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『ステーキ』

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ある夜の話

 
前書き
裏側の話です。 

 
「今日のセリフ教えてくれよ」とシンジ君が訊く。
「この世のすべては魂の性感帯を突くためのもんだ。ここに来たのは、強く突っつかれるためだろ? そうだろ? 何で可愛い服を着てるの? 何で目を見ないの? 突っつかれるのが怖いの? 恋は雷に撃たれるみたいにって言うだろ? 雷は天から降ってくるけど、自分から迎えにいかなきゃ撃たれないんだ。もう、君のすべてがきっかけなんだ。俺はもう避雷針みたいだよ」若い男は答えたから、シンジ君はクスクス笑っている。
「ダーツ・バーの女にそれ言ったら兄弟になれるぜ」
「いいね」
 シンジ君は過去に彼を事務所に誘ったけど断られた。ひっそりとヤリまくりたいのだと言った。彼曰く、この世の女には地雷をはらんでいる者がある。それは彼女の無意識の奥深くにあって自身ではわからないんだとか。今日は地雷を踏んだか? 明日はどうだ? ひやひやしながら心地よい興奮に身をゆだねるのはなかなか挑戦的で自虐的でもある。自分がいつか不能になることを想像しながら悦楽をむさぼるのだ。「表舞台に立つと時間が縮む」そう言って断ったんだ。
 ホールには派手な音の重なり。人はまばら。空調からはアロマの香り。隙あらば何かをしとめる酒作りの男。
 若い男は何かを見つけたみたいだった。
「行くのか?」とシンジ君が言うと。興奮でまったりとした目で女の子に向かった。後ろを向くと酒作り男が目線を走らせている。「お前と兄弟? ノー」カウンターの向こう端に顔の長い男。「お前も兄弟? ノー」ガラスブロックの壁の向こうにキャップをかぶった場違いな年長者。「兄弟? ノー。もう引退だろう。若いとき悪をかじったな」
 モテるからって女をはべらせたら人望は消える。その事に気がついたときは本当に興奮した。つまりその逆が天国だってことなんだな。
「人間するべきときに、するべき事をやらなきゃダメになるよ。そのするべき事が楽しいんだから最高じゃん」若い男が言う。シンジ君が「いいセリフだ」とうなずいた。
 彼は少しのあいだ黙っていた。女の子は喋らせなきゃいけない。その言葉は聞こえなかったが、彼の意識のまろやかな部分に吸い込まれているらしい。
「私って運を信じないの」音の狭間から声が届く。
「運は信じるものじゃない。自分を信じられるまで動き続ける事だよ。それが運になるんだ。突然空から降ってくる運なんてありゃしないんだよ?」シンジ君は「上手い事いうね」とまたうなずいた。彼が女の子の手を引きながらフロアを横切ろうとしている。シンジ君はステージの上の男に手で合図した。音楽が派手に大きくなった。「おお、兄弟。いい音だ」二分したらもう始まっているだろう。

 小さいテーブル、小さいスツール。細い体の増藻がいる。「あのとき俺は正しかったのではないか?」増藻はそう思う。「正しい欲が満たされると、そこに道が生まれ皆を導く」フロアに目を配り、カウンターの向こうに倉庫らしきものを探し、辛い酒を舐める。この店は地下室なんかありゃしないか。
東京の大きい人、ある国家権力者に会って、その人の頭の片隅に自分たちの存在を割り込ませようという話。俺たちがよく行く店の地下室は、むかし貯蔵庫だったのが改装されて上品な応接を頼まれていた。そこで権力者を骨抜きになるようなセックスで抱き込もうとしたんだ。乱交を目の前にしてじっとしている男を、気が弱いと見た俺は「自分、先に行きますよ」と言った。大きい人はそれを制して、みんなで一緒に交わりを眺めていた。事前に媚薬を垂らした酒を飲ませておいた、くすんだ色の顔をしていたその男は一向に俺たちに心をゆるさなかった。あのとき俺の輝くようなセックスを見れば、その男の気持ちも変わったのではないか? そして大きな傘が開いたのではないか? その男曰く「私は若いときにしこたまヤリまくったんでね」本当か? 縮みあがったのではないか? その男が帰った後、交わっている俺を大きな人が見ていた。
「その命は言い訳か?」外見のいい女を抱いて頭に乗った俺に言う。
「切れば血の流れる身体を盾にしてな」膨らんだ俺が嫌いらしい。
「欲にも質があるんだぜ」俺の意識は濃密だった。高級な年を経たスコッチみたいに。
「奴らと歯車が合うくらい盲目じゃないか」いったい誰のことを言ったのか、俺の巨根を見ていたな。
「命とは一応、愛だな」ああそうだはみ出した所に愛はあるのだ。
 この一件の後、下部の人間がパクられた。俺は大きな人達の顛末を見ないうちに姿を消した。暗い闇に葬られる前に。
 増藻の後ろで優しい声がした。
「幸運になりたけりゃ自分の気持ちのいいところ出さなきゃ。だってそこが悦ぶのが幸せなんだろ? 大丈夫だよ、気持ちいいは幸福の源だよ」増藻は「正しい」と首を縦に振った。

 いきがりが扉を開けて、ふわついた女が吸い込まれていく。増藻が見つめる扉に英語で何か書いてある。たぶん便所という意味だ。文字がキラキラ光っている。名前を上品にしたら中身まで上品になるのか? 『増藻』なんか意味あるか? いずれ緑色の宇宙人になるぜ。
その扉が閉まると音楽が大きくなった。「何だ?」と思ったが、すぐ合点した。フロアにいる若い男がまた扉に吸い込まれてゆく。その後を追ってまた男。ならば増藻も吸い込まれよう。

 大きな鏡は気持ちがいい。世界が広がる。個室に入って思う。この女は男達に視姦されて心が死ぬだろうか? 死んでしまった女は愛の壷になる。何かから逃げようと愛を追いかける。何かとはたぶん心の奥にあった羞恥心? 理性? そんなもんだ。自分のそれを否定されるような経験をしたら何故か全力で愛を求め、そして自分を肯定する思考回路が開発される。それでも否定されたら? 死ぬまでさ。それにしても男はなかなかのイチモツだな。15.8㌢の4.5㌢か。隣の個室から「ククッ」と押し殺した笑いが聴こえた。
 女が声を殺しながらも盛り上がっている。その姿に魂が吸い込まれる。増藻はいま持っているパイを手放したくなってきた。何も考えていなかったいつの日かに戻りたくなったのだ。「丘のある町で鐘がゴンゴン鳴っているな」それが何の意味か分らないが、目の前にある人間に魂をいじられている事だけが分った。増藻は考える。いつもの俺ならば、膨らんで自分以上になっている人間を見たら、これを制する。しかしながらこの場面で肝っ玉に違和感があった。ムダ毛の一本まで肯定したいほどの勢いが無いのを感じていたのだ。「丘のある町は歴史を愛して止まない人達の集まりだ」そうだ、俺の歴史を愛そう。この男を女で誘い、ボクシングで制し、金で誘い、でかいイチモツで制す。そしてタバコをふかす寂しげな背中で裏社会を知らせる。「丘のある町を闊歩するのは都会で汚れをたっぷりと吸い込んで楽しみ、田舎に帰ってつつましく暮らそうとする喜ばしい新婚夫婦だ」そういうことだ。

「名前なんていうんだ」増藻が男を連れてフロアの端っこにいる。
「リンです。臨機応変のリンです」
「リン君ちょっと待っててな」
 増藻はフロアを見回して人の間を歩いていった。
「リン? リン君?」シンジ君は少し離れてぼんやり男を見ていた。「ノゾム君じゃなかったの? 女遊びがばれない様に名前を変えているって言ったけど、俺にも嘘? それとも『リン』が嘘?」シンジ君はじっと男を見ている。先ほどフロアで話していたときと感じが違う。いや、彼の感じが変わったのではなく、キャップの男が話しかけたから、なにやら彼の薄い膜が張り換わって彼の心がわからなくなっただけだ。親友だと思っていた人間が、意外な人間と心を通じていたみたいな事。「どうなる?」
 増藻はフロアの女の子に声をかけている。「やっぱり俺に開発された女は違うね。体中からフェロモンが溢れている」その女を連れて、リン君の所に戻ってきた。人差し指を立てる。良く見ているんだよ。その指で彼女のチューブトップを引き上げた。弾むような乳房がこぼれ出る。リン君は高い声を出して笑った。「今、終わったばかりなのに元気だね」増藻は彼女の乳房を隠して、耳打ちした。「この街は狭いよ。裏を知ればもっと深くなるけどね。上手に鉱脈を探さなきゃすぐに行きづまる」
 知らない世界がたまに網を広げて誰かを捕まえにくる。人間だから知恵が利くと思うかも知れないが、網にかかるときは魚のように無知になる。おぼろげながら人間同士のつながりが、神の定めた万物の仕組みから逃れられないような気がする。
踊りながら対峙する世界の真実。体の中に何か入ったり出て行ったり。隣の女の色気が誰かの好意を誘う。空っぽの頭を風がなでる。世界をかき回す性欲が熱い息とともに流れ出ている。マニアにしか分らない、価値のあるフィギュアを愛する者同士みたいに密なつながりを持った自分達は特別であり一般的である。
「深く掘らなければ行きづまる」その言葉にちょっと焦る。それに足首をつかまれながらシンジ君は踊った。さっきリン君? が愛した女の子に「すごく良いね」と声をかけた。その言葉を伝って自分の過去が少ししらけたみたいだった。
「俺たちは健康なんだ。森の奥の水源地みたいにさ。この世の深みは俺たち元気な奴の生き様だよ」

 佐古の運転するカローラは誰の物だったか、後ろに座る増藻がたずねる。
「これは捕獲に行く時の車ですよ」
「そんな事は分っている」捕獲。薬の受け渡しの時に使うんだから俺が知らないわけないだろ。
「たぶん鎌口さんではないですか」
「ああ」と言って増藻は黙った。
「たぶんですよ」
 誰の物か分らない事が何故か気になった。どうしてだろう。乗りなれているものから過去の記憶が剥がれ落ちて、その隙に知らぬものが忍び寄る。身体の端々にまで血液を送りたい。そして手の届くところにも同じように。
「悪に触れて飛ばねぇだけの自制心はあるか?」そう訊いた後、男の顔を見たら「コイツ分ってねぇな」と気がついた。自分の言葉が届いていない。何か虚ろな空気に吸い込まれてゆくのを感じたんだ。昔、大きな人から言われた言葉を思い出した。

渦を巻く悪人になっちゃ駄目だ
悪人が誓うのは個人主義なんだ
渦に巻き込まれた友人がいたら
気をつけなくちゃいけない
いつかそいつは自我に目覚めて
怒りの矛先を向けてくるだろう

 増藻は助手席に座っている女を「いいよ、今日は帰りなよ」といって制して「送ってってよ」と佐古にあずけた。「愛してる。愛してるよ」

 とても純粋だったあの人
 世界方々から姿様々な魂を集めて
 顔が変わってしまった
 霊魂たちはその人を
あの世への出口として集まり
 腐り果てるまで使い込んでしまった
 その人の純粋な幸運の中で
天に届く経験を記憶した魂は
 ちりぢりに散らばって
 幸運を欲しがる人に受け取られ
世界に固い膜を造った
 彼らは梯子で軽々と天に昇り
 その道を確かにして
 不運に手を汚すことなくむさぼった
 他の人々はどうやって幸運に辿り着くか
 分らないままである

「それなんだ?」と増藻が訊いた。
「いや、自分 文学部なんで」とリン君は答えた。
「何て作家だ?」
「読み人知らずです」
「読み人知らずか。聞いたことあるな」この男どうしよう? 「おい、ライターを紙の上に置くな」
「はい?」
「紙が燃えちまう事を連想するだろ」
 気になった人間を集めて適度な距離に配置する。太陽が惑星を従えるように。
この男を少し遠い所に? 
俺には木星や土星が理解できない。どんなに馬鹿でも欲を刺激すればなんらかの色気が出る。色気が出れば心が通じる。言葉をもって人が通じるみたいに、色気でつながるんだ。木星や土星には愛も色気もないだろう。俺はあの色合いが気持ちが悪いんだ。
この男をどうしよう? 
 増藻は電話機を見つめている。それはどれほど遠い? 自分とそれの距離を近づけたり遠ざけたりしながら顔をしかめている。この男が受話器を取ってメモ帳にコリコリとロシア人の声を書き写すところを想像してキュウゥと集中する。「いいね」意識の薄い奴が世界に穴を開ける。自分自身も穴に吸い込まれながら。この男が怒ったとき何をする? 振り返って彼を見ると窓に張られた叔父さんのポスターを見ている。
「それはカモフラだよ。実際には存在しない政治家だ」
 増藻はこの男が四肢を振り回して踊る姿が見える。多分その程度だろう。

「初めての女は大事なところを触れられることをひどく怖がっていたよ。原始人が科学を恐れるようにね。二人目の女は大事なところに触られすぎて、鼻息がかかるだけで『もう止めて』と頼むんだ。三人目の女は大事なところが大きくて探すのが楽だと思ったら、オカマだったんだ。どう? 面白い?」女の子が「あなたお金のプロなんでしょ?」と訊いてきた。「お金があっても悪くない人の見分け方教えてよ」と頼むから、こう切り返した。
「金は愛の大きさだよ。愛は人の心の中に必ずあるものだから、掘れば必ず見つかるんだよ。何のために学校へ行く? 穴を掘る手がかりを探しているのさ。でもたまに他人の鉱脈を掘ってしまう人もいるけれどね。何? 金は愛じゃない? でも愛の化身だよ? 純な愛も、金も人に力を与えるんだから。鉱脈はいつか行き止る? 金運が尽きるという事は、目が悪くなるという事だよ。目が悪くなるのは歳のせい? うん、それもあるけど……美術館に行ったことはある? 光に当たりすぎたら作品が劣化してしまう。それと似ているんだよ。金が光で、幸運が芸術さ。もっと分りやすく言うと、金が引き出した欲が幸運を絡めとって、一緒に腐ってしまうんだ。幸運とはシャキッとしているんだ。シャキッとした眼差しを持っている。金持ちのゆるい眼差しの笑顔を見たことがあるだろう? そりゃぁもう、幸運の腐りかけさ。本当の幸運はシャキッとしているんだよ。金の流れを見れば誰が幸運を持っているか分る。その幸運が自らの肉体によってつなぎとめられたものならば自分の金に満たされる。もし他人から幸運を奪って金を手に入れるならば、自らの幸運を金と引き換えに失う事になる。私は何を失ったと思う?」
女の子は「ボッキ」と答えた。「うん、それでいい」この娘が体で稼げるのはあとわずかだな。今日もエロいことをしてたっぷりお金を渡そう。「ボッキのないセックスもおつなものだよ」彼女の大事なところをやさしく撫でると「ツン」と心が溢れる。応じて私も「ツン」となる。
「ねェ、ホントの名前なんていうの?」
男は考え込んだ。もしくは考え込んでいるフリをした。
「名前を知ることは、私の過去の人生をかじることになるけど」男は続ける。「名前の本当の意味を知るには君はまだ若すぎるし、私はその名前に少なからず満足している。自分の名前に満足しているのは可笑しいかい?」彼女は首を横に振った。「それをこわさないほうがいい」その言葉は男の中で真実らしく響いた。なんだか村上春樹みたいじゃないか。自分の過去の日々の密度を測ったが手触りはなかった。それは意識に触れてはいるが、力を失っているみたいだ。もし過去の日々の力を、それぞれに関わる人々から集めてこの意識に放り込んだら、私は瞬殺だろう。

 金を稼ぐことを想うとき、私はよくこの事を頭に描く。原始の人間が一人、森の奥に勇気を持って踏み入り、高い木立に登り美味しい木の実を、又は、あまたある草の中から万病の薬草を持ち帰り仲間から褒め称えられ、上等な肉を食べさせてもらう。まったく金を稼ぐ基本ではないか。さっき帰った女の子は森の奥に入って行ったのだろうか? ここに来ること自体、森に足を踏み入れるという事なのか、それとも男を悦ばす身体を手に入れたという事が彼女の血族の旅なのか。彼女はコートを抱えて背中を丸めて帰って行った。その景色に何かを感じるべきなのかもしれないが、何も思いつきはしなかった。
 そんな夜、増藻さんが私の部屋を訪ねてきた。新しい伝言係を連れてやってきた。事の後、シャワーは浴びておいたから大丈夫だ。新しい人間は馴染むまで少々時間がかかる。田舎から東京に出たことのある人間なら分ってくれると思う。つまり、空気が変わるときには用心しようという事だ。
 この増藻という男は、元々チンピラだからか田舎者だからか、それともこの街で暮らしている不本意からなのか、顔から隙がにじみ出る。感情が表情によく出て、それが歳とともに固着してゆく。それが快い笑顔ならよかったのにね。
「いいヴィンテージのペルシャ絨毯がありますよ」増藻さんはこの冗談にいつも笑ってくれる。昔、二人でペルシャ絨毯のバッタもんを売ってしのいでいた事があったから。
「この壁の金庫には下に開く扉がありまして、そこから地下に二、三回ひっくり返って落ちてベルトコンベアーに乗ります。検査機に『不良品』としてはじかれなければ目的地に安全にたどり着きます」増藻さんがマネーロンダリングの話を心配していたから、こう話した。増藻さんは上手い比喩だと思って笑っていた。体を絞っているから顔には皺が多かった。「南国に行く」いつも言う口癖を新しい伝言係の前では言わなかった。その代わり資金洗浄の話を出した。もしかすると『俺たちは本物の悪だよ』と示しておきたかったのかもしれない。

 昔、知人に連れられて行った後楽園ホールで、後に世界を獲るボクサーを見れば「十九億」と誰かがささやいた。私は長い時間をかけてその声を理解した。そこに至るまで三度、精神科の隔離病棟に世話になった。
 裏社会の人間は、表舞台で大金を稼ぐ人間の金の流れを細かく把握していた。もちろんどうやってその金をかすめ取ろうか、と考える為である。私は当然ながら偉い人達に助言した。
「そろそろ金脈が他に移りそうですよ」
 そのことによって私は偉い人達のそばに置いてもらえたのだ。誰よりも早く金脈をつかむ事は何よりも大事なことだったから。何故、偉い人と知り合いになれたか? 精神科の病棟には、わりと裏社会の人が逃げ込んでいるのだ。

 彼らはあるべき金額を超えて金を手に入れると必ず堕ちた。それは目に見えない薄い膜、世界を区切る神様の意、分水嶺か。そのうち私は、私のインスピレーションが引き金になって彼らの上限が決まるのではないか、と考えて少々悪い気になった。しかしながら前を向いて考えれば、私に査定された事によってその金が彼らの中で落ち着く、あるいは彼らの頭上にある形なき物を金として彼らに握らせる事になるのではないか。そして私は天使のように人に付き添いその金の運命を見つめる。
今しがた帰っていった増藻さん、もう上限が来ているのだ。もしかしたら私のインスピレーションを超える何かがあるのだろうか。大きな鉱脈が彼の手によって掘られているのかもしれない。
 私を可愛がった偉い人に「俺はいくらだ?」と訊かれた。「まだまだです。私の知らない桁が見えます」その人、他人の金脈を掘っていた。自分の運はもう使い果たしていたのだ。世の中はひずみ、大きな街で大きな爆発が起きた。「くじら12号」という歌が耳に残っていた。

 帰りの車の中で増藻は暗い街を眺めて思う。最近の車はおとなし過ぎてダメだ。エンジン音は世界に渦巻く雑音から孤独を守ってくれる。ある意味ひとつ壁を造るんだな。街を無意味にしたい時もあるだろうが。街を無意味に? 
「この街がステーキに見えないか」
佐古が「何ですか? 食事ですか?」と訊いたから。いいや、と答えた。増藻は東京時代の古いタイプのヤクザを思い出した。一人のいきがった男を捕まえてリンチを喰らわせたんだ。「ヤクザも怖くねェ」とうそぶいていた男だったが、リンチが終わった後、潤んだ瞳で古いタイプのヤクザを見上げていたっけ。ありぁ愛だな。愛が芽生えたんだ。うん、意味がある。俺たちは濃密な意味のある世界を旅してる。
 一つの事象をとらまえると、他の物事も同じ要素があることに気がつく。この世界の仕組みってのは、自分たちで圧をかけて、自分たちで取り除く。知らない奴がどこかで圧をかければ、そこに飛んでゆき、それもまた取り込んで新しい圧にする。その力があるとなんだか難しい問題も簡単になっちまう。
「その件はあいつらに任そうか」
ある程度 圧が大きくなるとそれを知る人間は落ち着く。大きな傘が必要だ。そんな歌あった。大きな傘の下は柔らかい笑顔であふれている。そしてコントロールを手にした人間は、たまに自分たちを善人ではないか? と思う。
「リン君、明日、電話番来るかな?」
 俺はその仕組みをヤリチンの魂だと思う。彼らにあるのは魅力じゃない、圧力だ。たっぷりと経験を積むと圧は強まる。気が練りあがって相対する人間を制する事が出来る。相手にあずけた圧が、そいつを自分の文脈に導き、「それが答えだ」と言えるものを引き出したら、それを柔らかく取り払って見せる。相手は晴れやかな気分で従属する。たまに俺もそれを使う。

 増藻は部屋に帰ってセックスをした後、セックスをした。谷間の中で「カモン! 飯盛女!」と叫んだ。事の最中、耳元で妖精が彼を賛美している。

鍛えた背中が素敵だわ 「おう!」

そんなに感じるなんて極めて優れた脳みそだ 「おう!」

その大きなモノは鉱脈を探る敏感な嗅覚を持っている 「おう!」

天に突き抜ける気合はひるがえって柔らかい平和をもたらすね 「おう!」

その吐息は絶滅間近の動物に生きる強さを与えるね 「おうよ! ケツの穴まで悦んでいる! あえて世界に突き出したいぐらいだ!」

 増藻は鏡の前に立ち、両腕を広げ、肘をたたみ、上腕二頭筋を愛す。
「均整の取れた身体!」
 指二本がピンと張り詰められて、宙にある架空の障害物に突き立てられ、それを砕いた。
「世の中に流れるテクニックとは天上界に登るための梯子。一段一段昇れば空に達する。愚人は愚直に昇りながら、中途の段の魅力に足を休めて満足するであろう。それは諦念の始まり。衰えの足音に追い越された証拠なのだ!」増藻の唇が、鼻がピクピクと震えている。
「満足なセックスを与えられると人間は戦争をしないのではないかと、誰かが言う。しかしながら最高の愉しみを求めるのも人間の性と歌われる。ならば戦争は不可避ではないか。その戦争を収めるのはやはり金だろうな、クスリだろうな。人々は己の分を知りながら少し上の世界を求める。その隙間を埋めるのだ。クスリも金もその道具だから」
 増藻は窓の外を眺めている。後ろでは女がアイスを食べている。電気スタンドの灯りをさえぎって窓の向こうを見ればパチンコ屋の立体駐車場が見える。
「この街は好かねぇ。街に住む者の心の奥の欲を表すのがその街の風景じゃなきゃいけないな」


ダイヤモンドみたいに
確かなものが
目を引くから

ほのかな香りを残す
若い日のかすみのような
そんなものが指の間をすり抜けて
忘れ去られていながらも
いまだに世界に残っています

それをまた吸い込むように
だれも彼もが 新しい答えを
新人の映画俳優ですと 差し出すのです

まばゆく輝くそれは
ある人の心の隙間を埋め
また恥じらいを生む

与えることで満たし
同時に失望を与える

失望はまた
若き日のほのかな香り

誰かがそれを嗅ぎ分けて
ダイヤモンドというのです

 捨てたのがいけなかったのか? 全部ひっくるめて昇華したらよかったのか? いや、俺の気力がとりもちのように全てをひっくるめていたはずだ。俺はダイヤモンドみたいな光るものばかりむさぼって、大事なものをこぼしちゃったのか? その大事なものを誰かが内に秘めて責めに来るのか? 追い抜いてゆくのか? 俺が大人になって忘れたものって何だ? 満足と失望? そいつは一緒にやってくるのか? それとも誰かの満足が失望を運んでくるのか? 
 15才で捨てたふざけ合った友達の代わりに入ってきたものは、女の子の好む凛として切ない、みんなの一歩先を行く、未来を見つめる孤独だ。
 17才で捨てた物の代わりに入ってきたのは、外的刺激に対してわざと一テンポ遅れて反応して目の前の雑な物に喰いつかなくなる心。
 19才で捨てたのは、ありきたりな順位付けで出来た天井。その代わり入ってきた物は……。これですか? 

リン君は大きな部屋の奥にある扉を開いた。右に手洗いがあり、左に三畳ほどの部屋。そこに簡素なベッドがあり、その向こうにシャワールームがあった。床は古く、時代遅れの柄の入ったビニールが、端っこ、壁に触れるところでめくれる。「大きな部屋で電話を待っていろ。いつ来るか分らない。十時になっても来なかったら帰っていい。相手は日本語を知らないから、質問はするな。電話を切った後、もう一度ベルが鳴る。取らないでコールの回数を数えてメモしろ。毎日会計の所に行って給料をもらえ。メモはその男に渡せ」それだけだった。
 リン君はベッドに横たわる。急に飛び起きてシーツの匂いを嗅いでいる。安心して横になる。体中から緊張が抜けてゆく。緊張は米神の辺りに少し残っただけだった。怖かったのだ。ただ、ヤクザの事務所が怖かっただけなんだ。
「未来? 未来がやってきたのか?」
 それは体にフィットすると、それまでにはなかった重さを持って乗りかかり、リン君はかりそめの泥人形。雪道で踏んづけるコーヒーのスチール缶みたいに、つるりと上手く逃げてゆけないかしら、この異質から。あきらかに意識の殻の外からプレッシャーを感じる。顔つきが変わっている。じっと目を閉じていた。暗闇の中でも現実はそのまま現実なんだと思った。
 リン君は未知の不安を感じながら毎日通った。律儀に、能面のように。外を歩くとき少々人の視線が気になる。身体を覆っていた柔らかいゴムのように柔軟な空気が消えた。己の視線がすれ違う人の奥に入るようでありながら、曖昧にぼやけているのは自身の心の反映か、人々にもそれを求めるのである。
ひとり事務所で電話を待つ。これは新しい服を着るべきなのだと思い至る。早く電話が来て馴染んでしまえばいいのだ。背中に何かを感じた。いまどきのヤクザは刺青なんてするのだろうか? この意識に降りそそぐ圧力は、だんだんリン君を打ち負かそうと試みている。少年が少しずつ、ある意味の大人になるような自然を装って。いや、刺青は…。リン君はシンジ君と行った公営プールを思い出した。一つでも秘密を知ってしまえば、抜けられない? どんな電話がかかってくるのか。

「アマイ、アマイ、サトウ」
「甘い砂糖?」
「ノー。アマイ、アマイ、サトウ」
 リン君はメモ帳にそれを書いた。
「オーケー?」
「オーケー」
 ドキドキしていた。俺の胸の奥には何か知らないものが住み着いているな。

 小樽の防波堤に男が一人立っている。凪。防寒の無粋が目立たない場所。深夜という事をのぞけば。少し向こうの埠頭に海上保安。男の手には漁師の使う鉤のついた長い棒。ポケットにはGPSの携帯。
増藻にやり込められた後、自分の中の強さが精神と乖離した。強さを感じていた自分にしがみ付きたいイキがりと、震える身体に翻弄された。増藻の事務所、最後の時、爽やかに「ありがとうございました」と言えたことが思い出された。では、なぜ今ここにいるのか。寒いと何故かそれを思い出した。
 それは安い音でやってくる。ほんの近くに来なければ分らないのは、海に溶けているから。黒い包みは闇に馴染み、海鳥よりも目立たない。それを引く船体は一メートル五十ほど。鉤を使う時、腹ばいになるから少し意識する。立っているだけなら怪しくない。しかし腹ばいは。黒い包みは引っ掛けやすいように網で包んである。車に戻る間、平静を装っていた。誰も見えない。でも誰かには見える。人間によくあることだ。
 荷物を引き上げる。それを積んで車を走らせる。事を心の奥に秘める。自然ではないことを自然にこなす。「また嵐が来たわな」そういう具合に。
人間は往々にして自分に課せられた仕事の意味を解せず人形のようになる。その心の奥に複雑があるが、その複雑に耳をかすことは、出口を塞ぐということ。ゆえに、それを無視して仕事をこなすしかないのだ。そう、たまに嵐が来て複雑を刺激するが、それに触れると今よりも深い闇が待っているようで。
 男は部屋に帰り電話を入れた後、がむしゃらに腹筋を鍛えた。中年の無駄肉に隠れて、一番目立たない男のプライド。電気を消し、カーテンを開け、雪景色を見ていた。身体から疲れと共に疑問が抜けていった。

 カローラの中で身体の大きな男が言う。
「女ってのは急に輝くときがあるよな。何とも思わなかった女が何故か魅力的に輝くのな」
「無理目の女、狙ったんですか」と鎌口が訊いた。
「いや、鈍かった女よ。話しかけても目をふせて黙ってるから。感じない女だと思ってたのよ。それがこのあいだ店に行ったら、ニコニコしてるのな」
「商売おぼえただけじゃないですか?」鎌口が言う。
「本当に強い奴ってのは自分に不運が来たとき、その不運の源を引き寄せて、自力で不運から逃れるんだな。自分に絡みつく男、上手くあしらったら運が開けたってよ。そしたら客の付きが違うってよ。人間の運命ってのは急に開けるって言うけどな」
「あれですよ。世の中は砂時計みたいな形してるんですよ」
「寿命の話か?」
「いや、形がすぼまっているでしょ? 真ん中のところ。あの狭いところを通り抜けなきゃ広い世界に行けないって意味です」
 鎌口の話を聞いて、増藻は「クジラ12号には切れがねえ」と思い、体の大きな男は「小学生時代、理科室で行った水素に火をつける実験」を思い出し、運転手の佐古は「それは出産のとき終わっているのでは」と思った。鎌口は「今の状態が一番すぼまっている極みだ」と考えている。
 増藻は「歌えや」と言って、助手席の鎌口を突いた。「いつものやつだ。鎌口は歌う。「今、厚い包皮が~キレイにむけたら~」酔っ払いの寝言のような声だった。それを笑いながらみんな歌った。「クジラ12号」という歌の替え歌だった。奥手の童貞を揶揄する歌だ。
 南に向かう車は、一度人里が途切れた後その向こうに小さな集落を左に見て、国道からその中に吸い込まれると、坂道を登ったところで止まった。
「デカ、行ってきて」と増藻が言う。
 後部座席から出て行った男の大きさが背中を見ると際立つ。僧帽筋が盛り上がってなで肩ある。この寒いのにニット一枚って、どれだけ燃えてるんだ?
「なあ、鎌口。あったかい所から見る雪は温かいな」
「それは増藻さんが若いからですよ。感性が若いからですよ」
「ありがと」
 温かいところから温かいところへ。この土地の寒い冬を過ごすうち渡り鳥の気持ちが分ってきた。彼らは生きる為に渡るのだ。その先には生きる糧がある。それを見つけるとアドレナリンが出る。温まるんだ。
 デカが抱えてきた発泡スチロールの箱を見て、「デカいな」と増藻は驚いた。トランクルームの中で開けた箱には、白い粉の入った袋の隣に大きなタラバガニが2ハイ入っていた。増藻はカニの甲羅を見ている。「アブラガニじゃねぇな、タラバだ。ロシア人優しいぃ」

「あのリンゴを食って恋の罪を背負うってのはつまりさ、動物には人間みたいな醜い憎しみがないって事か?」デカが言う。それに鎌口が応える。「憎しみ、ねたみって言うのは、人間によくある他の手が使えるってことに因るもんですよ。頭を絞るエネルギーの源じゃないですか」
「どういう事よ?」
「喧嘩で負けてそれで終わりだったら憎しみも湧いてこないから。他の手があるから人間、ねたむんですよ」
「他の手があるから、人間おもしれぇんだろ? いやそれとも、リンゴを食って人間が人間らしくなるとき、動物から抜け出すって事か?」
「動物の方が純粋ですよ」
「いやまた、神に近かった人間が動物に堕ちる? いや、恋っちゅうもんは神様の叡智の一部で、それをほおばったら神の仕組みから逃れることが出来ないって事か?」
「お前ら、いいからカニ食えよ!」と増藻が言う。部屋の片隅に置かれているソファーセットに増藻とリン君がいて、リン君もまたカニをむいている。
「お前、リンゴ食わねぇよな?」
「アップルパイ食いますよ」
「そっちのリンゴか」
「木の実を食ったら苦しみの中で愛を知るんですよ」
「おい鎌口。愛って何か知ってるか? なぁお前。愛ってのははみ出した所に集まるんだ。デカイおっぱい、はみ出してるだろ? でっかく勃起したチンポ、はみ出してるだろ? とりわけ美味いイタリアン、あの国ははみ出してるだろ? どうした? 渋い顔して。なんだお前『自分にもはみ出した所があるのに愛されてねぇ』って思ってるのか? おいお前、それは凹んでる所だぜ。人間凹んでる所をでっぱってると思い込むことがあるんだ。『何故こいつがナルシスト?』って思うことあるだろ?」
 リン君は黙ってカニをむいている。白い箱の中、カニの横に空白があるのをみとめる。「大丈夫、俺 悪くない」そう思ってカニの脚にハサミを入れて開いたら、残念な天津甘栗みたいに左右に身が割れた。「お前も上手くないな」と増藻は言った。「おい、お前らカニの肩のところ食えよ」
 鎌口は冷蔵庫に入っているパイを出し、「これが愛ですよ」と言おうとして扉を開けたら何もなかった。
「木の実を食って股間かくすのは、自分のモノで相手が悦ぶか心配になったからだろ? お前、リンゴ食わねぇよな」
 鎌口はじっとデカを見ていた。弱いながらも、侮蔑に対する反発の視線があった。
「お前に食わせるパイはねぇ」
「あのパイは大事な人が作った…」
「横恋慕するんじゃねぇ!」
 デカはショルダータックルでたやすく鎌口を飛ばした。五メートル程だと思う。それを見ていたリン君に増藻が言う。「俺はいま気が付いた。カニの身が赤いのは、外見は中身に染み込むって事だな」
 リン君は鎌口が開けた壁の穴を見ていた。鎌口は女と寝るときクスリをやらなかった。「俺は正攻法で行く」と胸に秘めている。その男がたやすく飛んで穴の中にいる。リン君は穴の中の鎌口を見て、「何で穴、開くんですかね」と強めに言った。おぼろげな恐怖を吹き飛ばすため。鎌口の鼻から頬に金のネックレスが這って光っている。その向こう、穴の奥に時間に焼けたベニヤ板の壁が見える。

 恋をすると苦しくなる?
 そりゃ、あたりまえさ
 恋する心は真実だから
 真実にはたくさんの魂が
 寄ってくるからな
 ああ、俺の恋は大きかったな
 1tくらいあったやな

 と書いてあった。鎌口をのけた跡に白く新しい床が丸くあって、

 私は愛など感じたことがない
 私自身が愛であるからだ

 と書いてあった。壁のバリをはがして丸々穴を広げると、四方に文言が書いてある。

 魂に生まれつき汚れた所あらば
 正義を志さねばならない

 歯車は互い違いのところがあるから
 回るんじゃないか

 危ないとき自然に出た涙に感動

 日々の暮らしで聖と邪を分けたまえ

 善人は悪人を己の中で感じ
経験しなくてはならない

 わがままを打ち上げて開いた花など
 すぐに枯れますわ

 電気とは地球の根性だと思います

 コントロールするのは
 自分の心だけで充分です

 他人の心に触れて
 導き出した答えは
 その人の心を
 自らの力で
 歪めたものでありますから
 その答えは
 その人の姿も変えてしまうのです
      ↓
 整形は生まれながら持っている
 問題解決の力を捨て去り
 この世の仕事を
 放り投げる事にもなります
      ↓
 すべての問題が解決したら
 整形してもいいんじゃない?

「何ですかこれ?」とリン君が誰にともなく訊いた。
「ここ、昔 宗教の道場だったんだ。俺が部屋を借りるときその話聞いてた」
「ここに御神体置いてたんだな」とデカが言う。さっき人を吹き飛ばしたことはあまり気にしていないらしい。「カニ食いますわ」
 リン君の頭の中にぼうっと、壁の言葉が浮かんでいる。他人の考えた、深いであろう思索は、時に脱力感を生む。いや、でも多分、ぼうっとしているのは、ここがヤクザの事務所であることを、いっとき忘れただけなのだろう。デカはカニを食った。増藻はシャワーを浴びている。カニ臭いのが嫌なんだと言った。鎌口は気張って平静に事務所を後にした。外は随分冷えていた。

 鎌口が圧雪を踏みながら南へと帰る。ほどよい圧雪を踏むと心地いい。金の欲を持ったら、その魔力を失うのが怖くて、金の流れを知らない鎌口は腹の内に収まらない不安を感じる。
こんなに離れていても、増藻さんの視線を感じる。いや、視線じゃない。あのひとの意識が自分を固くしてくれる。変な意味じゃなくて、曖昧な所に上手いこと心の水脈を築いて確かな心にしてくれる。波打ち際の砂浜に消えても消えても何度でも線を引くように。これをなんと呼ぼう? 風紀? ヤクザに風紀。いいな、かっこいいな。右手にドーナッツ屋の看板が見える。この看板一つとっても、いろんな技術の集結なんだな。ああ、おれはヤクザだ。簡単なヤクザさ。目の届かないほど遠くからつながる金の糸。いつか途切れる? いや、この不安あるうちは切れねぇ。世の中そういうもんだ。
 静かな夜を街灯が照らし、世界はそれ以上の高みを見せないでいる。多分その方が幸せなんだと思う。
 
 

 
後書き
長いっすね。この話。
あっ、あの歌「くじら12号」じゃねぇな。 
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