| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

奇策

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第五章


第五章

 それが嬉しかった。だから彼は喜んで投げた。
「日本ハムの為に」
 二〇〇勝一五〇セーブも達成した。このシーズンは絶好調であった。打たれるとは全く思えなかった。
「さて、工藤はどこまでいけるかな」
 大沢はその江夏を投入する機会を探っていた。
「それで勝負は大体決まる。さて、何時にやるかだ」
 試合は投手戦となっていた。日本ハムの打線も強力だ。だが西武の継投の前に中々打てない。
「広岡らしいぜ」
 大沢は一塁ベンチにいる広岡を見て言った。
 西武は高橋から左の変則派永射保を経てエースの東尾を投入してきた。長期戦も睨んでのことであった。
「確かに東尾はいいピッチャーだよ」
 それは率直に認めていた。
「だがこっちにもとっておきの切り札があることも忘れていねえだろうな」
 ここでニヤリ、と笑った。彼は江夏に絶対の信頼を置いていたのだ。
 ブルペンでは江夏が投球練習をしている。それは時間の関係から西武ベンチでもおよそ予想はついていた。
「そろそろ出るな」
「はい」
 広岡と森は頷き合った。回は七回になっていた。
 工藤は先頭の山崎に内野安打を許した。それを見た大沢は考え込んだ。
「そろそろかな」 
 工藤はよく投げている。だがやはり怪我あけである。その指の調子が心配だ。
「よし」
 決めた。彼は決断の早い男であった。すぐに動いた。
「ピッチャー交代」
 審判に告げた。そして江夏がマウンドに姿を現わした。
「出たな」
 広岡は彼の姿を認めて言った。
「遂にこの時が来ましたね」
 森も彼から目を離さない。
 二人は明らかに何かを狙っていた。その目が光っていた。
「確かに江夏は凄いピッチャーだ」
 それは素直に認める。
「だがあの男も人間だ。弱点は必ずある」
 広岡はまず江夏の弱点を探ることからはじめていたのだ。
 江夏の弱点とは何か。それは本人すら気付いていなかった。
 投げる。するとバッターボックスに立つ片平晋作がバントの構えをとった。
「何!?」
 江夏は一瞬我が目を疑った。片平はパンチ力のある男である。それが何故。
 プッシュバントであった。それは明らかに江夏を狙ったものであった。
「しまった!」
 反応が遅れた。その動きも緩慢であった。バントは見事成功した。
「よくやった」
 広岡はそれを見て小声で言った。
「成功しましたね」
 森が彼に言った。
「ああ。予想通りだな。しかし片平がやるとはな」
 片平は左に弱い。そして小技も苦手な男である。江夏もそれだからこそ油断していたのだ。
「あそこでバントかい」
 まだ信じられないといった顔をしている。彼の意表を衝く奇襲であった。
「見ろ、あの江夏が動揺しているぞ」
「どうやらここが突破口になりそうですね」
 二人は江夏を見て囁き合った。作戦の成功を確信していた。
 江夏はマウンドでは常に冷静な男である。取り乱すことはない。
 だがこの時ばかりは違っていた。思いもよらぬ攻撃に戸惑っていた。
「あんなところでバントを仕掛けてくるとはな」
 それを見た大沢は危機を感じた。
「まずいな」
 これが勝負の分かれ目になった。ここまでに西武は周到な準備を重ねていたのだ。
 広岡と森はまずスコアラー達に江夏を徹底的に調査するよう依頼した。
「どんな些細なことでもいい、資料は全部掻き集めてくれ」
「わかりました」
 こうしてスコアラー達はデータを収集した。江夏のことはかなり有名である。だがそれでも彼等はデータを集めさせたのだ。
「日本ハムの切り札はあいつだ。ならば」
「その切り札を叩けばおのずと日本ハムには勝てる」
 これが広岡だった。彼はかってヤクルトの監督時代リーグニ連覇を果した巨人に対しこう言った。
「巨人恐るるに足らず」
「え!?」
 それを聞いた選手達は思わず耳を疑った。
「信じられないか」
 彼は選手達を見回してから言った。
「ええ、幾ら何でも」
「やっぱり巨人は強いですよ」
「そうだよな。投打に確かな戦力が揃っているし」
 選手達は口々にそう言った。
「成程、確かに戦力は揃っている」
 広岡はそれを聞き頷いた。
「だが采配はどうだ」
 そしてあらためて問うた。
「え!?」
 選手達はまた耳を疑った。
「聞こえなかったか。ではもう一度言おう。采配はどうか」
「それは・・・・・・」
 巨人の監督である長嶋の采配のことを問うているのだ。
「長嶋君の采配は理論的ではない。先のことを考えず、それは常に勘によるものだ」
 長嶋の采配を一言で言い切った。
「その為ミスも多い。選手達がそれをカバーしているのだ」
 その通りであった。彼の采配はお世辞にもいいとは言えない。
「それにより戦力が削がれているのは否定できない。そしてそのカバーができるのは」
 彼は言葉を続けた。
「かっての黄金時代の戦士達だけだ。しかしその彼等も老いている。生き残りも少ない」
 はっきりとそう言い切った。
「だから総合力では大したことはない。そうした意味で私は巨人は恐れる必要はないのだ。そして」
 ここで彼はスタッフに何冊かのノートを持って来させた。
「ここに巨人の全選手のデータがある。これで巨人のことは全てわかる」
「何と」
 選手達はもう何も言えなかった。
「諸君等は巨人に負けることはない、いや、勝てる」
 はっきりと言った。
「だから怖気付いてはいけない。巨人を倒し必ず優勝するのだ」
 冷徹な目が光った。そして彼等は巨人との戦いに挑んだ。
 死闘であった。十勝九敗、そしてあとは引き分けだった。だがこの引き分けが利いた。巨人は勝てなかったのだ。そしてヤクルトは見事初優勝を達成した。
「監督、おめでとうございます」
 皆が広岡を称える。だが広岡は眼鏡を正して静かに言った。
「当然のことを自然にしただけです」
 素っ気なかったがそれは勝利者の言葉であった。巨人に勝った、だからこそ優勝できた、彼にとっては最高の勲章であった。
 そうした実績があった。ここでもそれを発揮したのだ。
 二人は江夏を細部まで研究した。そして遂に彼の弱点を見つけ出した。
「確かに江夏は凄い男だ」
 まずはそう感じた。
 かっては目にも止まらぬ剛速球で鳴らした。だが今は流石にそれはない。
 しかしその投球術は見事だった。ストレートとシュート、フォーク、そしてスライダーとカーブをミックスさせたような独特の
変化球スラーブを武器に投げていた。球種もそれ程ではない。
 だがコントロールが抜群によかった。これは阪神時代から変わらない。
「そして変化球のキレもいい」
 森は言った。
「阪神時代からまた凄くなっている」
 森は現役時代江夏の最盛期とぶつかっていた。そのボールはそうそう容易には打てるものではなかった。彼もまた三振の山を築いていたのだ。
 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧