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静かな気持ち

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第四章


第四章

「我が国のケーキの感じではないな」
「おわかりですか」
「かといってフランス風でもない」
 彼はフランスは好きではない。むしろ嫌いだ。祖国とフランスのライバル関係をよく知っているからだ。フランス風の食べ物は口にしない程である。
「何処のケーキを真似たんだ、これは」
「日本のケーキをです」
「日本のか」
「はい、最近ロンドンにかなり味のいいケーキ屋が流行っていまして」
「それが日本人の店なのだな」
 銀のフォークを手にしながら問う。
「左様です。日本風の上品な味付けで人気です」
「日本人の舌は繊細だったな」
 彼はイアンにまた問うた。
「確か」
「そうですね。素材を大事にするとは言われています」
「ふん」
「ケーキもまた」
「ではこのケーキは素材を大事にしたのだな」
「左様でございます」
 イアンはまた答えた。
「シェフ会心のケーキだそうです。ではどうぞ」
「わかった」
 フォークで少し切りそれを刺して口の中に入れる。するとソフトで大人しめの甘みが口の中を支配した。しかしそれは決して弱くはなくむしろスポンジとクリーム、そして苺が程よい感じで調和していた。香りもよくそれもまた彼を刺激してきたのであった。絶妙の味であった。
「如何ですか」
「いいな」
 彼は答えた。
「それもかなり」
「左様ですか」
「うん。甘過ぎない」
 それがまず気に入った。
「自己主張が激しくない。しかしそれでいてはっきりした味だ」
「ほう」
「しかも全体の調和が取れている。これは」
「宜しいのですね」
「宜しいどころじゃない」
 こうまで評価する。
「こんな美味いケーキははじめてだ。流石は日本といったところか」
 かなりの評価であった。なお彼は嘘は言わない。それを誇りとしている程である。
「ここまでの味を出すとは」
「ロンドンもここまでの食べ物が出るようになったということでしょうね」
「そうだな」
 イギリス人の料理への造詣の浅さは世界的に有名である。誇れるものを多く持っているイギリス人であるがある意味最も誇ってるものがこの味なのであった。素材を活かさずフランス人に言わせれば逆の意味で最高のシェフと言われる彼等にしてみれば日本の今の味は夢のようであったのだ。
「調和か」
「はい」
「これはいい。そうだ」
 思いついた。そしてイアンにも言う。
「使用人達にも言ってくれ、このケーキはどんどん食べるようにとな」
「ですが若様」
「何だ?」
「これはケーキでございます」
 イアンはこう述べる。
「ケーキなのであまり食べると」
「そうだったな」
 太る、糖尿病になる。甘いものは罠もあるのだ。
「これはかなり砂糖の甘みは抑えていますが」
「そうだな。クリームや果物の甘みだ」
「ええ」
「素材を生かす、か。日本人のこの繊細さは噂通りだな」
「左右に繊細さとは全く無縁の大きな国がありますが」
「連中のことは言うな」
 アメリカと中国のことだ。彼等はこの二国を無神経で横暴な国だと思っている。もっとも彼等にしてみればイギリスは悪徳の国であるのだが。五十歩百歩である。
「連中には繊細さという言葉はない」
「確かに」
「それよりもこのケーキだ」
 またケーキに話を移した。
「これだけの味を楽しめるとはな。思ってもいなかった」
「シェフも苦労したそうです」
「そうだろうな」
 その言葉に頷く。
「素材を生かすだけでなく全体の調和も」
「見事なのですか。私も食べてみたくなりました」
「後でそうするといい。紅茶ともよく合う」
 言いながら今度は紅茶を飲んだ。口が紅茶の濃厚な香りに覆われる。それを味わいながら満足した表情を浮かべるのであった。彼は今確かに満足していた。
「それでだ」
 彼は言う。
「この調和だが」
「はい」
 話はそちらに移っていた。イアンもそれに応える。
「今まで考えたことがなかった。料理に関してはな」
「そうなのですか?」
「ここまではな。少し考えられなかった」
 そう言い換える。流石に全く考えてこなかったというわけではないのだ。幾ら彼がイギリス人でもそこまで味に無頓着ではなかったのだ。人並以上に舌は肥えていたからである。
「調和か」
 彼はまた呟く。
「大事だな、それは」
「確かに」
 イアンもそれに頷く。
「それでだ。このケーキにしろ」
 言いながら自分の言葉も確かめていく。ここでふと気付いた。
「あっ」
「!?どうされました?」
「調和だ」
 彼はまた言った。イアンの言葉はこの時は耳には入らなかった。
「調和だ、いいな」
「え、ええ」
 彼が急にそれを大きく言い出したのでイアンは戸惑いを感じていた。
「それだ。今までなかったのは」
「ですからそれは」
「ケーキだけじゃないんだ」
 彼はそう言い出す。
「ケーキだけが調和じゃない。それはわかるな」
「勿論です」
 何を言っているのかと思ったがそれは口には出さない。主にそのまま答えた。
「今まで私が足りなかったのはそれだったのだ」
「あの、何についてでしょうか」
「決まっているじゃないか」
 イアンに対して言う。
「ナンシーに対してだ」
「ナンシー様に」
「そうだ、思えば私はあまりそれについて考えたことがなかった」
 実は彼とナンシーの出会いはかなり突拍子もないものなのだ。一年前レストランに入った彼がアルバイトでウェイトレスをしていた彼女に一目惚れしたからだ。
 これがはじまりであった。まだ婚約者が決まっていないのをいいことに両親を必死に連日連夜口説き落としあげくには親友の父親である国教会の司祭や財界の有力者、知識人の声まで借りてようやく両親を説得したのだ。両親は最初彼を何処かの名門貴族の家に婿入りさせるつもりだった。しかしナンシーに惚れ込んだ彼にそんな気持ちはなかった。そして両親を口説き落としたのである。
 次に彼はまたしても連日連夜あらゆることをして調べ上げたナンシーの家に行って彼女と彼女の両親を口説き落とした。そうして遂に彼女と婚約したのである。あまりにも一途な執念であり皆その彼に対して呆れながらも称讃の声を送った程であったのだ。
 そんな彼だから実はナンシーに尽くしているつもりだったのだ。彼女の為の騎士だと実にイギリス貴族らしいことを考えていたりもした。この際彼女の気持ちは考えていなかった。実はナンシーにしろこの時たまたま誰も彼氏がいなくて何となく寂しい想いをしていたのだ。するとそこにジョゼフがやって来て何時の間にか婚約者になっていたというわけだったのだ。実際のところジョゼフばかりがお熱の恋愛であると言ってもよかった。
 彼は彼女を好きだが周りは見えていなかった。彼女の姿だけを見ていた。他のことには気付きもしなかったのである。しかし今それが変わったのであった。
「それだったのだ。私は馬鹿だった」
「それで若様」
 イアンは彼に問う。

 
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