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奇策

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第三章


第三章

「巨人の時のあれは何だったんだろうな」
 実はそんな澄ました彼も一度激怒したことがある。
 その時広岡は打席に立っていた。三塁ランナーに長嶋がいた。
「長嶋君の脚だとまあ少し打つだけで楽に点が入るな」
 彼はそんなことを考えていた。
 ピッチャーが投げた。その時だった。
「え」
 広岡はその時何が起こったのか理解できなかった。何と長嶋がいきなりホームスチールを敢行してきたのである。
「これはどういうことだ」
 彼は呆然となった。その長嶋はあっけなくアウトとなった。
「どういうつもりか」
 三振してバッターボックスから戻った彼のはらわたは煮えくり返っていた。その怒りは長嶋に向けられたものではなかった。
「何を考えているんだ」
 彼は監督である川上哲治を睨んでいた。
 明らかに頭に血が昇っていた。彼はヘルメットとバットを叩き付けるとロッカーに戻り球場をあとにした。これが彼の巨人との決別の原因となった。
「私を信頼していないのか」
 広岡の言い分はそれである。それでホームスチールのサインを出したのか、と言いたいのだ。だがこの事件は実は長嶋の独断だったのだ。徹底した統制で知られた巨人だが彼はよくこういうことをした。動物的カンがそうさせたのである。
「長嶋君はいいんだ」
 広岡はそう言った。
「彼のことは本当によくわかっている。伊達に三遊間を組んでいるわけじゃない」
 彼はここでも長嶋を嫌ってはいなかった。
「問題は他にあるんだ」
 彼はこの直後二軍落ちとなりコーチ兼任であったがそれも剥奪された。
 これが彼を追い詰めるもととなっていく。次第に巨人での居場所がなくなる。しかもまた悪い癖が出て記者に言わなくてもいいことを話してしまう。何処までも舌禍の絶えない男だった。
 結果として彼はその怒りにより巨人を追い出された。彼は川上に追い出されたと思っていた。
「私を信用していない、しかもそれからも事あるごとにあの男は私に嫌がらせをした」
 彼のそのポーカーフェイスはプライドの高さ故だとも言われる。そのプライドに触れられると激怒するのだ。
「あれは広岡さんのプライドを刺激しちまったからな」
 記者もファンもそう囁き合った。とかく彼は人間味を消そうとして逆にその人間味により広岡となっていた。ちなみに西武の監督を辞任した時もプライドがもとで喧嘩したからだ。
 その彼だがこの時は普段と変わりなかった。そう、全く変わらなかった。
「広岡がああした顔をしちえる時が一番怪しい」
 誰かが言った。
「あの男は何かする時は徹底して隠す。最後の瞬間までな」
 見れば西武ナインは室内練習場で今日も夜遅くまで練習していた。
「いつもと同じだが」
 広岡は記者達に澄ました顔でそう言った。
「君達もご苦労だな」
 そう言うだけであった。そして何食わぬ顔で自宅へ戻って行く。
「昔からだよ。ああして気取ってるんだ。けれどな」
 ベテランの記者が広岡の乗る車を見ながら言った。
「尻尾が見えてるぜ。あれだけ隠れるのが下手な奴もそうそういない。さえ、プレーオフには何を見せてくれるかな」
 彼等も感じていた。広岡はこのプレーオフで何かを企んでいる、と。
 こうして両者の思惑が含まれたままプレーオフの幕が開いた。両者はその胸に思いも寄らぬ奇策を抱いていたのだ。
 その前日工藤はまだギプスをしていた。
「やっぱり無理だな」
 西武ナインは彼の身を心配しながらも内心ホッとしていた。
「とにかく天敵がいないのは助かる」
 そう考えていた。だが彼等は気付いてはいなかった。それを見る大沢が鼻の穴を膨らませていることに。
 試合当日には包帯を巻いていた。どう考えても怪我は完治していない。そして先発オーダーが発表された。
 西武の先発はベテランアンダースロー高橋直樹であった。口髭が似合うダンディーな男である。
「ほう、広岡も中々洒落のわかる男じゃねえか」
 大沢は彼を見て笑った。実は高橋はかって日本ハムでエースであった。だが江夏との交換トレードで広島に行った。そしてまたトレードで西武にやって来たのだ。
「人の一生なんてわからないものだけれど」
 高橋もそれは同じだった。
「まさか俺を先発とはな。てっきりトンビだと思ったが」
 西武のエースといえば東尾である。だが広岡はあえて彼を先発に出さなかった。
「東尾は何でも使える」
 彼はそう言った。
「先発でなくてもいい。今日はな」
 それで終わりだった。そしてグラウンドに顔を向けた。
「さて日本ハムの先発は誰だ」
「高橋里志ですかね。それとも間柴か」
「そんなところだろうな」
 森の言葉に頷いた。彼等なら充分に勝算はあった。
「データは揃っている。工藤の様に絶対的な強さはない」
 そう、彼は工藤だけを怖れていたのだ。
「そのチームに絶対的なエースがいるとそれだけでそのチームは圧倒的に有利に立てる」
 これはかっての稲尾や杉浦の様なエースを見ればわかることであった。
 工藤もこのシーズンではまさにそれであった。その工藤がいないと思うとそれだけで気が楽だった。
「そろそろ先発ピッチャーですね」
「ああ」
 二人はアナウンスに耳をすました。
「ピッチャー工藤」
「何!?」
 二人はそれを聞いて思わず目が点になった。
 
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