| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

ソードアート・オンライン〜Another story〜

作者:じーくw
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

現実世界
  第148話 彼女の刃


 夜の闇の中、降り注ぐ雪を肩に積もらせながら、和人は走り続けた。

 アスファルトには、薄く雪を纏いつつある。ペダルに掛かる負荷も上がってくるが、和人は車体を更に加速させる様に踏み抜き、蹴飛ばした。これまで、辿ってきた道に比べれば、この程度の道は随分とぬるいものだ。この先に、目指した未来が待っているのだから。
 ……待っていると信じているから。

 そして、やがて見えてきた。
 前方にあるのはくろぐろとした巨大な建造物。その建造物の灯りはもう殆ど消え落ち、ドクターヘリが着陸する為の青と赤の誘導灯が、黒い建造物を彩っていた。

 後、ほんの数100mの距離。最後の坂を登りきると、高い鉄柵が見えだした。後は鉄柵沿いに、走っていけば正面ゲートが見えてくる。


――……後、少し……、少しだ。


 早る気持ちを必死に抑えながら、吹き抜ける冷気を切り裂く勢いで自転車を走らせる。正門は、もう固く閉ざされている為、和人は、正門前を通過、パーキングエリアまで走り、そこから職員用に解放されている小さなゲートがある。そのゲートから敷地内へと乗り入れた。

 駐輪場まで行かず、和人は駐車場の橋に自転車を停め、その鍵を施錠するのももどかしく、乗り捨てる様に、走り出した。夜の駐車場は、まったくの無人だ。雪が降りしきる中で。……世界が完全に雪に閉ざされてしまう前に、明日奈に会いたい。

 この手で抱きしめたい。

 和人の中にある求めるものは、この病院の姿を捉えてからは、それ一色になっていた。やがて、恐ろしく広い病院内の駐車場を半分ほど横切った所で、背の高いバン、そしてセダン車が見えてきた。
殆ど蛻の殻である駐車場の中で唯一の自動車だ。


――……こんな時間に…?


 と、和人は一瞬思ったが、現に自分は今、こんな時間だが病院へと来ている。それにおそらく隼人も来る筈だろう。だから、直ぐに思考から、削除し 横切ろうとした時だ。

「あっ……」

 バンの後ろからスッと出てきた人影と和人は衝突しそうになった。その人影を躱そうとしたその瞬間。辺は駐車場の灯りが少々点っているとは言え、まだまだ暗い。そんな闇の中でも、はっきりと見えた。それが、生々しい金属の輝きだと理解したのは……。

「―――ッ!?」

 その直後、和人の右腕……に異様な違和感を感じた時だった。その違和感は、直ぐに鋭い熱感となり、右腕から走った。〝びっ!〟と言う何かが避ける音も耳に残っていた。それは、和人が来ていたジャケットが裂かれる音だったのだ。

 突然の事に、思考が纏まらず、和人は白いセダン車のリア部に衝突してしまったが、どうにか踏みとどまって、その影を見ようとした。間違いなく、原因は先ほどの影。
 影はゆっくりと、不気味だと思える程、ゆらりとした動きで左右に揺れていた。

 それは男。

 スーツ姿、何処か全体的に白いのは、雪が粉雪の様に付着しているからだろう。だが、その衣服に着目したのは、一瞬。次には否応でも目に入るギラリと光る物質に目が奪われた。
 それは、ナイフだった。

 刃渡りは、目測だが30cm程はあろうかと思えるナイフ、サバイバルナイフだった。

 それを目にし、和人は唖然とする。何故、自分が斬られたのか?と。この世界では、あの世界の様に身体に赤いラインが出来るのではなく、体内に血液が滴り落ちる。電気信号の塊ではなく、生身の生きた人間である証だと言える鮮血。熱い痛みと共に、ぽた、ぽた、と雪が数mm積もったアスファルトの上に滴り落ちる。白の世界に、赤い斑点が彩られた。
 その時だ。

「遅い、遅いよ、キリト君。僕が風邪ひいちゃったらどうするんだよ」

 それは殆ど囁きに近い声量。だが、粘り気とも言える様なものがあるその声。……忘れる筈もない声だ。

「す……須郷」

 和人は、呆然とし、その名前を呼ぶと同時に、和人の声に応える様に一歩踏み出してきた。丁度、ナトリウム灯の放つ光が、男の顔を照らした。

 それは、忘れたくても、忘れられない顔。

 憎しみを全て、剣に込め、何度その首を、その顔を斬ってやりたい、と思ったか判らない。負の感情だが、誰かを思うと言う観点からでは、この男も負けていなかった。

 だが、その顔は何処かおかしい。異様な表情。なぜ、そう感じるのかは よくわかった。あの視線が異様なのだ。目は見開き……、そして左の瞳はまるで、瞳孔が細かく震えている様。
 だが、片方の目 右目は小さく収縮したままだ。

 ここで、和人は理解出来た。
 あの異様な目は、その場所は 世界樹の上で自分自身が貫いた場所だったからだ。

「……随分と酷い事するよねぇ? キリト君」

 軋る声でそう言う須郷。ゆっくりとした動作で目元に手を当てた。

「まだ、痛覚が消えないんだよ。……まぁ、いい薬が色々とあるから、構わないけどさ」

 そう言うと、スーツのポケットから、カプセル状の薬らしき物を口に放り込んだ。即効性を求めたのか、噛み砕き、中の薬剤を咀嚼していた。和人は、漸く突然斬られたと言う事実から来る衝撃と、物理的な衝撃から回復し。

「――須郷。お前はもう終わりだ。あんな大きすぎる仕掛けを誤魔化し切れるものか。大人しく法の裁きを受けろ」

 乾いた唇をどうにか動かしながら、和人はそう言った。だが、須郷はまるで気にしていない素振りを見せ。

「終わり? 何が? 何も終わったりしないさ。……まぁ、レクトはもう使えないけどね。僕はアメリカに行くよ。僕のこれまでの研究資料、僕自身の能力。……僕を欲しいっていう企業は山のようにあるんだ。……今までの実験で得られた、蓄積された膨大なデータ。今の時代では決して得られない様なデータがあるんだ。あれを使って研究を完成させれば、僕は本当の王に――神に――この現実世界の神になれる!」

 その野望を耳にした和人は、自分自身の耳を疑ってしまっていた。その思考回路は狂気としか言えない。狂っている、という言葉しか浮かんでこない。いや、おそらくこの男は遥か昔から壊れているのだろう。

「その前に、幾つか片付ける事はあるけどね。……とりあえず君は殺すよ。キリト君」

 表情をまるで変えず、ボソボソと喋り終えると、無造作に右手に持ったサバイバルナイフを腹部めがけて突き出した。

「っ!!」

 和人は、どうにか避けようとするが、身体が重い。それは薄く降り積もっている雪のせいでもあるだろう。だが、あの世界の自分では考えられない程身体が重いのだ。自由自在に操れたあの身体とは程遠く、思わず和人は雪の影響もあり、足を滑らせて転倒してしまう。

 それを見た須郷は、焦点を失った瞳孔で和人を見下ろした。

「おい。立てよ」

 二度、三度、続けて腹部へと蹴りを見舞う須郷。腹部に走る鈍い痛みもそうだが、腕を斬られたあの熱感も拭えない。

 降り注ぐ殺意を目の当たりにした和人。

 あの世界では、何を向けられても立ち向かえるだけの力があり、抗える術もあった筈だった。だが、向けられた殺意は、この世界ではまるで別モノだった。殺傷の為に作られたあのギラリと光るナイフも、和人に現実をつきつけられる。

――あのナイフで……、オレを……殺す?

 断片的な思考が流れる。この世界では、HP等という数字は存在しない。何処を切られても、全損しなければ大丈夫等というゲームではない。一箇所でも深く肉を抉るように斬られれば、一箇所でも太い血管を斬られれば。文字通り命を奪うに足る損傷を受ける。

 回復アイテムも無ければ治癒魔法も無い世界で、たった一撃でも、致命傷になってしまう。

 和人は何度も何度も想像してしまっていた。自分の腕から流れ出る赤い血。それがアスファルトに薄く積もった雪を赤く染める。……リアルな死をイメージしてしまったのだ。

「ほら、どうした。立てよ。立ってみせろよ!」

 須郷は、何度も何度もただ只管に和人を蹴り続けた。一撃一撃の度に場所が変わるのは、この男の目は正確に和人を捉えていないからだろう。

「お前、あっち側で僕に何か言ってたよな? 逃げるな? 臆するな? 決着をつける? 随分と偉そうに言ってたよな!?」

 その声には元々狂気染みた代物が含まれていたが、その狂気が一段階増していった。

「判ってんのか? お前みたいなゲームし可能のない小僧は本当の力は何も持っちゃいないんだよ! 全てにおいて劣ったクズなんだよ! なのに、僕の、この僕の足を引っ張りやがって……! その罪に対する罰は当然、死だ。死以外有り得ない」

 須郷は、甲高い奇声をあげる様に、叫ぶと、左足を和人の腹部へと乗せた。和人の身体を固定し、一気にナイフを突き立てる為に。圧倒的な力の差を、和人は感じてしまっていた。

「っ、っっ……!」

 浅く、早い呼吸を不規則に繰り返しながら、ただ近付いてくる須郷の顔を見ることしかできなかった。そう、その身体にナイフを突き立てられる瞬間も……。

「―――ッ!」

 迫るナイフを見て、瞼を閉じる事は出来た様で 思わず最後の瞬間は目を閉じてしまった。その瞬間、がきぃぃ!と言う鈍い金属音が響く。そのナイフの先端は、和人の顔面に狙いを定めていたが、頬を掠め、アスファルトに直撃したのだ。

「あれ……? おかしいな。顔を狙った筈なのに。……右目がボケるんで狙いが狂っちゃったか」

 須郷は、独りごとの様に呟くと、再び右手を高く掲げた。

 その鈍い光、そして駐車場を照らすナトリウム灯の灯りで須郷の持つナイフの全体像をはっきりと和人は捉える。刀の様にすらりとした刀身ではなく、まるで鋸の様なキザギザとした刃。
 肉を斬り、傷口を荒らす刃。

 それを見た瞬間、脳裏にあの世界での光景が鮮明にフラッシュバックした。







~追憶のアインクラッド 第51層 アルスレイド 商業区 武器屋~




『ソードブレイカーって言う武器、買ってみたんだけど、どう思う?』


 それは、アインクラッド中層の町での事。
 本当にたまたま出会ったリュウキにキリトは聞いていた。同じく街中で武器を見ていたから声をかけたんだった。NPCショップだからか、丁度フードを外していたのも見つけられた要因の1つだろう。

『……ん、確かそれは名の通り、武器破壊の成功率を増す事が出来る武器だったな』

 リュウキは、キリトに見せられたダガー系の武器を見てそう呟く。真剣な表情で、視るリュウキの眼。まるで、鑑定をしてもらっている様な錯覚に見舞われる。そんなスキルは持っていないのに。そして、リュウキが視る事数秒間。武器から視線を外し、キリトの方を見た。

『……キリトは、短剣スキルでも鍛えるのか?』

 少しだけ、意外そうな顔をしながらそう聞くリュウキ。キリトはその問いに軽く頷いた。だが、そこまで本気じゃない事も伝える。

『これ面白そうだろ? 形状も他には無い感じだし』

 そう言って笑う。新しい武器の発掘は、VRMMOでは醍醐味の1つだ。武器の性能の確認も面白い。それを聞いたリュウキは珍しく(当時での事)僅かに笑った。笑みを見せた後、呟く様にいう。

『キリトには合わないと思うな』

 リュウキは、そう言っていた。
『扱えない』『使いこなせない』と言われたとしたら、むかっ!と来るが、生憎リュウキからその類の言葉をもらった事はない。……所々嫌味だと感じるのは十中八九、九部九輪、自分の中に邪な感情があったり、色々と打算があった時だけだから。所謂 自業自得的な感じだ。……それでも言わずにはいられないから仕方がない。

 それよりもリュウキの感性は、凄く信用出来るから、キリトは訳を聞いていた。

『なに、難しくいったわけじゃない。簡単な事だ。ダガー系は、遅延(ディレイ)は確かに少ないし、デフォルト技も同様に早い。……が、その代わり基礎攻撃力が如何せん低い。全武器中最もな。それに筋力値(STR)要求の高めのロングソードを今まで使ってきたキリトが満足するとは思えなくてな』

 片手直剣の中でも、両手剣に分類される一歩手前付近の武器を好んでいるキリト。それは、あの50層のフロアBOSSのLAで入手した愛剣、《エリュシデータ》を入手してから、その傾向は顕著に現れていたのだ。だからこそ、リュウキはそう思っていた。

『なるほど、確かにそれはありそうだ。……そう思ったら頼りなくも見えてきた』

 キリトは、じぃ~とそのソードブレイカーを眺めながらそう呟く。
 短剣使い(マスターダガー)がここにいれば、非難の的にされかねない様な発言だが、生憎この場にはリュウキしかいないから、その点は問題なしだ。

『まぁ、確かに武器の強さも重要な要素だが、自分自身に合うか合わないか、それも結構重要だと俺は思うな』

 改めて、短剣を見ているキリトを見ながらリュウキはそう言っていた。キリトも頷く。

 ……結局な所、リュウキの言うとおり キリトは 基本攻撃力が低すぎる事と、軽すぎる事で、鍛える事をあっという間にやめてしまったのだった。








~現代 埼玉県所沢市総合病院~


 
 あの時の武器によく似ているのが、須郷の持っているサバイバルナイフだ。

 だが、あの男の手に握られている武器は、あの世界での武器よりも頼りなく小さい。ダガーと言うにすら及ばないだろう。いや、武器とも言えない。その範疇ですらない。
 あの世界で闘ってきた自分たちからすれば、そんなのは頼り無さ過ぎる。

「お前なんか……お前なんか……!」

 そんな中、須郷が再び甲高い声を響かせた。

「お前なんか本当の力は何も持っちゃいないんだーーーっ!!!」

 声を響かせながらナイフを振りかぶった。

 そのセリフが和人の頭の中で再生される。時が極限にまで圧縮され、全てがスローモーションになる。だが、和人は、高速に頭を回転させていた。


――そう、その通りだ。だが、そんな事は今更言われるまでもない。


 和人の中に強い想いが蘇っていく。


――ならお前は一体何だって言うんだ?あの世界では怯え泣き虫り、そしてこの世界でもそうだ。


 比較的頭は冷静だった。和人は冷静に、須郷の目を再び見た。こんな男が 《恐怖の塊》《化物》そんな風になぜ見えてしまったのだろうか?


――あれは、強者の眼じゃない。絶体絶命の死地に陥ったとき、その現実を遮断する為に狂騒的に剣を振り回す者の目の色だ。


 本当に強い男の眼なら、何度も見てきている。この眼はそんなものじゃない。



――……須郷。



 和人は、目をかっ!と開かせる。もう、閉じたり背けたりはしない。



――お前も同じじゃないか!



「死ねぇぇ!!小僧ぉぉぉ!!!」

 須郷の絶叫と共に、時の矛盾。時間間隔のズレは無くなる。ナイフの速度も戻り、和人の頭部に目掛け振り下ろされる……が。

「うおおっ!!」

 振り下ろされるその刹那。和人は、須郷の右手首を左手で受け止めた。瞬時に右手の親指を、須郷の緩んだネクタイの間、鎖骨の中心部にある喉仏に突っ込む。

「うぐぅっ!」

 ひしゃげた声をあげて、須郷はのけぞった。破れかぶれに見えた和人の一撃は、正確に須郷の喉仏を痛打。その場所への打撃を受けてしまえば、一瞬だが酸素の吸引ができなくなり、息が出来ない。
 無理にしようものなら、痛みがたちまち襲い、細い呼吸しかできなくなる。

 その隙に和人は、身体をひねりながら、体を入れ替え、両手で須郷が持つナイフの手を握り、アスファルトに思い切り叩きつけた。どかっ!と言う音と共に、衝撃によって、ナイフを持つことができず、こぼれ落ちてしまう。

「ぎゃっ!!」

 須郷はうめき声をあげながらも、何とか落ちたナイフを拾おうとするが。

「……貧弱な武器だ」

 それは叶わなかった。

「軽いし、リーチも無い。確かにオレが満足する様な武器じゃない」

 まるで、あの世界に戻ったかのようだ。目の前には、憎むべき人型の敵モンスター。そして、傍らにはあの男がいるんだ。

「でも……、おまえを殺すのには充分だ」

 和人は、ナイフを構えた。それを見た須郷は。

「う、うわぁぁっ!!」
 
 先ほどの強気な言葉からは一転。脱兎の如く逃走しようとしていた。だが、覚束無い足取りは須郷も同じだったのだ。

「うおおっ!!」

 和人は、逃げようとする須郷の頭を掴み、その勢いを殺さずに、停車しているバンのドアに打ち付けた。

「ぐえっ!」

 須郷は叫びを上げた。だが、真の恐怖はこれからだった。その首に、ナイフが添えられていたのだ。殺す筈だったのに、殺される側になった須郷。

「はぁ……はぁ……っ!」

 和人のナイフを握る手に、不自然なまでに力が入っている。過剰な力が入り、ブルブルと震える手。

 ……脳裏によぎるのはこれまでの事。

 アスナを苦しめ、レイナを苦しめ、そして リュウキを殺そうとした。

 毎日、目元を赤くさせながら、明日奈と隼人の帰りを待つ玲奈の姿。

 あの世界で、陵辱を受けながらも、気丈に涙をみせまいと、耐えるアスナ。


 最後に脳裏に強く焼き付くのは、アスナの顔と、そしてその横でニタリと笑う須郷の顔。

「はぁ、はぁ、はぁ!!」

 何度、何度殺してやりたいと思ったか、もう判らない。殺意は、もう臨界点に突破している。須郷の首に押し当てられたナイフ。後ほんの少し、力を入れるだけで、その喉笛を斬り、殺す事が出来る。


「はあっ!はあっ!はあっ!」


――……殺せ。この男のした事は許される事ではない。全ての元凶はこの男だ。何度殺しても、殺しても、足りない!!!



「うおあああああ!!!!」



 和人は叫びを上げ、振りかぶり、そしてナイフを首元へと振り下ろした。その一撃は、須郷の喉を斬り、殺す。








――……そう、殺す……、筈だった。









「……やめろ。和人」









 そんな時だった。
 狂気に、怒りに、全てを支配されていたとも言える状態だったはずなのに。その感情の海に沈んでいた自分を引き上げてくれたのは、ある男の声だった。聞き覚えのある……声。そう、脳裏に浮かんだあの時もいた男の声だった。

「……そんな奴の血で、和人の手を汚す事なんかない。……力を抜くんだ」

 掴まれた和人の右手。その掌から、ナイフが かしゃりと音を立てながらこぼれ落ちる。

 和人は、ゆっくりと、僅かだが震えながら……顔を上げた。その先にいたのは。

「ここに来た理由は……? オレと同じ、だろ。……アスナの所へ行くんだ」

 懐かしさすらある顔。……あの世界でのアバターとは違う、2年間共に戦った男の姿だった。

 和人は、ゆっくりと、頷いた。斬られた腕を抑えながら立ち上がる。まだ、覚束無い。傷の痛みのせいか、興奮冷めやまぬ頭のせいか、思わず身体を再び崩しそうになる。それを隼人が支えた。

「……なんだか、懐かしいな。あの時は、お前がこうやって、俺を支えてくれた。……支えてくれた」

 それは、あの戦争の一件。狂気に彩られ、無数の命を奪い……、そして涙を流していたリュウキ。覚束無い足取り。そんな時、傍らで支えてくれたのが、キリトだった。

 ……1つの恩を返すことが出来た。

「……あり、がとう」
「こちらこそ」

 和人と隼人は、互いにそう言っていた。




 そして、落ち着かせる事数秒後。

「……大丈夫か? 大丈夫なら……、アスナが待ってる。行ってやれ」

 隼人は、ちゃんと自分の足で立っている和人を見てそう言う。まだ腕は血が滲んでいる様だが、隼人から渡されたティッシュとハンカチで何とか圧迫し、ほぼ止血する事は出来た様だ。掠めた頬も同様だ。

「隼人は……? お前も一緒に、だろ」

 玲奈が待っているから、と和人はそう言った。隼人はそれを聞いて軽く笑う。

「勿論だ……が。会いたい想いはキリトにも負けてないつもりだよ。だけど、こいつをこのままにしておく訳にはいかない、だろ? 大丈夫。傍には信頼出来る人もいる。事情を話して警察を呼んでもらうよ。……後から玲奈には必ず会いに行く。勿論、明日奈にもな」

 隼人はそう言って笑った。確かに、須郷は気絶しているのか、呆然としているのか、動く気配がない。だが、このまま放置し、また暴走でもされたら、危険なのには変わらないだろう。
 明日奈や玲奈の事を考えたら尚更だ。

「判った。……待ってるからな」
「ああ」

 隼人は、和人と軽く拳を合わせ、そしてしっかりとした足取りで、病院内へと入っていった。傷口は、浅く出血量も思った程はひどくはない。須郷の焦点が合ってなかった為だろう。確かに、隼人も玲奈に合わせてあげたいと言う気持ちが強くあったが、隼人の言葉と須郷の事、そして何より明日奈に会いたいと言う気持ちの方が強く出た為、和人は1人で向かっていった。


――……隼人は感謝していた。


 和人は、優しいんだ。
 優しいからこそ、自分を気にかけ、そして救ってくれた。恩人の1人。だが、そんな恩人である和人にも、隼人には譲れない物はあった。


 ここから先は……譲れなかった。




「ひ、ひひ……」



 そんな時だ。背後で、うめき声の様なものを出しながら、影がゆらりと動いた。

「か、感謝、か? ぼ、ぼくもそおさ。かんしゃ、してるよ。キミには」

 死への恐怖からか、その髪は所々が白く染まっていた。それは、雪が降り積もったからそう見えた、訳ではないだろう。まだ、涙を流し、鼻水や涎といった体液も流れ出ている。

「ゆだん、してたとはいえ、君が、じゃましなけりゃ、ぼくをたおせた、かもしれないのに。随分とおバカなんだなぁ?」

 小悪党と言うのは、どんなに傷を負っても相手が弱みを見せれば、それだけで、元気になるものだ。須郷は、発音こそ最初のそれよりもおかしいが、この状況を見て、形勢逆転したと思い、立ち上がった。その手には、先ほど和人が落としたナイフが握られている。

「お前、がリュウキくんか? さやまには悪いが 君も死ぬべきおとこだ」

 のそり、のそりと隼人へと近づいていく。
 隼人は動かなかった。ただただ、和人のが向かった方を見ていたのだそれを察したのか、焦点の合わない瞳孔が捉えられたのか、須郷は甲高い声で笑った。

「へひゃぁ、あんしん、したまえよ。キリト君も直ぐに後を追わせてやるからよぉぉ!!」

 地面を思い切り蹴り、駆け出す須郷。
 素早く動ける筈がないコンディションだったのだが、運良くアスファルトをしっかりと蹴る事が出来ていた為、加速する事が出来、そのまま勢いに任せながら、ナイフを突き立てて隼人の方へと倒れ込む。

 後ほんの数cmで、その身体に突き立てる事が出来るだろう距離。

 ……だが。

「勘違いをするな」

 隼人は、身体を捻り……そのナイフを躱した。
 後ろにまるで眼がついているかの様に須郷を見据えて躱した。

 そして、捻った勢いで身体をコマの様に回し、その遠心力を利用して 回し蹴りを須郷の顎めがけて放つ。ばきっ!!と言う音が周囲に響く。

「げふぅっ!!?」

 その蹴りは、正確に須郷のあご先を捉えていた。

「……感謝してるのは、俺の方だ。……和人には譲ってもらっただけなんだ。ここから先は、どうしても譲れない」

 隼人は、軸足に力をいれ、回転力を殺して須郷の方を見た。

「ひ、ひぃっ!!」

 突然の衝撃に須郷は 再びパニック状態になっていた。顎を打たれた為、脳が揺れ三半規管が麻痺してしまい、まともに立てない。今の状態を踏まえても、もう暫く立つ事など出来ないだろう。

「……お前に、お前たちにトドメをさすのは オレ達だ」

 隼人がゆっくりとした動作で内ポケットから取り出したのは端末。そして、素早く指を動かしていく。丁度あの世界でのウインドウ操作をする様に。
 そして、隼人はモバイルの画面を須郷につきつけた。

「ひっ、ひっ……!!?」

 須郷はまだ、ショックから立ち直れていないが、画面を見る事は出来ていた。焦点がボヤけるが、何かのシステムを起動する画面だと言う事は理解出来た。

「……聞こえないならそれでもいいがな。視覚的に感じろ。これは ウィルス・ソフト《コード・デストラクション》。……名前くらいはお前も知ってると思うがな。あの研究に手を出したと言うのなら」
「……ぃっ!?」

 隼人の言葉を聞いて、そして、向けられた端末を画面を見て、暫く固まった須郷だったが、びくりと電流が走ったかの様に身体を震わせた。


《コード・デストラクション》



 それは、まさに名前の通り、破壊の権化だ。知らない訳はない。



 それは遡ること10年以上昔の話。



 IT会社に大ダメージを与え、あわや壊滅しかかった一件。何処からやってきたのかは不明だった。誰が作ったのかも、不明であり、そしてそのウィルスを消去する事が出来たのは、これも同じく誰が作ったのか判らないアンチウィルスソフトフェア、通称《ワクチン》によって、復旧する事が出来たのだ。全てを破壊するそのウィルスは すぐさま解析と対策をされたが、ワクチンはそのウィルスソフトの全てを消去した為、痕跡が全く残らず解析する事ができなかった。ワクチン側もそれは同じであり、一度使命を果たしたら、まるで意志があるかの様に、自動で消去をしていたのだ。

 何か凶悪犯罪に使われる可能性があると、警戒していた警察や企業だったが、その後は何も無かった。数年がたち、科学者達は何処かのイカれたハッカーが遊びで仕掛け、成功して満足してしまった。と結論をつけていた。勿論その後も警戒はしていたが、あの事件以来ネットワーク上ではまるで見なくなったのだ。






 そして、あの兵器の標的になったのは、今回のこの研究の背骨になっていた会社である。







 そんな彼等にとって、悪魔的破壊兵器を突きつけられている。この手の仕事に携わる者ならば、誰でも恐怖を持つだろう。全てのデータを破壊してしまうんだから。


「……安心しろよ。壊すのはお前たちの研究だけだ」
「っ!!」

 隼人の眼には、憎しみもあり、そして決意もあり、……何より達成すると言った安堵感も出ていた。

「今度は逃がさない。逃がす訳にはいかない」

 あの世界での剣の代わりに隼人が構えたものはモバイルだった。絶対的な破壊力を秘めた最強武器で、悪魔に斬りかかったのだ。

「ぁぁぁああああ!!!!」

 須郷は、立ち上がれず、まるで幼児の様にその場から、手を伸ばしていた。

 もう、『やめてくれ!』という言葉すら言えない。

 ただ、見えるのは、隼人がOKボタンを入力した時から動いている %のカウンター表示。


 10、15、40、60……と、どんどん伸びていく。

 
 数字が増える度に須郷の身体は震えていく。

 あの研究が自分の全てだと言っていいモノだからだ。例え、この国に居られなくても、外国側からは喉から手が出る程に欲しい代物であり、それさえあれば、神になれると本気で信じていたのだ。

「ああ、あああ、ああああああ!!」

 首を左右に振り、顔面は涙と鼻水で覆われる。

「……終わりだ。……消えろ!!」
「あっ……!」

 隼人がそう言った瞬間……、ゲージは100%まで上がった。

 そして、暫くしての事、だった。突然、着信らしき音が辺に木霊したのだ。


「あ……ぁ………」


 震える手で、ぎこちない動作で、その着信の発生源を探す為に、服をまさぐる。そして、漸く見つけたそれを、手に取り、おもむろに指で通話のタグを叩く。

 そして、まるでスローモーションになっているかの様に、ゆっくりと右耳に当てた。


 更に暫くして……、須郷の手からモバイルがこぼれ落ちた。カタカタカタ、と震える身体。
白くなっていく髪と瞳。失禁したらしく、外気温が低い為ズボンから蒸気の様なモノも見えてきた。

 どうやら、彼にとって最悪の状況になったのだろう。





「前回とは違う。……犯罪の証拠、全ての記録は、もう既に送っている。そこは安心しろよ。……もう、本当に聞こえていないと思うがな」



 隼人は、そんな須郷に侮蔑の表情を見せると、背を向けた。警察への連絡は、もう出来ている。後は、彼等に任せればいい。

 これで、終わった。



『……こんなの……こんなの絶対認めちゃ駄目だから』



 思い返すのは、最後の彼女の一文。

「………」

 隼人は、こくりと頷くと、この場を後にし、和人が向かった方へと足を進めていった。


 これは、《彼女の矛》。


 ……少し、強力過ぎるかもしれないけど、あの時彼女が必死に抗い、正しいことの為に研ぎ続けた刃。それが、10年経った今、漸く……。



 もう、伝えられないだろう彼女に向かって、『やり遂げたよ』と心でつぶやきながら隼人は病院の方へと消えていった。








 そして、その駐車場から少し離れた所で見ていた者がいた。

「……後、数分で来てくれる様ですね」

 隼人の方を、心配そうに見つめていた1人の男が、ほっと胸をなでおろし、時計を見ていた。彼もまた、警察には連絡を入れていたのだ。……隼人と殆ど同じタイミングで。

 
 彼がここに来たのは、虫の知らせ……といっていい程の微かな予感だった。


 降雪で隼人や和人の2人がやや、この場に遅れてついた事は彼にとっては僥倖だと言えるだろう。和人や隼人が早くこの場についていたとしたら、最悪な展開になってもおかしくなかったのだから。それは、嘗て後悔した経験から来るものなのか、ただの偶然なのかは判らない。だが、判る事もある。

 想いを遂げることが出来たと言う事。

「隼人坊ちゃんとサニー……日向(ひなた)お嬢さん、その2人分の強い想いだったから、でしょう。……お前には判らない感情だと思うがな」

 すっと、視線を下へと向けた。そこには、両腕と両足を縛られた男の姿があった。口調も代わり、明らかに怒気を含んでいる。

「あんな想いは私も御面だ。……もう、二度と」

 彼の脳裏には憔悴し切る隼人の顔が頭をよぎっていた。毎日が楽しいと言ってくれて、自分に笑顔を見せてくれていた隼人の顔。家族も同然に接していた隼人の顔。それが絶望で彩られてしまった。

「……もう、大丈夫ですね。……隼人」

 そして、最後にもう一度浮かぶのは今日帰ってきた時の笑顔だった。




 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧