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ソードアート・オンライン 穹色の風

作者:Cor Leonis
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アインクラッド 後編
  鼠の矜持、友の道

 
前書き
 何かに取り付かれてるんじゃないかと疑うレベルで筆が高速回転したので投稿です。次話はいつも通り未定。 

 
 照明の赤みがかった白色に色づいたどろりと粘つく空気が身体中にまとわりついている。溜息すらつけない沈んだ雰囲気の中で、わたしはひたすら先ほどのマサキ君を思い返していた。

「……ったくマサキの野郎ォ、せっかくアスナさんとエミちゃんがあんなに頑張ったって言うのに、何なんだあの言い草は!」

 沈黙に耐えかねたクラインさんがテーブルを叩くと、その振動でグラスのジンジャーエールがさざ波を立てた。出されてからもう二十分は手もつけていないけれど、この世界ではグラスに結露が付くことはない。

「うちの設備を壊すなよ」

 エギルさんが嗜める。その声に安堵の色が混じっていたのは、彼もまた、この空気に辟易していたということの表れだろう。

 マサキ君がどこかへ消えた後、わたしたちは気まずさから誰も帰ると言い出せず、ぎくしゃくした流れのままエギルさんの店に立ち寄っていた。普段は猥雑としているこの街も、もうすぐ空が白み始めるこの時間帯はしんと静まり返っていて、それが重たい雰囲気を更に強く浮き立たせている。

「本当に……何でこんなことに……」

 ぽつりと呟く。それは何度も自問して、一向に答えの見つからない問いだった。

「エミは悪くないわ。全部アイツが悪いのよ、アイツが」
「ううん、きっと何かあるの。マサキ君が怒る何かが……」

 丸テーブルの左隣に座ったリズがフォローしてくれたけれど、わたしは首を振って答える。確かにマサキ君は一見無愛想だし、人付き合いを露骨に避けたがったり、相手に対して否定的な物言いをしたりすることがある。けれど、決して理不尽に怒りをぶつけるような人ではなかったし、何よりわたしは知っている。わたしの凍りついた心を溶かしてくれた、太陽みたいな暖かい瞳を。

「わたしは、彼のことはよく知らないけれど……それでも、三日間一緒に過ごして、あんな風に怒りを爆発させるような人だとは思えなかったわ。エミの言うとおり、何か他に理由があるんじゃないかしら」
「でも、その何かって、一体何なんでしょう……」

 アスナもわたしの言葉に頷いてくれたけれど、続くシリカちゃんの質問には答えることが出来なかった。そうしてまた沈黙が流れ出したところで、今まで難しい顔で腕を組んでいたキリト君が小さく呟いた。

「……やっぱり、まだあのことを気にしてるのかもな」
「何か知ってるの!?」

 降って湧いたように思えた一縷の望みに縋ってキリト君に食らいつくと、彼はその中世的な顔を僅かに仰け反らせ、ぎこちない動作で頷いた。

「あ、ああ。俺とクライン、後エギルは、多分、一応」
「……やっぱ、トウマの一件か」
「……トウマ?」

 恐らくはプレイヤーネームなのだろうけれど、初めて聞く名前だった。復唱すると、クラインさんが居心地悪そうに眉をひそめ赤い髪をボサボサとかき回す。

「あー……エミちゃん。悪いけど、俺たちもあんま詳しいことは知らねえんだ。マサキにゃ昔コンビ組んでた奴がいて、そいつがそのトウマなんだけど……」

 言いにくそうに口をつぐんでしまうクラインさん。その後に続く言葉を、キリト君が付け足してくれた。

「……殺されたんだ。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)の連中に」

 その瞬間、わたしの体を雷に打たれたみたいな衝撃が末端に至るまでを迸り、心臓が爆発しそうなほどに大きく跳ねた。笑う棺桶(ラフィン・コフィン)――それは、SAOに存在する、最も有名で、そして最も凶悪な殺人(レッド)ギルドだ。いわゆる犯罪者(オレンジ)ギルドと違うのは、オレンジギルドが金銭やレアアイテムなどの奪取を目的としてプレイヤーに攻撃を加えるのに対し、レッドギルドは最初から殺人を目的にプレイヤーを襲う。手持ちのコルや武器、アイテムを全て差し出して懇願したとしても、襲われたプレイヤーが解放されることはない。故にその他の犯罪者とは区別され、SAO内で犯罪者を指すオレンジよりも更に色の濃いレッド(殺人者)の名を冠するのだ。

「……そんな……ことが……」

 トウマという人物をわたしが知らなかった時点で、何らかの原因でその人が亡くなっているという可能性には思い至っていた。しかし、告げられたのはこの世界において最も残忍でおぞましい死因。わたしは知り合いをプレイヤーに殺された人物と会ったことが何回かあるけれど、彼らは皆共通して、とても深い傷を心に抱えていた。もしマサキ君にもそれと同じ棘が突き刺さっているのだとすれば、彼が他人との接触を頑なに拒むことにも説明がつく。

「……探さなきゃ。マサキ君を」

 もう一度会って、話したい。少しでもマサキ君の力になりたい。もしかしたら、それはマサキ君にとって物凄く不快なことなのかもしれないけれど……それでも、ここで立ち止まりたくなかった。

「探すって、どうやって?」
「アルゴさんなら、マサキ君と連絡が取れるはずだから」

 メッセージウィンドウを呼び出し、アルゴさんへのメール画面を開く。マサキ君への連絡はアルゴさんを通せということは、逆に言えばアルゴさんはマサキ君に対していつでも連絡を取れる立ち位置にいるということだ。

「もしマサキ君に拒絶されたら、その時はアルゴさんにマサキ君の居場所を聞いて、直接乗り込むわ」
「――おや、オネーサンをお呼びかイ?」
「……え?」

 文面をタイピングしながら対マサキ君用のシミュレーションを重ねていたところで、聞き覚えのある鼻にかかった特徴的なボイスが耳を打った。半ば反射的に目を向けると、店のドア枠に寄りかかった小柄な女性が、顔の三本線を軽々しい笑顔に歪めていた。その特徴的な声と顔を間違えるはずも無い。

「アルゴ、さん。どうしてここに……?」
「エミの言うとおりだぜ。なんだってんだよ、こんな時間に。店は開いてねーぞ」
「それはこっちの台詞だヨ。こんな時間に肥溜めみたいなところに大勢で集まって。犯罪の打ち合わせと疑われても文句は言えないだろうナー。あ、オイラにもジンジャーエールちょーだいネ!」
「お前な……」

 時分の店を肥溜め呼ばわりされたエギルさんがチョコレート色のこめかみをピクピクと引きつらせる。その怒りはもっともだと思うけれど、今はもっと大事な話がある。わたしは意を決してアルゴさんの隣に立った。

「アルゴさん。マサキ君と連絡が取りたいんです。お願いできませんか?」
「まーまー、そんなに怖い顔しないで、落ち着こうヨ。今回の一件、あんまり上手くいかなかったんだロ?」
「それは……はい」

 隠しても仕方が無いことだ。それに、アルゴさんは元々このことを知っていた人間で、マサキ君の呼び出しと、交渉場所の選定をお願いした。アルバイトシステムを悪用して話を盗聴したのもアルゴさんのアドバイスによるものだ。
 わたしは正直に、マサキ君が濡れ衣を着せられることは防げたことと、その後マサキ君が「二度と関わるな」と言ってどこかへ消えてしまったことを話した。

「ンー……」
「お願いします。もう一度、マサキ君と話がしたいんです!」
「それじゃ、500コル……って言いたいんだけど、ムリ。ゴメンネ」
「そんな、どうして!?」
「いやー……それが、ついさっきマー坊からフレンド切られちゃったんだヨ。多分、オレっちがエーちゃんたちとグルだったって気付かれたんだろうナ!」
「そんな……じゃあ、マサキ君の場所も……」
「うん、分からなイ」

 微かに見えた光の筋が掻き消されて、わたしの目の前は再び真っ暗になってしまった。身体から力が抜けてへたり込みそうになるのを、アスナとシリカちゃんが支えてくれて何とか踏みとどまる。

「だから、もう、終わりにしたらいいんじゃないかナ」

 アルゴさんの声が、頭上から浴びせるように聞こえてきた。感情をスポイトで抜き取ったみたいな平坦な声。顔を見上げると、ジンジャーエールのストローに口をつけ、沈んでいく茶色の水面に目を向けて放たれた言葉であることが分かった。

「もし今後エーちゃんがマー坊と会えたとして、何を言っても無駄サ。何も知らない奴が何を言っても、うざったいと思われるのがオチだネ」
「……アルゴさんは、知ってるんですか? トウマさんのこと……マサキ君のことを」
「100コル」
「手前ぇ、こんな時にまで商売かよ!?」
「いいです、クラインさん。払います」

 100コル硬貨を一枚テーブルの上に置く。アルゴさんはこちらを見ずにそれを受け取った。

「毎度アリ。これでも第一層からの付き合いだからネ。知ってるヨ。マー坊がトー坊と出会って、それからトー坊が死ぬまでのことも、その後のことも、大体はネ」
「お願いします。教えてください」
「高いヨ? オレっちが言うのもなんだけど、値段とは釣り合わないナー」
「それでもいいです。お金なら……」

 言いながら今持っているお金を全てオブジェクト化させようとして、口と手が止まる。わたしの資産のうち最低限残している分以外は、証拠映像を記録するための結晶を買い集めるのに使い果たしてしまった。それでも少し足りなくて、その分はエギルさんにツケている状態なのだ。これではそんな高い情報を買えるわけもない……でも、諦めきれず、わたしは深く頭を下げて頼んだ。

「お金なら、何とかします。今手持ちはないですけど、何とかして作ります! ……わたしは、マサキ君がいなかったら、今もずっと辛くて寂しいのを我慢して、無理な手助けで無理矢理その感情を紛らわせていたはずです。マサキ君は、そんなわたしを救ってくれました。だから、今度はわたしが助けたいんです。マサキ君が苦しんでいるなら、どうにかして力になりたい……!」
「……そう言えばこの前上モノのウィスキーを仕入れたって聞いたナ。オレっちにも飲ませてくれよ」
「アルゴさん!」
「あー、でもナー。オイラってばアルコールに弱いからなー。ウィスキーなんて飲んじゃったら酔っ払って色んなコト喋っちゃいそうだナー」
「…………!」

 急に棒読みになったアルゴさんの言葉にハッとしてエギルさんに目をやると、同じことに気がついたのだろう、スキンヘッドを二、三度撫でた後、

「……分かったよ。ちょっと待ってろ」

 と言い残してカウンターの裏へ消えた。しばらくしてから茶色のビンと氷の入ったグラスを手に戻ってきて、ビンからグラスに琥珀色の液体を注ぎアルゴさんの前に置いた。

「あーこれこれ。いっぺん飲んでみたかったんだヨ。催促しちゃったみたいで悪いナー」
「よく言うぜったく……おい!?」

 いけしゃあしゃあと笑ったアルゴさんがグラスを持った、かと思ったら、エギルさんの静止も聞かずそれを一気に飲み干してしまった。慌てたエギルさんがグラスを取り上げたけれど、その中にもう液体は残っていなかった。

「おまっ、幾らしたと思ってんだ!? もっとよく味わって――」
「アーきたきた。やっぱ強いお酒は駄目だナ。昔のことを突然思い出しちまウ」

 当然ながら、SAOで飲酒しても現実にアルコールを摂取したわけではないから、酔っ払うなど有り得ない。しかしアルゴさんは今にも掴みかからんばかりのエギルさんをひょいとかわし、あからさまな千鳥足でテーブルの周りを一周した後、元の椅子にふらふらと腰掛けた。そしてわたしの顔を見て、飄々としたいつもの顔と声のまま口を開く。

「オイラがマー坊、トー坊に会ったのは、第一層、“あの宣言”があった直後ダ。《始まりの街》の南にある草原でレベリングしてたのを見つけたかラ声を掛けたけど、まさか二人ともニュービーだとは驚いたナ。まあ、見過ごして死なれるのも寝覚めが悪かったから、フレンド登録をして、二人はオイラのお得意サマになった。コンビの相性はオイラから見ても抜群で、ぐんぐん強くなって文句なしの攻略組として最前線に立ち続けたヨ。……二十四層までは、ナ」
「……それって」

 ――二十四層で、トウマさんは命を落としたのか。言外の問いを含んだわたしの呟きにアルゴさんはちらりと目をくれ、何も聞いてはいないと言わんばかりに話を進めていく。

「丁度二十四層が攻略された頃、オレっちは特ダネの尻尾を掴んでいタ。……お針子NPC、《シェイミ》。当時、まだプレイヤー、NPCのどちらも裁縫スキルの熟練度が低かった時代に突如現れた。熟練度1000レベルの技量を持つNPC。しかし気まぐれに移動しているソイツの実態は闇に包まれていテ、場所はおろか背丈や年齢、性別すら分からない状態だっタ。それでも徐々に当時の低レベルなファッションから抜け出したい一部の中層、攻略組プレイヤーたちの間でシェイミの需要は高く、情報屋は血眼になってソイツを探していたナ。ま、オイラもそんなうちの一人だった。……でもある日、シェイミの居場所を突き止められる、重要情報のリークを受けたんダ。オイラは多額の情報料と時間を投じて、遂にその居場所を突き止めた。そして、ラインナップに加えようとしたところで、トー坊がその情報を買った。オレっちとしては、手に入れた情報は売るのが当たり前だからナ。快く売ったヨ。マー坊の誕生日プレゼントにするって言ってたっけカ? まあ何にせよ――トー坊は、シェイミを尋ねたっきり帰ってこなかった。帰り道をラフコフに襲われたんダ」
「――――っ」

 アルゴさんが遂にその言葉を発した瞬間、全身の毛が逆立つような怖気が走り、その場の全員が息を呑んだ。店内の空気が三度は下がった気がする。

「当時ラフコフは結成したばかりで、大きな《獲物》を探していタ。そこに偶然シェイミの手がかりになる情報を掴んだから、意図的にオイラにリークして、高レベルプレイヤーが《餌》に掛かるのを待ってたんダ。……目先の情報に目を奪われて、情報提供者の裏を取るのが甘かったオイラの責任サ。異変を察したマー坊が救助に向かったものの、間に合わず、マー坊の目の前でトー坊は死んダ。辛うじて後に残ったのは、誕生日プレゼントの洋服と、マー坊が新しいエクストラスキル、《風刀》を取得したという情報だけだっタ。マー坊はそれまでスキルの存在を隠していたが、トー坊の危機で使ってしまったのをラフコフの残党が広めたんダ」
「……そういえば、あのエクストラスキルの存在が判明したのはその頃だったわね。まさか、ラフィン・コフィンが関係していただなんて……でも妙だわ。今思えば、そんな一大イベントを当時の攻略組が放っておくなんて。たちまち大騒ぎになってもおかしくないはずなのに……」
「その時、最前線は二十五層の攻略に忙しかった。勿論マー坊のところには情報屋、新聞屋が殺到したけド、もともとあの軽い身のこなしに加えて《風刀》で転移までできるようになったかラ、追い縋れる奴等は一割にも満たなかったナ。けど、中にはしつっこく追いかけるやつもいたし、攻略会議にでも顔を出そうものなら大手のギルドにちょっかい掛けられるのは目に見えてル。だからマー坊はそいつ等を追い払うために、『《風刀》スキルの情報開示に必要な条件』に口止め料を掛けたんダ」

 アルゴさんが万人から好かれているわけではない理由の一つに、《情報を売らない》ことでも商売を行うという彼女独特のビジネススタイルがある。この場合、マサキ君がアルゴさんに前払いした口止め料よりも高い料金を相手が支払うと言った場合、マサキ君に口止め料の値上げの是非を問う。それでマサキ君が値上げを断れば相手がその情報を得、値段を吊り上げればその吊り上げられた値段をボーダーラインとして再び相手がそれを買うかどうか判断する。つまり、両方が譲らない限りオークション式に値段が跳ね上がっていくということだ。

「『情報開示に必要な条件』ってことは、もしそれを知られたとしても実際に情報へ辿り着くためにはもう1クッション必要になるってことか……正々堂々とは言えないけど、ステータス、特にスキルの情報なんて命にも等しいわけだし、それを開示する条件をつけてあるってのは、言い逃れをするには十分なのかも知れないな」

 アルゴさんの言葉に時折頷きつつ話を追いかけるアスナとキリト君。アルゴさんはあくまで独り言を言っているという体で質問に答え、話を進める。

「そのせいで、オイラは相当駆けずり回ったけどナ。まあ。5000万コルなんて設定されたら文句の一つも言いたく――」
「5000万コル!?」

 叫んでからハッとして慌てて口を押さえるけれど、もう遅い。しかし周囲を見れば皆わたしと同じ感想のようで、唖然としたままで固まっていて避難の視線や声が飛んで来る気配はない。

「そんな……口止め料って、先払いするものでしょう? 5000万コルなんて大金、今の大手ギルドだって払えっこない金額よ。それを個人でなんて……有り得ないわ」
「……いや、有りうるかもしれない」

 今度はアスナが全員の思考を代弁したのを、キリト君が顎に手を這わせながら否定した。

「知ってる人もいるだろうけど、マサキとトウマは、二十二層のボスを二人だけで攻略してるんだ」
「あっ……」

 その話ならわたしも聞きかじったことがある。その時のわたしは最前線に気を向ける余裕などなく、ヘルプに入ったパーティーの人が噂していたのを聞いた程度でしかなかったが。

「ボスを倒した時、全員にかなりの額のコルが報酬として入るだろ? けど、それは普段フルレイド、四十八人で分けてるものだけど、マサキたちはたった二人で山分けしたんだ。相当の額だろうぜ。それに、確かあの時の報酬アイテムは一部を除いてオークションに掛けただろ? だから、その分を合計すれば……」
「いいえ、幾らなんでも5000万は不可能だわ。どんなに多く見積もったとしても、二人分合計して1500万コルがいいところよ」
「それは……そうだよな。うーん、それ以外に大金を稼ぐ方法なんて……」

 議論が停滞したキリト君とアスナが揃って答えを求めるようにアルゴさんに顔を向ける。アルゴさんはその間、邪魔するのを避けていたのか、わたしの前にあったジンジャーエールに手を伸ばして我が物顔で口をつけていた。いつの間に、と思ったけれど、一々糾弾しているような場合じゃない。

「マー坊はそれ以外にもう一つ、オイラと契約を結んでいタ。その内容は、『実際には500万コルの口止め料を、5000万コルとして伝える』コト」

 ――な。

「なぬぅ!?」

 今度はクラインさんが叫んだ。

「おいおい待てよ……ってことは、金額を十倍も吹っかけたのか? 大法螺吹きにも程があるだろ……」

 と、エギルさんも呆れ顔だ。

「馬鹿みたいな大法螺吹きでも、効果はあっタ。5000万コルのインパクトに、それを払っても得られる情報はただの前提条件。それに加えテ、マー坊はそっちの契約にも300万コルの口止め料を払っタ。それを買おうとする奴は、結局誰もいなかったナ」
「……あの、アルゴさん。どうしてアルゴさんは、そんな契約を引き受けたんですか?」

 今までの話を聞いて、わたしにはどうしてもそれが訊きたかった。《鼠》のアルゴと言えば、金さえ積めば自らのステータスさえ売ると言われている根っからの商売人だ。なのにそんな契約を呑んでいる。効率で言えば、二つ目の口止めを断って、本当の料金を伝えた上で両者に吊り上げさせた方が儲かりそうなのに。
 それに今思い返せば、マサキ君は自分に連絡する場合はアルゴさんを通せとも言っていた。いくら彼女がメッセンジャーも兼業しているとは言え、そこまでさせるのも、するのも聞いたことがない。
 アルゴさんは僅かの間硬直すると、ほんの僅か目線を落とした。

「……トー坊が死んだ直後のマー坊を見たら、そうするしかないと思っタ。トー坊が死んだのはオレっちの責任だからナ。今思うと……許されたかったのかも知れなイ」

 それまでの一人語りとは違う、ぽつりぽつりと一滴ずつ水滴を零すような声だったけれど、わたしははっきりと最後までを聞いた。そして、確信した。マサキ君は、アルゴさんのためにその契約を考えたのだ。
 マサキ君自身がそれを自覚しているかは分からない。ひょっとしたら、頭の中では「この機会に都合よくこいつを使ってやろう」とか、「それだけの責任があるのだから、この程度は当たり前だ」とか考えているのかもしれないけれど、心は違う。どんなに誤魔化しても、目の前で苦しんでいる人を見捨てておけない人なんだって、わたしは信じてる。

「……次の層が二十五層だったことも、マー坊にはプラスに働いタ」

 一瞬漏れたアルゴさんの感情は、次の台詞ではすっかり修繕されていた。その気丈さは、正直に凄いと思う。

「強力なボスの存在と、《軍》の壊滅。最前線の話題はそっちに移っちまっテ、マー坊のことは置いてけぼりサ。後に残ったのは、《穹色の風》なんて二つ名くらいカ……。アレも、実はラフコフが広めたんダ。トー坊が殺されて、怒ったマー坊は《風刀》でラフコフを斬りまくっタ。プレイヤーが死ぬと、水色のエフェクトが出るだロ? 高速で走り回りながらそのエフェクトをばら撒く様子が、空色に色づいた風に見えた。だから、《穹色の風》」

 わたしは去年の十二月、初めてマサキ君と会った時のことを思い出した。そういえば、わたしが最初に二つ名でマサキ君を呼んだ時、彼は少し嫌そうに顔をしかめていたっけ……。自分が人を殺して付けられた名を、何の悪気も無く呼ばれることの辛さをわたしは知らない。けれど、その度に自分の行いを、そして殺された親友を嫌が応にも想起させられるというのは、わたしの想像を遥かに超える苦しみだろうと思った。それだって、月並みな台詞でしかないのは自分でも分かっているけれど。ただ胸を締め付けられるような想いと、ラフィン・コフィンへの怒り、そして知らなかったとは言えその名でマサキ君を呼んでしまったこと、大好きな人を少なからず傷つけてしまった自分への口惜しさが喉の奥で渦巻いていた。

「……あー! 喋った喋っタ! 独り言はおしまい。エーちゃん、もう一度言っとくヨ。マー坊の事情は簡単に深入りできるようなモンじゃないし、エーちゃんが気にしなきゃいけないことでもなイ。あんな奴スッパリ忘れて、他にイイ男探した方がよっぽどいいゾ?」
「いいえ」

 両腕を頭上に伸ばし、へらへらと薄い笑みを貼り付けたアルゴさんの目を睨みつけるようにしてきっぱりと否定する。胸の前で手をぎゅっと握ったら、自分でも不思議なくらい、温かい力が体の底から湧き上がって来る。

「わたしは……何も知りませんでした。マサキ君のこと、トウマさんのこと、スキルのこと、二つ名のこと……全部、知りませんでした。マサキ君の優しさに触れて、助けられて、勝手に好きになって、舞い上がって、ただその気持ちを押し付けていただけなんです。マサキ君にそんな過去があったなんて、わたし、思ってもいなかった。……だからこそ、このままで終わりたくないんです。見てみぬふりなんてしたくない。これで終わりだなんて、考えられない。だって――」

 ふと、頬を涙が伝っていることに気がついた。瞬きすると、表面張力で辛うじて目尻に溜まっていた分が押し出されてつうと滑り落ちる。
 一旦言葉を切り、いろんな感情でいっぱいの胸に、更に大きく空気を吸い込む。この先は、簡単に口にしてはいけない言葉だと思うから。
 でも、言わなきゃいけない。今のわたしにとって、それは何より大切な想いだから。

「――わたしは、マサキ君のことが大好きだから……!」



「……やれやれ、良いよな、若いってのは。ああいう恥ずかしいことを臆面もなく言えちまう」
「『自分にもそんな頃があった』とか思ってるのカ?」
「まさか。俺は根っからのシャイボーイだよ」

 アルゴの問い掛けを、カウンターに寄りかかったエギルが冗談であしらう。二人の視線は共に店の玄関口に――正確には、そこからつい先ほど出て行った一人の少女の面影に向けられていた。

「それにしたって、正直驚いたぜ。まさかお前がタダで、しかも合計800万コル分の情報を喋るなんてな」
「さあ、一体何のことダ? オイラは気持ちよく酒を飲んでただけだゾ?」
「ああ、そうだな。《鼠》がタダで情報を渡すなんて、有り得ねぇ」

 エギルがその巨体をカウンターから離して歩き出すと、板張りの床が鳴らす足音が二人きりの店内で反響しては消えていく。
 アルゴは笑っていた。エギルの言葉は正しい。側溝の下を忙しく駆けずり回り、餌の匂いを嗅ぎ付けては浅ましく食らいつく。転んでもただでは起きず、金のためなら自分のステータスさえ売り渡す――それが、アルゴが《鼠》という役割(ロール)に徹するために作り上げた矜持だ。
 エギルは一旦店の奥に姿を消し、先ほどアルゴに出したウィスキーの瓶と氷の入ったグラスを持ってアルゴの対面に腰を下ろした。直方体の瓶を傾け、二つのグラスに琥珀色の液体を注ぐ。

「何考えてんだヨ、悪徳商店」
「そりゃお互い様だろ、悪徳情報屋」

 エギルが自分側のグラスをもう片方と軽くぶつけると、キン、と澄んだ音が鳴る。そのグラスを手に持ったまま、エギルは言った。

「……でもよ。たまには《鼠》としてじゃなく、人として、ダチとして、何かをしたいと思うのは、間違いじゃねぇと思うぜ」

 アルゴは笑顔を作った。寂しそうで、悲しそうで、でも、どこか安堵したような。例えるなら、昔むしってしまった小さな花を足元に見つけたような――そんな笑顔だった。 
 

 
後書き
 というわけでエミさん決意回。
 これまでエミさんが「可愛いけどヒロイン……?」みたいな反応を頂いていたのは、前任者が偉大だったということの他に、エミさん自身はマサキ君に何も与えていないからではないかと考え、今回マサキ君の過去を知った上でこういった宣言をしてもらいました。そのやり方が潔すぎて一足飛びに主人公になっちゃいそうな予感がしますが、きっと気のせいです。ええ、気のせいなのです(震え声)

 余談ですが、劇場版特典の小冊子で明かされたSAO年表と本作を照らし合わせたところ、少しズレが発見されましたため、該当箇所を幾つか修正させていただきました。シナリオ的には変わったところはございませんので、特に読み返す必要はないはずです。……でも読み返してもらえたら嬉しいです(正直) 
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