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恩返し

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第九章


第九章

 しかし今彼以上に頼りになるピッチャーはいなかった。仕方なくそのままマウンドにおくことにした。
 七点を入れた打線も巨人のリリーフ小林繁の前に沈黙していた。五回をパーフェクトに抑えられている。
 山田は投げる度に疲れが蓄積されていくのが傍目からもわかった。巨人はジワリ、ジワリとその彼を攻めていく。
「おい、山田が打たれたらお終いやぞ」
 西宮から駆けつけてきているファンが青い顔で言った。
「しかし他に誰がおる?山田以外おらんぞ」
「そやな」
 流れは完全に巨人のものとなっていた。後楽園から聞こえるのは巨人ファンの応援の声だけである。
 十回裏山田は絶対絶命のピンチを迎えた。ノーアウト満塁である。
 打席には黄金時代の戦士の一人高田繁、俊足強肩で知られる。かっては外野手であったが長嶋にその守備センスを見込まれサードにコンバートしていた。そこでも絶妙の守備を見せていた。
 彼は一発があった。十九本のホームランを打ったこともある。そして何より粘り強い。
「終わりかな」
 阪急ファンの一人が呟いた。
「高田を仕留めてもまだ」
「アホなこと言うなや!」
 隣にいた男がそれに言った。
「山田を信じんかい!あいつはこういう時も何度も乗り切ってきたやろが!」
「しかしなあ、相手は巨人やぞ」
 彼は明らかに弱気になっていた。
「あの時かてそうやったし」
「うう・・・・・・」
 それで終わりだった。あの王の逆転サヨナラスリーラン、それは今でも阪急ファンの脳裏に刻み込まれていた。
 山田はその時を思い出していただろうか。そのポーカーフェイスに汗が流れる。
 山田と高田は睨み合った。高田は浪商でも明治大学でもスターで鳴らした男だ。しかも滅法喧嘩早いところがある。山田も負けてはいない。西本に一からピッチャーとしての心構えを叩き込まれている。
「抑えたる」
 心の中で呟いた。そして投げた。
 高田のバットが一閃した。それで全ては決まった。
「あ・・・・・・」
 山田だけではなかった。阪急ナインもファンもそこで鏡が割れた様に動かなくなった。
 三塁ランナーの張本がバンザイをしながらホームを踏む。サヨナラヒットであった。
「勝っとったのに・・・・・・」
 張本がホームを踏むまでの動きがコマ送りの様にゆっくりと見えた。ホームを踏んだ瞬間後楽園は歓喜の声に包まれた。
 巨人ベンチは総出で張本を出迎える。殊勲打を放った高田ももみくちゃにされる。まるで日本一になったかのような騒ぎであった。
「・・・・・・・・・」
 上田はもう何も語らなかった。そのまま踵を返すとベンチを後にした。
 阪急ナインもそれに続く。もう誰も何も語らなかった。
 それに対して巨人はもう日本一になったかのような状況であった。ただ胴上げをしていないだけである。
「このまま日本一ですね!」
 記者達が長嶋に対してインタビューをしている。
「それはまだわかりませんけれどね」
 長嶋は口では否定する。しかしその顔には笑みがこぼれていた。
 巨人ファンの声が鳴り響く。もう勝負あったかのようであった。
「・・・・・・帰ろうか」
「ああ」
 阪急ファンも去って行く。おの足取りは重いものであった。
 これで三勝三敗、遂に五分と五分の状況となった。だが阪急にとってはもう絶対絶命の状況であった。
 山口も打たれた。山田もだ。切り札はもうない。そして流れは完全に巨人のものである。
 マスコミも完全に巨人贔屓になっていた。テレビでももう長嶋が勝ったかのような騒ぎであった。
「ふざけんなや」
 阪急ナインは怒りに満ちた声でテレビを切った。彼等はまだあの試合のことをはっきりと覚えていた。
「おい」
 そこで後ろから声がした。上田のものであった。
「監督」
 選手達に顔を向けられた上田はにこやかに笑った。だがその笑みは何処か力がなかった。
「今日はご苦労さん」
「はあ」
 選手達は彼に言われ応えた。
「疲れたやろ、今日は思いきりはめ外してこい」
「しかし」
「ええから」
 上田の笑みは優しいものであった。それがかえって選手達を沈黙させてしまった。
「銀座でも六本木でも好きなとこ行って来たらええで。疲れを吹き飛ばすには酒が一番や」
「はあ」
「監督は言うんでしたら」
 酒は飲み過ぎるな、スポーツ選手の鉄則である。だが上田はそれを知りながらあえて言ったのだ。
 負けた、そう感じたからだ。その原因は他ならぬ自分の焦りによるものだった。
「済まんな」
 上田は夜の銀座に繰り出す選手達を見送って一人呟いた。その顔にはえも言われぬ哀しさがあった。
「わしのせいで御前等を負けさせてな」
 彼は部屋に戻るとまた言った。
「折角西本さんの無念晴らせるところやったのに」
 そう思うと無念で仕方なかった。
「明日で全部終わりか、何の為に出たんや。チョーさんの引き立て役かい」
 椅子に座った。やりきれない気持ちで一杯だ。
「わしも飲もうかな」
 ふと思った。実際飲まずにはいられなかった。
 
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