『ステーキ』
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サツキの話
前書き
女の子ねぇ…。
サツキは、その日、意図的に胸の開いたシャツを着て行った。
「これ見て、どう変わる?」
目の前の男は、白目が澱んでいる。たぶん体中に悪い性欲が、毒みたいに回っているんだ。私も男を選ぶとき、自分が醜くならないような相手を選ぶ。醜くなる恋なんて嫌。でも、男は抑えきれないものをぶら下げているから、少々のことでも前進を止めないじゃない? 『女』賢い。私って悪いかしら。目の前の男は『聖性と性欲』の話をしている。
「悟りを開いて、女好きになるのは、突き抜けたからかな、それとも足元をすくわれたからかな」
恋をしたときの衝撃と、その後の甘い夢が膨らんだままエッチをして、最後まで、それが崩れなかったら勝ち。いや、最初理性的で、その狭間、なりゆきでエロスを少しずつ感じて本気になり、深い世界に堕ちてゆくのもいい。そうすれば、私のエロスも永遠に理性で蓋をされ、余計な男も寄らなくなる。
「人間は、ある次元に入ると、自分が聖になったと狂喜して、足元をすくわれるんだ」
硬いドリルで突き破られるようでありながら、終わった後、意識を守るように柔らかなヴェールが。それは幾層にも重なり、それぞれ違う味をしている。サツキは『破壊と創造』と思った。その行為一つ一つが宗教画のような輝きと聖性を含んでいる。誰かから「尻が軽い」と言われたら、「人間は大人になって、魅力があれば、自分の手を伸ばして、そうあるべき自分の世界を造らなきゃいけないのよ。魅力ってのはさ、見えない手をつなぎなさいって事なんだから」そう言ってやろうと思っている。
「人間ってある次元、周りより高い次元に入ったら、周りから欲を吸い上げちゃうんだよ。そしたら、その人間、理性があるように見える。欲に満ち満ちていて理性的。可笑しくない?」
「それ、なかなか、面白いです」と、サツキは答えた。目の前の男を切ったら、自分の魅力の何かが失われる? 切らずに前進すれば、新しい明日が? 未来を切り拓くぐらい、私の魅力は完璧?
サツキは男をエレベーターの前で見送った後、地下一階まで行ったことを確認して、同じ駅ビルの、別のカフェに向かった。
少し離れた席に、チャラい男と、中年の女性。チャラい男はまだ深みにはまっていない初々しさ。中年の女性におべっかを使っている。ホスト? 挙動不審だから、駆け出し? うん、中年の女性はその初々しさに惹かれたか。でも、どうする? その男が、あなたから金をむしることで、世の中をなめたワルになっていったら。あなたの恋心で世の中が腐るのよ?
目の前にある椅子の背もたれが本革造り。サツキの意識に「本革はいい」と「本革がいいって、どこかで聞いたことがあるだけでしょ」が、同時に浮かぶ。「いい」という言葉と「いい」という感覚が分離している。
「おや?」サツキは紅茶に口をつけた。ゆっくりと味が意識に染み込んだ。「よし!」大丈夫みたいだった。
近くにいたおばさんが、急に怒り始めた。
「ちょっと、これ、本当に注文してから淹れてるの?」
「インスタントじゃないの?」
「ひどい味じゃない! あなた飲んでみてよ」
サツキは「この人、負けたな」と思う。隣に座った男が、自分のタバコの煙がこちらにかからないか、気をつかっている。「勝った」
サツキはぼんやりティーカップを見ていた。色気がありそうで平凡にも見える。いや、口当たりをもう少し薄くしたら、上品な、卒のない魅力を備えられる。ん? それは逆か。口当たりが上品なだけに、その外の詰めの甘いところがチャーミングになるのか。でも一点の輝きに惹かれて、外のところに寛容なのはちょっと、オジサン臭いかな。それは諦めだな。そうやって許された女は、たいてい後で図々しくなるんだから。
カフェの壁の隙間から行き交う人々が見える。視線の先にある、動いている人々の意識。それを細やかに観察したら映画。これだけの人の中で、心の機微は失われる? それとも踊り出す? それを外から見るカントク。実際に泳ぐ人々。東京青山表参道。周りに追いつこうと必死だった大学時代。あの街、演出家よね。昔の友達の幾人か。その意識の奥で眠ったままの遊びたい気持ち。その上空はるかに流れる強い風。怖いの? 心は強くないの? 何か悪いものが出ちゃうのかしら。私は、断然、泳ぐ方が楽しいか。
店内の鏡に映る自分の顔がキレを失っている。少しだけ顔が厚い。少し田舎を吸い込んだか。
「あの男を切ろう。バッサリと切ろう」
色気。それを乗せて言葉にしたら、あの甘い歯ごたえ。それを胸の奥から生み出すときのうれしさ。
「フンッ!」と強い息を吐いて化粧室の鍵を開けて出てゆこうとした時、カントクから「胸を強調しないで」と、注文されていたのを思い出した。バッグの中に、胸の小さく見えるブラジャーがあったんだ。サツキは鏡に映る生のおっぱいをなるべく見ないように、それに付け替えた。少々性的に酔っていたかな。
カメラの前に座って、スタッフの準備を待っていた。顔に陰が出来ないように、ライトを加減する竹蔵くん。前髪が少し厚すぎない? 暗く見えるわよ。地方局のニューススタジオみたいな、少し安いセットを作ったんだ。後ろにブックシェルフを置いて、置物や、誰かが作ったテレビ局のキャラクターのぬいぐるみが置いてある。エゾシカのぬいぐるみ。目が小さくて飛び出ているから笑える。
スタッフの視線のもたらす風は、サツキの手前、わずかな所で勢いを緩め、その身体を柔らかく包んだ。
「結界を張れか」
「札幌市南区の部屋から、コカインと見られる麻薬1㌔、端価格にして7千万円相当が見つかった事件の続報です。TVSの調べによりますと、部屋の所有者は、『私を経由しただけで、誰が実際、取引をしたのかは分らない』と話し、警察が得た情報では、『彼に情報を提供した人物は、既に不法滞在で、本国ロシアに送還されており、行方がわからない』と言うことです。警察は引き続き交友関係を調査して、事件の解明を急ぐと共に、麻薬密売ルートをロシア警察と協力して調査すると言うことです。以上6時のニュースをお送りしました。この後は各地の天気です」
サツキは「なかなか、誠実にやれたじゃない」と、自分を
褒めた。吉之さんがいると、緊張感ある。告白を断ったら、なかなか緊張感があって誠実になった。これはこれでいいかも。
「サツキちゃん、喋れるんだからテレビの仕事しない?」女
社長が言う。「そしたら、うちの若い子の道も拓けるしさぁ。
なんだかんだでおっぱいと顔よ」
この女社長に説かれると、なんだか悪寒がする。近いうち
に、この事務所のスタッフにしてもらって、安定したお金を手に入れたいのだけれど。事務所の奥まったところ、物置になっている所で、別のシーンの撮影が始まっている。壁に借りてきた漫画を並べて、テレビの漫画特集の中身を撮っているみたい。
「世の中とつながるって、僕は難しいと思うんですよね。自分の芯を露にして、正当な評価をされることって、ホントまれな出来事で、僕の作品も、的外れな評価をされても、『まぁ、自分の本意はばれてない』って、ほくそ笑んでしまうんですよね」
「この作品の中でも、『野球が好きなわけじゃないから』って言って、逃げる主人公がいたり、『自分みたいな男になるな』って息子をたしなめる父親がいたり。ですよね」
「自分、子供とかいないんですけど、『もう俺は大人だから』と言ういい訳? 責任逃れ? そのゆるさから脱して、本気で野球にのめり込むことで過去を振り返る。若かった時の劣等感を思い出して、父親として柔らかくなってゆく様とか、なんと言うか、受け継がれなかった才能とか、もはや失われていった物への鎮魂も含めているんですけどね。自分の芯をむき出しにすることで、こう……、子供を持って、夢を見る当事者という責任を、もう受け渡しながらも、内外から親子関係がシェイプされてゆくのが面白くて」
「しょっちゅう失策をするお父さんを見た男の子が、『アルバイトさせてください』って言うシーン。私はその子に『男』を感じましたね」(笑)
このシーン、竹蔵くんが即興で脚本を書いたらしい。シンジ君がテレビのチャンネルをニュースから変えると、一瞬だけ流れる映像。こんな物も作らなきゃいけないんだね。かんばってね、竹蔵くん。少し早漏だけど。カントクと出会ってたくさん自主映画を観た。それで分った。カントクちょっと才能あるじゃん。だからちゃんと言う事聞くよ。
「芸術って、足を踏み入れるときすごく照れるのよね」カスミちゃんが電話をかけてきた。
「今、車の中?」と、訊いたら「うん」と言った。彼氏が事務所のビルの下で待ってたもんね。彼氏としたらほっておけない職業だし。
「カメラの向こうを気にしないで演技したら、カントクに、目が死んでるとか言われて。いくらか死ななきゃカメラの前でなんて笑えないから、って思った」
確かにカスミちゃんの笑顔は硬い。笑ったとき口角が下がってあまり美しくない。それにしてもカントク、私に笑った演技あてたことないよね。何で? 結構いけるのに。
私たちの撮影は今日で終わり。終わった瞬間から愚痴が出るのは、必須。サツキは思う。私、いつ境界線を越えたんだっけ?
「芸術の境界線って自分が妥協したらすごく身近になっちゃうよね」サツキは言う。
「カントクはまだ諦めてないんじゃない?」
すべての境目を越えるにはアドレナリンが必要。その後に沈滞があり、自然にその世界に慣れて、明確に歩を進めることができる。その世界は、境目を越える前の輝きを失っているけれども、自分自身がその輝きの一部になっていることを思えば、それほど悪くはない。夢の輝きは、すべからくリアルな充足にとって代わられる。自分の飛んだハードルの高さなんて、誰も分りやしない。飛んでいるときの興奮がいつまでも続いたら、キチガイになっちゃうから。カスミの話を聞き流しながら、サツキはそんな事を考えていた。
「申し訳ございません。店内でのケータイは……」
「またね」と言って、サツキは電話を切った。
成長するにつれて、自然に越えたハードル。一度目のかたい手料理。二度目のやわらかい愛のある手料理。興奮の後にある凪。
目の前を通り過ぎた女性のふくらはぎの筋肉がキレている。成長で越える? 成長ホルモンと雑然とした心の問題の関係? 分水嶺を越えて、別の生き物に変わる? 今、腕を組んでいるとき、胸はどんな谷間を作っているのか。ふと、思い、ふっと忘れる。
ある大御所俳優のドキュメンタリーを見ている。歳相応の味のある映画の現場らしい。エンターテイメントには郷愁も必要だけど、まだ分らなくてもいいわよね。空を突き抜けるような慟哭の演技。してみたい。自分の中身、全部出したい。現場のカメラの邪魔にならないところにテレビのカメラがある。リハーサルの演技、胸の奥にジンと来る切なさを感じた。涙の気配。その後、本番でその俳優さん本当に泣いちゃった。サツキの涙はひいてしまった。
「分ってないなぁ……」とサツキはつぶやいた。
心を殺して相手に伝えるという極意。愛は我慢している時に生まれるのよ。愛が純な分だけ、自分の拙いところが心を締め付けて、その自分を縛り付ける圧力から解き放たれるには、キレイな愛を相手に伝えて、呼応した相手と一緒に一段上のステージに上がるんだから。独りよがりで泣いちゃダメ。泣いたらずっと、今の場所から出られないんだから。自分のコンプレックスを取り払わなきゃ、キレイな人生なんてやって来ないんだから。
「あなたが…私の生まれ持った愛を…つなぐ…向こう側につなぐ希望? 好きとか嫌いじゃなくて、遠くまで正しき穴を掘る力が…例えば私の愛に意味があるなら、それを…この放埓な世界じゃなくて、ずっと遠くの世界に…誰にも壊されない所まで、運んでくれる…私の中からつるりと確かな世界に」
初めての告白だった。そのとき知ったんだ。心を殺さなきゃ上手くいかないんだって。この告白を通り抜けた後に、世界は広がったんだ。
中学の頃、坊主頭で顔に小さな斑点がプツプツある男子が、勇気を出して告白していた。私には関係がないから、隠れて冷やかしの笑い。それと同時に、意識を廻るあたたかい空気。何がどう反応したのかしら。身体の隅々まであたたかいじゃない。あの男子の恋心は醜い? 醜いから、色々な寒いモノを集めて、私に襲いかかっていた寒いモノまで吸い込んで、私の身体があたたかい? それとも生まれつきのコメディアン? 偶然見てしまった排泄の現場みたいに興奮した。ああ、もう考えない。考えたら呪われそうだもの。いや、でも私、そんな人じゃない。私のこと好きになった男の子が、女友達に笑われたら、足がすくむほど怖かったんだもん。そんな人じゃない。
今はもう無いインテリアショップで買ったソファに横たわる。私が買ったからその店は潰れた? ううん、私が買ったから店のオーナーはもっといい案を思いついた。それでいい。自分自身が愛の通り道であり、ひらめきであるような心持で、張りのある弾力を楽しんでいる。
小さい頃、大人の都合で、正義が塗り替えられた。思春期に、定まった心を忘れて、大人になるまで、それはずっとずれたまま。身体と心のバランスを崩したから、すごく醜くなった。外見は可愛かったから、誰も理解してくれなかった。世界の上澄みで生きたかったから、暗い顔なんてしなかった。身体の少し歪んだ所から、不幸がじわじわ染み込んだ。自分の人生がどこか遠くを歩いているような気がした。身体からエネルギーが抜き取られる。走って追いかけて行きたいのに、目標が定まらなかった。外の世界は、私の力で好もしくないものに変わっていった。
身体を歪める価値観に縛られる程、意識はそれを飲み込むように大きくなる。そのとき見た、真面目なクラスメイトから出ていた、清らかな魅力。正しさは誰かに口に出されたそばから、形を変えて、急いでそのクラスメイトに吸い込まれに行った。大きくなった私は、自分を肯定していいのか迷っている。私を大きくしたのは、正義を口にした先生? それとも、それを受け入れたあなた? 私の口に合わないの。出て行ってくれる?
窓から差し込む太陽の光が、まっすぐ伸ばした指先を包むように流れている。水泳の泳法だって、誰かの考え出した、シェイプされた価値観なんだよなぁ。進化。私の肉体でクロールが進化。いや、細分化。誰かの理想を感じて、それに向かって進みながら、ある一点を否定するように横にステップアウト。
きつめに運動する。疲労する。自意識が削られる。自分の肉体を正当に評価できるようになる。ゆったりとした自由。昔、押し付けられた世界は、今はもうふさわしい人に吸い込まれて、彼らがそれを崇拝しているんだ。一滴も漏らさないでね。
はみ出した所は
思い切り使いなさい
魂と同じ形になるまで使えば
世界も風を弱めるでしょう
その言葉に救われた。昔、札幌で小さな宗教をやっていたおじさん。その人、もう、お金をもらって人を救う事を止めたのだそう。完全なる因果に入ったと言ってた。その因果、虫一匹の運命さえ導くと言う。
「人に金言吐けば、その見返り、神よりもたらされる。どうだい? この世に生きながら、神を感じる事が出来るなんて、素晴らしいだろ? 金言を導く時、私は神と一つになれるんだ。それは苦しい事だ。胸をかきむしるような苦しみの後に訪れることもある。神は万能でありながら、無能をかもし出す。さじ加減一つさ。常に万能を求めるような人間をあざ笑う感じだね。人間、ある地点を越えたならば、指先の動き一つにも意味を持たせることが出来る。神は人間をどう見ているかって? 神は人間など滅んでもいいと思っているんだよ。大事な事だけれど、それならそれでしょうがない、と。しかしながら人間が自分の可能性を求めるように、神も世界の端っこまで血液を送る事を考えていらっしゃる。人間の知性は時として血行不良をもたらすからね。果たしてどうだろうか? 人間は自分の事を大事に思うけれど、神は違う見方をしているって事をみんな知っているだろうか? 自分を大事にするあまり、肥大したり、攻撃的になったりする。そして、神はそのすべてを、うまく使って料理してしまうんだよ。焼かれないうちに私の事を知ってくれてよかった」
人間の世界は、神の支配するあの世の写し絵なのだそうだ。人間の階層社会なんて、まるで写し絵だ。人間は感性が完璧ではないから、間違った順位付けをしてしまうけれど。その間違いで神は怒るらしい。おじさんはそれを少しずつ直す。
ベーグルが温まった。それをむしって、むつかしい名前のチーズを塗って口に入れた。サツキは照明の照らす天井の紋様を見た。『ロココ』という内装業者に頼んだものだ。
「どうして物は、意味をなくすのだろう」
「ああ、私の一部になったからだ」
「そしたら、この紋様の魅力は、いま私の中に」
家を出るとき、少し地味な靴を履こうとして悩む。地味を選んで幸運を逃す? 気にならない程度の、慣れた物を選んで、正気を保つ? それ、風を感じよ。
街でナンパされること数度。
一度もついてゆかず。
両親とも公務員。
定期的に性交。
関係のある男、すべて堅気。
パーティーが好きなよう。
素面のときは少々警戒心強し。
胸、Fカップ。美乳。
「遠くを見渡せる意識が存在しなければ、セックスシンボルは存在しないのだ」
増藻は鐘楼に登り、それを見ていた。
「すべてのセックスシンボル。それを深く解する視線がこの世の中の人々に方向性を与える。人々に意識の跳躍を与えんがためである」
店の照明はテーブルの少し上にあり、互いの顔をよく見るには、頭を前に突き出さなくてはならなかった。サツキも男も、話の大事な部分で、顔を灯りの下に突き出した。それはサツキと男の顔の陰を深くしたけれど、少しグロテスクな方が深いところまで話せそうだと二人は言った。男の若い額と、濃い生え際が、艶やかに照らされる度、サツキの意識に何かが咲いた。
「僕は、ぼんやりと思うんですよね。ああやって、コーヒーや酒やチーズの匂いを嗅いでいる人は、脳内で匂いを愛に変換して、理論的に理解しているんじゃないかって」
「愛に変換?」
「ああ、言い方を換えると、闘いですよ。愛って闘いの要素、あるじゃないですか。俺の闘った味どうぞ、みたいな。この風味と闘った気迫をどうぞ、みたいな」
「私は闘いたくないな」
「闘っているうちに、自分にのめりこむんですよ」
「ナルシズム?」
「あっ、それ、大きな声で言わないで。知り合いなんですよ。でも、それを受け入れようとしているうちに、自分が理知的な人間になれることもあるでしょ? その、複雑さを理解しようとして人間は大きな器になるんじゃないかって思いますけど」
「愛を理論的に理解する。理論を知って、愛にたどり着く」
「テクですよ。テクニックは隙を見せない壁を造るようなもので、自分の不備を補うようにあってさ、人間の心の隙を上手く、埋めてくれるでしょ?」
「あんま思わない」
「どうして? 愛が逃げないようにするのがテクですよ?」
サツキは、この前自分が抱かれたとき、何と言ったかを思い出していた。確か「逃げないうちに、2回して」だったかな。愛って、人間の力技よね。おっぱい揉ませるだけで、矢印の方向が変わるんだからさ。
「その匂いが完璧なら、愛を感じるでしょ? テクなんていらないじゃない?」
「どうだろ。完璧な匂いなんて嗅いだことないな」男は難しい顔をして計算をしていた。お酒を飲んで何分経つだろう。
「ここのチーズ料理、美味い?」
「うん」
「少し難解ですよね」
「難解と思えることがすごい」
「どうして?」
「細かい所を見落とさない、用心深さがある」
「ありがと」
男はサツキのおっぱいを左手中指でつついた。右手がふさがっていたからだ。
「サツキさん、宗教のこと詳しいんですか? はじめ会ったとき、おじさんのこと話していたけど。あの『金言を吐けば』の人」
「あんまり言いたくない」と、サツキは笑った。
「僕の宗教、話してもいいですかね?」男は意気をあげて目を光らせた。「いいよ」
「愛のつながりを変えて、世の中を変える。遠い所に住む恩師がいて。その人、黒い糸がよく見えるんだ。黒い糸は白い人間から栄養を吸い取るように絡みつく。それを断ち切るのは白い糸のつながりを強くする事だから、白い存在を白い糸でつないで、黒い存在を入り込まないようにする。ガン治療、知ってます? ガンに栄養を送らなくする。それと一緒ですよ。でもさ、自分自身が白だって思う人も、黒いものに触れて、実感しなくちゃ分らないでしょ? だからあえて、恩師は黒をこの世から消さないようにしているんだ。じゃあ、黒い人はどうすればいいのか。常に白い存在を突っつく。突っついて愛を世の中に放つんだ。黒い存在に触れると、急に自分が白であったことに気がつく。それが、白の存在感とつながりを強くする。つまり、白の愛が世の中に広く知られるようになる。どう?」
サツキの身体から、目に見えない存在が抜け出て、男に向かって何度も飛んでゆく。男からは光の風が吹いている。意識は濃く、どこかを目指している。男が「兄さんに電話してきます」と、席を立った。
「複数人プレイ!」サツキの意識が脳みその新しい部分にはみ出した。
男は店の外で増藻に電話した。
「大学までスポーツやってたみたいで、効きがいいです」
「手、握ったか?」
「はい」
「胸、触ったか?」
「……いいえ」
「揉んだのか?」
「いいえ」
「キスしたか?」
「はい」
「高まっているのか?」
「そう思います」
サツキはトイレに立って、おじさんに電話をした。
「その気持ちは多分、雷が近くで鳴ったらすぐにどこかに逃げ込むのだけれど、遠くで鳴っていたら、心惹かれる。みたいなことだと思います」
「雷が近くに落ちたときの、心の精錬を知っていますか? あのピリリとした、自分以外の何者でもないと感じられる時を」
「秘密にしておきたい気持ちを、うまく隠せて笑えたときは、この世に生まれる喜びを感じるのです。核に触れていない様でありながら、確かに近づく手ごたえがあるのです。秘密にしておきたいその気持ちが真実なら、それを出すのもかまわないでしょう。しかしながら雷に撃たれることは、あまりに直線的に真実をつかむことにはなりませんか?」
「そなたの身体で悦ぶものあらば、差し上げるが良い。例えその悦び醜かろうとも、悦びは天に届き、そなたを良き道に導くであろう。悦び沸かす力あらば、それを冷ます力もある。世界凪ぐまで、風に任せよ。雷は人を選んで落とされるものですから」
大陸の国が、腹立ち紛れに投げつけた爆弾低気圧が、空を乱している。増藻の事務所に内装工事が入っていた。
「熱水流して」と、中年の男が言った。この事務所の暖房のヒーターから熱水を管に通して、簡易の床暖房を作る。
「ベッドどうした? 倉庫の中で錆びてやしなかったかい?」と、鎌口が言った。「リン君、デジカメ買ってきて。最新のやつ。コンパクトじゃないよ。一眼だよ。なに? ハメ撮りだよ」鎌口は笑っている。「ペルシャどうした? でかい絨毯」
作業員の中に面白い新入りがいた。
「お前、何よ?」
「映画つくりたいっス」
「映画監督になるの?」
「恋に落ちたいっス」
「女優とハメるの?」
「それ、男の夢じゃないですか。物語を作るのは神様ですよ。そこで踊るのは天使ですよ。もう、神話じゃないですか」
鎌口はそれ以上話を聞かなかった。多分こいつは馬鹿なのだろう。顔を見ただけで器量の歪みがわかる。
「ミラーボール。あれ、今回、下に付けてね。床に置いた状態で回すんだよ」
鎌口は考えていた。この選挙ポスターは剥がすべきなのかな。いや、そんな事を考えた訳じゃない。何番目に抱かせてもらえるのだろうと、考えていたんだ。次第に部屋が暖まってきた。意識が緩んでくるのを感じている。
内装工事のオヤジが、新入りに説明している。
「指が鳴ったら、一つボタンを押して。また鳴ったら、もう一つボタンを押して。左から順番に押すんだよ」新入りの目が輝いている。
増藻は、スリムなレザーブーツをなでるように頬を触り、手入れの行き届いた苔みたいな顎ひげを楽しんで、ホイップクリームをケーキの上に立てるように鼻を触った。日が暮れてなかなかいい時間が経った。夜が深くなるに連れて、心の『まろやか』が深まる。それは多分、夜になると、馬鹿な人間と賢い人間がきっぱりと別れるからだろう。舎弟から良い電話があったから、股間が少し熱くなった。しばらくすれば、温泉のように吹け上がるだろう。
事務所には次々と男衆が集まってくる。気狂いのような笑い声が響いている。男達が裸を見せあいながら、シャワーを浴びている。リン君は増藻に、デジカメの操作を説明している。
「ドラマティック・モードってなんだ?」と訊かれたから、「知りません」と答えた。
「ホワイトバランス選んで」と頼まれたから、「色味はオレンジがかっている方が温かみは出ますよ」と答えた。
「肌の色はそのままがいい」と言われたから、「ホワイトバランスを白熱球に設定した」
リン君は事務所の奥の部屋で男達の列の最後尾に並んだ。一番目が身体のデカイ男で、二番目が鎌口さんだった。列の中には、内装業者のオヤジもいた。
若い男がサツキの耳元でささやいている。
「この街で一番ロマンティックな人だから。俺はシャワーを浴びてくるよ。必ず戻ってくるから」
世の中の深さを知るには~
人間の欲の深さを知ることだよ~
この世のすべては~
人間の欲から生まれて~
常識として積み重なったものだからね~
考古学者が惹かれてしまう~
万年前の化石にだって~
それはあったのさ~
僕らキレイに重ねよう~
未来の人の為になるよなこの夜を~ ♪
奥の部屋では男衆がみんな下を向いて、耳を塞いでいた。指が鳴った。ミラーボールが回り出した。増藻とサツキはペルシャ絨毯の上にいる。「都会には星がないよね。都会には星がないよね。田舎の価値は都会が決めるよね」二度目の指が鳴った。誰かがしゃがれた声でブルースを唄っている。「潰れちまった声も、はじめのうちはキレイだったんだね。キレイな時期があるから歳をとれるんだよ」三度目の指が鳴った。大きなベッドの下から、風に乗って雲が流れてくる。何も言わず胸を、お尻を揉みしだいた。自分の股間も揉みしだいた。「耳たぶか?」耳たぶも揉みしだいた。四度目の指が鳴った。事務所の端っこにある用具入れから、「すいません、ボタン3つしかないんですけど」と、快活に新入りのアルバイトが出てきた。アルバイトの男のブリーフの上に、長く勃起したペニスがはみ出していた。増藻は、ワンステップ・ツーステップ・ボディーブロー。ペニスの男は床で芋虫みたいにクネクネしている。増藻は強い息を静かに吐いて事務所を出て行った。奥の部屋から数人の男が出てきたから、サツキは驚いて走って逃げた。
リン君は、ミラーボールが散らばせた光が流れてゆくのを見ていた。この部屋が宇宙の端っこにありながら、神様のふところにあるような気がした。
「都会には星がないから、悪いことが起こるんじゃないかな」とつぶやいた。
どこか遠くで、サツキの愛した158本の男根が、さざ波を感じてピクピクとした。16頭立てのレースで、自分の賭けた馬が16頭中17着になった、みたいな勃起不全の夜のことだった。
夜中に増藻さんが私の所に訪ねてきて、「五百万あるか」と、訊いて、それをつかんで走っていった。後で聞いた話だが、夜の失態を演じた相手が、以前アダルトビデオに誘った女に似ていたんだとか。その女のセックスの流通を、金で止めに行ったらしい。私は思う。何故、いままで幾人もの人間をクスリで貶めてきたかを考えないのだろうか。なかなか不思議だ。一つ良い兆候がある。増藻さんの身体からよからぬ空気が漂ってきていた。そろそろ、あっちの世界へ足を踏み入れたか。電話で話を聞く。
「南の国に行きたい」
「お供します」と私は答えた。
会計の男は、その晩に、必要な電話をすべてかけた。
飛行機が日本の領海を出た頃だろうか。増藻さんが、「あれ?」と言って、急に立ち上がった。トイレから帰ってくる増藻さんのグレーのスーツの股間が、黒く濡れていた。同じような事が、チャンギ空港に着くまで複数回あった。会計の男の鼻に、小便の匂いだけではなく、後ろ側の匂いも届いていた。体臭にそれが出ていたんだ。
「自分に関係のない不幸は、心を落ち着かせる」と、会計の男は思った。窓の外には、神話の中の戦士や幻獣が雲の中で生き、その下の環礁が、南国のカニのように美しかった。
ホテルの前に男が待っていた。
「この人は日系人。どこに金を通せば安全か、よく理解している」と、会計の男は言った。その日系人は欲のない顔をしていた。まるで、欲の一かけらでも顔に出そうものなら殺されかねない、と言った風。
「オニイサン、オンナ、スキ? オンナ、スキソウ。チイサナ島の、高級オンナ、イル?」
増藻さんが急に私と別のホテルに泊まりたいと言った。私は中くらいのホテルの前で降りて、彼を見送った。体調が悪いと、色々な事を考えるものだ。
会計の男はホテルの部屋で考えていた。
「脱水症状で死ぬか……。時間がかかるな。病院に行かれたら、また長引く。この国は暑いから、早いだろうか。脱水症状はウイルスにかかりやすい? そんな知識は私にはないからな」
会計の男は目を閉じて思う。札幌のマンションから持ち出された二億円が、とある価値のあるものに変わり、女の身体にまとわれて、海を越える風景。女、十数人。すべてあの日系人にあげよう。
増藻はタクシーの運転手に、「リーズナブル・ホテル」と言った。「チープ・ホテル?」と、運転手が訊き返した。「イェス・チープ・ホテル」と、増藻は答えた。タクシーはインディアン通りのホテルに止まった。
運転手が何かを言っている。何泊なのか訊いているようだ。「スリー。スリー・ナイト」と、増藻は答えた。運転手はホテルの受付に話をしてくれているようだ。
部屋でパンツを捨てて、直にズボンを履いた。シンガポールならどこでも買い物できるから、何も着替えを持ってこなかった。不思議と、捨てたパンツに汚物感がない。
下痢止め持ってくる余裕もなかった。東南アジアには必須うだろうに。いや待てよ。飛行機の中からおかしかった。という事は、この国に入る前、既に東南アジアの風が吹いていたんだな。電話でだって、相手の良し悪しが伝わるもんだ。だったら、時空を越える風だってあるはずだ。としたら、アレか? 昨日の夜、もう東南アジアの風が吹いていたのか? いや待て、昨日の夜があったから、俺は機上の人になったんだ。ああ、呼ばれたんだ、この国に。すべては未来からのメッセージだ。
ホテルを出て歩くと、大きな通りに面した建物の一階が食堂になっている。
「なかなか、繊維質の少ないものが沢山じゃないか」増藻は「チキン・アンド・ビーフ」と注文した。皿に盛られたライスの上に、肉の佃煮みたいなものが乗せられている。増藻はそれをスプーンでまぜまぜしてほおばった。
「この辺の国ではまぜまぜしなくちゃね」
メシが食道を通り、胃を抜けて、小腸を急いでくぐり、大腸でこの水便と混ざるまで何分? 増藻は急に立ち上がり、悟った風になり、大きな通りに歩いて行った。
「マンホールの原理か」
下半身を出して、四つん這いになり、財布の中のコインを取り出して、肛門に押し当てた。粘りのある便が指を滑らせて、なかなかうまくいかない。
「縦にしちゃいけない。蓋をしなきゃ」
「ああ、札か……」
増藻は財布の中から札を出して、一枚ずつ肛門に詰めていった。穴から出ようとする力と、それを塞ぐ力が押し比べをして、爆発的な圧力が生まれた。増藻の尻の穴から、勢いよく、濡れた札のかたまりが飛び出していった。それは大きな通りを走る一台のポルシェのオープンカーに当たった。大丈夫。大丈夫。増藻の頭に誰かの声が響く。「何が大丈夫なのだろう? 俺の肛門括約筋のことか?」
ヤシの実みたいな肌色の男が増藻の腹を蹴っている。
「ファッキン・ジャパニーズ! ファッキン・ジャパニーズ!」
四度目に腹を蹴られたとき、増藻は自分の目が飛び出したような気がしたが、多分それは気のせいだろう。
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