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竜門珠希は『普通』になれない

作者:水音
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第1章:ぼっちな姫は逆ハーレムの女王になる
  倒れるときは前のめりでお願いします

 
前書き
 
 なお顔面強打する可能性……(白目 

 



 ――時は遡り、私立稜陽高校始業式。その最中。

「――であるから、ぜひともこれからの未来を背負って立つ君たち新入生には、この輝かしい歴史を――」

 新入生の眼前、私立稜陽高校の体育館の壇上で、とってもありがた~い祝辞を、まだ夏日でもなんでもない4月の頭からあつ~く語ってくださる、ちょっとばかり頭頂部が厳冬を迎えて側頭部も初雪ならぬ白いモノが混じってしまっている男性。
 熱くなるのは松岡○造だけで十分だっつーの、と胸中で毒づく新入生の一人、竜門珠希はあまりの退屈さに意識を飛ばさないよう必死に耐えていた。

「……もこの稜陽高校、かつては――であり、また……」

 もうかれこれ10分くらい話しているのではないかとも思ったが、ちらと体育館の壁にかかる時計を見ると、実際にはまだ2分も経っていなかった。時計も見るとさらなる眠気に襲われるため、珠希もしっかり確認したわけではないが。


 ――にしてもこの男性、祝辞の段取りに移った際に司会進行役の教師の口から何かの会長だと紹介があった気がする。しかし会長というと得てして事なかれ主義の無能か急進主義的に改革を謳うトラブルメーカーか、業績第一主義の黒い空気の中で神格化された辣腕社長が第一線から退いた後に就任する役職というイメージが珠希の脳内に浮かぶ。
 ではそれは誰のせいなのかと問われると答えに詰まるが、とある国際的球技の某連盟や父娘の確執があった某家具店などなど――意外と枚挙にいとまがなかったりする。

 決してこの世界に存在する「会長」が皆すべてそうあるわけはないのだが、際限なく浮かんでくる自らの言いたいことをまだ年端もいかない若造相手に簡潔かつわかりやすく伝えるという作業は意外と難しい。どんなに学業成績や優秀な経歴で足切りをしたところで、一から十まで話しても一すら理解できない人間が集団には必ず生まれる。それは学力ではなく理解力の差であり、話を聞く側の理解力を補うだけの話術を優れた指導者は持っていたりする。

「……っ、ふぁ……」

 周囲に悟られないよう、小さく吐き出した息に紛れ込ませて欠伸をした珠希は視線だけを動かして他の新入生――同級生たち――を見渡す。
 稜陽高校の今年度の新入生はおよそ250人。珠希と同じデザインの制服を着た男女が普通科6クラスと理数科2クラスに分けられる中、予想通りに男女混合で苗字を50音順に並べられた珠希は見事に普通科1年C組の最後尾を陣取っていた。
 ただし、入学式会場である稜陽高校の講堂の座席数の都合上、なぜか珠希の隣は1年C組の出席番号最後の男子生徒だったりする。もうちょっと考えたら別の対応策あるんじゃね? と心の中で毒づくものの、それを実行するかどうかはTPOに応じてしかるべきなのである。


 あー、これは結構ヤバいかも。

 横目で教師たちの立ち位置を確認しつつ、もう一度小さな欠伸を浮かべる珠希が今戦っている最大の敵は強烈な眠気――ではなく、途中で乱入してきた、少しでも座り方を変えた途端に襲う腰の痛みだった。何やら稜陽高校の歴史についてまで踏み込み始めた陳腐な祝辞の中身など前方数メートル先で既に雲散霧消しており、珠希の耳には届いてすらいなかった。


 本日のこの式をもって女子高生としての生活がスタートするというにもかかわらず、おそらく普段の生活態度が原因であろう腰痛に悩むとは、なんと腑抜けた体たらく――と思うのは早合点。この少女の腰痛は明らかな職業病。仕事中は常に座りっぱなしで、仕事に必要なほとんどの動作は手が届く範囲で済んでしまうことが問題だった。

 だが学生の、それも高校生ができるバイトでそこまで身体を動かさない職種というと交通量調査か家族同然の付き合いにある別家族の子どもの家庭教師くらいだ。それ以外は若さを最大の武器と見込まれての体力勝負的なものが多い。ただしSAN値も無慈悲にガリガリ削られていくものも多いが。

 それらとは対照的に、この少女の「仕事」はアルバイトやバイト感覚などで済まされない責任が伴った本物(ガチ)の「仕事」である。取り返しのつかない過失を犯せばその責任は取らされるし、命こそ奪われはなしなくても謝罪や賠償を含めた社会的制裁も受ける。それだけの重い「契約」が飛び交う世界でもうかれこれ4年を生きて延びてきている。
 その間、交渉の場で交わした契約は両手両足の指でも数え切れず、差分含めて数十万枚以上のイラストを描き、【天河みすず】もしくは【天河みすず】主宰の同人サークル【Pearly Queens】名義で稼いだ金額(経常利益)はたった数年で余裕で一般サラリーマンの生涯獲得賃金を超えていたりする。オタク産業さまさまである。

 とはいえ、当初は珠希も軽い気持ちで――臨時のお小遣い稼ぎと父親の仕事の手伝い気分で始めたグラフィック作業の腕前を見込まれ、ergブランド【CalmWind】にサポートグラフィッカーとして名前――もちろん源氏名――を貸すことになったのは中学1年生の頃の話。その後、呑み込みの早さと先方の要求しているレベルの作品(モノ)をほぼ確実に捉えてくるセンスの良さをもってUIやロゴのデザイン原案、背景・背景彩色の作業にも参加し、スクリプトの補助までしながら、元からあったイラストレーターの素質を開花させて原画を描くようになったのは中学2年になる手前だ。
 そしてメイン原画として制作参加した『Stardust Memories -星降る街の、あの丘で-』は体験版の時点からキャラデザとグラフィック面での高評価を得た末、ブランド唯一にして驚異の累計販売本数4万本超えを果たしている。

 そんな驚異的な売り上げ数でメイン原画デビュー(注:けどerg)を果たした当時中学2年生だった少女は国内最大手のコンシューマ向けゲームメーカー【エリュシオンソフトウエア】から新作のキャラデザとイベント原画の依頼を受諾し、若さによる浅慮ゆえの地獄を見つつもちゃんと結果を出した。その結果、『Symphonic Chronicle』こと『シンクロ』は全世界における累計販売本数でトップ10に入る売り上げを叩き出し、その作品のキャラデザと原画という大役を務めきったこの少女の元には新たな仕事の依頼が次々と舞い込んできており、新規の依頼に丁寧なお断りと謝罪のメールを返す回数も増えている。

 昨夜も昨夜でこのイラストレーターの少女は主に20代から30代をメイン購読層に絞った中堅出版社から毎月刊行される成人男性向け雑誌の表紙イラストを描き、それとは別の大手出版社の傘下レーベルから発刊される10代に人気のWeb発ノベルの挿絵と表紙も描いていた。その彩色まで済ませたの時点で午前3時を過ぎていたのだが、この絶賛売出し中の原画家はそこで寝るかと思いきや【CalmWind】の新規プロジェクトの概要に目を通し始めた。


「――ということで、これから君たち新入生には……」

 未だ続く祝辞を聞く耳を塞ぎつつ、椅子に座った体勢から背筋を伸ばすと腰が悲鳴を上げ、猫背になると即座に睡魔がまとわりついてくる状況下、まともに働こうとしない頭を動かそうとする珠希だったが、結局のところ、強烈な眠気も急な腰痛も自身の身体が出す危険信号を無視して突っ走った自分の自己管理能力の無さが原因である。

 しかも世知辛い話、原画家・イラストレーターの界隈ではもうサクセスストーリーの階段を三段飛ばしで頂点付近まで駆け上っていった珠希はもうやる気(・・・)だけを見せて納得してもらえる立場にない。結果を出せば出すほどハードルは高くなり、首に回された縄は閉まっていく。その対価として得られる報酬は目に見えて増えていて、実力と成果は確かな足跡として残るものの、この流行廃りの移ろい変わりやすい世界、明日はどうなっていることやら――。

 とはいえ、これから先の未来、仮に原画家・イラストレーターとして食べられなくなっても、珠希が今まで実際のゲーム制作の現場で経験してきた中身は下手な新卒希望者よりよっぽど即戦力になってくれる。ある意味、潰しは利かないが。


 ……ん?

 そんな中、ふと視界の端に違和感を覚え、珠希は自分のすぐ左隣に振り向くと――。

「……ぅえ?」

 左隣に座っていた男子生徒の様子が明らかにおかしかった。
 大きく舟を漕ぐように頭が揺れ動いているのだが、表情が睡眠時のそれではなく、何かをこらえているようだった。しかも顔色がどこか悪いように見える。

「……ねえ。ちょっと、大丈夫?」

 目立たないようゆっくり身体を傾け、珠希はすこぶる体調が悪そうな男子生徒に声をかけてみる。

 面倒なのは嫌いな反面、世話好き――見事なまでの生まれつき長女体質のおかげで珠希は初対面の他人の前では猫を被り、尻拭いや泥被りもよほどの不都合がない限りは文句を言いつつもこなしてきた。自己の主張や体調よりも周囲や組織が円滑に動くことが珠希の中では常に最優先事項なのだ。
 その挙句の果てが自分含めた五人家族の炊事・洗濯・掃除と、母親の仕事場となっている離れや土蔵を持つ広大な敷地の家事すべてを一手に引き受けている現在なのだが。


「……ぅ、ん。なん、とか……」

 囁き声よりも小さいレベルの珠希の声が聞こえたのか、口元を軽く隠しながらその男子生徒は台詞だけ気丈な答えを返してきた。
 とはいえ、こういう返事が来た場合、ほとんど大丈夫ではない。
 ゲームやアニメの中だけではなく、現実的に見ても。


 珠希も今までの人生十数年の経験と知識から何となくそれを感じてきていたものの、ハンカチでも貸しておいて様子を見るべきか、それとも先手を打って近くに立っている先生を呼ぶべきかを迷っていた。
 なお、ここで悩むのは決して長女体質ではなく、ただ単に珠希が目立ったり注目されたりするのが苦手なのが原因である。

 その一方、もういい加減にしろと思い始めてきた祝辞に周囲の誰もが注意を奪われているのか、珠希の隣に座る男子生徒の異常に気付いているような素振りはなかった。


 そして――。

「――っ。ぁ……、め……」

 小さく男子生徒が何かを呟いたかと思うと、ついにその身体の動きが一段と大きくブレた。

「え? ちょっ……」

 お偉いさんの祝辞という催眠電波が断続的に放射されている壇上から思わず視線を外し、珠希が顔を向けてしまった先、なぜかその男子生徒の身体は前や後ろではなく、男子生徒から見て右隣――ちょうど珠希のほうに倒れ掛かってきた。

「ちょ、待っ……」

 あ、これってやっぱり貧血? 今さらながらに男子生徒の様子からそんな症状を予想した珠希だったが、時既に遅し――。


「…………あの、えっと、これは……、ですね――」


 こちらに向かって倒れてきた物体(=見ず知らずの男子生徒)を珠希が反射的に受け止めようとするのは仕方のないことであり、しっかり受け止めようとしたがために思わず席から立ち上がるのも、講堂内の座席が映画館にあるような備え付けの椅子だったために腰を下ろす場所が反動で元に戻り、静粛な式場に不似合いな音を立ててしまったのも仕方のないことである。

 だが、もう一度確認しておくと――竜門珠希。長女体質にして基本的に自己評価が低く小心者な彼女は目立つことと注目を浴びることが大の苦手である。そして今、なんであたしのほうに倒れてくんの? という脳内ツッコミが一切なされなかった珠希は、入学式の場にいた全員の視線を一手に浴びていた。


「……す、すみません……」

 本当は珠希のほうが謝られてもいいはずのこの状況下、開口一番、珠希のほうから謝罪の文句が出たのはこの小心者少女が日本人だからというべきなのかどうか。


 始業式の最中、お偉い人の祝辞を中断させた挙句、倒れてきた初対面の男子生徒を真正面から受け止めたものの、その体勢は周囲に誤解与えまくりのどこからどう見ても男女の抱擁シーンという、とんでもない状況に陥った小心者長女体質の珠希だったが、これでも(主に仕事における)修羅場という(締切や納期を前にしての)修羅場を潜り抜けてきている。
 むしろ簡単に精神的に追い詰められるくせに、逆境になればなるほど頭が冴え、ピンチをチャンスにどころか、そこから新たなスキルまでゲットしてしまうような娘である。バスケで喩えるなら逆転3P(スリー)をブザービーターで決め、野球なら3点ビハインドで9回裏2アウト満塁のフルカウントからバックスクリーンに特大ホームランを叩き込み、サッカーならまるで2005年のイスタンブールのような出来事を一人でやってのけてしまうくらいに――要は美味しいところを全部掻っ攫っていく英雄(ヒーロー)体質でもある。


 すると、そんな小心者ヒーロー少女の耳が異変を察知した。

「――っ、は。……ぁっ。……っ。っふ……」

 耳に届く男子の深い呼吸。その間隔は短く、少しずつ吐き出す力が強くなっている気がする。

 あ、これってまさか貧血に加えての過呼吸かな、これは。


 途轍もなく注目を浴びているのは肌に突き刺すような視線でわかっている。目立つのは嫌いだっていうのに、妹の愛され体質とは違う意味でなぜか周囲から放っておかれないし、普通に行動しているつもりでもなぜか目立ってしまってきた。
 異変に気付いた教師たちも数人、こちらに向かってくるのが視界の端に見えたが、珠希が今、最重要課題に挙げたのは目の前……というかほぼ(・・)珠希の胸の中で貧血に過呼吸のコンボを食らっている男子生徒の容体を安定させることだった。

 今までの学校で習った授業や、家族の舌を唸らせてきた料理のレシピ、はたまたその下拵え、さらには仕事の上で教わった技術や世間の容赦の無さ、主宰する同人サークルの運営やら著作権やら青少年保護条例の覚えておくべき事項の中身が詰め込まれ、果てには好きなergヒロインの誕生日や3サイズに至るまで――15歳少女の脳内としてどうかと思うものも含まれる膨大な知識の中から、救急知識を引っ張り出した珠希は、過呼吸の応急処置で紙袋を口に当てる方法があることを見つける。
 なお、男子生徒の呼吸の異変に気付いてからこの間わずか2秒ほど。しかし呼吸は荒さを増していた。

 しかし、珠希が見つけた応急処置は血中の炭酸ガス濃度が元に戻るより前に酸欠による窒息死に至る可能性があった。よって珠希は倒れてきた男子生徒を真正面から抱きかかえた状態のまま、背中に手を回してさすってやることで呼吸のリズムを取り戻させようと試みた。

「どうした? 何があった?」
「あ、えっとですね……」

 肩幅のある、いかにも生徒指導もやってます的な体育教師という体格の男性教師に尋ねられ、珠希は思わず萎縮してしまい、言葉が出ない。そんな中、珠希をかばうように白衣を着た女性教師が男性教師と珠希の間に割り込んできた。

「ちょっと、これどうしたの?」
「あのですね、この男子、気分悪いみたいで……」
「あ、そう。よくある貧血かしら」

 貧血がよくあることなのか――と思う、クリエイター特有の超不健康な生活を送りながら風邪かインフルエンザくらいしか病気を知らない超健康優良児な少女の前に姿を見せたのは、白衣を着た痩身美人。痩身麗人(・・)と表現できない理由は、白衣の下の着衣や髪型が若干ラフに感じたとか――。
 しかし明らかに保健室の先生といった風体の女性教諭は、呼吸がだいぶ落ち着いてきた男子を介抱し続けている珠希から事情を聞きながらも、眉一つ動かさずに状況を見ていく。

「で、今そのコはどんな感じ?」
「あっ、過呼吸っぽいんで、動かすのはちょっと――」
「あらまぁ。それじゃ様子が落ち着いたら保健室で休ませましょうか」
「できればそうしてほしいです」

 傍目からすれば抱擁シーンにも動じず、患者を無理に動かさないのを大前提に様子を伺ってきてくれたこの養護教諭には大変助かった。ここでモンペアよろしくヒスでも起こされて過呼吸の患者を落ち着かせられなければ余計に状況は悪化してしまう。別にこの男子生徒の体調管理は珠希の責任でないにしろ、始業式からこれでは後味が悪すぎる。
 この会話の間も、珠希は男子生徒の背中を軽く叩きながら呼吸のリズムを取り戻させていたが。

「随分手慣れてるのね、アナタ」
「まあ、弟や妹相手に応急処置はやってきてたんで」
「へぇ。随分と弟妹(きょうだい)想いのお姉さんね」

 緊張した空気を和ませるつもりなのか、女性教師の言葉に珠希自身、男子生徒が倒れてきてからフル回転していた頭が冷えていくのを感じていた。

「それじゃ、保健室にはワタシが連れてくから」
「あ、はい。お願いしま……あれ?」

 珠希の解放の甲斐もあって男子生徒の呼吸が落ち着くと、ずっと膝立ちで状況を見守っていた女性教師は珠希から男子生徒の身柄を預かろうとする――が、その行為はなぜか珠希のほうからストップしてしまった。

「どうしたの?」
「え? ちょっと、何か、引っかかって……」

 何やら背中に感じる軽い突っ張った違和感に、珠希は首だけを動かして確認しようとするが、当然ながら歯科には何も捉えられなかった。すると、代わりに珠希の背中を見てくれた白衣の痩身美人は残念そうに呟く。

「あー、これはがっしり掴まれちゃってるわ」
「え? がっしり? 何がですか?」
「この男子生徒の手があなたの制服の背中を掴んじゃってるワケ。しかも、凄い力で、離れない、しっ!」
「え? ええっ!?」

 無意識に珠希の制服を握り締めている男子生徒の手を離そうとしてくれているのか、背中のほうから女性教師の声がしたが、男子生徒の握る力のほうが強いらしい。

「…………っあー、これ死後硬直より面倒だわ(ボソッ」

 ええ? この状況どうするんですか? と心中でボヤく珠希に対し、女性教師はとんでもない発言を口にしてみせた。少なくとも、意識が戻ってきていない生徒を前に教師が、それも養護教諭が吐いていい台詞ではないのは確かだ。

「ちょ、勝手に殺さないで下さいよ。まだ呼吸ありますよ?」
「いや、けどこの手はなかなか固く握ってるし」
「喩えがブッ飛んでんですけど?」
「けど実際はそうなんだって」

 実際は――とか言われても、あたしは死体触ったことないし! 生で「頭を強く打った」人を見たことはあるけど、内臓の臭さとか嗅いだこともあるけど、あれもこれもしばらく流動食でいいくらい食欲が失せる。
 鮮烈な赤の中に点々と白が紛れ、そこから覗くのは時折痙攣したように動くピンクの――(以下、本作品のレーティングに関わるので削除)。

 するとそこへ、いつの間に来たのか、白が混じった口ひげを蓄えたスーツを着た細身の男性が軽い咳払いをして注意を惹きつけた。

「ゴホンッ。少しよろしいですか?」
「え? あ、はい。何でしょう教頭先生?」
「すみませんが、これ以上時間がかかるようであれば、いっそのこと二人とも、保健室で落ち着いてから対処していただけますかな?」
「え? あ、ああそうですね」
「申し訳ありませんが、まだ入学式の最中なので」

 ……わ、忘れてたぁぁぁあああぁぁっっっ!!

 男子生徒の介抱ですっかり忘れていた珠希だったが、教頭先生と呼ばれたベージュのスーツ姿の男性と養護教諭の女性教師の会話で思い出した。現在地は稜陽高校の講堂、状況は入学式の途中であることを。しかも視界の端に捉えた壇上で祝辞を述べていたお偉い(と思われる)男性は文句こそ言わないにしろ、明らかに時間を持て余しているようだった。


「そこの女子生徒も、申し訳ありませんが」

 そこの女子生徒……って、あたしですか? そうなんですかそうですよね。

 若干ではあるものの、申し訳なさそうな教頭先生の声色に、珠希としてもこれ以上クレーム気味な言い訳をできる状況にないと把握できた。

「仕方ないわ。行きましょうか」
「は、はい……」

 確かに祝辞はもうまともに聞いていなかったんですけど、それは祝辞だけのつもりだったんですよ。在校生代表からの言葉とかは聞いておくつもりだったんですよぅ……。

 そんな用意していた言い訳をすべて心中で吐き出して消化しながら、珠希はまだ意識の戻らない男子生徒に制服の上着(ブレザー)の背中部分を捕まれたまま左肩を貸すという奇妙な体勢で、養護教諭の女性と一緒に男子生徒を担いで講堂から「ご退場」となってしまった。


  ☆  ☆  ☆


「……うん。どこをどう見ても貧血ね」
「あ、やっぱりですか」

 白衣を着た養護教諭の一言に、珠希は落胆気味に返した。

「にしても、アナタも災難ねぇ」
「いえ。別に」

 ベッドで横になっている男子生徒を珠希の視線から隠すようにカーテンを引き、養護教諭は同情の眼差しを珠希に向けながら自分が普段使っている椅子に腰かける。

 高校生活初日どころかまだ入学式も終わっていないというのに、なぜ珠希が見ず知らずの同級生の付き添いでこうして保健室にまで赴かなきゃいけなくなったのか。
 その理由は貧血でブッ倒れてきた男子生徒が過呼吸まで起こしてしまい、その手が珠希の制服のブレザーを掴んで離さなかったことにある。

「でもアナタ――そういえば、名前聞いてなかったわね」
「竜門珠希です」
「竜門さん、か。珍しい苗字ね」
「よく言われます」
「一度聞いたら忘れられないわね」

 ネット上の苗字検索サイトによれば、どうやら竜門姓は近江、大和にそのルーツがあるらしいが、珠希の三代前まで遡っても先祖はバリバリ関東圏住まいだった。この事実はいかがなものだろうか。
 しかも苗字の発音(ひびき)のせいなのか、使われている文字のせいなのか、初対面の人からはどこか由緒のある家系の出なのかと身構えられてしまうことが多い。その実、珠希の家庭は由緒もへったくれもない両親共働きの一般家庭である。ただ少しばかり周辺の一軒家よりも敷地も家屋面積も大きいだけだ。
 ただひとつ、珍しいといえるのはその家族構成。両親が見事なまでのアダルト産業側のクリエイターであり、その子供たちも声優マニア、野球バカ、(コスプ)レイヤーと多岐に渡る『普通じゃない』曲者揃いな点だ。何より珠希自身が最も世間的に名の知れたイラストレーター【天河みすず】の正体である点を除けば。


「けど竜門さん。アナタよく過呼吸の対処できたわね」
「運よくうまくいっただけです」

 実はとあるergでも主人公が病弱ヒロイン相手にやっていたからだなんて言えない。口が裂けても股が裂けても。……実際、そのゲーム内での数ヶ月後にその病弱ヒロインは主人公に××で××の××を裂かれて血が流れていたわけだが。

「それで、あたしもう式に戻っていいですか?」
「別にいいけど、そうねえ……今さら戻ったところで入学式終わるわよ」
「……はい?」

 壁に掛けられている時計を見ながら養護教諭のおねーさん先生が返した言葉に、珠希も思わず同じ時計に目をやるが、何度見ても時計の針は事前に聞かされていた入学式の終了予定時刻に迫ろうとしていた。

「……マジで?」

 まさか自分不在のまま入学式をスルーする羽目になるところまでは予想できていなかった珠希は思わず本音を口から漏らす。
 だが対照的に、言動の端々からどこか不真面目そうな臭いがする養護教諭は、これが大人の諦め方だとばかりに入学式から早々に悪目立ちしてしまった『これからの未来を背負って立つ』らしい新入生少女をあしらうように軽く言ってのけた。

「ほんっと、人助けって割に合わないわよねぇ」

 そうですね……って、それは養護教諭(あなた)の吐いていい台詞じゃなくね?
 今までの会話の流れで思わず賛同の相槌を打とうとした珠希は一転して心の中でツッコミを入れる。あくまで心の中で。


「入学式早々大変な目に遭っちゃったけど、まぁ適当に頑張りなさい」
「は、はぁ……」

 珠希の心中でのツッコミなどつゆ知らず。椅子の背もたれに寄りかかり、白衣の胸ポケットに挿していたペンを暇そうに回し始めたおねーさん先生はそう言うものの、適当とか肩の力を抜くとかが苦手なこの長女はそう言われたところでその方法を知らないからどうしようもない。

「そんじゃもうアナタは教室戻っちゃいなさい。このコはアタシが面倒見といたげるから」
「いや、なんですかその子供預かった近所のお母さん的な発言?」
「面白い喩え方すんのねアナタ。えっと……竜門さん、だっけ」
「一度聞いたら忘れない苗字なんじゃないんですか?」
「ん~、そうだっけ?」

 厄介者を追い出すかのように手の甲を振る養護教諭の発言に納得できない珠希はその点に追及を始めるが、この養護教諭が返したのは先の自分の発言内容すら全否定する反応だった。

「とりあえず、いい加減に教室戻りなさい」

 マジかよこの養護教諭(B○A)。誤魔化して押し切るつもりとか。

 喉仏のあたりまで吐き出しかけた禁断のフレーズをぐっと飲み込み、年齢不詳――おそらく20代後半から30代前半――のおねーさん先生の指示に素直に従い、保健室を後にした。


 そうして教室に戻った先から、珠希は入学式の最中に「抱擁としか見られなかった介抱」をやってのけた人物として視線の集中砲火を浴びる羽目になってしまったわけだが。



 
 

 
後書き
 
 ……なお作者の知る範囲に竜門姓の人はいない。 
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