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奇策

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第四章


第四章

「本当か!?」
 慌ててメンバー表を見る。確かにそこには工藤の名があった。
「これはどういうことだ」
 二人はまだ信じられなかった。
「偵察要員でしょう」
 その時記者会見を受けていた西武のオーナーもそれを聞いて言った。
「いえ、それが」
 記者の一人が彼に言った。
「一度発表されたら最低一人には投げなくてはいけないんですよ」
「そんな」
 彼は狐につままれたような顔になった。
「一体どういうつもりなんだろう」
 そう首を傾げざるを得なかった。それ程までに意表を衝く起用であった。
「おい見ろよ、連中の顔」
 大沢は得意そうに西武ベンチを指差して言った。
「鳩が豆鉄砲食らったような顔ってのはああいうのを言うんだろうな。広岡のあんな顔ははじめて見たぜ」
「しかし監督」
 植村はそこで不安そうな顔をした。
「何だ」
「本当に大丈夫なんでしょうか、今の工藤は」
「それだがな」
 大沢はニヤリと笑った。
「実は一回投げさせてみてるんだよ」
「えっ!?」
 これは植村も知らなかった。
「悪いがおめえにも内緒にしておいた。軍事機密ってやつだ」
「そうだったんですか」
 植村にすら話していなかった。大沢の隠蔽工作もまた見事であった。
「それを見ていけると思った。それで今日マウンドに送ったんだ」
「何と」
 工藤は淡々と投球練習をしている。そして試合がはじまった。
「まさか出て来るなんて」
 思いもよらなかった天敵の登場にさしもの西武打線も戸惑っていた。工藤の前に凡打の山を築く。
「フフフ」
 大沢は満足そうにそれを見ていた。勝ち負けよりも工藤のピッチングそのものを楽しんでいた。
「よくやってくれているな、最初はまさかと思ったが」
 やはり彼も思いついた時は本当に投げられるとは思わなかったのだ。
 工藤は快調に飛ばす。澄ました顔で西武打線を手玉にとっていた。
「よくやったな」
 大沢は手を差し出そうとした。だが途中で止めた。
「いけねえいけねえ」
 慌ててその手を引っ込めた。
「今下手なことしてあいつの指に何かあっちゃあいけねえ」
 彼はあくまで工藤の指を気遣っていた。
 工藤の表情はいつもと全く変わらない。淡々とした顔で実力者揃いの西武打線を封じている。
「さて、と」
 大沢は彼を見ながら考えていた。
「問題はこれからだな」
「はい」
 植村もそれを聞き頷いた。
「何処であの男を投入するかですね」
「ああ」
 大沢は真剣な顔で首を小さく縦に振った。
「おい」
 そして顔を右に向けた。そこにはあの男がいた。
「悪いがそろそろ準備しといてくれや」
「わかりました」
 そこには江夏がいた。彼はゆっくりと立ち上がるとブルペンへ向かった。
「さて、何時あいつを出すかだ」
 この時の日本ハムの切り札はこの江夏であった。よく日本ハムの野球は詰め将棋だと言われた。
「確かにそうかもしれねえな」
 大沢もそれを聞いてまんざらではなかった。
「点をとっていって最後にはとっておきの切り札で抑える。それも相手の先を読んで一手一手打っていくからな。そうした意味でやっぱりあいつは凄い奴だよ」
 そう言って江夏を褒めた。
 この時の江夏はストッパーとして完成されていた。その頭脳的なピッチングは最早難攻不落であった。
「あいつに最後を任せていれば問題ない、本当に頼りになる奴だぜ」
「いや、わしは監督あってのもんですわ」
 江夏は恥ずかしそうに笑ってこう言った。
「わしはただ投げるだけ、監督は考えなあかん」
「その投げて完璧に抑えられるストッパーってのはそうそういねえぜ」
 大沢は江夏に言った。彼等は実に気が合った。
「流石はあの人の名を継いどるだけはあるわ」
 江夏は大沢を評してこう言った。大沢は『親分』と言われる。その堂々とした風格とべらんめえ口調、グラサンをかけた威圧的な様子からそう言われるのだ。
「俺は兄弟で一番出来が悪かったんだよ」
 よく彼はそう言って高笑いした。
「野球を知らなかったらヤクザにでもなっていたかもな」
 そうした発言からのこの仇名が付いた。この仇名を彼より前に貰っていた人物がいた。
 かって南海の監督をしていた鶴岡一人である。その圧倒的な存在感により彼はその仇名を貰っていたのだ。
 タイプこそ違えどそれを受け継ぐだけはあった。大沢は周りの者をひきつけずにはいられなかった。その人柄が多くの人を魅了したのだ。江夏ですら。
 彼は阪神をトレードで出されてから南海、広島、そして日本ハムと渡り歩いた。だがその心は常に今そこにいる球団にはなかった。
「わしは阪神の江夏や」
 口には出さずともそう思っていた。彼の心はあくまで阪神に、甲子園球場にあった。
「あのファンの歓声は一度浴びたらやみつきになる」
 田淵もこう言った。彼もまた西武にあっても自分は阪神の田淵だと考えていた。
 それ程までに甲子園の声援は凄かった。自分を熱狂的に応援してくれるファンの声は到底忘れられるものではなかったのだ。
「もう一度あのユニフォームが着たい」
 そう思う時もあった。いや、常にそう思っていた。
「けれどそれは最後でええ」
 そうも考えていた。
「今はこの日本ハムにおる。この球団を優勝させるんや」
 今の彼がいるのは日本ハムである。阪神ではない。
 それは誰よりもわかっている。だがやはり寂寥感は拭えない。
「何時かは甲子園に」 
 そんな彼を大沢は暖かく迎えてくれた。そして今も気兼ねなく付き合ってくれている。
「わしみたいな男にな」
 阪神を出てからは一匹狼だった。そんな一匹狼でも大沢は気にしなかった。
「どんどんやれよ、期待してるぜ」
 外様だとかそういう理由で差別したりはしない。自分のチームの選手は誰も同じである。日本ハムの選手だと考えていた。
 
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