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『ステーキ』

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ヨシユキの話

 
前書き
童貞君の話。 

 
その恋は彼の頭を固めている
 恋は風のようでなくてはいけない
 滞っているのです
 彼が受け止めている間 結界を張りなさい
 邪悪な魂が集まるから滞るのです
 それが手を伸ばす前に結界を張るのです
 いずれ彼は堕ちるでしょう


彼女は手洗いから返ってきて、輝いている。『愛』について全てを知っているかのように笑っている。鏡を見ると元気が出るのだろうか? この街を照らすのが、太陽から灯りにとって変わられる時間。
「つまりさ、想われているという意味わかる?」とカントクが言った。「想われているということは守られているということなんだよ」
 僕は彼女の顔を見て、胸を見た。顔はいつもより厚い感じだった。胸は輪郭のはっきりしたきれいな形だ。それが良くわかるシャツを着ていた。顔が厚いというのは、幾分繊細さが失われているということ。
『吸い込んでいる』と僕は思う。たっぷりとエネルギーを吸い込んでいるんだ。それを人は、落ち着きとか、肝が据わるとか、自信があるとかいうのだろうけど。
「事務所の人との付き合いとかわかるけどさ」カントクはその後を続けなかった。僕は彼女がモデル事務所の上の人たちと上手くやっているのを知っていた。それでも僕は、萎えることなく彼女に好いていることを伝えるためにここで会っている。僕の感情は言い得るなら「性欲の大きな塊の固い殻の周りを、それに触れまいとして浮遊する者」ということだと思う。彼女の胸を見ても、形の良いお尻を見ても、性欲とは違う何かが持ち上がる。それを好きと言って良いのかわからなかったけど、少なくとも僕が僕として生まれたからには言わねばならないことがある、と言うことだった。僕はカントクの方を見た。コーヒーをすすっている。その目は釣りあがりその細さをいっそう厳しくしている。
「つまりさ」と僕は口を開いた。「笑っているけど笑ってないんですよね。それだけで答えはわかるんですけど、僕の中にもサツキさんを幸せに出来る要素があると思ってここに来たわけで、でも多分もうそれは死んでしまうんですよね、多分」
 彼女は黙って聞いていた。幾分真剣に。そしてあきらめているようにも見える。
「僕の欲ってのはムツカしくて、人を幸せに出来ないとわかると、熱を失って空っ風に吹かれて乾いてしまう。粘りが無くて、その辺が自分自身を許せるところなんだけど、でも、僕の気持ちはサツキさんの心に何らかの影響があると思うんだ。真空が空気を求めるように、吸い付いてしまったから」
「それにどういう意味がある?」とサツキさんは質問した。
「傷つかないで欲しい」と僕は答えた。「まだ、あなたの中、僕の心、ある。サツキさん、傷つくと、僕痛いから。それだけです」
「ちょっと、言っていいかな?」とサツキさんは言った。「あのね、吉之さんはカントクさんのところでお世話になっているのでしょ? だったら表現をしなきゃ駄目じゃないかな。人間ってのはさ、生れ落ちたときから批判者の雨にさらされているものだと思うわけ。それで、みんないろんなことで勝ちを求めているんだと思う。モデルなんか良い例でしょ? 顔で勝つ。カントクさんも才能で勝つ。誰かが腕力で勝つ。何でもいいけど、批判者をねじ伏せるまで自分自身を知った風に言っちゃいけないと思う。雨に打たれている自分を肯定するのは幾分ナルシズムにひたっていると思うし、勝ちを知らない人は、幸せを求めても何か後ろ暗い、敗者のオーラをまとっていると思うんだ。だからさ、優しさだけじゃなくてがんばれ、と」
 サツキさんはコーヒーに口をつけた。はじめて口をつけたのだと思う。
「ぬるくないですか?」とカントクは言った。大丈夫、と彼女は返した。僕はしばらく黙っている。サツキさんは事務所の社長の悪口を言い始めた。硬い空気を壊すのにもってこいの話題だ。もう僕に言うべきことは言いました、ということだと思う。
話題は月謝目当てに可能性の無い子たちを入所させることについてだった。サツキさんの表情は柔らかく目じりからほのかに色気が漂っているように見える。その柔らかな肩から二の腕の肉付き、興奮すると浮き出る首筋の血管。どれも女としての幸せをたっぷりと知っているためか、セックスを思わせた。吉之は自身の童貞としての自尊心があることを見つめる。僕はピュアだよ、と。それと同時にサツキさんのいる世界に憧れを感じている。その世界はしぐさ一つ一つがセクシャルな雰囲気に満ちている。
吉之は憧れの世界に行き着く術を、天才的な画家が、どのようにそこまで行けたのかを忘れるように忘れていた。
 セクシャルなビデオを見ても勃起ひとつしない吉之。とてもきれい。汚れた女を見て『売女』なんて、そんなことも思わないほどきれい。汚れた魂にも正しき風を吹き込めば柔らかい笑顔があふれるのではないかと思うほどにきれい。胸をくすぐる熱い情念は違和感があり、受け入れがたい。それはしっかりつかんでしまうと、体の中で色を失いどこかに消えてしまう。一番大事なところまで届かずにもと居たところへと還ってしまう。  
セックスは遠いところを旅している。それは吉之のいる世界をかすめて行く鉄道の事。小さな駅と、また小さな駅の長い間に、傍観者の目の届かぬほど遠く、閑散とした休耕田があり、その脇に赤いトタン屋根の吉之がいる。そこはとても静かで、風に吹かれてやってくる線路を踏む音が、吉之の何かを震わせている。淡い光が、遠くを走る車両の中に満ちている。それは吉之の願望かもしれない。淡い光。とても幸せな性欲たちの宴。
写真家がやって来て、吉之の赤いところを写そうとしている。吉之は思う。僕の何を撮ろうとしているのか。卑屈にはならない。目の下のクマも、皺の入ったお腹も、少し皮の長い陰茎も。それは三十二年の歳月をかけてゆっくりと吉之を、吉之たらしめていた。
僕の中にある僕としてのプライド。吉之はそんな場所で生きていた。
壊れる程度の弱い自尊心などないと思っていた。それは恥ずかしいものだと思っていた。例えば陰茎が人より大きいとか。そんなものだ。ヒビが入ってから気づいた。人を性欲なしで想うということがひとつ、僕の他人に誇れるところだったんだな。俗にまみれた笑顔に唾を吐き、自分ならもっとうまくやれると思いながら。
その自尊心のヒビは吉之の顔を硬くして童貞を表す。サツキさんのエロティックな唇が、気持ち悪く心を乱していた。この手の感情が柔らかく心を温め、爽やかな性欲になることを知らないのだ。
ヒビ割れた殻のすきまから吉之が漏れ出て、過去の日々が薄い、血の通わない物語に変わってゆく。ヒビの入ったその殻に新しい膜を作るために吉之の心が動こうとしている。プリリとしたおっぱい。まだ遠い。何かをしなければ。
 世の中に絶対的なプライドなんてありはしない。そう思う吉之はとても頭がいいのだ。漏れ出たものを、また元通りに収めることなんて出来はしない。仮に元通りになったと思ってもそこには完璧性がなくなっている。そのことを知る人は少ない。そう吉之は思い少し慢心した。

 席を立ったサツキに吉之は「ありがとうございました」と言う。ピタピタの薄いシャツにダウンジャケットを羽織って、背を向けて彼女は歩いていった。その細い足首に平べったい靴を履いている後ろ姿は、トナカイのようだった。

 サツキさんが席を立ってしばらくカントクは感情の無い顔で黙っていた。その沈黙は怒りとか憤懣、敗北などが混ざっているんだろうな。いや、そんなに上品なものじゃないかもしれない。何せ、カントクの股間は明らかに膨らんでいたから。勃起してたんだね、カントク。
 大きな窓のカウンターに一人の男がいるのが目にとまった。頭を短く刈り込んだ、猫背の男だった。顔を見ることが出来ないから、歳の頃はわからない。首筋を見るとまだ肉に張りがあるからそれほど老いてはいないのだろう。
「もう出ないか?」とカントクが言った。胸の奥から響く低い声だった。
「もう一杯、飲んで」と僕が言う。
 そのやり取りに僕は、触れちゃいけないものがあるんだな、と感じている。心の奥深くを悟られてはいけない人が出す声。自分を乱すものを力でなだめようとする声。カントクはとても敏感。僕がフラれたっていうのにさ。カントクの勃起はおさまったようだった。
 そこに、友人が笑いながら走って来た。大きな窓の向こうから手を振って自動扉をちゃんと待って、それでも彼は走ってやってくる。友人はテーブルに手を突いて、カントクの顔をむき出しの眼球で見つめている。
「あのさ」と息を弾ませて言う。「音楽。音楽聴くと金儲かる。知らない?」嬌声。「人間の脳ってつながってて、音楽聴くとつながってる人に波動届くの。それでさ、その、つながっている人がプロのミュージシャンだったら、その波動で作曲して、作詞して、儲かった分のいくらかが宝くじで当たるの!」嬌声。「やったよ、やった!」友人はもろ手を挙げて喜んでいる。
 彼の声があまりにも空気を変えてしまったから、店の客が興味深そうに彼を見やった。カウンターの男も同じく。その男は目の下に深いクマがあり、目は大きく、肌は白く、血の気が引いていた。僕は思う。
「僕より不幸な人発見」

 それから一週間、吉之はひどい風邪を引いた。

 その風邪は吉之の弱いところを攻め立てる。格闘技のように弱いところを、自らも知らない急所を、いろんな体位で女を攻め立てる漢のように。吉之は高麗人参の入ったドリンクで応戦する。また、カフェインの入った薬で、生姜の浮かんだ紅茶で。喉元を締め付ける裸締めを、顎の位置を相手の肘の方にずらして、その肘を両手で持ち上げて逃れた。ボディーブローを食らっては、咳を激しくして朦朧となり、前頭葉が闘争心を失っている。どうしようもないニコチン中毒が襲いかかり、タバコをふかしては、勝敗などもうどうでもよい疲れ果てたボクサーのように荒い息を吐く。
 ドクターが出てきて、じっくりと吉之を観察した。その目は、あらゆる人をつぶさに観察しつくした、人間をひとつの記号たらしめるようなもの。おとなしく喉に薬を塗られ、白い錠剤を飲み込み、吉之は眠った。境界線のない眠り。境界線のない目覚め。病を体に抱えている時の、手触りのない時間たち。いたずらに時の過ぎ行くのをよしとしない吉之の心は、天井に向かってジャンプした。
「僕にはバネがある!」
そして、カントクの電話を思い出した。サツキさんと会った後、夜に携帯が鳴った。
「あの女はさ、頬が丸く盛り上がってるだろ? 膨らんでるんだよ。心とか、何か、胸とか、なんかそんなものが。人より高いところを好んで、男に引っ張っていってもらうような女なんだよ。まぁ、昔でいうところの大様の妾って言うの? つまりは体で稼ぐ売女と同じだよ。気にすることない」
 吉之は思う、でも言わなかった。「あの人は、他人の不幸を考えるのが苦手なんだ。それどころか、不幸の存在が信じられないんだ。それにもまして、不幸な人間の魂が造り上げた世界がこの現実なんだと気づきもしないんだ」そんなことを。
電話を切った後で吉之は自分の不幸が世の中の原動力になる夢を見る。僕を通り過ぎる人は皆、勇気をもらうんだな。そんな夢。

『人間は幸福を避けて生きるものではない』そんな感じの言葉がどこかにあったことを、ふと思い出す。本当ですか? と訊き帰す。

 生来から備わる、磁力のように不幸を引き付ける力は、吉之を慢心で膨らました。小さな不幸でも砂金をさらうように細やかに掬い取る人間は、感性が豊かで感じやすい善人であるという慢心である。その慢心で心は鈍重になり、密やかに豪胆な思考をもてあそんだりしている。吉之がサツキさんに好意を伝えたのもその豪胆を証明しようと試みたので、色よい返事など期待もしていなかったのである。むしろなびかなかったのをよしとして、まだ僕のことは解るまいと、慢心した。そんな心の側面を創りあげなければ、不幸に耐えられなかったのである。その一方で頭がゆらゆらして、厚い雲の隙間から差す天国への階段を求めていたりする。
現代アートの石の彫刻。あの落ち着き、重量感。シンパシーを感じる。僕の心の在り様である。しかしながら、お洒落な洋服を見ると冷や汗をかくというのは排他的な世界から送られてくる批判か。
 手をつなげば怖くない。一人じゃないよ。でも、それには深くもぐらなければならないことを知っている。浮かれ気分でつないだ手は放してしまえば、彼ら僕に触れたその手を拭うだろう。学生時代そんな経験を何度もした。それは、僕を否定したとたんなぜか快活になる人達がいたから。何故だろう。僕を笑うと愉快なエネルギーが沸くのだ。ゆっくりと僕は重くなり、深くもぐった。腹の奥に豪胆を飼いならし、それでも揺らぐ心でその機微を喜んだ。
風が吹いて、木の葉を散らし、その骨を露にしたから見えました。実はこんな美しい形をしていたのです、深層心理は。そこのところ誰かが知れば、きっと驚嘆して感動するような、そんな気がしている。
僕に触れれば天に届く! 僕にはバネがあるのです!

「無頼漢のように無知で狭量な強さ」ではない
「博愛のように臆病な優しさ」でもない
 その見えない何かを求めている。

不幸を知る僕は覚悟を決める。固くなった心はまるで、精力を誇示する男のように凛としている。サツキさんは生の僕を見た。それは、好意を持っているからこそはみ出した柔らかい部分。言霊に乗って届いた心。「好きなんですけど」と言われた後で強ばった彼女の顔。伝わったのは僕の色をした心であるけれど、それは不幸で育っちまったからどんな味になっちまったかな。全力の純粋なら上手くいったのだろうか? 
確かに感じる純な心と、それを絡めとるように胸の中でとぐろを巻く自尊心。そいつは眺めてみれば、見たこともないモンスターのよう。そいつは僕の純粋を知っているからこそ膨らんだ目に見えないイチモツ。
「批判者をねじ伏せるまで」
魅力的。

 好きだよ~好きだよ~
 宇宙の果てまで行っても
 君の手を放しはしない
 大丈夫 大丈夫
 僕ら世界を超えるんだ
 素直に届く愛は
 神様にもたたかれない
 当たり前につながるアイ~
 隙間もぴったり
 好きだよ~ ♪

 僕はラジオを叩き消した。アホである。きっとレイプマンは仕事の後、この歌を聞いて「気持ちイイ!」と、両手を天に突き上げるのだろう。仕事とはもちろんレイプの事だ。

 絞っているのか、絞られているのか、米神に責任を感じて、吉之は言葉をつむぐ。何もないはずの景色を見ては、個人的な経験に近しいところを突破口に。それは大きなオッパイに疲れの逃げ道を求める男。世の中にあまた口を開く不幸の穴から逃がれようとあがく男たちがごとく。
「焼けた肌がキレイ」と書いて顔を拭う。変な汗をかいています。
「それは愛の手前でした」と書いて失望の底に堕ちています。
「潤してよ渇いた心」と書いた後は少女のように恥ずかしいです。吉之はシンシンと痛む頭でベッドに横たわってしまいました。体にまとわりつく、くだらないものを鏡で見てしまったような気持ちだったのでしょう。じっと高い空を見ています。頭の上にある湖をコツコツとノックしています。そこから一瞬、水がしたたりました。

僕は人を好きになった
 その時気づいた
 恋愛に向いていない

でも 向いていない仕事を
辞めるような
 諦め方はしたくない

 考えれば考えるほど
 闇に包まれてゆく

 日没の東の空を見つめると
 そこに光芒が見えた

 明日も太陽昇り来るなり

 打ち上げ花火みたいです
 消えてゆく言葉たちは
 夢に遊びすぎた
 あの人達みたいね

 夜中の花火は消えてしまうから
 明日も太陽昇り来るなり

 胸に熱をあずけたもう

 一気に書き上げて、なんだか気持ち悪さが残った。自分の生み出したものが気持ち悪い。それ自体が醜いのではなくて、これを書かせた空気が気持ち悪い。これが人目に触れるのは間違ったパーマをあてた次の日の学校みたいに凹んでしまう。
 冒頭を変える。

 とても簡単にした迷路は
 四角い部屋でした
 僕を区切る壁たちは
少しずつ自分になっていって
息苦しさもなくなります
この部屋が僕なんだ
たまに卑屈な愛で
その形は変わります

 明日も太陽昇り来るなり

 僕は飲みに出かけた。父親の年金のいくらかが、僕の胃袋に納まり、赤い顔でタバコをふかしている。ぼおっとした頭の中で鋭敏に何かを感じているような気がする。ふと、誰かが僕の命を狙っているように緊張する。陽気な笑い声に混じって僕を揶揄するような言葉が耳に入ったから、心の中で暗雲が渦を巻く。タバコの煙を深く吸う。徐々に消える。酔っぱらっている。
カウンター、一個あけて隣に座るおっちゃんは、色よく焼けた肌に深い皺を湛えている。この人は笑いながら暮らしてきたのか、歯を食いしばって生きてきたのか。僕は前者を選んだ。何の目的もなく、運命の導くところにゆくこともなく、若いときは遊び、仕事は『親方日の丸』 風呂に入ればイチモツの比べあい。そしてこの街でラーメンをすすって生きている。脳裏にあるのは若い日の弾けるような笑いで、それが皺だらけの顔をかりそめの肉襦袢にしてくれるのだろう。
 僕の慢心ぷっくり膨らんで、吹き出物みたいに赤黒く 固く 痛くなる。痛みは心に麻痺を迫って、さっきの詩の出来不出来も飲み込んでゆく。それは意識の底に重く沈んで、何らかの威力を放っている。おっちゃんを見て何故か慢心膨らんだのだ。
胆の据わった奴の、雑で穿った言葉を聞いたとき、勝ちを感じて胸を膨らませては、現実のヒエラルキーにおびえたりする人。
大雑把な奴らの心の隙間に、自分の細やかな意識を差し込む。ナイフみたいに鋭く。そして誰かを心の内で傷つけた後は能面のような顔の下に本心を隠して現実から遠ざかり、誰にも触れられない聖地を抱える。傍から見れば単なる無感動に思えるそれは、ひどく吸収力があって、誰かの嘲笑も無音の世界に葬ってしまう。そして胸が張り裂けるような優越感と、その立場を引っくり返される恐怖。それをギュッと押し込める。
意識に触れる、奥のほうまで届く何か。僕は殻を破ってその何かに触れ、そこから大事なものを持って帰ってくる。そしてひどく熱く膨らむんだ。その後、すべて冷えて固まり僕の一部になる。
これを人は『盗む』と言うかもしれない。心にはエネルギーがあるから、「あの人こういう人だよね」という憶測の言葉だけで流れが変わったり、滞ったりする。深く考えれば、この心ひとつが罪になるような気がする。しかしながら、知らぬ間に僕から盗まれたものが目の前に現れて取り返さないのも滑稽だからさ。心の在り様は流動的で、いつ、何を失ったかわからないから、目の前に「こいつは帰ってくるぞ」と思うものあれば奪い返さないと。
 店の天井を見ると、白と緑の「非常口」が光っている。こいつは何かから逃れるための出口だな。でも、その「何か」が分るのは、ケツに火がついたときだけだ。それじゃなきゃこの出口のありがたみはわからないやな。
「非常」という言葉で「原発」を思い出した。A・B・C とボタンを押したらば D・E と押したくなり、F のボタンを押す時には、A を押した時のためらいは消えて、Aが何であったかも忘れちまう。Fのボタンを押せば、目の前に欲を満たすリアルがある。「非常事態だわな」と独りごちた。

「おい、にいちゃん」と、おっちゃんが話しかけてきた。「この間、鳶の男が言ってたさ。一仕事終わった後のメシはたまらなくウメぇってさ。だから俺、テレビ塔 登ってみたんだ。そしたら下見てちびりそうになったさ。あれ、足元を掬われるときの、あれさ。しっかり土台固めて上がらなきゃ。いきなりはな、怖いわな。俺なんか立ち上がるだけで怖いもんな。飛び跳ねたら意識飛びそうになるからな。俺はその類の美味いメシは食えそうにねぇやな。生きるか死ぬかの後は、メシがウメぇてっよ、なぁにいちゃん」
 聞いている間、体が震えて、酔いが悪くなってしまった。理由を考えた。多分、おっちゃんは「このにいちゃんは妄想にふけって人より高いところ跳んでいる、生ぬるいお馬鹿さんだな」と見下した。それで、気持ちの悪いものが、流れ込んできたのだ。人は弱い立場になると、暴力が流れ込んでくるから。
「高いところに登ると、俺、馬鹿になるのな。馬鹿は高い所が好きってのはウソだな。高い所にいても馬鹿にならねぇ奴が上に登っていくんだな。にいちゃん、高いところ好きだべ?」そういって、おっちゃんは笑っている。その声に乗って、侮蔑が体を震わす。僕の中の醜いところが、肉体を経て周りに広がりそうになるのを必死で我慢している。
「高みに昇ったと覚えちまったら、とたんに邪気が寄ってくる。そいつら足を引っぱり、媚を売って、根こそぎ持ってっちまうのよ。自分のいる所が他人より高けぇと思ったら、没落間近だわな」
 体中のエネルギーとかビタミンとかミネラルとかナトリウムポンプとか、そんなあらゆるものが暴れちまって、慌てて意識に帽子をかぶせる。風が吹く。木の葉が揺れる。細やかな枝葉がチラリとのぞく。腹の底に視線が注がれ、羞恥。いや、見えない。見えないはずだ。
このおっちゃんの話が何故、僕の心に刺さるのだろう? おっちゃん何人の女と寝ましたか。心の中でつぶやきながら、話の続きを聞いていた。
「なぁにいちゃん。『嘘』は何のためにあるか知ってるか? それは『本当』を磨きあげるためにあるのよ。嘘つかれると人間 怒るだろ? ますます本当求めるわな。でもみんな、本当のこと言ってるつもりで、的を外した問答してるのよ。その嘘に絡めとられて、グルグル回って諦めって所に落ち着くのよ。落ち着いたところがその人間の安住の地なんだな。人間は天を目指して飛び上がるけど、その世界の風に吹かれて訳のわからない所に運ばれちまうんだぁな」
おっちゃんは酒を一口飲んだ。つやつやした顔が心の底を見せないでてらてら光っている。
「でもなぁにいちゃん、本当に嘘をついていいのは仏さんだけだ。仏さんは嘘をついて巧みに人を導くのよ。『嘘』っちゅうのが『本当』になる瞬間、それが仏の胸突き三寸よ。ちなみに俺、仏さんな」そう言って、クスクス笑っている。

 不幸が教えてくれた繊細と
 繊細が生み出した優越感と
 優越感が引き起こす痛みと
 痛みが押し広げた心のキャパシティー

 そんなものを抱えながら、吉之は家路につく。切れるような空気の、その心を麻痺させるがままに、無音の心で歩いている。

 ベッドに横たわりじっと待っていた。しかし、この夜は何も寄ってこなかった。いつもは心が吹き飛ばされても、時間が経てば過去の日に心の内に刻み込まれた機微が心を満たしてくれていたんだ。決して仰々しくない記憶。心の枝葉の末端の細かい、産毛の風に吹かれるような記憶が、しっかりと心を保ってくれていたのに。脳髄の、少し空になった感じが、不安でしょうがない。テレビをつけた。
「勝ちを求める」という言葉がひどく柔らかいところを突いた。僕自身、今まで求めなかった訳じゃない。しかしながら、想像でもそれを求めると、手足に気持ち悪い感触があった。
「勝ちを求めない」ときが一番心地よかったのだ。

「ブラック・イズ・トゥルー理論なのです」

テレビの向こうで白髪の白人が説教をしている。日本に乗り込んだ欧州の新興宗教らしい。

「体の中には白の部分と、黒の部分があるのです。白の部分使うと、神様 喜びます。黒の部分使うと、神様 怒ります。自分の中に黒の部分あるときは、昔の僧侶のように修行しなければなりません。苦しみに耐えた心が、黒い色を出さないように、奥に押し込んでくれるのです。しかしながら私達は、黒が染み出す事を恐れません。黒でさえ神様の色なのです。白の部分ばかり使うと、キレイな事、起こると思うでしょう? ノー。この世の白は、黒を引きつける餌なのです。いつも白を追い求めていても、世界は白くならないのです。ブラック・イズ・トゥルー理論なのです」

 VTRの途中、コメンテーターの「気狂いだな」という、声が入っていた。『黒も真実』いいじゃない。脳みその芯にふわふわ頼りないものを感じているから、納得しちゃうじゃない。
 世界中の、現実的に言えばある一部分の、楽観的に言えば大部分の人が、たえず何かを考えていて、それは天気予報のように複雑な真実をあからさまにしようと試みている。時に凍てつく冬にまぎれた小春日よりから。時に人間より大きい脳みそを持つ鯨の存在から。
ある人は言う「言葉は紡いだそばから破壊されてゆく」ある人は言う「愛こそ真実」またある人は「愛は言葉じゃない」考え抜いた人が言った言葉たち。
独りごちる。「でも言葉を使うことは、クールな愛だよ。だってさ、すごく距離感があるから」
 浮き沈みの激しい心の見る風景の、色の移ろいをくい止めるように写真を撮る日本人観光客がテレビに映る。馬鹿にしちゃいけない。心はいつも固定されていないから、一瞬の輝きや、たそがれをきちんと捕らえておかなきゃいけないと思う気持ちは、「愛している」気持ちが萎えないうちに「愛している」と言葉で伝えるようなもの。馬鹿にしちゃいけないんだ。それでもいつか、その言葉は僕の恋心みたいに時間がたつとカラカラに乾いちまっているんだ。言葉がずっと、その潤いをもって人の中に生きているなら、なんかもっと世の中はうまくいく。
 さっき、おっちゃんが僕を言葉で吹き飛ばした。そして言葉で考えることで僕は僕を取り戻そうとしている。言葉を浮かべると、何故か自分が消えてゆく。
『愛は言葉じゃない』僕は愛から逃げていますか?
 カタカタと窓が震えるのは、先ほどまでの帰り道、僕の頬を切っていた風。僕の領域は経験的に言って守られている。この街には長い間―僕の記憶する間―それを脅かす程の大きな地震や、戦争が無かったから。たまに訪れる地震は神経をピリリとさせるくらいで済んでいる。心無く、嗚呼アフリカの内戦に巻き込まれる少年兵よと、生死の狭間の緊張と弛緩を想う。
国は大きな堤防を造ると言う。僕はナイフで刺されても死なない程の筋肉を想う。
僕たちは塀を造って自分を守りながら脅威と闘うけれど、どこかに諦めの匂いがする。意識を縛り付ける肉体の限界を想う。
「ここまでやればいいだろう」それは諦めではないかな? 自分の正しさの限界を感じているのかも。それは『フッ』と魂が体を離れる瞬間の事。
経験したことはないけど、女を下にしながらこの辺で射精してもいいだろ? といった具合か。
 頭の中で誰かが言う。
「あれ位、誰でも出来るよね」
体を鍛えたことのない人間が、ロートルのボクサーをなめている。ありとあらゆるものにその感覚は含まれていて、それは現実を見落とすことで生まれ、何かのフィクションのように世界を包む。細かな現実を見れば、数限りないフィクションの広げる世界の足を引っぱるから。それは全然好ましくない。
「自分の体の欠点が、心をキュゥゥと締め付けるほど、責めてくることありませんか?」こんなもの打ち上げ花火みたいに夜の空に消えちまえばいいのに。物語の最後で交わされる主人公の口づけみたいなカタルシスでさ。「現実が責めてくるのだ。現実がね」僕はそれをのらりくらりかわしている。僕の気持ちはロートルのボクサーにシンクロする。
みんなフィクションを多分に含んだ自由の中で生きていたいんだ。肉体を忘れた心が、空高く舞い上がり、そこに吹く風でコロコロと回って、奏でる音を聴いていたいんだ。そこにはかぐわしい、力強い幸福がある。そしてそれが作り出す若い、可能性の世界がある。しかしながら作り話が大きく膨らませた心は、それを壊す大きなリアルがやってくるのを、無意識に待っているようでもある。
 現実を知るものは大きな存在に屈する。大きな組織、大きなお金、大きな知識、大きな地震。それらを知らない僕は、なんだかフィクション。そして、それらを諦め半分で小バカにする。
「誰だって真実を知って世界と対峙したいさ」
強大な圧力のある天を支える肉体は、きしみながら愛を奏でる。どこか遠くで『真実の愛は』と語る人々に息吹を送る。そんな夢を見ることは、なんだか僕を世界の端っこにいながら渦の只中に運んでゆく。
僕たちは、お互いに舐めくさった態度ですれ違う。通じ合わない心は、このかりそめであるはずの肉体のおかしみ因り。浅い傷で済むのだからそれでいいじゃない。奥底に触れれば、その真実の源はどこなのですか、と問いたくなる。昔の偉人は『この世の真実を知ることが出来れば、明日にでも死んでもいい』みたいなこと言ってたな。それの端っこでもかじったことあるのですか、あなた。僕はないね。腹の中には僕がいっぱい詰まっているだけだ。
この肉の顕すものは、何も心だけじゃない。何かもっと、この世界に漂う芳しくない匂い。昔の友人が東京に出て、顔が変わってたっけ。この街の空気は僕をどんな風に削ったのか。鏡を見ても映りやしない。その奥で人知れず育つ心は、重心を低く保つ大事なおもり。
僕には好きな言葉がある。

 あなたが想像出来る
その世界の外側にも
 真実は広がっている

「何故その顔に生まれてきて、そんな言葉を発するの? まるで映画みたいじゃない。そんな考え方する人って、なんだか神様みたい」
僕は少し膨らんだ。何故だろう、心が少し男前。

テレビでは明日の天気予報が流れ始めた。そして僕はひどく勃起した。
 その勃起があからさまに爽やかだったので、お天気お姉さんをじっと見つめていた。ペニスはすばやく硬くなって、パンツを押し上げた。前立腺は素晴らしく働いていた。僕はパンツを脱いだ。ツルリと剥けた亀頭が、艶やかに光っている。脳天に光が差しているような気がした。僕はその姿を洗面所の鏡に映してみた。十数センチが見事に屹立している。親指で下に押し下げてみたら、そいつは元気に、音がするほどはね上がった。
「この勃起は、Fカップのように満たされているじゃないか」振り返って見ると、お天気お姉さんは少しもエロくなかった。

僕はマンションの一階に、缶コーヒーを買いに部屋を出た。
 臭いを消した爽やかな香りのする人とエレベーターで居合わせる。そのいい香りは「それ以上入ってこないで」と言っている。人間には様々な入り口があって、そこからたまにレイプマンが入ってゆく。僕は死んだ魚みたいに落ち着いている。
 その人がホールの重たいドアを開けたとき、笑い声が聞こえた気がした。その音がドアの軋みだと知るまで緊張していた。この自販機のコーヒーはあまり売れないからか、ミルクが分離して浮いていることが多い。タートルネックの首を引っぱって体の臭いをかいだ。鼻の奥にまろやかな体臭。帰りのエレベーターの中で思春期が過ぎたのだと思った。こんなに平気で空気を汚している。
 廊下の切れかかった蛍光灯の端っこが、オレンジに瞬いている。映画的だね。彼らは遷ろうものが好きだからね。カントク、人生の中で何を体験してどんな風にそれが色あせていったの。僕はついさっき何故か色づいたけど。そう、さっきの勃起は何だったのだろう? 
 パソコンの前に座って、いつもの手仕事のようにプリリとしたおっぱいを眺める。僕の性欲なんて、「これはっ!」と思うエロが溢れていたら急いでパンツを脱いで一生懸命それを追いかけながら、性的感性の麻痺から逃げるようにシゴキたおさなければならない。そうしなければすぐ萎えてしまう。隆々と勃起する喜びなんてほとんど感じられない。それがどうだろう。先ほどの勃起は景色に潤いを与えるほど自信を与えてくれたじゃないか。でも、それが今はこの通り。渇いてしまって、ピクリともしない。ボォとして裸体を眺めている。
 舞い降りた、通り雨のような勃起。僕は詩を書いた。

 南の壁を押したら
 北の人が押し返す
 ちょっと余計に押すものだから
 少しだけ僕 狭くなった

 僕はカントクに電話しようとして止めた。「詩を読んでくれないか」本当は「今度の映像に何らかの形で差し込んでくれないか」そして「セックス」の事。
 
 

 
後書き
これ、行あけなくても読める? 
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