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恩返し

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第十章


第十章

 部屋を出る。そこで一人の男と擦れ違った。
「どうも」
「あれ、御前は行かんかったんか?」
 それは足立であった。
「はあ」
 足立は素っ気無く答えた。
「わしは酒が飲まれへんさかい」
「そうやったんか」
 そういえばそうだった、上田はふと思い出した。
「じゃあ部屋でゆっくりしとるんやな」
「はい」
 見たところ至って冷静である。他の者は自暴自棄になって飲みに行ったというのに。
「ふん」
 上田はそれを見てふと考えた。
「もしかすると」
 前から足立のここ一番の踏ん張りは頼りにしていた。かっては敗れはしたが王、長嶋の前に立ちはだかり阪急の面子を守ったこともある。
(賭けてみるか)
 上田は腹をくくることにした。そして足立に声をかけた。
「なあ」
「はい」
「明日やがな」
 上田はあえて穏やかな声で話しかける。
「先発は御前にしようと思っとるんやがな」
「わしですか」
「そや」
 上田は微笑んで頷いた。
「どや、やれるか」
「はい」
 足立は表情を変えることなく答えた。
「投げさせてくれるんでしたら」
「そうか」
 上田はそれを聞いて思わず顔を綻ばせた。彼はここでようやく落ち着きを取り戻した。
(そうや、まだこいつがおったんや)
 いつもの穏やかな笑みが戻っていた。
(わしもまだまだやな、自分のとこの選手を完全に把握しとらんわ)
 迂闊だと思った。だがこれで明日は巨人と戦えると確信した。
「じゃあ今日はもう寝ようか。大事な決戦やし」
「いや、わしはもうちょっと起きときます」
「何でや」
「予想せなあきませんから」 
 彼の趣味は競馬と競艇である。麻雀も好きだ。酒を飲まず、無口である彼は一人でそうした賭けの予想をたてることが好きだったのだ。
 彼のギャンブルでの強さは有名だった。それは何故か、問われた彼は素っ気なくこう答えた。
「勝とうとは思わへんことや」
 そこに足立があった。
 彼はいつもそういうマイペースな男であった。決して焦らない。どのような強打者が前に立ちはだかっても焦らない。ただ自分の投球をするだけであった。
 上田はそれを忘れていた。だが最後のこの時にそれを思い出したのだ。
「明日が楽しみやな」
 そう言うと眠りに入った。外からはようやく帰ってきた阪急ナインの声がしていた。
「あいつ等明日になったらどんな顔しとるかな」
 そう思うだけで楽しかった。だがそれを彼等に見せることなく眠りについた。
翌日後楽園は満員であった。見渡すばかり巨人の帽子と旗である。
「勝てよーーーーーーーっ!」
「あの西鉄の再現だーーーーーーーーっ!」
 昭和三三年のシリーズである。巨人ファンにとっては忘れることのできぬ屈辱であった。
 あの年巨人は三原脩率いる西鉄ライオンズと球界の覇権を争っていた。三原はかって巨人の監督を務めていた。だが水原がシベリアから戻ってくると総監督に祭り上げられつま弾きにされたのだ。
 三原は西鉄の監督になった。そしてそこで野武士軍団と呼ばれる強力なチームを作り上げたのだ。
 鉄腕稲尾和久に怪童中西太。水戸の暴れん坊豊田泰光、青バット大下弘、錚々たる顔触れが三原の下に集っていた。
 水原率いる巨人はこの時既に黄金時代を支えた選手達が下り坂にあった。そして西鉄に連覇を許していたのだ。
「今度こそは負けられない」
 そういう思いでいどんだシリーズであった。こちらには黄金ルーキー長嶋茂雄がいた。そう、長嶋がこの時もいたのだ。
 水原と三原は激しく対立した。最早それは決闘であった。
 まずは巨人が三連勝した。しかし真の勝負がここからはじまったのであった。
 西鉄は稲尾を続けざまに出す。彼はその常人離れしたスタミナと抜群のコントロールで巨人を寄せつけない。高速スライダーとシュートで巨人打線を封じる。
 そして遂に四連勝して巨人を倒した。鉄腕稲尾の名が全国に轟いた。
 今も尚語り継がれる死闘である。だがそれは巨人にとっては忘れることのできぬ屈辱であった。
「あの時の雪辱というわけではないけれどね」
 一塁ベンチに立つ長嶋はポツリと呟いた。
「けれどここまできたら勝ちたいね、日本一だ」
 ナインはその言葉に頷いた。そして遂に最後の戦いの幕が開いた。
「まるで甲子園にいるみたいやな」
 試合の隅をようやく占拠したような僅かばかりの阪急ファン達は球場の巨人ファンを見ながら呟いた。
「何処もかしこも巨人やこらあかんかもな」
 見れば阪急ナインも空気に呑まれている。流れは誰が見ても巨人のものだった。
「おい、ラジオなんか切ってしまえ」
 阪急ファンの一人が別のファンに対して言った。聴けばあからさまな巨人寄りの中継だった。
「日本中こんなんかいな」
 その通りであった。実際にテレビでも、その日の朝の新聞でも巨人のことばかり。まるで何処かの世襲制の共産主義国家のようであった。
 その中で阪急ファンも平静ではいられなかった。見ればもう顔が真っ赤になっている者すらいる。
「これが飲まずにいられるかい!」
 こう叫ぶ者もいた。彼はもう勝てる筈がない、と諦めていた。
「お客さんは荒れとるな」
 その光景は上田からも見ることができた。
「当然でしょうね」
 コーチの一人が力なく答えた。
「こんな状況じゃあ。まるで阪神と試合しているみたいですよ」
「ホンマやな、よう似とるわ」
 上田はそれを聞いて思わず笑った。
 
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