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『ステーキ』

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カントクの話

 
前書き
しまった。推敲前の文章さらしちまった。 

 
「お前ら、売れないモデルから 金むしり取っているんだろうが」と、言葉が脳裏を走る。この男を見ると、必ずこの言葉が走り抜けるんだ。俺はピクリともしないで、その男が脚本を読み終わるのを待っていた。事務所は静かだった。北国の冬だからと言うわけじゃない。ここは幸運なコーヒーショップみたいにいつも静かなんだ。そのせいで、放つ音の輪郭が強い。男はページをめくりながら、鼻息を強くしている。壁にはたくさんの宣材が並んでいた。素人が見たら笑っちまうような写真たち。その人達の中で「役者やってみたいです」という人達を、俺は使っている。「売れないモデルから 金むしり取る」その片棒を担ぐ。
 白いテーブルの上に、所属モデルが載っている雑誌が置いてあって、その向こうに男が座っていた。しかめた顔は「オーディションに応募してきた、そこそこかわいい娘をどうしようか?」と思いあぐねるように。
この男、何故か創作というものに畏怖を抱いている。初めて俺がここに来て脚本を見せた時、目を丸くしていた。『畏怖』いや、それじゃないかもしれない。「外部の者に犯される」もしくは「何故、真っ当な人間がこの求人に?」かも。俺、存在感あるな。静かに飲むコーヒー。熱すぎる。
「いいね」と男は言う。「いいじゃない」
「本当にわかってる?」と思いながら「ありがとうございます」と言う。もう、力の抜きどころはわかってるから。難しい事はしないよ。部屋の向こう、死角になるところから社長が姿を見せる。歩きながら彼女は言う。「最近、キレイに撮れてるよね。腕、上がった?」
俺は笑っている。「歳をくっただけです」ほめられたくない。「侘び寂びが入ってきて」
「いくつだっけ? 三十四? いい歳じゃない」微笑む彼女。本意を探るのは野暮なのかな。
「下にあった車、シンジ君のじゃないですか?」
「あれ、貸してるのよ」
「シンジ君いるんですか?」
「いや」と男が言った。「余裕かましてる」
「余裕なんですか」
「言い方が悪かった。ガツガツしてない」
 シンジ君、今回の主役。その前も、そのまた前も。たまにテレビCMに出ている大学生の男の子。
「コピーとらせてもらいます」
 背中に視線を感じるほどに静か。それは、彼らの一滴の不正も知らせないように。『腕が上がっている?』自分の中に自負があるか探してみる。そこには『バスケットボールのリングをつかむ事が出来る』くらいのものがあった。いや『相手のパスをカットして、目の前のディフェンスをレッグスルーでかわし、レイアップシュートを決めた』くらいのもの。全然、比喩じゃない。本当の自慢話だ。
 コピーの最中、男は喫煙スペースでタバコをふかしていた。遠い目をして外を眺め、うっとうしそうに煙を吐いた。もう、世の中から金を搾り取る手立ては、頭の中でしっかり形になっちまって、「これからどうして食っていけばいいのだろう?」なんて不安はよぎらないし、「大きな夢は捨てました。夢のある奴、税金払え。俺はもうやめたのだ。夢ってもんはたまに他人の迷惑になるから」という感じ。もちろん俺の感じたこと。でも、それって大事なんだ。カメラを回すようになって分った。顔の筋肉の歪みや、緊張、弛緩は本当にいろいろな意味を他人に与えてしまう。それによって人生は行き場所を変える。
俺のお陰でこの事務所の収入は上がっている。映像を撮るという名目で演技指導者を雇っては、また入所者から金を吸い上げている。そして俺が映像を撮り、それを宣材として売り込みにゆく。モデルになりきれない人達は、俳優に。少しの目くらまし。写真にキレイに写るより奥深い演技の世界は、彼らの中の内省的な部分を引き出してくれる。つまり、大人しくなるんだ。俺は、この事務所の安全弁の一つとして働いている。
「よろしく頼むわよ」という声に、「ハイッ! 大丈夫です!」と快活に答えた。まどろっこしい現実を吹き飛ばすには、体育会系が役に立つ

 北海道神宮の表参道。東京・青山の表参道。東京のそれは……明治神宮か。東京時代、「こんなキレイな所で撮るのは邪道だ」と思った。何の味もないじゃないか。人生ってのはもっと薄汚れているんだよ。何せあの表参道で演技しちまうと演者が浮く、くすむ、うそ臭い、馴染まない。でも今、あの華やかな光を受けて佇む寂しい人間を撮りたい。
 一度あそこで金持ちの息子相手にカメラを回した。ピカピカの車のボディーに映る人波を撮ったりして。BMWから颯爽と降りる彼に笑っちまった。
 東京で有名な撮影スポット。白いアーチのある戦火を逃れた建物で、学校の理系の友人から借りた白衣を着せて、工場群を後ろにスーツ姿の殺し屋を、上京したての18歳の絶叫をアメ横で。撮った。わからなくなった。それは燃えすぎた恋の遊びみたいに笑えたし、唾を吐きたくもなった。それは子供の玩具みたいに、ある日突然、雑な所が目に付いてしまって。
 心が渇いている。それは映像に良い影響を与えそうだ。心が渇けば潤いに敏感になれる。カメラが回ると散らばる、奔放な彼らの若い潤い。今なら「その想像力はいらない」と、彼らに言える。「その潤いは、もう通り過ぎたんだ。もっと、俺を喜ばす本当の潤いを」と。
神宮を参った。何も願わなかった。以前、宗教をかじったとき、「あの神様には、何でも願い事を言っていいんだよ」と言われたのを「何で?」と思ったからだ。人間と神様はそんな契約をしたのだろうか? 願い事をすれば叶えてあげましょうなどと。俺は想う。『願い事』なんてものは、所詮人間の世界の中でグルグル回る石油みたいなもんだ。ある人が手にした石油みたいなものは、いろいろなものに変わる。つまりはお金になったり、恋になったり。でもそれは他人とのつながりの中で右にいったり左にいったりしているだけだ。絶対的な幸福ではないよな。つまりは奪い合う事なんだな。そう想うと俺は、「奪うことなく上に行きます」と誓うんだ。撮影が決まると毎回そうだ。そう、神様に誓うんだ。何故『奪うことなく』という言葉が出てきたんだろう? よくわからないけど、すごくナイーブ。

 街中のコーヒーショップで上着を脱いだら、雑菌の臭いがした。タバコと体臭と、雑巾の臭い。朝、シャワーを浴びてから随分時間がたつ。
ここで何度も役者と顔合わせをしたな。若いとき自分流の幸せをたっぷり手に入れた男。三十路もこえてひどく狭量だった。一見、ゆったりとして、ふところの深い人間かと思わせておいて、ツボを突かれると、あからさまに敵対心を燃やす。それを、若いと見るか、老いと見るか。怒ることも、狭いことも、若さではあるけど、彼のそれは『はく製』みたいだった。悪態をつかせてもらえば、それはナルシズムの変容だった。
俺は若いときの潤いを、言葉なり映像なりで、しっかり理解して固定できりゃ、彼の『はく製』みたいな、潤いらしきものを失うこともなかったのか。それは、永遠の青春みたいに、輝くのか? いや違う。少し離れた席に女が座っている。色気を出しながら、心はギュッと閉じている。俺がその体に興味を抱いている事を感じているのかもしれない。実際、粘るような色気があった。それを見ると色気と本人の意思は無関係なんだと思う。むしろ色気とは意思の届かない肉体を、何かに貸しているってことじゃないか? 誰が自分の魅力的な部分を、イタリアンを作るみたいに造れるというのだろう。つまりさ、若いってことは届かないってことだ。届かないところに魅力が宿るんだ。人間の理解力をこえた若さってやつを理論的に、または経験的に、若いときを模して『はく製』にしちゃいけないんだな。

 冬だけれど体が熱いから冷たいカフェモカを飲みながら、事務所に置いてきた脚本を想えば、昔みたいなドキドキ薄れて、ただ世界に溶ける。一ページ目にタイトルがあって、二ページ目にキャストがある。マネージャーからキャストに渡ってゆくそれは、俺が世界に彫刻を刻むように、自分の意思を含んで現実に傷をつける。昔、積丹の神威岬の岩の上に書いた落書きよりは有益に彫り上げる。
 怖いキャストに低姿勢。あそこの事務所には、昔、ワルでならした人がいる。さっきの『はく製』の人。俺はそれが「映画の真実味を増す」とか言って重宝がる。自尊心を傷つけなきゃ何てことない。そしてフィクションより面白くない武勇伝を聞くこと。「仲間と一緒に、『有力者』のふところに入って、ワルしたさ」という出来事なんかは、彼の表現力が足りなくて、何とも思えなかったけど。
「守られているのは、価値があるからだよね」
「なるほど」
それより大変なのは『石花君』だわな。前々回の時は、にやけながら女をナンパするキモい役。それを救ったシンジ君は、ドラッグストアのCMを獲った。前回は、ケンカでシンジ君に負ける役。「ヨダレを垂らしてくれ」という、俺の要望をひどく嫌悪していたな。その後シンジ君は、ダーツ・バーのCMを獲った。石花君はそのシンジ君にライバル心を燃やすんだ。現実にね。
 ガラスの向こうを見ると、視界に女が入る。その存在に引力を感じながら、そよ風のように振舞う。「これだな」と思う。カメラが回っていても平常心。シンジ君にはそれが足りない。シンジ君は毎回、女の子相手に演じる。カメラが回って緊張する、ならわかる。彼はその逆なんだ。この前なんて、カメラの前で「おっぱじまるんじゃないか」と思わせる程だった。そして、それに脇役の『石花君』がケチをつけるんだ。
 頭の中にタフなボクサーがいる。
「そいつらを俺に殴らせてみな。きっと、彼ら、友達になれるぜ」
殴られ兄弟? 

 女が席を立った。グラスをキレイに空にしてタバコを三本吸った。俺のことなど気にしないで平静だっただろうか。彼女もこの寒いのに冷たいドリンクを飲んでいた。グラスの氷はとけていたから、ゆっくりしていったのだろう。俺はたまに意図的にそうする。意識してしまう人がいると、その違和感がなくなるまでその店に居座る。ゆっくりタバコを吸って時間を稼ぎ、体の中から異物が抜け出るのを待つ。それは、家に帰るときまで持ち越しになることもあるけど、そうしていると不思議と創作のネタになるんだ。
 なるほど俺は、じっと腹の中に、この空気が創り出す、物語の可能性という重い力を感じて平静。そこから見える少しの物語も逃さない、貪欲な小説家のよう。
「可能性?」
 創れば創るほど暖簾に腕押しの感があるから、その重たい力も削り取られてしまうけどね。
「可能性なんて、元々 君にはそんなものは無かったんだ」と誰かが言う。
「それはアリな話だ」
「可能性とは革命を起こす力さ。流れに乗ってうまい飯を食うのは、薄ら笑いの三流の人間だ」
「なるほど」
俺はじっと本当の潤いを探してみる。そこに吉之がいる。彼が性的に渇いているのを知っている。でも何故か潤いなんだ。それは現実に触れることなく、腐りかけているのかもしれない。枯れているはずの性欲が女にむしゃぶりつく。その場面を考えて少し勃起した。俺はカノジョにメールした。

 鼻、昔より とがってきてないか?

 タバコを一本吸ううちに返信がある。

 何それ! (怒りを込めた絵文字)

 俺はフェラチオのこと、思い出していたんだ。すうぅっと心が満たされる。俺たちうまくやっているよ。東京ほど高いビルなんか無い街でさ。

 店を出る時カウンターの奥にいる男が目に入った。好もしい枝振りをしている。樹木と同じく人間の体にも『枝ぶり』があるんだ。その男の枝ぶりは、美味しい木の実をつけなくとも人に愛でられるもの。さっき出て行った女と、この男。二人ならどんなラブ・ストーリーかな。頭の中で転がした。
「女のベタぼれだべ」
 あの女の人、目が小さくて情念が深そうだった。まぶたでせき止められて心が吹きぬけねぇんだ。俺? 俺の目は細いよ。魂が目から抜けたら硬く勃起しないし、書くべき事も溜まらないじゃないか。目の大きい奴ってのは猫みたいに風任せ的なところがあるからね。店の男は、あからさまな威圧感の無い、かといってその奥の魂の潤いを知らせぬこともない、上品な程よい眼力だった。

この歳になると、体の中からあふれ出すような熱は期待できないから、マフラーと手袋は必需品だ。「すすきの」の反対方向へ歩く。その街にはシンジ君の働く店がある。少し前の『イケメン』ブーム。テレビ中継で店の紹介をするとき、「イケメンが働いてますよ」というのが売りになったとき、事務所の社長が「これ、いけるわね」とシンジ君たち精鋭を店に送り込んだんだ。目ざとい暇な女たちがシンジ君を目当てに訪れる事もあるらしい。以前、友達に調査に行かせた。シンジ君が働いている最中ずっと上機嫌で彼のこと眺めている人もいるんだとか。その女も、飽きないかね? 底なしの性欲みたいで辟易するけど。ああ、その友達から電話あった。
「エロ気出して、男 勃起させたら、その男と寝ないと、その女は不幸になるッスよ。つまり、グラビアアイドルとヤリまくりの法則ですよ!」
 この男、前に「記録係」を頼んだら、まったく使えなかった。何とかとハサミは使いよう、そりゃ嘘だ。彼を使うぐらいならお守りでも持って歩くよ。その男から、たまに電話が来る。「女を紹介してくれ」って話だ。
 夜のすすきの、外国人が俺に訊く。「シングルの女の子、どこにいますか?」畏れがある。女の貞操がふわりと風を吹かす。それは誰がつくりだしたものだろう。

ふわりとあたたかいもの
ぴりりとキレのあるもの
しっとりしめっているもの
初夏のようにさわやかなもの

 感じていたい、この地下鉄の中。抑制と麻痺に包まれてそう思う。人間の集まりの中で生きてゆくとき、抑制と麻痺はスルリと忍び寄る。たぶん、それぞれの人間の不備を、知らぬ間にお互いにつつき合ってすべてを駄目にしてしまうんだ。それぞれの狭苦しい自由の中で、それぞれの放つほのかな魂の働きが、口をふさがれて混沌。そして、その沈黙を破るのはアホな若さだと決まっている。
「ササキ・ダッシュ!」
 脇を走り抜ける小学生。佐々木君はそんな走り方をするんだ。いや、『佐々木・脱臭』かもしれない。ひどいな。

 肌の荒れたあごからジワリと不運広がって、恵まれた高揚感を失う代わりに、冷静な心を手に入れる。一度得た醜さは体の隅々に顕れて、深い思索を生み出す。俺たち表現者は不幸と戦わなければならない。そこには前進と後退、せめぎ合いあり、精神にゆっくりと疲弊が染み込み、次第に心が熟してゆく。頭の中に美味しいメロンが浮かぶ。そう、俺は熟れた果実。「どうか食べて下さい」と己を差し出す。
俺の目の前には高校生のカップルが座っている。男の子は崩れた顔ながらも、額は若さで輝き、女の子は豊かな表情の中に、醜いものへの侮蔑を含んでいた。若さとはそういうものだ。体に皺が出来てからやっと心が落ち着くんだ。俺は幸福を否定している? いや、誰かの幸福がもたらす誰かの不幸を考えているんだよ。この女の子、幸福をその内に湛え、不幸な視線を敏感に感じるからこそ、この艶やかな男の子と一時の幸せな交わりを楽しんでいるのかも。女の子を不快にさせるのは、己の生まれ持っての幸運である事に気づくかな。幸福があってこそ不幸あらわる。逆も然り。
手触りのある不幸。俺はあごの吹き出物をなでるけれど、そこに思春期のような落ち込みはなかった。俺はこの短編映画を、うまく撮りきることが出来るだろうか。

「何でも自分の中の理屈の枠に押し込んで、他人のでっぱった所片付ける奴の『平和』なんて、誰が信じる! おう、『平和』には不都合とか不条理がつきもんだ。何故こんな事が起きるんだろうっていう、他人との境界線が揺らぐような驚嘆に満ちているのが『平和』なんだ。『平和』ってのは食べてみたら美味かった、みたいなもんだ。いや、手をつないだら勃起した、みたいなもんだ。善人が弱い者イジメを見て笑った、みたいなもんだ。驚きの連続なんだ。触れてみたら想像と全然違ったってことさ。『平和』の中で調子ぶっこいていたら神様があらかじめ用意しておいた異物にぶつかったみたいなもんなんだ。それらすべてが『平和』の一部なんだ。分りきれない事を魂で感じて「触れないでおこう」って思う気持ちも『平和』の一部だ。この世界は整っているようで異物の集まりなんだ。つまり、お前もその異物の一つだ。だから俺はあえて差し込むのさ。低いレベルの『平和』なんて望んじゃいないからね。異物の隙間を縫って天に届くのさ。なぁ、お前は単なる異物から、輝ける真実になれるのか?」石花君が主役をやりたいって、電話をかけてきた。カントクは俺の過去を知らない、とか言って訴えている。
「きっちりと境目を作るんだよ。それしかねぇ。それが『平和』ってもんだろ。きっちり線を引いたら醜い過去も味になるだろ? 過去ってもんはな、自分自身になったら、味になるんだ。境目をつければ、リアルに世の中を感じられる。世の中を渡っている手ごたえを感じられるんだ。それが、生きているってことだ。もし線を引かなけりゃ、すべてが予定調和に終わっちまうよ。そして世界は縮んじまうんだ。そんなもんはワルの世界だ」馬鹿にされる役はもうやりたくないと、石花君は声を張る。
「馬鹿にされる役やった奴が一番世界見えんだぞ。馬鹿な役やったら、それを抜け殻にして、新しい自分になたっらいい。ムケちまえ。ムケちまえよ」カントクの映画、芸術じゃないっスよ。思想のない噛み終わったガムみたいですよ。と石花君が言うから。
「味気のない脳みそで映画観るから反吐がでんだよ! 芸術ってのは理屈で観るんじゃないよ。そこに含まれている作家の魂を観るもんだよ。それが見えないから殺伐とした世界になるんだろ? 世の中ってのは様々な魂の色で満ちあふれてるんだぜ? えっ? 『俺が正しいか?』 俺は正しいって事がなんだか理解できないよ。俺が魚なら世の中はライトだ。誰かがキレイに光を当てて飾ってくれる。それが正しさならそれでいいだろ? すべては光の当て方だろうが」弱い奴が強い奴を負かすのが、カタルシスだ、と言う。
「弱い奴が強くなるのは好きじゃない。それは立場が入れ替わっただけだ。さっきも言ったろ? 自分自身になれ。他人と線を引け。そしたら嫌な風なんて全部吹き抜けちまうんだよ。えっ? 俺が映画はじめたのが女優を喰うためだって? 馬鹿かお前。俺は昔から、映画を観るたびスクリーンそっちのけで頭の中に物語が浮かんじまう人間だったんだよ。そのネタが案外面白かったからだぜ」頑張って敵を倒すのが芸術でしょ? 俺の作品どうだ、すごいっしょ。それが芸術でしょ?
「敵がいるってことは運があるってことだ。人間が一番欲しいのは運だから。運があるほど敵が多いんだぞ? 人間ってのは運を奪い合うもんだ。だったら沢山、敵がいた方がいいだろ? 最後にねじ伏せたら全部自分のもんよ。シンジ君はいずれ飽きるよ。この仕事。大丈夫だって」
 電話を切った後、想像で誰かの後頭部を「ポイッ」とはたいた。
「一番最後に、妥協しちまった」

 田舎町にはさみしい薄暮。ふと昔の夢がその時より深く舞い降りる。
 アメリカ人がテレビのインタビューに答えている。
「この映画を観たら、俺の周りからレイプ事件が消えたんだ。荒くれ者の心を包む、やさしい毛布のような映画さ。でも内容はギャング映画なんだぜ。不思議だろ?」
 カントクはちょっとだけ握ってすぐ離した。むかし誰かが吹かせた幻の風の中で見た夢なんだ。
カノジョに電話をする。
以前「俺はもうダメだよ」とくじけた電話をかけたことがあった。そのとき駆けつけてくれたカノジョは本気だった。慰めとも激励ともつかぬ興奮が伝わって心が引き締まった。その後カノジョに対する気持ちが変わった。変わったといっても、丁寧に前戯をする程度のものだけど。それ以来、冗談で「もうダメだ」と電話すると会いに来る。関係を少しゆるゆるにしたいことを了解して欲しかったから。お決まりのセリフでくすりと微笑む小説みたいにさ。えっ? 俺のカノジョ? 修学旅行で見た琵琶湖に似ている。いや、でも、この歳に一人で見る琵琶湖はなかなか趣深いんだよ。

 カノジョが来る間ぼおっと宙を見ていた。シャワーを浴びることも頭に浮かんだけれど、体を包む空気が強くてやさしかったからそのまま横になっていた。デリヘルみたいに一緒に浴びればいい。動かない体の中、頭がひどく冴える。世界の一員として考える事を強要されるみたいに思考する。

俺の中にも原発で失敗した人間と同じコントロールの欲ってのがあるわな。その欲は人間を確かに進化させてきたけど、世の中でいちばん下衆な感情の一つかも。そこには神様が導いた運命の出会いみたいな、確率論の利かない美しさに欠けているかも知れないやな。昔から人間は刀で人切るぞと言ってコントロールしたり、鉄砲も同じくそれに使われたり、そんなこと言ったら俺は出てゆくぞと、女の情念を利用したり。何せ自分の手の中で、すべてを転がそうとさせちまうんだ。命や心の重みってものがコントロール欲の源泉になるんだよな。すべての価値あるものが人質なんだよ、人質。いや、原発関係者、政治家、その他諸々の人達は一度、映画の演出をやってみればいいのだ。そうすればすべてをコントロールする事のバカバカしさに気がつくはずだ。守ると言ってコントロールして、奪うと言ってコントロール、終いには優しさってやつも使う。
 頭の中に原発が爆発した時の映像が。
 不謹慎な話だが、俺はあの飛び出た煙が精子に見える。後々何になるか分らないのだ。コントロールできるものから出来ないものに変わる瞬間を見たんだよ。それは人間世界の不確実さを現すものに見えたんだ。あの四角い施設の中で熱くなった真実ってやつが、たまりかねて飛び出したんだ。思春期に親を嫌うような強烈なパワーでさ。
 長い薄いナイフが右脇腹に刺さった気がした。そして考えるのを止めた。カノジョが来てそれに触るまでペニスには触れないでおこう。そこに宿る何かが逃げてしまう。

 交わるというのは、ひどく強い現実のようで夢のようだ。自分自身であって普段の自分じゃない。ジャングルの高い樹木に登って万能薬の木の実を獲るような危険は感じないけどそれと同じぐらい有り難いものだ。それも、しているうちに何故かまったく当たり前の事に思える。寒風にさらされていた心が温まっているというのに、だ。いつも心の中で何かを求めている声が、遠くで吹く風を呼び込んで、かりそめの充足を与えてはくれる。そこには、長年を費やして集めたオブジェに囲まれた部屋みたいな混沌と完結性がある。何にどう光を当てればいいのかわからないけど、注視すれば風向きの関係で常に輝き方を変えている。服を脱がす前はいろいろと記憶が感性にホコリをかけちまって、嫌っている予定調和が頭をよぎるから、乳首をコリコリとしてスイッチを入れる。体の中に充満した混沌は集中力によって収れんされて、何らかのエキスとなってちょっと出る。何かが足りないためか「好きだよ」と言葉を添える。舌を差し入れる悦びを逃さないように追いかけながら早足でゆく。悦びのツボは生き物のように動く。そして、俺の心と愛撫がどうであろうと、俺の視線の持つ力がカノジョの胸に突き刺さってその心を固くするから、スルリと自然に向こう側へ行けないようだった。
「人間するべき事をし、してはいけない事をしなければ才能は枯れんのだよ」
俺が後ろから突っついている間、ずっと頭の中に響いてた。それほど邪魔じゃなかったけど。
終わった後、おでこの曲線を愛でて、眉を確かめ、頬骨をコリコリと。耳に指を滑らせ、耳たぶを軽く絞る。感じるか否かわからない首筋に唇をつけ、細い鎖骨に息を吐いた。絞り上げるように抱きしめたら、カノジョ熱い息を吐いた。
 カノジョ、シャワーは一緒に入らないと言う。何か特別な洗い方をするのだろうか? それとも、俺の何かに穢れでも感じるようになったのか。

 カノジョが目を閉じているその横でぼんやりすれば、吉之が浮かぶ。その姿は実際より大きく、自分の不備を責める曖昧な、言葉を持たない問いを投げかけてくる。俺は小さな公園を浮かべる。遊具はある。それはくたびれている以前に平凡な色をしていたし小ぶりすぎた。いや、俺はあらゆる大きさに満足しているはずだ。目の前の女を輝かせて不安なんて消してしまえばいいけど、不安の種は可能性とせめぎあっていたから下手に触れたくないし、そんなかたちで払拭するのは良くないのではないか。そういう考えが浮かぶような吉之の存在。俺は吉之の肩をもってサツキさんに相対した。
 自分が好きな物だけを集めたらキレイな世の中になったように、一見そう思えるだろう? だけどな、その自分の好きな物の存在が嫌いな物の裏面であったらどうだろう。嫌いな物があるから好きな物にエネルギーが集まるとしたらどうだろうかな? 俺だって嫌いな物は嫌いだ。深く考えて無理やり好きになる気もない。でも、嫌いな物から何かを奪い取る連中があまり好きではないんだ。わがまま。そんな女を見ると、その嫌いな物にどうしても肩入れしたくなるのよ。なんだか逃げたくないのよ。こういう思いで吉之の応援をしている事、本人に言わないでおこう。

 カノジョが帰った後、胸の中で静かに力強く動く心臓の音に耳を澄ませ、身体を包む柔らかい温かさを味わう。
「牙というのは抜かれる物だね。切れる刃物を持っているのも疲れるし。ものを考えるには、これはこれで都合がいい」
 そのまろやかな意識のまま吉之に電話をかけた。

 カントクは猫をなでる様に吉之の映画の現場での必要性を語る。
「吉之は太陽で俺は月だよ。月は太陽から、どう人間を照らせばいいか教わるんだ。吉之が後ろにいると手が抜けない気になるんだよ」
 スペースシップから見る夜の地球にあまた光る稲妻のごとく、吉之の頭に軽くてちょっと遠い頭痛さし込む。それを耐えるように意識は薄く、ぼうっと。
「何で僕に優しくするの?」と吉之は訊いた。
「ブサイクだからだよ」と言ってカントクは笑った。そのセリフ、二十回位言わせたから灰汁が抜けている。
「今回のやつもヤクザな奴出てくるね。カントクは何で汚いこと好んで書くの?」
「それは恐怖だ。恐怖に混じる好奇心だ。平和に生きてても汚いことに触れてんだ。タバコ一本平和にふかせば、悪人の頭に悪辣な名案が浮かぶのよ。表と裏は常につながってるんだな。俺が正しい事をしたら何故か反動で悪い事が起こらねぇか心配になる。そしてそれを描くんだ。そしたらみんなその悪辣な名案が伸ばす手から逃れられるんじゃねぇかって思うんだ。そしてその魔の手が伸びる先には必ず主人公がいるんだよ」つらつらとカントクは言った。吉之は黙って聞いた。
「いつかこの人は僕のことを主人公とか言いそうだな」と吉之は思う。「不幸を背負うのが主人公なんだよ」とか言って。その想いはなんだか吉之の居心地を悪くさせた。逃れられない鎖をやさしい看守がそっと手足につけるみたいに。
 カントクは吉之の抑えた沈黙、行間に大きな器になみなみ盛られた感性が溢れている気がしてならない。それと同時に「もう吉之の性欲は腐りかけている」と思う。
「なあ吉之、新しい脚本見て何か思いつかない?」
「とてつもなく勃起したチンポを持つ男と、とめどなく濡れた女がこの街で強烈に引き合って合体して、回転しながら天に舞い上がる映像が浮かんでくるよ」
「おお、その妄想いいね。妄想は魂の真実を守る鎧だよ。ウニみたいな妄想だよ。ウニのトゲの中に真実があるよ」カントクは上機嫌に笑っている。
「ホントに今度の主役はシンジ君でいいの?」
 前の現場で「何の為にあの人いるの?」と剣呑に言われたから吉之は少し押し返した。
「立場。立場ですよ、おにいさん」
「なぁ、カントク。美しい人は天から光を降ろしてくるんだよ。真実の光だよ。皆それで生きる意味を教わるんだ」
「俺にはそんな風に思えないけどね。あいつらから少し漏れ出るイビツなもん見逃したくないんだよ。見逃しちゃいけねぇ。いけねぇんだよ」
 吉之は「いや、僕も彼を否定したのだけれど」を飲み込んだ。
「そのイビツなもんで世界をなでるのが、さいきん快感になっちまって、キレイなものホント拝みたいね」
「ねぇ。シンジ君は今でももてるの?」そう訊く吉之の中には何もなかった。カントクと電話すると何故か心に空洞が出来る。それは何の手触りも持たず、感情を吸い込んでしまうから、たまに気の抜けた言葉を発する。いや、それは空洞がどうのじゃなく、詰まりすぎているんだ。「詰まっているものは、養殖のうなぎが餌をむさぼり食うような意識の混ざり合いなのだ」と思う。
「人間は虫がついてねぇのが好きなんだよ。女は特に顕著だ。多少難があっても、虫の喰わない魂を好むんだよ。喰われちまったらお終いさ。カフカみたいにね」
「カフカ? フランツ?」
「ああ、カフカだ……。でも虫に喰われてこその芸術だと思うんだよ。何せすべての主人公は足かせを付けられているだろ? でもそれを演じるのはキレイな人間だ。穴の開いてないキレイな奴だ。それで思うんだ。虫に喰われた現実の主人公達は、その悲しみを知らぬ間に『力』としてキレイな彼らにあげちまっているんじゃないかって。主人公の虫に喰われた悲しみはキュゥゥと白い世界に吸い込まれちまって『まるで役者の一部分です』みたいに振舞って、過去に主人公の悲しみだった事を忘れてかっこいい何かになっちまう。そして現実の主人公はこの世から忘れ去られちまう。『ああ、あんな醜い人いたな。あの人は何であんな人生だったのだろう? 何かの因果だろうな』くらいなもんだ。醜さの中に悲しみが埋没して誰も理解できやしないんだ。さらに言えば彼らは、『私を演じてくれてありがとう』なんて言葉を抱えて死んじまうんだ。なかなかひでぇ話だ。でもさ、こちら側の都合を言えば、キレイな連中は虫の喰った穴をきれいに映し出せる鏡なんじゃないかって。完璧にそろった感性により映し出される悲しみだから感じるんだ。心を害さない、キレイな外見でさ。『なるほど、こんな悲しみもあるんだ』って具合にね。それは、キレイに人の心の中に染み込むんだな。まぁどっちも本当だけど、芸術には必ず虫喰いが必要なんだよ」カントクは言い切って少し黙った。
「なぁ、今日はどんな日だった?」
「一本の矢も放たず、また受けもしない一日だった」と吉之は答えた。
「なんだか偉人の言葉みたいだな」
「誰かが放った矢は間違ったところに刺さっているのか、もしくは刺さったところから自分が撤退したかだと思う」
 撮影の日時の相談があった。カントクは日雇いで働いているから暇は空けられるし、吉之には用事がなかった。
 カントクは電話を切った後、テレビドラマの若い女優を応援した。吉之はカントクとのつながりを地味なシャツみたいに観察して、また来るかもしれない激しい勃起を用心していた。毎晩それはやってくるのだ。
 
 

 
後書き
どうだろうね。 
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