヒースクリフは列席していない。

「ご苦労さん。急にお呼び立てしてしもてすいまへんなぁ……と言いたいとこやけど。後ろの男、それどーいう意味ですかいな? まさか今日の議題が分かってないいうことはないでっしゃろ?」

 などと呑気に構えていたら、何故か自分が話題になっているらしい。その声にも聞き覚えがあったのでアスナの影になっている人物を覗き込むと、これまた覚えのあるイガグリ頭がマサキを睨みつけていた。キバオウ――今は《軍》で幹部をしているという話は聞いたが、直接会うのは久々だ。そもそも二十五層で大損害を受けフロア攻略からは撤退した《軍》が攻略会議に人を出すことはなく、アインクラッド内の治安維持やら、経済格差やら、もっぱら行政方面の会議に参加しているという。となれば今回もそのような話であることが予想されるが、だとしたら何故一匹狼のマサキが連れ出されたのかという疑問は消えない。
 そんなマサキの思考を汲み取ったかのようにアスナが口を開いた。

「勿論、今回の議題は承知しています。その上で彼を同行させたのは、その方が真相究明に都合が良いと、私が判断したからです」
「ほほお? ……まあ、裁判するにも取調べするにも、まず容疑者がおらんと話にならん。そこは認めましょ」
「裁判に取調べと来たか……いい加減にしてもらいたい。人を犯罪者(オレンジ)呼ばわりするために俺を呼んだのか?」

 痺れを切らしたマサキが口を挟むと、キバオウは口をへの字に曲げ、フンッ、と鼻から荒い息を吐き出した。

「しらばっくれとんのも今のうちや。ええか《穹色》。今お前には、七人の一般プレイヤーを殺害したっちゅう容疑が掛かっとるんや!」
「……は?」

 寝耳に水。さしものマサキもまさか殺人犯扱いを受けるとは思っていなかった。

「とぼけんなや!」

 呆けた態度が気に食わなかったのか、キバオウの更なる怒号が飛ぶ。

「ここ一ヶ月の間で、中層のプレイヤーがソロとパーティー合わせて七人殺されとる。目撃者の話によると、その犯人は男の刀使いで服装はワイシャツにスラックス。被害者はほぼ一瞬でやられたそうや。ということは自動的にボリュームゾーンのプレイヤー複数を相手に回して圧倒できるレベルと装備が必要やけど、そんなのは攻略組以外におらん。その上この人相。どうや! 言い逃れられるなら言い逃れてみぃ!」
「少なくとも――」

 マサキは被せ気味に言った。こういう時は、後が多少遅れたとしても弁論の始点を早めた方がいいからだ。一瞬間を取ったうちに頭の中で考えをまとめ、口から出力する。

「俺が犯行に及ぶなら、むざむざ目撃者を逃がすことはしないだろうな。これでも《索敵》スキルは完全習得(コンプリート)してる。たかだか中層のプレイヤーを見逃すはずはない」
「それにや。こっちだって何の事前調査もなしに言ってるわけやない。お前さん、ここ一ヶ月フィールドに潜りっぱなしでろくに街も歩いてないんやろ? その期間も、この事件の発生とピッタリ一致しとる」
「迷惑な偶然もあったものだ。それとも、他に何か物証が?」
「ない。が、お前が怪しいのは確かや。そんでこっちとしても、そんな奴には命を預けられん」

 腕を組み、神妙な面持ちで唸るキバオウ。二十五層以来ろくに前線まで上がってきたこともない連中が何を、と憎まれ口が頭に浮かぶが、多めに吸い込んだ息で包み、粉薬をゼリーと一緒に飲み込む要領で鼻から排出する。

「犯人やない言うんなら、事件が起きた三週間前、十二日前、三日前のそれぞれ夜中のアリバイくらい証明することやな。そうでもなけりゃ、お咎めなしとはできん。当分の間監視付きの謹慎と……犯人がお前でないことを証明するために検証が必要や。《風刀》スキルの情報、全部開示せぇ」

 なるほど、それが目的か。マサキはキバオウの釣りあがった目尻をじっと見据えた。

「先二つは証明できるものがないな。だが、三日前は彼女と一緒にいた」

 静止しているアスナの後姿に視線を移し、やや間を開けてイガグリ頭に戻す。

「一日中。夜もだ」

 キバオウのガラの悪い顔面があらゆる方向から引っ張られ引きつったのがよく見えた。その余波で目を大きく剥いていた彼は数秒の時間を要して表情筋のパニックを解くと、デスクを両手で叩き立ち上がる。

「何やそれは! 聞いてへんぞ!」

 その言葉はマサキに向けられたものではない。彼の視線の先では、DDO(聖竜連合)で幹部を務める男が、先ほどのキバオウを鏡に映したような顔を晒していた。

「それは……ほ、本当なのか!?」
「ええ、本当です。該当日時、私は彼と行動を共にしていたことを証言します」

 こうもきっぱりと断じられてしまっては、それ以上言い返すこともできまい。中小ギルドの面々が「聞いていた話と違う」とざわめき出す中で、キバオウに睨まれたDDO幹部がみるみるうちに顔色を蒼白に染めていく。
 どういうわけかは知らないが、自分は嵌められかけていたらしい――一連の流れを見て、マサキはそう推測した。仮に今の証言が無かったとしても、彼らの論理は余りに暴力的で、例えば現実の裁判所で同じ理屈を通すことは百パーセント不可能だろう。だがこのゲームにプレイヤー間の諍いを中立的立場で裁く機構は存在しない。アンチクリミナルコード圏内にいる限り、プレイヤー自身、あるいはその財産等に直接傷を付けることは基本的に出来ないが、社会的な地位を貶めようとするのならばやりようは幾らでもあるのが実情なのだ。
 とは言え、今回はSAO全プレイヤーの中でも屈指の信頼度を持つアスナの証言のおかげで切り抜けられそうだ――僅かの捩れも枝毛もないアスナの栗色の髪を視界に捉え軽く息を吐いた時、入れ替わりに一抹の疑問を吸入した。
 先ほどアスナは、マサキに良く似た人物がPKを繰り返しているという事実を知っている口ぶりだった。それ自体は血盟騎士団副団長という立場なら不思議はない。団長が攻略にしか興味を示さないあの男であれば尚の事だ。しかし、だとしたら何故それを知りながら、アスナはマサキを連れ出したのだろうか。頭の切れる彼女のことだ、この結論ありきの魔女裁判が行われる可能性を考慮できなかったはずはない。ということは、何らかの意図によりマサキのアリバイを作ったということになる。それは彼女個人の意思なのか、それとも血盟騎士団副団長という立場故の責任感なのか、それとも誰か第三者の差し金なのか――。
 マサキは途端に苦虫を噛み潰したように顔を歪める。その時だった。

「そ、そうだ! 《閃光》の証言が正しいという保証も無い! 血盟騎士団が《風刀》の囲い込みを狙って手を組んでいる可能性だってあるじゃないか!」

 どうやら、かの御仁は何をしてでも自分を殺人犯にしたいらしい。第一層ボス攻略戦の後にキリトがディアベルを見殺しにしたとの謗りを受け《ビーター》として糾弾された一件と流れが重なるようにも思えたが、しかし当時のキリトと今のアスナでは基盤となるイメージ、評判において大きな差がある。事実、男の涙ぐましい怒声に乗じる者は誰もいなかった。

「おうおう、黙って聞いてりゃ、何だよそれは! マサキもアスナも、完全な言いがかりじゃねぇか!」
「煩い! 弱小ギルトは黙っていろ!」
「ンだとぉ……!?」

 焦りで口が滑ったのだろうが、その発言はこの状況で最もしてはならないものだった。SAO特有のオーバーな感情表現により、今にも爆発せんばかりの勢いで顔を真っ赤に染め上げたクラインがデスクを叩いて立ち上がる。元から全身まっかっかの服装をしていることもあり、まさに茹でダコさながらだ……等と傍観しているような場合ではなくなってきた。今にも殴りかからんばかりのクラインは両隣のプレイヤーに制止され辛うじてその場に留まってはいるが、鎖役となっている彼らの顔にも隠しきれない不満の色が浮き出ている。

「いい加減に憶測で話をするのは――」
「――静粛に!」

 風向きが変わらないうちに一方的に捲くし立てて終わらせようとしたマサキの考えをアスナの居合い抜きの如き一声が両断した瞬間だった。真っ二つにされた藁人形のように動かなくなったDDO幹部にツカツカと歩み寄るアスナ。マサキからは後姿しか見えないが、彼女の眼光はモンスターに刺突を見舞う寸前のよう鋭さ帯びているに違いない。

「そこまで言うのなら、証拠をご覧にいれましょう。……入って来て!」

 アスナがくるりと身を翻し、凛とした視線に射抜かれた――と思ったのは一瞬。マサキはすぐに彼女が見ているのが自分ではなく、背後にある何かだと言うことに気がついた。それにつられてマサキも振り返ると、今まさに出入り口の扉が開け放たれようとしていた。
 音もなく入ってきたその人影に、群集は皆言葉を失った。身体をすっぽりと覆い隠した濃紺のフード付きロングコートに黒いブーツ。身長は百六十センチ程度だろうか。フードを目深に被っていて、人相はおろか性別すら判別がつかない。裾がポンチョのように広がったコートを揺らして歩く様は、死霊(アストラル)系モンスターのような不気味さを放っていた。
 シルエットはマサキの目の前まで足音すら立てずやって来た。
 フードの中に顎のシルエット。
 細い顎だった。
 血溜まりで口角を割いて笑いそうな。

「大丈夫だから」

 暗がりの中、微かに浮かぶ口元が震えたのは。脳内に響いた音声は。現実(いま)か、それとも虚構(あの時)か。
 混濁したマサキの意識を引き戻したのは、右手が感じた圧力だった。見下ろせば、脱力し指先が湾曲した右手が両手で握り締められていた。その手の小ささに、柔らかさに、体温に、マサキは覚えがあった。
 どこか遠くへトリップしていた世界の音全てが一気に戻ってきたような気分。心拍が過回転を起こして地響きのような心音が身体中から聞こえるのに気が付いたのもこの瞬間だ。
 包んでいた手の片方が分離して頭を覆っているフードを取り払った。そして露になる、一人だけカーディナルから特別なテクスチャを与えられているのではと思うほどに美しい黒いポニーテールと、マサキを一直線に見据える強い光を宿した二つの瞳。

「……エミ」
「わたしに任せて」
「――――ッ!」

 にこりと彼女が微笑むと、全身が金縛りにあったみたいにマサキは声が出せなくなった。エミはその脇をすり抜けキバオウたちの前まで行くと、大量の記録結晶を机の上にぶちまけた。

「な、なんや、これは」
「これは、事件の発生した三日前とその前後一日分のマサキ君の行動を記録した結晶です。この中の動画を見れば、彼が事件当時現場にいなかった、何よりの証拠になるはずです」

 また一つ、巨大な衝撃波が部屋中の顔をぶん殴って突き抜けた。記録結晶に保存できる動画の容量は、一個につき三時間程度でしかない。つまり、三日間、七十二時間分を録画しようとした場合、二十四個必要になる計算だ。記録結晶はデータの消去や上書きが可能で使いまわせるため他の結晶類ほど高価格ではないが、それでも気軽に何十個と購入できるような代物ではない。これほどの量を確保するのに一体幾らつぎ込んだのか、想像するだけでも恐ろしい。

「ま、丸々三日分の録画やと……お前ら正気か!?」
「正気でも狂気でも、貴方が出せと言った証拠は此処にあります。この場でチェックできないと言うのであれば、どうぞギルド本部にでも持ち帰って目を通してください。それとも、この記録には証拠能力がないと?」
「ぐ……おい、お前! これ全部、ワイの部屋まで持って行け!」

 アスナがキバオウに詰め寄ると、彼は奥歯をギリギリと音が出そうな程強く噛み締め、近くの部下に怒鳴りつけた。怒鳴られた部下の男が弾かれたように動き出す中、キバオウも立ち上がり、ドスドスと床を踏み鳴らして退室、取り巻きたちも泡を食ったようにそれを追いかけていく。緊急会議がなし崩し的に終了を迎えた瞬間であった。



 夢心地とは、こういう意識状態のことを指すのかも知れない――。エミとアスナに窮地を救われた恰好になった後最初に頭を過ぎったのは、そんな極めて他人事な感想だった。アスナとエミの歩いた線をなぞるように、足が勝手に前へと進む。視覚から頭に流入する情報量は極僅かで目の前を歩く二人以外に何があり、それが何色なのかも定かではない。その代わり、自分を外から見ているような不思議な感覚が意識の大部分を占めていた。
 やがてドアが開くと、NPCの奏でる薄っぺらいBGMが流れてきた。それと同時に、ぼやけていた背景から幾つかの影が湯気みたいに立ち昇る。

「よ。災難だったな」

 その中の一つが、黒の指なし手袋を装備した手を軽く挙げて話しかけてきた。夜の暗闇に同化するほど真っ黒の装備を全身につけたカラスの如き人物と言えば、マサキの知り合いには一人しかいない。

「……キリト」
「何だよそんな辛気臭ぇ顔して。疑いは晴れたんだろ?」
「ちょっと、何でキリトばっかり。あたしたちもいるんだからね!」
「そうですよ! いないもの扱いは怒りますよ!」

 マサキの肩を軽くはたいたエギルと、その後ろで不満の声を上げる、リズベット、シリカの二人。その雰囲気を嗅ぎ付けたのかいつの間にかクラインまでもがその輪に加わり、真夜中だというのにその場の人口密度は急激に増加した。

「つーことは、今回はマサキを助けるために、アスナ……さんたちが一枚噛んだってことか」
「アスナでいいですよ。エギルさんたちには、必要分の記録結晶の調達をお願いしたんです。緊急、かつ大量の調達だったので、とてもご迷惑をお掛けしてしまいましたけど……」
「何だよ、そういうことなら俺に相談してくれりゃあ、知り合い駆けずり回って分捕ってきたのに」
「お前は嘘がヘタクソだからな。ことを知らせて露見するより、黙ってた方がやりやすかったんだよ」
「んなにおう!? ……と言いたいとこだが、まあ間違っちゃねえから何にも言えねぇなぁ」

 クラインがこめかみをぽりぽりと掻くと、マサキの周囲を色とりどりの笑い声が駆け巡る。
 ――何なんだ、これは。
 地に足がつかない浮遊感と、景色がぐるぐると固定できない酩酊感。そして、自分一人だけが間違った世界に存在していると錯覚してしまうような、言いようのない気持ち悪さ。

「マサキ君、大丈夫?」

 突発的な頭痛と吐き気に襲われて小さくえずきながら手で額を押さえると、その手の向こうから心配そうなエミの声が掛けられた。それから耳を背けるように首を回そうとしたら、額を押さえる右手をそのエミに奪われてしまう。意識の中に入り込んでくる彼女の表情がみるみるうちに青ざめていくのがスローモーションのように見えた。

「どうしたの!? すっごい顔色悪いよ!?」
「触るな!」

 顔を近づけようとするエミの手を振り払い、体ごと反転。目を瞑り、音を遮断し、もてる意識の全てを使ってエミの情報を風化させることに努める。駄目だ。まずは落ち着かなくては……。自分のコントロールを外れて暴走する荒い呼吸と心拍だけに集中し、ぐっと目元に力をこめる。

「何故だ……何故、こんなことを……」
「何故って……そりゃ、皆お前のためを思って……」
「俺はそんなこと頼んでない!」

 困惑するクラインに向かって叫ぶ。必死に握り締めていた自分自身が、するりとほどけて指の間から落ちていく。

「……本気で言ってンのかよ、お前ェ……!」

 驚きで凝固していた表情が沸騰し、今にも殴りかからんばかりの勢いで詰め寄ってくるクラインを睨み返す。ああ、そうだ。こいつらだ。せっかく静かだったのに。せっかく穏やかだったのに。誰も来てくれなんて言っていないのに、こいつらが事あるごとに土足で踏み荒らし、引っ掻き回すから。畜生。畜生、畜生……!

「二人ともやめて!!」

 そんなマサキに冷や水を浴びせたのがエミだった。体と脳から熱が急速に奪われていき、入れ替わりに強い嫌悪が湧き上がる。数回の深呼吸で息を整え、意を決して振り返ると、彼女は両目に涙を溜め、胸の前で両手を握り締めていた。そしてマサキと目が合った瞬間、バネみたいに深々と頭を下げる。

「ごめんなさい! ……アスナから、マサキ君がPKを疑われてるって聞いて、それで、いてもたってもいられなくなって……!」
「……二度と、俺に近寄るな」

 涙に震える声。その必死さを跳ね除けて、マサキは冷たい声色で絶縁を突きつける。先ほどの巻き戻し(リワインド)のようにエミが顔を跳ね上げるのを視界にいれないように振り返りつつ、

「マサキ君、待っ――」

 静止の声を意図的に無視して《瞬風》で自宅に逃げ帰る。
 誰もいない真っ暗な自室。先ほどまでとは打って変わった静寂と孤独がマサキにとっては心地良かった。ベッドに寝転びながら時間を確認しようとしてチェストの上にある置時計に目をやるが、暗くて針の位置が読めない。仕方なくウィンドウからデジタル時計を呼び出すと、午前三時を過ぎた頃合だった。
 夜明け前、空が白み始める直前。夜が最も深くなる時間帯だ。 
 

 
後書き
 最近欝気味のマサキ君の感情を考えながら書いていると、自分まで鬱っぽい気分になることに気がついたCol Leonisに励ましの感想を書こう!(ダイマ) 
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