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静かな気持ち

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第五章


第五章

「どうされるのですか、これからは」
「明日だ」
 彼は言う。
「明日ですか」
「そうだ、明日だ。またナンシーを迎えに行く」
「今度は何で」
「いや」
 しかしここで意外な返事になった。彼は首を横に振ってきたのだ。
「どうかされたのですか?」
「一人で行く」
 彼は言った。
「お一人でですか」
「そうだ、それでいいな」
「はい」
 イアンはその言葉に頷く。
「それでしたら」
「思えば私は愚かだった」
 椅子の背もたれの上に倒れ込みながらこう述べてきた。
「今まで周りに目を配って来なかったのだからな。迂闊だった」
「はあ」
「迷惑だったかな、やはり」
 ふと呟いた。
「彼女にとっては」
「若様」
 イアンはそんな彼に対して声をかけてきた。
「何だ?」
「それに気付かれただけでも大きいのですよ」
「そうなのか」
「はい。人はえてして視野の狭い生き物です」
 彼はこう言う。
「ですから」
「ふむ、わかった」
 ジョゼフはまずは頷いた。それからまた述べる。
「それではだ。明日は」
「御一人でですね」
「そのつもりだ。しかし」
「しかし?」
「私はやっぱり目立つかな」
 視野が少し広くなるとそれが見えてきた。彼は照れ臭そうな顔で苦笑いを見せてきたのであった。
「やはり」
「そうですね、それは事実かと」
 イアンもそれに頷いてきた。
「若様は外見的にかなり目立つ方です」
「それはいい意味なのか?」
「いい意味でもありますし悪い意味でもあります」
 言葉に二面性を持たせていた。そこが重要であった。イアンもそれがわかっていたからあえてそういう言葉を選んだのである。彼も考えていた。
「ですがそれをよくするのも悪くするのも」
「私次第だというのだな」
「その通りです。では明日は」
「うん、いつもの時間に行くが」
「することはいつもとは違うと」
「そうだな。そうしよう」
 彼はまた述べた。
「それが彼女の喜ぶことならな」
「しかし若様」
 イアンはここで言葉の調子を変えてきた。
「どうした?」
「どうにもナンシー様のことばかり考えておられるようですね」
「否定はしない」
 自分でもそれを認めてきた。
「ここまで人を好きになったのははじめてだしな」
「そうなのですか」
「何と言えばいいのかな」
 彼は言葉を選びながら述べる。
「彼女は特別だ。あのレストランで出会った時から」
「左様ですか」
「そうだ。今まで好きな人はいた」
 彼は言う。昔を振り返る目で述べるのであった。
「しかし彼女は特別だ。本当にな」
「ではその特別の人の為に」
「そうしたい。それだけだ」
「わかりました。では若様に神の御加護がありますように」
「それもな。今は不思議に思えるんだ」
 彼は神についても言及してきた。
「今まで私は教会に行くだけだった。それだけだった」
「それだけでも充分だと思いますが」
 信仰心のない人間もまた多い。それが哲学である場合もある。無神論者というやつである。彼はそこまではいかなかったがかといっても信仰心のある男でもなかった。だが今それも揺らいできていたのである。全てはナンシーへの想いからであった。それが何もかもを変えていたのである。
「それでもな」
 ジョゼフは言う。
「今は思う。彼女と同じ神を信じたい」
「ナンシー様は国教会でしたね」
「ああ、幸いなことにな」
 実はイギリスの宗教問題というのはかなり奥が深い。カトリックとプロテスタントの問題であるがこれは古くテューダー朝からの問題だ。あの好色で浪費家で知られるヘンリー八世が自身の離婚問題からローマ=カトリック教会と問題を起こしてそれで国教会を設立してからメアリー一世、エリザベス一世の頃も続いた。カトリックのメアリー一世はプロテスタントを弾圧しその有様は夫であったスペイン太子フェリペ二世も顔を顰める程であった。彼はカトリックの擁護者ハプスブルク家の者でありカトリックの牙城スペインの主であったがあくまで政治家であり過度な弾圧は好まなかった。実際にはスペインは極端な弾圧を好まずむしろドイツの同胞、神聖ローマ帝国の方が酸鼻を極めたとされている。もっとも全体的に欧州の異端審問や拷問は日本人から見れば理解の範疇を超えたものであるのだが。日本人が厳密な取調べと捜査の後判断を下し然る場合にのみ処刑するのに対して当時の欧州は違っていたのだ。宗教的ヒステリーに長い間苛まれていたのである。
 その宗教的ヒステリーがイギリスも覆っていたのだ。多くの血が流れ政争の道具となった。清教徒革命の後もカトリックに対して慣用的な王とそうでない議会の間で対立もあった。それからもアイルランドやスコットランドを中心として長い間対立の要因となっている。今でもそれが残りアイルランド問題の根幹の一つになっているのである。ジョゼフは今それを言っているのである。
「これが神の御加護か」
「カトリックならどうされていました?」
「構うものか」
 しかしそれで諦める彼でもないのだ。
「その場合でも同じだ。私はナンシーと同じ神を信じる」
「ナンシー様を国教会にですか」
「そうしただろうな、今までなら」
 自分でもそれを認める。
「しかし今は。わからない」
 考える目で述べた。
「私がカトリックになっていたかも知れない」
「流石にそれで勘当はされないでしょうが」
「それでも揉めたな」
「おそらくは」
 これは容易に想像ができた。イギリス貴族の主流は国教会だ。そうでなくてはまずいという空気が長い間存在していた。彼もそれはわかっている。しかしそれでも彼は今はナンシーへの想いを優先させたのである。
「だが揉めてもナンシーしかいない、私には」
 その決意は変わりはしない。
「だからだ。明日は」
「その決意の為にも」
「行く、一人でな」
 またそれを宣言する。
「わかったな。では」
 ここで紅茶とケーキを食べ終えていた。彼はテーブルの上のベルを鳴らしメイドを呼んだ。そのうえでイアンに対して声をかけた。
「下がっていいぞ。愚痴を聞かせて悪かったな」
「いえ。若様の御心を知ることができましたので」
「よかったのか」
「はい。それではまた」
「うん、またな」
 二人は言葉を交あわせる。イアンが部屋を出て別れたのであった。
 
 翌日。ナンシーは下校しようとしていた。そんな彼女にクラスメイト達が声をあげる。
「ねえナンシー」
「ボームさん」
 ナンシーの姓はボームという。今それを呼ばれたのだ・
「一緒に帰りましょう」
「ええ、わかったわ」
 それに頷いたところで少し苦笑いを浮かべる。そして言った。
「校門までね」
「そうね、校門まで」
「後は、ね」
 同じ制服を着た女の子達も苦笑いを浮かべる。彼女達もその事情がわかっていたのである。だから彼女達もそれに応えるのであった。
「じゃあ一緒にね、そこまで」
「うん」
 女の子達は教室を出て廊下を進む。廊下もかなり寒い。その寒い廊下こそが冬そのものであった。嫌が応にもそれを実感させるものであった。
 その寒い廊下を歩きながら女の子達は話をしている。話の中心はナンシーであった。しかも彼女ではなく彼女の婚約者についてであった。

 
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