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藤崎京之介怪異譚

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case.2 山中にて
  I 8.21.pm4:29


 俺は今、学生時代の友人の誘いで、新潟の山の中へと来ていた。
 山の中だから、無論音楽の仕事ではなく、単に羽を伸ばしに来ただけだ。
 ここは昭和五十七年に廃村になった場所なんだが、当時の住人が畑仕事などをするために、幾つかの山小屋が建てられており、電気も未だ通っている。
 水は地下水を汲み上げており、カルキに慣れた俺には高級な天然水を飲んでいるようで、これだけでも来る価値はあったというものだ。

 さて、今回は旧友三人での集まりだ。
 一人は山小屋を世話してくれた小林和巳。彼は音大でトラヴェルソとブロックフレーテ…バロック・フルートとリコーダーと言った方がいいか…を専攻していた。ま、かなりの変わり者ではあるがな。
 もう一人は鈴木雄一郎。こいつも同じ大学で、専攻はバロック・ヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバ。普通この組み合わせではやらないのだが…。
 まぁいい。こんな面子だが、かなり面白いやつらだ。音楽の腕やセンスもあったから、何となく合わせるのが楽しみだった。
 いやいや、こんなことしてる場合じゃなかった…。
「おい、京っ!自分の荷物ばっか見てないで、食材運んでくれよ!」
 ほら、お呼びが掛かった。今のは鈴木だ。
「分かった分かった、今行くから…!」
 俺は直ぐに外へ出て、目の前に置いてあるクーラーボックスや酒類なんかを中へと運んだ。
 外は日が傾いてきてはいたが、まだ随分と明るく、それに蒸し暑かった。だが、近くには小川が流れており、その音は何とも言えない心地よさがあって、都会の雑音になれた私の耳には最良の薬になった。
 まぁ…藪蚊はブンブン飛んではいるがな…。蚊取り線香無しではやってられない。
「そう言えば、和巳のやつはまだか?花火と蚊取り線香買ってくるって出て行ったはいいけど…。」
「いつものことだろ?もうちっとしたら帰ってくるって。」
 鈴木はそう言いながら、中に設置されている七輪に炭をおこしている。
 どうやらここは昔の台所のようで、竃のあとにこの七輪を設置したようだ。
炭火は火力があるため、結構な料理が作れる。っていっても、作るのは俺だけなんだがな…。
 粗方支度もすんで、俺が料理を始めた頃に、やっと小林が帰ってきた。
「お前なぁ、ちっと遅すぎだぞ?」
 鈴木が外で噛みついているようだ。
「悪い悪い、ちょっと家に寄ってたんだ。」
 そう言いながら、小林が中へと入ってきた。
 手には買い物袋と、年季の入ったヴァイオリン・ケースがある。
「やっぱり持ってきたのか。」
 それを見て俺が苦笑いして言うと、小林も苦笑いしながら言い返してきた。
「どうせお前も持ってきてるんだろ?」
 そりゃ当然持ってきましたよ?この三人で集まって、音楽抜きには出来ないからなぁ。
「ああ、今回はリュートだがな。」
「おいっ!この蒸し暑い中、車なんかに放置して大丈夫なんかよ!?」
 小林は目を丸くして言ってきた。
 通常、リュートなどのバロック楽器は、温度と湿度を一定に保てる保管ケースにしまっておく。材質が日本の気候に適さないためだ。下手に放置しようものなら、弦が切れるどころか本体まで歪んだり裂けたりする。それだけデリケートなのだ。
「安心しろ。専用ケースに入れてあるから…。」
 だが高い。涙が出るほど高いものだが、出張演奏にも必要だから買っておいて損はないのだ。
 今は三人、それぞれの道を歩んでいるが、大学時代にはこのメンバーで室内楽演奏会を催していた。
 無論、その時の俺はチェンバロだったがな。
 だがメンバーがメンバーだけに、曲目は限られてはいたが…。
 実はもう一人、河内孝道という親友がいたのだが、大学二年になった年に事故で亡くなってしまったのだ。この河内が通奏低音を担い、チェロとコントラバスを演奏していた時期があった。
 生きていたら、きっと優れた演奏家になっていたと思う…。

 日が山蔭に沈んでゆき、昼間の空気を追いやるかのように、涼しい風が辺りに吹き始めた。
 そんな夕暮れの中に、数匹の蜩が物悲しげに鳴いている。
「炭は足りてるか?」
 俺が料理をせっせか作っていると、不意に小林が尋ねてきた。
「充分足りてる。あ、そこのやつ出来てるから、先持ってってくれよ。」
「あいよっ!」
 こういう時の返事は実に宜しい。ふと見ると、鈴木のヤツはどこかに散歩にでも出てるようで、室内に彼の姿はなかった。
 ま、そういうヤツだ。飯時にはしっかりと帰ってくるから問題はない。但し、洗い物は全て遣らせるがな。
 暫くして料理も出来上がり、後は食べながらのんびりと過ごすだけとなった。
 それを嗅ぎ付けてか、出掛けていた鈴木がフラリと戻ってきた。鼻歌なんぞ歌いながら、なんだか上機嫌だ。
「腹減った。」
 第一声がそれか?一体どこの坊やだっての!
 俺と小林は顔を見合せ、何にも変わらない鈴木を笑ってしまった。
 だが、鈴木はそれを気にすることもなく、ずかずかと中に入って行ったのだった。
「全く、ほんと変わらんよなぁ…。」
 小林はそうため息混じり言うと、俺と一緒に彼の後に続いて行ったのだった。






  春も遠きと

    思いける

 われ黄昏て

    世を眺むなれ



 これは黄昏時から夜にかけ、橙から藍へと変化する空を見上げて詠んだもの。
 好きな人と同じ空ではない…そう思うと、無性に寂しくなってしまいます。暖かいにも関わらず、心は凍てついたまま…。 
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