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恩返し

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第八章


第八章

「え!?」
 翌日の第五試合、阪急の先発を見た阪急ファンはマウンドに上がる男を見て思わず目を疑った。
「何であいつなんや」
 誰もがそう思った。マウンドでは山田久志が投球練習を行っている。
 彼は第三戦に先発していた。しかも完投しているのである。
 体力的にはかなりの不安があった。その彼を先発のマウンドに送るとは。
「ウエさん何を考えとるんや!?」
 そう言ってベンチにいる上田に顔を向けた。
 上田は山田の投球を腕を組み見守っていた。その顔は普段の彼のものとは違っていた。
「今日で決めるんや」
 彼はそう呟いていた。そしてマウンドの山田から目を離さない。
「監督、本当に山田でええんですね」
「ああ」
 コーチの言葉にも頷いた。
「エースで決めたる。今日でな」
「今日で、ですか」
「そや、後楽園に行ってたまるかい」
 西宮の試合は今日までである。もし次の試合が行われるとしたらそれは後楽園である。敵地である。彼はそれは避けたかったのだ。
 山田は黙々と投げている。だがそのボールには明らかに力がなかった。
「打てるな」
 巨人ナインはそれを見て思った。長嶋はナインに対して言った。
「思いきりいけ」
「はい」
 打つ動作をしながら言う。ナインはそれに対して頷いた。
 三回までは試合は動かなかった。山田も疲れが残っているとはいえまだ制球力もあった。巨人の先発ライトも力投していた。だが四回、山田の疲れが限界にきた。
 ここで巨人は攻勢に出た。一気に山田を打ち崩す。
 ここでライトが打席でも活躍した。何と山田からホームランを放ったのだ。
 これで山田は終わった。上田は中継ぎの白石静生を送った。
 続けて戸田善紀、試合は負け試合であった。だが上田はまだ焦っていた。
「!?」
 何と上田はここにきてまた山口をマウンドに送ったのである。これに阪急ファンはまた首を傾げた。
「負け試合やろ、今日は」
「何で山口なんや!?」 
 彼等はもう上田の考えがわからなかった。
「ウエさんもしかしてかなり焦っとらんか!?」
 ここで誰かが言った。
「何でや」
「顔見てみい」
 上田の顔を見る。確かにいつもの温和な顔とは違う。何かに怯えるようにカリカリとしている。
「そういえば」
「いつもとちゃうやろ。こりゃまずいかも知れんで」
「ああ」
 彼等も表情を暗くさせた。そしてグラウンドへ顔を戻した。
 試合は巨人の勝利に終わった。ベンチをあとにする山口には疲れの色がありありと映っていた。
「後楽園か」
 上田は力なく呟いた。
 三塁側では巨人ファンが騒いでいる。勝てるとは思っていなかったのだ。もうお祭り騒ぎであった。
「まだうちが勝っとるけれどな」
 口ではそう言う。しかし彼はその鋭利な頭脳で流れを掴んでいた。
「いや、そういうわけにはいかんで」
 彼は首を横に振った。
「絶対勝つ、西本さんの為にもな」
 彼は三塁側スタンドを睨みつけた。そこには憎っくき宿敵巨人軍の旗が翻っている。
「次で決める、絶対な」
 彼はベンチへ顔を向けた。
「絶対に勝つ、その為には何でもしたるで」
 彼はそう言い残しベンチから消えた。
 その足取りはやはり少しせかせかしていた。何処か落ち着かない。 
 彼の焦りは収まっていなかった。それどころか益々酷くなっていく。
 しかしそれに本人は気付いていなかった。あくまで冷静なつもりであった。
「やはり監督は普段と違う」
 それを見たナインは思った。そしてシリーズの行く末に危惧を覚えた。
「もしかすると」
 だがそれはすぐに頭の中から取り払った。縁起でもない。
 その中で一人冷静な男がいた。だがこの時は誰もそれには気付いていなかった。
 舞台は後楽園に移った。第六戦である。阪急の先発を見たファンは沈黙した。
「ホンマにこりゃあかんかもな」
「絶対ウエさん今動揺しとるで」
 彼等は口々に言った。阪急の先発は山口であった。
 山口は先発をつとめることもあった。だからこそ阪急を優勝に導くことができたのだ。
 しかし、しかしである。彼は既にこのシリーズで五回目の登板である。そのフォームも第一戦の時とはどう見ても違っていた。力が足りないのだ。
 そしてボールも。確かに速い。だがあの重い音もしない。普通の速球であった。
「打たれるな」
 多くの者はそう見ていた。試合の結果を予想する者は多かった。
 しかしここで打線が爆発した。この二試合今一つ元気のなかった阪急打線が巨人に襲い掛かったのだ。
 五回表を終わって七対〇、勝負あった、と誰もが思った。 
 だが巨人は諦めてはいなかった。
 五回裏まずは二点を返した。
「第一試合での球威はもうないな」
 二点を返した巨人打線はそう感じていた。今の山口なら打てる、そう確信していた。
 六回裏巨人はランナーを二人置いた状況で切り札を投入した。
 淡口憲治、チームきっての勝負強さを持つ男である。
「出たな」
 巨人ナインは固唾を飲んだ。こういう時の淡口は頼りになる。淡口はそのファンの期待を一身に背負って山口と対峙した。
 第一試合では全く歯が立たなかった。ボールがミットに収まってからバットを振る始末であった。
 しかし今は違う。彼は今まで山口のボールから目を離さなかったのだ。
「打てる」
 彼はそう思いバッターボックスに入った。
 山口が投げた。あの高めのストレートだ。
「よし!」
 彼はバットを一閃させた。それはそのままスタンドに突き刺さった。
 巨人ファンの歓声が沸き起こる。それを見た上田はようやく悟った。
「これはあかん」
 もう山口は限界にきている、今まで焦りのあまり気付かなかったのだ。
 彼は止むを得ず山口を引っ込めた。そしてリリーフに山田を送った。
 しかし上田はまだ焦っていた。その山田は前の試合で先発だった。まだ疲れが残っていたのだ。
 八回裏、山田は打たれた。柴田の値千金のツーランが飛び出たのだ。
「山田もあかんか」
 上田は歯噛みした。山田の弱点である一発病がここで出てしまったのだ。
 
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