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『ステーキ』

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新しい場所

 
前書き
だんだん明るく。 

 
 撮影のない、昼の十時。カントクが静かに女の子を連れてきた。その悲壮感のなさ。これからすることの向こう側には、何がしかの『当たり前』が広がっているのだろうか。カントクは近くの、コーヒーが飲める所で待っているらしい。これはなんだか、風俗のような。Mちゃんは部屋を、大雑把に観察した。トイレや浴室、鏡が磨かれているか、冷蔵庫の中。僕の靴下を脱がせて、足の爪、指の間をチェックする。僕の世界と、彼女の世界が溶けてゆく。
僕は、いざ話が出来上がって事の前に至ると、自分のわがままで人を動かしたことに居心地が悪かった。自分を突き動かした力が誰かをとらまえて、何かが悪い方向に動いてゆかないか、気持ちが悪かった。そんな気持ちを腹に抱えて、沈んだような態度でこの時間を過ごしてやろうか、と思っていたのだ。
「えっ? 君は僕にキスなんかするんだ」とか言いながら。
それがどうだろう。今日の朝には水周りをピカピカに磨いて、丁寧に身体を洗った。陰毛の長さも気になってライターで焼いて、短くした。そのどれをも、面倒くさい義務感をなしに。
「シャワー浴びたよね?」と訊かれて「ええ」と答えた。彼女の方から、「何で三十二歳まで頑張ったの?」という問いが幻聴のように聴こえてきた。手を握られて勃起してしまった。パンツの中で、亀頭が包皮を反転させるように先へ先へと伸びてゆく。
「タッテルノ?」そのあまやかな響きに、別世界の入り口を感じる。
それからの時間、彼女のすべてが直球の技だった。身体に満ちる魂はそれに呼応して熱く大きく。しかしながらはみ出すことなく、僕の肉体で消化されてゆく。僕も彼女も余す所なくむけたまま抱き合った。無我夢中で突っついた。あまりに激しく動かしたから、途中何度か『ポンッ』と抜けて、モノが溝を滑りあがったから、彼女は『アンッ』と言った。楽しかった。本当に楽しかったんだ。
 僕は、ああ、これなんだと思った。これ自体が大きな問題であり答えであり先送りなんだ。自分が解決できなかった問題はどこへ? 自身の子供がそれを背負うことに直感的な恐れを抱いた。細やかな感性を忘れて豪快に生きることを避け、心の内で闘う日々。それが誇りだったのに。僕の内側で膨らんでいた問題も、すべてこの行為のための前戯だったのか。そして僕はすべての問題を解決しないままそれを捨てたんだな。
「先送り」その言葉に無責任な大人になれた喜びが広がる。
「すごい、すごい」と言って女の子は生き生きしている。彼女の友人が地元のプロサッカー選手とデートした話だ。
「何がすごいの?」と訊くと、彼女は笑った。もしかすると、「僕が自身のことを、そのサッカー選手よりすごいと思っている」と取ったのかもしれない。いや、そうじゃないんだ。でもどう違うのか説明できない。僕は僕自身の価値観の届かない所にいる人を正確に評価できないから。
 その二人がハチミツを身体に塗りあって、豚のように舐め合ったという話に、僕らは笑った。ついさっき僕らは豚みたいだったから。
 魂の温もりがスルリと抜けてゆく。その後かりそめの覚悟が生まれる。それは一人であることの覚悟のようでもあり、もう一人ではないと思えることからくる、心の強さのようでもある。彼女は帰っていった。今頃、カントクと何を話しているのだろう? 当然そこには僕が割り込むべきではないのだけれど、「コンドームを着けるとき、カリにそれが埋まってなかなか上手くいかなかった事」や、「ベッドの上でパンティーが飛び跳ねていた事」をカントクに言いたくてうずうずしていた。
「事の後の陰茎は、萎えても幸せそうに膨らんでいるんだね」つぶやきながら、シャワーを浴びている。筋肉にリラックスを感じる。以前なら不満のある肉体にこねくり回したプライドが絡み付いていたのに。
「問題の先送りか……」
 いや、このタイミングでよかったのだ。これ以上問題を抱え込んだら、自分の力では一生、解決できない大きな問題になっていたのかもしれない。このタイミングでよかったのだ。
 カントクから電話が来ていた。折り返し電話をかける。もうMちゃんは帰ったから、コーヒー屋に来ないか? と誘われた。
カントクは円いテーブルでアイスコーヒーを飲んでいた。その隣に、Mちゃんの残したアイスコーヒーが、まだ置いてあった。僕もアイスコーヒーを頼んだ。
「後釜になってくれないか?」
冬道の歩きにくさは、歳をおうごとに顕著になるね。そんな何気ない話の後だった。
「俺、プロになる」
「カントク。プロ?」
「ずっと、送り続けてたんだ。今までの作品」
「後釜って? 僕が演出?」
「まったく、その通りですよ」
「竹蔵くんじゃなくて?」
「竹蔵くんは後ろに控えてもらって。彼にほとんどを任せていいよ」
「なんか、お飾りじゃない? 非難轟々じゃない?」
 それからカントクは、演出における自論を語ってくれた。
演出というのは、テクニックじゃない。テクニックの有無も大事だけど、それにも増して必要なのは、相手にどれだけ心をあずけられるかということなのだ。自分が緊張感をもって生きていれば、自然に役者も緊張感をもってやってくれる。自分が理想とする世界を持っていれば、彼らはそれを少しずつでも吸収するだろう。演出と言うのは、監督がどれだけ役者を信用して魂をあずけ、一緒に高みに行こうと決心できるかにかかっているんだ。役者の態度を見ていろ。気持ちを伝えるために、どんな手を使うのか。いかにしてその長い道のりに塞がる、見えない壁を突き破るか。大きな声か? きれいな涙か? 顔芸か? いや違う。その壁に納得して扉を開けてもらうだけの誠実さを持っているかにかかっているんだ。そして誠実とは己を、大事なところ以外の己を殺すことなんだ。何故、吉之を選んだかって? 突き破る誠実だよ。カントクは最後につぶやくように言って、「神様の光があたったら、今まで見えなかった、腐っている場所が見えてしまうから、注意しなよ」と付け加えた。
 誠実。それはきっとサツキさんへの、あの恋心のことを主に言っているのだろうな。それ、もう無いよ、カントク。

「小さい頃に、小便たれて、大きくなったら生意気に、世の中に文句たれて、今になったらおっぱいたれて、たれてないときはないのかい?」
「下がるズボンを上げながら、溶けるアイスを舐めながら、日本の端っこに住みながら、日本の首相を笑ってる」
「ディス・ショップ・イズ・マスターヨーダ! ディス・ショップ・イズ・ルーク・スカイウォーカー! OK? イェス・OK! 味噌ラーメン! ヘイ!」
 僕は、そんな心持でカントク最後の撮影に向かった。女の子を体験してから、意識のちょっと外に『ビリビリ』するような興奮があることに気が付いた。目に入った人がきっかけで、それが雷を落とすんだ。疲れる。

「大きな組織にはかなわないよ」その言葉がちょっとした反骨を生み、シンジ君に銃を取らせる。目の前でリンチにあった友人の懐に手を差し入れて。シンジ君は闇を許す、街の有力者の所に向かう。
「この銃弾をぶち込めば、俺の空はさらに厚い雲で覆われる。怖さってなんだ? 怖さって空が晴れない予感のことだ」
 シンジ君は黒塗りの車の横を通り過ぎる。
夜の公園。雑木林で、その引き金は引かれる。銃弾が切れるまで引き金を引かれた拳銃は雪の中にすっぽりと消える。
「みんな、自分がかわいいから、いつまで経っても、この世界に雲がこんなに厚く?」
クランクアップ。
カントク、最後まで手を抜かなかった。みんな拍手をしている。
「送迎会? 別に東京に行っちまう訳じゃないし……いずれ行くけどさ、そん時にさ」シンジ君が笑いながら、「出世ですよ!」とはやしている。
 カントクは僕らのこと少し遠ざけたいのかな。昔、友人が東京の大学に決まった後の、あの背中を向ける瞬間の冷たさを思い出していた。いや、新しい世界に旅立つ時は、何かを置いていかなければいけないんだ。それに対する言葉なんて、言わないほうが賢いもんだ。
 吉之の頭の中に濃い無言があった。言葉にするべきではないものが、生きた白いシミみたいに。それは動いて、吉之から何かを引き出そうとする。これから、我の強い人間と面と向かって生きていかなければならないのだ、という現実が不安を広げるのを無意識の内に抑えたいからの無言。
「これからのこと、後でメールするから」と、竹蔵くんに言って落ち着いた。
吉之はコーヒー屋で『今月のコーヒー』を飲みながら、『ビリビリ』を感じている。地下街の往来を見ることのできる席で、『ビリビリ』が女の子に反応して口説くのを聞いていた。
幸いにもこの『ビリビリ』は、僕の意識に焦げ付かない。テンションの高い人たちは、こいつに触れているのだろうか? いや、彼ら自身がこれなのではないだろうか。吉之は、今までの人生を、この『ビリビリ』との闘いだったのではないかと思った。「僕はこの不快な感触を、知らぬ間に吸い込んで、世の中に辟易していたのではないか」
 吉之は深くため息をついた。家に帰って創作をしよう。

 
「羊飼い」

大きな人は
その胸にオオカミを飼っていて
彼の遠吠えをよく理解し
 それを上質な万年筆のような舌先で
 さらさらとつむいでいる

 大きな人は
 夜、酒を飲み
 オオカミとほどよく混じりあいながら
 キンピラをかじって
 二人の牙の同じであることを知る

 大きな人は
その周りに嘘を生み出すが
 それはみな
 彼を畏れての事であり
 大きな人は満足そうである


「国境」

 羊のような僕には分らない
 国境
島国の海を
 どんな風に眺めたらいいのか
スルリと通り過ぎる道のくぼみ
 それくらいの意識でいたら
 どこかの国で
 胸に穴を開けられそうだ

 オオカミの心を持つあなたよ
 国境の線を越える時
 狩のようにピリピリしますか?

 この世の様々な境目は
 羊のような僕にも
 電気を与えるから
 あなたに訊いてしまいました

 この前
国境の事を考えたのは
 毛を刈られた時でした
 そしてまたゆっくり
 国境を忘れてしまいます


「あなたがいるから」

この砲丸は君が投げたのかねと 問うから
私の手を離れたときにはもう
それは私の物ではありませんと 答えた

君が投げなければワタクシの所に
球は飛んでこなかったのだがと 追いかけるから
あなたがいなければ
私は投げなかったと思いますよと 答える

ワタクシをめがけて投げたのかねと 詰めるから
あなたがそこにいたことと
私が球を投げた事は
同位なのですと 説いてみた

つまり問題は起きるべきところめがけて
放り投げられるということです
つまりあなたがいなければ
あなたに関する問題は起こらなかったのです

そう答えると
大きな拳が私のコメカミを
強く したたかに ぶった


 吉之は竹蔵くんに、これらを添付したメールを送った。「これをもとに、脚本書けないでしょうか?」なんだか無責任な学校の先生みたいに。「おい、イタリアと言ったなんだ? みんなバラバラの答え見つけるまで、俺なんもしねぇぞ」そんな先生、昔いたんだ。

「今まで出来たことは、当然できる。という心持で……」
 地下鉄に乗り合わせた初老の男性に、醜さが固着している。
「今まで出来たことは、これからも出来る……」
 隣に女性が乗り合わせる。若さからくる、美しさが、瑣末な事を押し流している。
「今まで出来たことが、今日出来ないはずがない」
 女性が押し流した瑣末な事とは、初老の男性の醜さか。
「今まで出来たことが、これからの障害にならぬよう……」
 背伸びをしようか、ナチュラルで行こうか。いや、ニワトリの突き順。最初に一発かまさないと。

「役者とは、この世に生まれることのなかった、聖の魂を、形而下に降ろしてくるものです。キレイな台詞を言って、それが嘘に聴こえるなら、そいつは、その言葉が存在する次元にまで達していないという事だ。『これが自然な演技です』そんな言葉は一昔前の事だ。自然を醸し出すなら、己の白の部分と、黒の部分を見事に使い分けたまえ! 北海道には、自然と都会がある。それらすべてがこの空気を造り出している。それを吸い込んで演技するんだ。神の子池は純心の美しさ。街は男の筋トレ、女の化粧。山は、己の小ささを知れと言う御触れ。高速道路は南高、いや、ヤクザかな」
 カントクのプロデビューはこんな感じだった。
 
 

 
後書き
もうちょっと。 
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