| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

『ステーキ』

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

さよなら

「そりゃ、人間、ギリになったら金もって逃げるさ。ぜんぜん恨んでやしないよ」と鎌口は言う。「その代わりにコネクション置いて行ったんだから」
 豊平川の河川敷は初夏の日差しと、冷ややかな風。バイト仲間のおっちゃんが言ってた。「一年中暑い国に生まれたら、勉強なんて出来やしねぇ。脳みそがとろけるぐらい暑いんだもんな」なかなか思慮が浅い。リン君は思う。それでも、この初夏の陽気は、冬に固められた意識を溶かしていた。河川敷を走る自転車のおじさんを、寛容に眺めることができる。
「俺がさ、増藻さんについて行ったのはさ、あの人怖いだろ? 怖い人はさ、病気を吹き飛ばしてくれるのよ。増藻さん、いなくなってから、広い意味の愛はなくなったな。ぼやっと世の中をとらまえて許す感じ。それ、なくなった。自分を出していこうと思った」
「光が屈折したんですよ」と、リン君は言った。
「家の所有って、持ち主が死んだら、誰の物になるんだ?」
「順々に、親類をあたっていくんじゃないですか?」
「親類って、一等親、二等親のあれか?」
「ええ、順々に……。でも、田舎に行ったら、誰も住んでない家がありますよね。誰の物なんですかね」
「親類って、あのポスターの叔父さんか?」
「あの、ポスターの叔父さんって……」
「増藻さんの叔父さんよ。政治家よ」
 リン君は曖昧に返事をした。その叔父さん、外国で甥が死んだ事、その人が麻薬売買、人身売買をしていた事、知ってた? リン君は、この人達の連なりを考えると意識がぼやっとした。その、あやふやな部分に触っている自分、居心地が悪い。すべてが分って、すっきり自分とこの人達との境目を区切れるなら良いけど。リン君は、持ち主の居なくなった部屋の片付けに少し興味を持っただけだった。そこには、増藻さんの女という障害があったけれど。鎌口は、それを数ヶ月かけて口説いたと言う。
「不動産の所有が誰のものかなんて、考えてなかった。あそこはもう、なんだか誰でも入れる公園みたいにさ。もう、誰の物でもなくて、みんなの物みたいに感じるんだな」そう言って、鎌口は笑っている。「その物が、誰の物でもない、と思えたときの開放感。たまらん。たまらんべや」
 リン君は河川敷に舞う蝶を見ていた。鎌口もそれを見ていた。
「なんちゅう蝶よ?」と、鎌口が言った。リン君が大学生だと聞いていたから、それ位のことは分るのじゃないかと、少し陰険を乗せて。
「シジミ蝶ですよ」と、リン君は答えた。もしかするとただのモンシロ蝶かもしれないけれど、その冴えない姿に、そんなことどうでも良かった。「アゲハ蝶じゃないっすよ」
「アゲハ! アゲハはカッコいいべや。アゲハは人間で言ったら芸能人だべや。シジミって、あの食べる貝のシジミか。ちっちゃき者に愛の手を」鎌口はニコニコしている。
「なぁ、世の中で醜い生き物を研究する人いるだろ?」と、目のすわった鎌口が言う。「あれな、何だか医者に思うのよ。医者は人間の醜いところ調べるだろ? 調べて癌とか治すだろ? レントゲンとかで、『肺に影があります』なんて言ってな。その……醜い生き物を調べる学者ってのは、世界の医者よ。目に見えるこの世界の医者よ。何でこんなに醜く生まれちまったのか、世界に知らしめているのよ。まあ、それを治しはしないけどな。世の中キレイな事ばかりじゃないですよ、って。醜い者とも仲良くな、って言われてる気がするのよ」
 リン君は、話しの中で『醜い生き物』と聞いた瞬間、鎌口さんは自分のことを醜いって思っている、と少し尊敬して、その後の話しぶりで、そうは思っていないのだ、気づいた。もしかすると、『醜い』のは鎌口さんを攻撃する人たちのことなのか。「ええっ! こんなにブサイクなのに!」
「リン君、殴り合いの喧嘩したことあるか?」鎌口の目が鈍く光っている。えっ? もしかして今の聴こえた? リン君は「いいえ。平和主義ですから」と答えた。
「この世界に入る前にな、俺、ボコボコにされたことがあってな、その事と、増藻さんのところに飛び込んだのが、何か因果があるのかなぁ」鎌口は目を細めて言う。「なあ、リン君よ。そのとき俺をボコった奴と、俺、どっちが臆病だと思う?」
「彼らですかね」と、気をつかった。
「違う。どっちも臆病なんだ。俺は弱いのが怖くてヤクザさ。奴らはヤクザが強そうに見えて、怖くてやった。どちらとも臆病なんだ。それが、その臆病が、俺の増藻さんへの忠誠なんだなこれが。そして金持ちさ」鎌口はクスクス笑う。
「おい、この世に蝶が生まれたとき、それはアゲハか?」
「それは分らないですけど、生まれたては、やっぱ地味じゃないですか?」
「じゃあ、アゲハは劣性遺伝か?」
「優性、劣性が美しさを決めるのじゃないと思いますよ」
「劣性遺伝って言うんだ。親類がな。俺の事そう言うんだ。劣性遺伝って何よ?」
「めったに表に出ない貴重なもの……ですか」
「じゃあ、表に出なかったものはどうなるのよ。俺の家族みんな、鼻、丸いのよ。俺の鼻、細いだろ? 俺のそれ見て、劣性遺伝って言うのよ」
「適当な事、思いつきで言いますけど、夫婦の間で、お互いの惚れられた部分の遺伝子が強く出るんじゃないですかね」
「惚れたお前の負けだよ~♪」
 鎌口さんが上機嫌だ。何故だろう。
「惚れた所が後世に残るか……」
「惚れられなかった所は、形を変えて、世界のどこかに表われるんじゃないですか。あの、日本人にはなくて、欧米人にはある。みたいな」
「じゃあ、俺の細い鼻は、誰かさんの丸くて可愛い鼻のためにあるんだな」
 話の後で、リン君は「射精の時、醜い欲が膨らんで、間違いを後世に遺してしまったらどうしよう?」と考えた。「なんだか、ひどいことになるんじゃないかな」
 鎌口の頭は空っぽになった。リン君は、ギュっと噛みしめて頭を空っぽにした。眼前にそびえる藻岩山の樹木の陰影。富士山に似合いそうな、あの北斎の白波のよう。

 マンションの前には軽トラックが止めてあった。その前でデカい男がタバコを吸っていた。
「急げよ、モノが腐っちまうからよ」そう言って笑っている。鎌口さんをぶっ飛ばした、このデカ。そういう、しがらみがありながら、この軽さ。男ならではだね。リン君は軽く挨拶をした。
「ミナミさん。開けてください」
 デカは、インターホンのカメラを見つめている。出てきた女の人。リン君は初対面だから、黙っている。すうぅっと首を絞められる感覚があった。それを取り除く為に何か言葉をかけなければいけないのかを思案したけれど、止めておいた。地下鉄で、体臭のキツイ人をやり過ごす、みたいなもんだ。
「何か焦げ臭くないか?」鎌口が言った。キッチンのシンクに燃え残った写真があった。デカは人差し指を、結んだ唇に付けた。
「この木! 見たことあるんですよ!」リン君は言う。「ナラワラ・トドワラって所にあるやつですよ。海水の塩で立ち枯れたやつですよ。カッコいいなぁ」リン君はそのコート掛けが欲しいと言った。
「ミナミさん。これ使ってますか? いらない? コートに傷がつくから? じゃ、いいですね」
 ミナミさんという女の人は、ソファに座ってタバコを吹かしている。その表情から、何を考えているのかは、分らなかった。だいいち、自分を飼っていた男が、突然いなくなり、南国で死に、その男の仲間が部屋を漁っている時の気持ちが表情に表われる訳がない。
 見知らぬ部屋が、五分いたら自分達の物になった。それを押し返される前にここを出たい。
「リン君。服、持って行っていいよ。ビンテージなんて無いみたいだから」デカが言った。
 リン君はクローゼットを眺めている。
「ジャケットいいですか?」
「どれでもいいよ」
 リン君はこれから二十歳になって、少し洒落た場に足を運びたいから、セミフォーマルなジャケットを探している。
「なんか、包む布ないかい?」鎌口が言った。
「これでいいかい?」と、デカが靴下を持ってきた。
 三段のチェストには、すべての引き出しに時計が並べてあった。その数六十程。これが目当てなんだね。
「一個か、二個。あげるよ」鎌口が言う。リン君は青い文字盤の時計に指を伸ばした。
「それはダメ! めちゃくちゃ高い。若いやつがそんなのしてたら殺されるぜ。その端っこの黒いやつにしとけ」
 リン君が手に取った時計には『ハミルトン』と名前が入っていた。
「もう一個やるわ」渡された時計は『タグホイヤー』だった。時計は知らないけれど、これ、高くないですか?
 袋詰めを終えた鎌口が、リビングのテーブルをなでている。
「木の温もりはいいね。これ杉? 屋久杉?」
「それ、屋久杉だったら、切った人捕まるわ」
 大きな絨毯の上に、太い樹木を輪切りにした、大きなテーブルがあった。鎌口もデカも、そのリビングで一服していた。
「この絨毯、ペルシャ?」デカが言った。
鎌口は首を振っている。「前にさ、昔の話よ。このバッタもんで稼いだってよ」
それを女の人がぼうっと聞いている。「えっ? 不動産業じゃないの? 土地売買に失敗して、借金、作ったんじゃないの?」
リン君は「早く帰りたい」と胸の中でつぶやいていた。

 リン君は、軽トラックの荷台の幌の中に座って、立ち枯れの枝が折れないように抱えていた。家に帰って、『タグホイヤー』のオークションの値を、見てみよう。幌の中の薄闇の中にいると、自分が商品のような気分になってきた。あらゆる人間の手抜きを隠す、闇の中にいるような気になったのだ。
 鎌口とミナミさんが、トラックを降りて、体の大きな男に礼を言った。リン君が幌を開けて、「お疲れ様、ありがとうございます。お気をつけて」と言った。リン君は思う。デカには、「さようなら」と言おう。俺が、俺の中の黒が、あらわになる前に、「さようなら」最高に爽やかな「さようなら」を。

 鎌口は円山にある、マンションを訪ねた。女はツンとした顔で続いた。マンションの中には沢山のぬいぐるみが置いてあった。置いてあると言うより、部屋がそれで埋もれている。
「社長。いる?」鎌口が言った。
「来いよ」と、奥から声がした。
 三十台の、髪を細かくカールした男が座っていた。
「どっちなの? 一人なの? 二人ともなの?」
 鎌口は、稼がなきゃならない旨を伝えた。
「脱いでよ」と男が言った。
 スルスルとズボンを脱いだ鎌口の股間は、少々膨らみかけている。何せ、あの、増藻さんの女を抱けるのだ。
「マックスまでいって。どの位になる?」
 鎌口は、股間のモノを手でしごいている。
「12㌢……。挿入要員。取りあえず。フェラチオはさせないよ。あれは大きい奴しかやらせないから。大きいモノに、可愛い顔。これが受けるんだから」
 すべてが熱を帯び、叫び声を上げた。ミナミさんが、空っぽになる代わりに、彼女の目には、ありきたりの世界がキラキラした物に見えた。それには少し偏りがあったが、気にしなかった。その部屋の壁に大きな書が飾られてあった。

そなたの体で悦ぶ者あらば
差し上げなさい
その悦びの向こうに
真実の世界が広がっている
真実を前に
すべての人は黙るであろう

 数ヵ月後、彼女が普通の世界に戻ったとき、彼女の中にあるべき魂は、中国あたりをさまよっていた。その後、彼女は風邪をひいて死んでしまった。
 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧