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タンホイザー

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第一幕その三


第一幕その三

「薔薇色の優しい霧に覆われた歓喜の世界です」
「かつて私が欲してやまなかった」
「そして今でもです」
 ヴェーヌスの誘惑であった。
「今でも。貴方は」
「私は」
「タンホイザー」
 また彼の名を呼んだ。
「来るのです」
「何処に」
「決まっています」
 彼の心の直接語り掛けた言葉だった。
「この世界に。私の腕の中に」
「しかしもう私は」
「岸辺へ」
 またここで水の乙女達の声が遠くから聴こえてきた。
「岸辺に近付きましょう」
「さあ、御聞きなさい」
 彼女達の声を背景にまたタンホイザーに告げる。
「あの声を。そして思い出すのです」
「貴女の快楽をと仰るのか」
「その通り」
 甘いが厳かな響きの声であった。
「我が唇よりまた我が目より味わったあの神の酒の味を」
「ネクタルの味を」
「思い出すのです。それこそが神の喜びであり愛の宴の歓喜」
 タンホイザーへの言葉が続く。
「さあ愛しい人よ、私の下へ」
「だが私はそれでも」
 タンホイザーの言葉は強かった。
「私は自由が欲しい。奴隷であるというのに」
「戯言を」
 奴隷という言葉にヴェーヌスのその美麗な眉が歪んだ。
「人の世界、いやあの神の世界こそ奴隷の世界」
「だが」
「わかっている筈です」
 今度の言葉は宣告に近かった。
「人の世のことは。貴方こそが」
「いや、私が」
「どうしてもというのですね」
「私はもう留まることはできない」
 ヴェーヌスから目を逸らした。
「もう。私は」
「ならば行きなさい」
 そのタンホイザーから目を離すことなく告げた言葉であった。
「私はもう引き止めない。この快楽の世界へ」
 そしてさらに言う。
「あの神が支配する陰気なる妄想の世界からこの神々の麗しい泉に来たというのに再びまたあの世界に戻りたいというのなら。しかし」
「しかし」
「人は冷たいもの、いや」
 タンホイザーに対して言葉を代えてきた。
「あの神は冷たいもの。救済を求めようとも救済を得られぬ世界へ」
「そんなことは」
「あるのです」
 神らしい有無を言わせぬ宣告であった。
「貴方が離れた者達の慈悲を願いそして拒まれるのです。その時にわかるでしょう」
「何が」
「貴方の居場所が」
 またしても厳かにタンホイザーに告げてみせた。
「果たして何処なのかよ」
「それがここだと仰るのですか」
「ここはいずれ全ての人間達が戻って来る場所」
 今の彼女の言葉には絶対の自負さえあった。
「追い出され呪われた貴方もまたあの神の下からここに戻って来る。私は、いや神々は」
「神々は」
「誰も拒みはしない」
 神の言葉であった。
「誰であろうが。決して」
「そう、必ずだ」
 タンホイザーもまたその言葉に反応してヴェーヌスに言葉を返した。
 
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