ソードアート・オンライン~アインクラッド・アクセル~
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アインクラッド
~剣の世界~ 2
「ぅおっ!?」
「きゃっ!?」
自身を大きく包み込む青白い光の存在に気づきつつも、己が持てる最大の力で振り切った剣撃をとめることは出来ず、そのまま相対していた対戦者を切り伏せる必殺の一撃。
だがその一撃が届く事はなく、目に見えぬ障壁に阻まれシステムエフェクトを撒き散らした。・・・と同時に、彼自身も相手の一撃を完璧にもらい、だがしかし、これも不可視の障壁に阻まれ、エフェクトと同時に大きくノックバックされた。
その衝撃も相まって混濁する意識を、頭を振り何とか覚醒させ辺りを見回すレンヤ。真っ先に目に入ったのは、当然、つい今しがたまでデュエルをしていた相手―――金髪碧眼が印象的なプレイヤーのユーリー。
「くっ・・・レンヤ・・大丈夫か・・・・・・?」
互いの剣が障壁に阻まれた際の衝撃か、レンヤ同様、混濁する意識を覚ますために一度大きく頭を振るユーリーは、そのまま視界に飛び込んできた光景に目を見開く。
「・・・《はじまりの街》? それに、これは・・・・・・」
特徴的なその碧眼に飛び込んできたのは、レンヤが今日のログイン直後に嫌というほど眺め続けた景色―――《アインクラッド》第一層主街区《はじまりの街》の中央広場の景色。
次いで、ぎっしりとひしめく人波に目を奪われる。それらは色とりどりの装備と髪型の、いずれも眉目秀麗な男女の群れだった。おそらくNPCなどではなく、自分達と同じ現在ログイン中のプレイヤーだろう。その全てのプレイヤーが、一様に混乱している表情を見ても一目瞭然だ。
さらに驚愕することに、中央広場の至る所で青白い発光が立て続けに起こり、そこからさらなるプレイヤーの波が押し寄せてきた。その者たちも一様に、事態を全く飲み込めていない混乱しきった表情を浮かべている。
「強制転移? でも、なんで・・・・・・?」
ようやく、今この場にいる理由に思い至ったユーリーがそう口にするのとほぼ同時に、最後の発光が収まり、気づけば辺りには異常な数のプレイヤーが姿を現していた。その数はおそらく、今日ログインしているであろう全員、即ち一万人に及んでいるはずだ。
「・・・わからない。でもまぁ、これだけのプレイヤーが一同に会するのもなんだか壮観だな」
などと、少々緊張感のない返事をするレンヤの耳に、ある不吉なワードが飛び込んできた。
「―――・・これでログアウトできるのか?」
―――ログアウト
それは彼らが、この仮想世界から現実世界へ帰還するための唯一の手段。《ナーヴギア》が脳から肉体に向けてのあらゆる信号を遮断し、この仮想世界に存在する身体へと流すため、現実の身体は指一本動かすことは出来ず、《ナーヴギア》を脱ぎとるなどの強制的ログアウトが本人の意思では不可能であり、《ログアウト》のためには、メニューの《ログアウト》ボタンを押す以外の方法は存在しない。
だが、飛び込んできたその言葉は暗に、少なくとも今現在それが出来ないということを示していた。
その言葉に多少の不安を抱えながらレンヤは、右手で《メインメニュー・ウィンドウ》を開き《ログアウト》ボタンを探す。
しかし・・・
「・・・・・・ない・・・?」
「え? ないって、何が?」
漏らしたその言葉を目ざとく拾ったユーリーだが、その問いに答えることも忘れ、彼は今一度《メインメニュー・ウィンドウ》をしらみつぶしに調べていく。
・・・しかし、どこを探しても《ログアウト》ボタンは見当たらない。見つけたのは、そのボタンがそこにあったであろう謎の空欄だけだった。
「ねぇレンヤ、いったい何がないのさ?」
さらに声をかけるも反応を見せない相手に痺れを切らしたユーリーが、彼のウィンドウを覗こうと動くと同時に、誰かが叫んだ。
「あ・・・上を見ろ!!」
反射的に、およそ一万人のプレイヤーが上空へと視線をむけた。そしてそこに、異様なものを見つける。
百メートル上空、第二層の底に、深紅の横に長い六角形の模様が浮かび上がり点滅している。その中に【Warning】【System Announcement】と交互に表示される赤いフォントが見えた。
それを見た他のプレイヤー達が一様に、この事態についての緊急アナウンスが始まるのだと安堵しかけた途端、その六角形は瞬時に空を埋め尽くすと、その中央部分から巨大な血液のような粘度の高い液体が滴り落ちてくる。しかしそれは完全に落下してくることなく、突如空中で蓄積されていった。
蓄積されたその血液のようなものはその形を変え、およそ二十メートルにもなろうかというほどに巨大な、深紅のローブを身に纏った人の姿をした“何か”へと変貌した。
というのも、見上げたフードの中身は完全な空洞なのだ。両腕の袖もやはり空洞で薄暗い闇が広がってるた。
一瞬、GM(ゲームマスター)なのではないかと考えるが、なんとなく違うと、レンヤの本能は告げていた。こんな親しみやすさが一切なく不気味極まりないGMなど、存在してほしくはないと誰もが思うであろう。
ただただ人々の不安を煽るその深紅のローブは、左右の腕を広げると、静かにその口を開いた―――様に見えた。
『プレイヤー諸君、私の世界へようこそ』
この言葉の意味を、咄嗟に理解できた者がどれだけいただろうか?
今彼らの目の前に現れたのが運営サイドのGMであるならば、この世界の操作権限はすべてこの巨大な赤ローブに身を包んだその人物にあり、プレイヤーからしてみれば正に神に等しき存在だといえる。
しかしながら、その宣言をこの場でする意味はやはり理解できない。そもそもこの場にいる全てのプレイヤーは無意識にそのことを理解しているのだ。今更なのである。
・・・が、続く言葉が、おぼろげにだがその意味に輪郭をもたらしていく。
『私の名前は茅場晶彦。今やこの世界をコントロールできる唯一の人間だ』
その言葉で、この場に集うプレイヤーの九割以上が言葉を詰まらせたことだろう。
―――茅場晶彦
数年前まで、弱小ゲーム会社の一端でしかなかったアーガスが、今や最大手と呼ばれるようになった原動力。若き天才ゲームデザイナーにして、量子物理学者。さらに、この《ソードアート・オンライン》のディレクターであり、同時に、プレイヤー全員をこの世界へと誘っている、現代の魔法のアイテム―――《ナーヴギア》の基礎設計者でもある。
・・・以上が、世間が、そしてこの場のほぼ全てのプレイヤーが知りうる、目の前に顕現した赤ローブ―――自らを茅場晶彦と名乗った男の全てだ。
基本的に裏方に徹し、異常なまでにメディアへの露出を拒み続け、簡単なインタビューが時たま雑誌に掲載されただけ。ようやくその姿を現したのは、《ソードアート・オンライン》のβテストが終了し、ゲーム発売まで三日を切った頃に発売された最新のゲーム雑誌での大型インタビューの時だった。
そんな彼が、今こうして不気味な赤ローブを媒体にGMとして名乗りを上げてきた事の意味はいったい何なのか? 考えれば考えるほどに謎が次々に姿を現し、レンヤに混乱と不安を産み落とし、次第に大きくなっていく。
『プレイヤー諸君は・・・』
そんな中レンヤが、そして、この場のほぼ全てのプレイヤーが抱えてる疑問の一つへの解答がもたらされる。
『すでにメインメニューから《ログアウト》ボタンが消滅している事に気づいていると思う』
「・・・・・・え?」
遅まきながら、先ほどのレンヤの言葉の意味を知ったユーリーは、あわてて《メインメニュー・ウィンドウ》を操作する。だが、信じたくはなかったが彼の《メインメニュー・ウィンドウ》のどこにも、《ログアウト》ボタンは存在していなかった。あれほどβテスト時代何度も押したボタンの存在を忘れるはずがない。再度操作を開始するがやはり、《ログアウト》ボタンの存在は確認できなかった。
『・・・しかし、ゲームの不具合ではない』
他のプレイヤー同様に一抹の不安に駆られたユーリーに、そして約一万のプレイヤーに向けられたその言葉は、淡々と、事実だけを、無駄なく、簡潔に伝え―――
『繰り返す。これは不具合ではなく、《ソードアート・オンライン》本来の仕様である』
―――彼らを、一つの絶望へと叩き落した。
『諸君は今後、この城の頂を極めるまで、ゲームから自発的にログアウトすることは出来ない』
一瞬、この世界のどこに城があるのかと疑問を浮かべるが、よくよく思い返してみれば、この世界は浮遊“城”。つまりこの赤ローブ扮する茅場晶彦は、このゲーム《ソードアート・オンライン》をクリアしろといっているのだとレンヤが気づいたとき、更なる言葉が紡がれた。
『・・・・・・また、外部の人間の手による、《ナーヴギア》の停止あるいは解除も有り得ない。もしそれが試みられた場合―――』
・・・そこで一度言葉を区切り、二の句を紡ぐまでの僅かな間が永遠にも感じられるほどに重苦しく、一万ものプレイヤー達はさながら、死刑判決が下されるのを待つ囚人のようであり―――
『《ナーヴギア》の信号素子が発する高出力マイクロウェーブが、諸君らの脳を破壊し、生命活動を停止させる』
―――その言葉を以って、彼らは真に死刑判決を言い渡された囚人となったのだ。
・・・とはいえ、いきなりそのような事を言われ理解が及ぶはずもなく、人々の混乱はさらに強まる一方である。この状況下において、叫んだり泣いたりする者が現れないのも、その混乱故かあるいは、その言葉の意味の理解を拒んでいるからだろう。
そんな中において、レンヤの思考は僅かに一歩先を歩いていた。
生命活動の停止―――即ち『死』であるのは最早明白。であるならば、問題はその方法だ。考えられるのは、この高出力マイクロウェーブというのが、世間一般でも大変有名な家電製品―――電子レンジと同じ仕組みを持つものであるという点を生かし、脳細胞内の水分を高速振動させ、それによる摩擦熱をもって脳を焼き切るということだろう。
だがそれを行うには多大な電力を必要とし、《ナーヴギア》の電源コードを抜いてしまえばそれらを得ることは不可能である。これでは、彼の宣言した【外部の人間の手による《ナーヴギア》の停止あるいは解除】への対策になりえない。
その不足電力の在り処に気づいたのは、同じようにこの段階まで思考が及んだユーリーであった。
「・・・・・・《ナーヴギア》の重さの三割は、バッテリセル・・・・・・それなら・・人の脳を破壊するのくらい・・・・・・・・・わけない・・・」
そう言葉を紡ぐユーリーの内から、少しずつ恐怖が侵食を開始しているのが見て取れる。その話が本当であるなら、それはそれで大問題である。瞬間停電などが発生した日には、今この場に集う一万ものプレイヤーという名の囚人全員が死亡する話になる。そんなものはあまりにも無茶苦茶である。
『より具体的には、十分間の外部電源切断、二時間のネットワーク切断、《ナーヴギア》本体のロック解除または分解または破壊の試み―――以上のいずれかの条件によって脳破壊シークエンスが実行される。この条件は、すでに外部世界では当局およびマスコミを通して告知されている』
・・・などとあまり嬉しくもない補足説明を受け、とりあえずよほどのことがない限り、外部の影響による死亡の可能性が薄らいだのに安堵する。・・・も、続く彼の言葉は、今この瞬間でもっとも聞きたくないであろう報告。
『ちなみに現時点で、プレイヤーの家族友人等が警告を無視して《ナーヴギア》の強制解除を試みた例が少なからずあり、その結果』
最早嫌な予感しかしないその次の言葉を、ただただ事務的に告げる赤ローブ。
『―――残念ながら、すでに二百十三名のプレイヤーが、《アインクラッド》及び現実世界からも永久退場している』
・・・この時点で、彼がもたらすあらゆる情報の意味を理解できる思考を残したプレイヤーは存在しなくなっていた。誰も彼もが、信じられない、あるいは信じたくないとそれらの情報の理解を拒んだ。
それも無理はないだろう。既にこの場に集まるプレイヤーは一万人を切っているのだ。ログイン以降、出会ったプレイヤーの何人かは最早この世界、そして現実世界のどこにも存在しないのだ。その中には、パーティを組んだ者や、現実世界からの知人もいたかも知れないのだから。
『諸君が、向こう側に置いてきた肉体を心配する必要はない。現在、あらゆるテレビ、ラジオ、ネットメディアはこの状況を、多数の死者が出ていることも含め、繰り返し報道している』
そういった彼の周りに、おそらく現実世界で報道されているであろう内容を映したウィンドウが次々と出現した。そのどれもが、正しく茅場晶彦の言葉通り、この《ソードアート・オンライン》にログインしているプレイヤーの何名かが既に死亡している事を流していた。
この映像が、全て彼が作り出した偽物である可能性も否定できないが、そのような雰囲気がこの映像からは一切感じられなかった。
特にレンヤの心に残ったのは、一軒家の前で涙を流す母と娘のシーン。おそらく、この場の一万を切ってしまったプレイヤー達にも、同じものが去来しているだろう。
辺りには野次馬と思しき人だかりができ、それを阻むように存在するパトカー救急車、警察達。それらに囲まれ、涙を流す中学生くらいの少女と、その少女をいたわるように抱き寄せ、しかし共に涙を流す母親であろう女性。
これが仮に作られたものであり、そこに映る人物達も全て役者であるなら、少なくともこの親子は間違いなく超一流、十年いや、百年に一人として現れるか怪しいほどに優れた名女優に違いない。たったのワンシーンで、ほぼ全てのプレイヤーの心を掴み動かしたのだから。もちろん、悪い意味で・・・
『諸君の《ナーヴギア》が強引に除装される危険はすでに低くなっていると言ってよかろう。今後、諸君の現実の体は、《ナーヴギア》を装着したまま二時間の回線切断猶予時間のうちに病院その他の施設へと搬送され、厳重な介護体制のもとに置かれるはずだ』
この説明も、やはりありがたいものではない。彼らの望みは等しく、このゲームからの脱出に他ならないのだから。
『諸君には、安心して・・・・・・ゲーム攻略に励んでほしい』
だからこそだろうか、彼はその望みを聞き入れることなく、どこまでも絶望の淵に追いやる。
「何を言ってるんだ! ゲームを攻略しろだと!? ログアウト不可能なこの状況で、呑気に遊べって言うのか!?」
その宣言に、ようやく意を唱える者が現れた。
現状最も、レンヤ同様に思考が彼の言葉についてきているであろう声の主を見やると、肩付近までの長さの深い色の黒髪を左に流すように分けた、どこか陰りのあるような表情の青年が、次層の底辺近くに佇む赤ローブに向かって吼えていた。
ユーリーが正統派のヒーローなら、さしずめダークヒーロー然とした容姿の青年は、しかしその容姿とは裏腹に熱く感情を露にしていた。
「こんなの、もうゲームでもなんでもないじゃないか!!」
彼の言う通り、これは“ゲーム”などという一つの娯楽の範囲を大きく逸脱していた。約二百名もの命を奪い、あまつさえこの場に集う者たちの生き血までをも啜ろうとしているこの世界が、たかだかゲームであっていいはずがない。
その青年の言葉を肯定するように、茅場晶彦は言葉を続けた。
『しかし、充分に留意してもらいたい。諸君にとって、《ソードアート・オンライン》は、既にただのゲームではない。もう一つの現実というべき存在だ。・・・今後、ゲームにおいて、あらゆる蘇生手段は機能しない。ヒットポイントがゼロになった瞬間、諸君のアバターは永久に消滅し同時に』
そこで一拍の間を取り、どこまでも無慈悲な言葉と共に、おそらくログインしてから最大の、そしてこの後も感じる事のないであろう常闇の絶望を添えて告げる。
『諸君らの脳は、《ナーヴギア》によって破壊される』
(・・・あぁあ、言ってしまったか・・・・・・)
話の流れから、おそらくはそういった結末が待っているであろう事を、レンヤはなんとなくだが予想していた。もちろんその予想が外れてくれる事を、この短時間の間にどれほど願ったかわからない。
・・・だが、だからといって打開策が無い訳ではない。要はヒットポイントをゼロに“しなければ”良いだけの話だ。ならば、この《はじまりの街》から一歩として外に出ることなく、現実世界からの救助を待てばいいだけの話だ。ヒットポイント全損と同時に仮想・現実共に死を迎えるなどと言われ、わざわざ死地に赴く者などいるはずもないだろう。
だからこそか、茅場晶彦は更なる託宣を告げる
『諸君がこのゲームから解放される条件は、たった一つ。先に述べたとおり、《アインクラッド》最上部、第百層まで辿り着き、そこに待つ最終ボスを倒してゲームをクリアすればよい。その瞬間、生き残ったプレイヤー全員が安全にログアウトされることを保障しよう』
不安や疑問、凡そ負の感情の全てを、僅かながらも声に出していた者たちも、その言葉に一様に静まり返る。そして遅まきながら全員が、【この城の頂を極めるまで】という言葉の意味を悟ったようだ。
「クリア・・・・・百層・・だとぉ?」
かすれた声が次第に明瞭さを増して喚いた。声のした方を向くと、先ほどのダークヒーロー然の青年の隣に、バンダナを巻いた長めの赤髪が印象的な男性プレイヤーが見えた。
「できるわきゃねぇだろうが! βじゃろくに上がれなかったって話しじゃねぇか!!」
・・・そのプレイヤーの言うとおり、ユーリーも参加していたβテスト時の攻略は二ヵ月で僅か八層。千人のプレイヤーしかいなかったβ時代と比べ、数の上では決して不可能ではないようにも思えるが、その当時とは、そもそもの前提条件が違うのだ。自身の“死”が付き纏うこの状況で、安全な街から出る者がいったいどれほどいるだろうか? とてもでないが、βテスター以上の人数が簡単に集まるとは思えない。
たとえ攻略に進みだした人間がいたとしても、その者が死んでしまった場合、この世界に存在するプレイヤーの数は減り続けていく。その数字が減ることはあっても増えることは決してありえないのだ。
そうして減り続けていくであろう僅かな数のプレイヤーで、各層毎に強さを増していくであろうモンスター及びボスを相手に、たったの一度の復活も許されぬこの状況でどう立ち向かえというのだろうか?
そもそも、この場に集うほぼ全てのプレイヤーが、現状が真実であるか否かの判断をしかねている。このような不安定な状態の者たちをフィールドに連れ出したところで、結果は概ね予想できる。
そんな中、しばらく沈黙していた赤ローブ扮する茅場晶彦は、白手袋に包まれた(ように見える)右手を操作し、静かに告げた。
『それでは、最後に、諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう。諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントがある。確認してくれ給え』
まるでその言葉に操られているかのように、ほぼ無意識にレンヤの右腕は動く。他の者もおそらく彼と同じなのだろう。瞬く間に、広場全体がウィンドウ開閉時の鈴の音のようなサウンドに包まれた。
そうしてあらわれたウィンドウを進み、アイテムストレージに辿り着いたレンヤの目に映ったのは一つのアイテム。
―――【手鏡】
さしてアイテムストレージを開いていないにも関わらず、そのアイテムの存在が記憶にないということは、おそらくこれが、茅場晶彦の言う“プレゼント”なのだろう。おそるおそるタップし、アイテムのオブジェクト化を選択。小さな光を纏ったそれは、レンヤの手のひらで明確な形を形成し、やがて光が消滅するとそこには、十年以上前から主流となった携帯端末に酷似した形状の鏡が現れた。他のプレイヤーも、次々とそれをオブジェクト化していく。もちろん、隣のユーリーも。
現れた【手鏡】を眺めるが、中世を舞台にしたこの世界に反して些か近代的なデザインであること意外、至って普通の手鏡だ。映るレンヤの姿も、彼が望んだ非常にダンディな風貌の男性のまま。隣のユーリーもまた、覗き込んだ鏡をみて訝しげに首をかしげていた。
―――のだが。
「うわっ!?」
突如鏡面が発光した。否、自身の体が光に包まれていた。鏡は、ただその光を反射していただけに過ぎない。その現象は彼のみにとどまらず、やがて全てのプレイヤーが光に飲まれた。
瞬く間にホワイトアウトした視界は、二、三秒程で回復する。・・・とはいえ、あまりの光量のせいで、目の奥が些か痛む。
「くっ・・・ユーリー、大丈夫か・・?」
徐々に痛みが和らぐ目をゆっくりと開きながら、隣人の名を呼ぶ。
・・・がある違和感を感じ、しかしその違和感の正体を把握する前に、更なる違和感―――最早“異変”といっても過言ではない現象がすぐ隣から発せられた。
「あ、あぁ・・・大丈夫だ・・・・・・!?」
これだけならば、何のことはないただの会話だ。しかし、ユーリーの声を聞いた瞬間、違和感は確かな異変へと変質した。
そう、声。
レンヤの声は、見た目どおりの非常にダンディな声だった。少し古い、モグリの医者を題材にしたアニメの主人公の声に酷似した声であったはずだ。ユーリーの声も十年近く前に、当時話題となったライトノベルのアニメにて、主役を務めた声優・松岡禎丞の声に酷似していたはずなのだ。
だが、今の彼らの声は、そのアバターからは想像も出来ないほどに高かった。しかも、その高くなった自身の声に、疑問は生まれど違和感は感じない。だからこその違和感であり異変。
そうしてようやく、完全に回復した視力にて隣人を見やった。その隣人も、同じく視力が回復したのだろう。レンヤへと視線を向けた。
・・・・・・そうして、共に(僅かにレンヤの方が早く)同じ疑問を口にした。
「君は、だれだ・・・・」「あんた・・・だれ・・・?」
本来、ユーリーの隣にいたはずの、厳格でダンディズム漂うレンヤは姿を消し、代わりに歳の若い男性がそこにいた。
感じた印象の年齢は十五~十六だろうか? 漂う雰囲気はそれよりも一、二は上にも見せてくる。そのままでは目元を隠すであろう長さの前髪を右側から分けたその濃い茶髪を彼は覚えていた。
また、その隣にいたはずのレンヤの隣。つまりユーリーの姿も、そこにはなかった。そして同様、代わりに別の人物―――女性が存在していた。
腰近くまである長いストレートの髪は鮮やかな金髪。本来は意思の強そうな、引き込まれそうなきれいな瞳は碧眼。アジア系とも北欧系ともとれるその顔立ちと非常にマッチした金髪碧眼は正しく、ユーリーのそれを彷彿とさせる容姿でありながら、歳相応以上の女性らしいラインが印象的だ。年齢も、現実の自分と変わらないであろうと、レンヤはぼんやりと考え、そしてある可能性に気づいた。
レンヤと同じ可能性に辿り着いたユーリーは、慌てて今一度、いまだ手の中にある鏡に目をやった。
そこに映るのは、βテスト時代愛用し、もう一人の自分であると信じていた金髪碧眼の勇者ではなく―――レンヤの目に映っていた女性。同じ部活の友達から“綺麗”と賞されていた自慢の金髪と、大好きな母と同じ碧眼の、現実世界のユーリーそのものであった。
・・・であるならば、隣の男性はつまり・・・・・・。
「君が、ユーリー?」「あんたが、レンヤ!?」
隣の男性も同じ結論に達したのだろう、互いを呼ぶ声が見事に重なる。そしてそれこそが、互いの言葉の肯定となった。共に、現実の容姿そのものになったということの。
あまりの驚愕の事実に、手の中のアイテムを落としてしまったが、二人ともそのような事は意にとめず辺りを見回した。
彼らが現実の容姿を取り戻したのなら、他のプレイヤー達も同様だろう。そしてその推察どおり、あれほどいた眉目秀麗なプレイヤーは、リアルな若者の集団へと摩り替わっていた。“戻っていた”と表現したほうが正しいのだろう。ついでに、更に衝撃的なことに男女比すら変わっていた。もちろん、圧倒的に男の方が増えている。
これだけであるなら、二流、三流の喜劇だったかもしれないが、事態はそれほど楽観的なものではない。
あくまでゲームであり、その肉体も所詮はポリゴンデーター。細部にはやはりどこかい違和感を感じてしまうが、それも些細な違い。現実の自分の身体とほぼ変わらぬものだ。
これほどの再現度ならば、この世界が、彼らにとってもう一つの現実である証明たりえるし、そのための処置なのだろう事は理解できる。
しかし、それこそ立体スキャンをかけなければ到底ありえないであろう完璧な肉体の構築を如何様にして、これほどの再現度で用意できるというのか? さすがのレンヤも、その原理については考えが及ばない。
「・・・《ナーヴギア》は、ヘッドギア型・・・・・・高密度の信号素子で顔を完全に覆っているから、それを使えば顔を精細に把握することなんて、わけないよ」
レンヤの中に生まれた疑問を察したのだろう。勇者から美少女となったユーリーがそのからくりを紐解いていく。
「・・・なら、体格は?」
・・・ユーリーが、完全に“女性”であると判明できた要因は、その金髪碧眼以上に印象的な、街行く人々が思わず見惚れ、あるいは振り返るであろう美貌と、劣情的ではあるが、彼女の歳相応以上に発育している女性的な“身体のライン”だ。変貌前(厳密な言い方をすれば変貌後なのだが)のユーリーは、些か線が細いながらも確かな男性らしさを持った、正しく勇者のような風体だった。対するは、ひどく扇情的な女性の肉体。これらが線で繋がる箇所は、おそらく身長ぐらいだろう。自身の肉体を動かすこのゲームで、身体を違和感なく動かすために、あえて現実の肉体と同じ身長でアバターを形成したのだろう。そのことを考えていなかったであろう大多数のプレイヤー達は一様に、その縦横比も変わってしまっている。
レンヤ自身も、その事を懸念していたため身長に変化はないが、だからこそ生まれる自身と他人の差異が気になった。
「・・・レンヤは、キャリブレーションをやったの覚えてる?」
―――キャリブレーション
《ナーヴギア》初回起動時に、自身の身体がどの様に動くのか、どれだけ動かせば身体のどこに当たるのか、そういった体表面感覚を再現するための測定作業だ。これは即ち、《ナーヴギア》に自身の肉体データーを保存する作業に他ならない。
「あぁ・・・なるほど。だからこその、この再現度か」
「たぶん、ね・・・」
ここまでのものを見せられては、これが現実ではないなどと否定することは到底出来ない。ヒットポイントがゼロになったその瞬間、その肉体は砕け散り、脳が焼かれ、仮想と現実の双方で、嘘偽りのない真実の“死”を迎える事となる。
その事を、レンヤへの説明ではっきりとわかってしまったユーリーは、自身がかすかに震えていることにようやく気づいた。
「・・・でも・・・・・・でも、なんで・・・こんなこと・・・・・・・?」
その言葉に対しての答えを、レンヤは持ってはいなかった。当然、その他のプレイヤーも同様だ。おそらくこの広場の中で、その答えを持っているのは、ただ一人。
「・・・どうせ今すぐ、あいつが説明してくれるはずだ」
その人物を睨み付けるように次層の天井を見上げる。まるでそれに呼応するかのように、睨み付けられた赤ローブ―――茅場晶彦は言葉を紡ぐ。
『諸君は今、なぜ、と思っているだろう。なぜ私は―――SAO及び《ナーヴギア》開発者の茅場晶彦はこんなことをしたのか? これは大規模なテロなのか? あるいは身代金目的の誘拐事件なのか? と』
その可能性を考えたわけではないだろうが、そのどれもがしっくりこない。
大規模テロ―――そもそも日本人である茅場晶彦が、何の目的をもって同じ日本人を相手にテロを行う必要があるのか? ましてやその大半は、軍事訓練はおろか武道の心得を学んでいるかも怪しい者たちばかりだ。
身代金目当ての誘拐―――あらゆる事件のなかで、【身代金目当ての誘拐】ほど成功率の低い犯罪はない。身代金を受け取った際、いったいどのようにして逃れるというのか? 辺りにはおそらく大多数の警察がひしめく。姿を現さなくても、その場には幾人とも知れない警察の影がある可能性は極めて高い。“警察に通報すれば人質は殺す”などというのも、犯人側には何の特にもならない。殺してしまえば、当然身代金の受け渡しなど成立するはずもない上に、“殺人”という更に重い罪状がつく。
どちらもリスクに見合うだけのリターンがない事を、天才と呼ばれた彼なら理解しているはずだ。だというのにそれを行うというのは、とてもではないが想像できない。
『私の目的は、そのどちらでもない。それどころか、今の私は、すでに一切の目的も、理由も持たない。なぜなら・・・・・・この状況こそが、私にとっての最終的な目的だからだ。この世界を創り出し、観賞するためにのみ私は《ナーヴギア》を、SAOを造った。そして今、全ては達成せしめられた』
最早狂気の所業としか言えない。あらゆる意味も目的もなく、ただこの状況へと導くことこそが彼の行動理念であったなら、そもそも彼に人生とはなんだったのか? その答えは決して他人には理解できるはずもないし、仮に彼と同じ高みに到達したとて、その終着点はあまりに無意味だ。天才故の孤独といった次元の話とは何もかもが違う。
『・・・・・・以上で、《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の―――健闘を祈る』
最後の最後で一番の謎を残し、彼は無機質に告げると、扮する赤ローブは再び、登場した際と同じ粘度を持った深紅の液体へと変質し、空を埋め尽くすシステムメッセージへと戻っていく。
完全にそれが姿を消し、一面の赤だった空はそれと同時に、僅か数分前の状況―――夕焼けが映えた茜色の空を映し出していた。辺りのNPC楽団が奏でる和やかな音楽が、殊更にそれまでにおきていた状況を混乱させていく。
・・・誰もが、この状況の理解をし終えていなかった。夢か現実か? その境界線も定まらぬまま、ただただ唖然としてその場に佇むばかりだった。
だが・・・・・・。
「い・・・いやああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
・・・ある一人があげた悲鳴。あまりの混乱状態に、NPC楽団の音楽さえ耳に届かなかったプレイヤー達の耳に届いたその叫びは、氷結した思考と魂を溶かし、同時に、届かぬと知りながら、あるいは、届くであろう事を願って、自身の負の感情を極限まで高め放つ。
「嘘だろ・・・なんだよこれ、嘘だろ!」
「ふざけんな! 出せ! ここから出せよ!」
「こんな困る! このあと約束があるのよ!」
「嫌ああ! 帰して! 帰してよおおお!」
悲鳴。怒号。絶叫。罵声。懇願。咆哮。遅まきながら溢れだす然るべき反応。それらの多重奏は不協和音となり、広場を大きく震わせた。
あまりの絶望に頭を抱えうずくまり、理不尽なこの状況に怒り天に向け拳をつきあげ、隣人と悲しみにくれ抱き合い、あるいは場違いに他人を罵り、正に阿鼻叫喚の地獄絵図となった広場を眺め、不思議とレンヤの思考は落ち着いてきていた。
「・・・大丈夫か、ユーリー?」
あまりの絶望に、両手をつきうずくまっているユーリーに肩をかし立たせる。その時に見えた彼女の瞳には、生気が一切宿っていなかった。当然、レンヤの問いに答えることも出来ない。
「・・・・・・取り合えず、ここから移動しよう」
覚束ない足取りのユーリーと共に、レンヤは広場を後にする。
・・・一度だけ振り替えたった広場。自分達同様その輪から離れていくもう一組の内の一人とレンヤは、目があった気がした。
§
《はじまりの街》中央広場から少し離れたところにある宿屋。そこの二階にある一室に、レンヤは訪れていた。
その部屋の窓からは、ちょうど広場を全貌でき、彼はそこからの光景を眺めている。
・・・あの場を離れてから大した時間は経っていないので当たり前と言えるが、広場の混乱は未だ止みそうにない。それどころか、混乱の様相は更に強まり、あらゆる負の感情が、窓を閉め切っていても聞こえそうなほどに高まっている。
「・・・・・・早まった事をしなければいいんだがな」
“早まった事”が具体的に何を指すのか、言ったレンヤ自身もわかってはいないが、間違いなく場の混乱と絶望を高める結果になるであろう事は想像に難くない。
「・・・少しは落ち着いたか?」
しばらくは広場の状況に良い変化は訪れないだろうと視線をはずし、この部屋のもう一人の住人を呼びかける。
「・・・・・・・・・・・・」
しかし相対する住人は、未だにその口を開こうとしない。
彼が寄りかかっている窓際から一メートル半は離れたところに置いてあるベッドの上で両足を抱え蹲ってる。この部屋を訪れ、とりあえず気持ちを落ち着かせるようレンヤに促されて以来、彼女はその体勢のまま微動だにしていない。・・・とはいえ、広場の者達のように暴れ出さないだけ幾分ましといえよう。
「・・・・・・まぁ、なかなか落ち着くようなもんじゃないよな」
寄り掛かっていた窓際から背を離すと、ベッドの上で蹲る彼女に幾分近づき告げる。
「・・・・・・・・・俺は、これからこの街を出るつもりだ」
その言葉に、彼女はゆっくりと顔を上げレンヤを見つめた。
この街を出る―――即ちフィールドに出る。この世界においてそれは、死地に自らの意思で乗り込む事と同義だ。この世界の“死”が現実での“死”に直結するこの状況で、フィールドに出ることの意味。先ほどの茅場晶彦による《正式サービスのチュートリアル》によってまともな思考回路を持ち合わせていない彼女にはそれが理解できていなかった。
生気を失っていながら、その疑問を瞳に内包していた彼女の視線の意味を察知し、彼は答える。
「おそらく、茅場晶彦の言っていた事は本当なんだろう。このゲームをクリアしなきゃ現実の世界には戻れないし、ここで死ねば、俺達は本当に死ぬ。現実の方だって、救助も期待できないような状況だろう」
事実を淡々と述べたでけだが、その再確認によって、彼女の恐怖はとどまるところを知らず募っていく。
「なら俺は、誰かの手による解決を待っているつもりはない。異常な状況ではあるが、この世界に飛び込んだのは俺の意思だ。なら、この責任のごく何割かは俺にもある。だからこそ、自分の責任を他人に取ってもらうなんて事は出来ない」
―――[自身がまいた種は自身で刈る]
元来責任感の強い人物なのだろう。それは、この世界を訪れる前からの彼の信条の一つだった。・・・だが、だからといってそれだけでどうにかなるほど、この世界は甘くはないだろう。勿論そのことはレンヤ自身も理解している。
「・・・とはいえ、今の俺じゃあまりに知識不足だ。だから、出来ればユーリーにも一緒に来てほしいんだ」
「!?」
・・・・・・だからこそそれは、当然の帰結と言えた。
モンスターのステータス、攻略法、クエストの発生条件やその攻略法、はたまた安く質の良い武具屋や道具やの所在など、βテスターである彼女―――ユーリーは、それらの情報を確かに持っていた。危険なルートも知っていれば当然、安全且つ効率の良いルートまで知り尽くしている。
そんな彼女がパーティにいれば、生存率は格段に上がる。戦闘に関しても、一日の長があるユーリーがいるだけでどれほど安定させられるかは計り知れない。
・・・だが。
「・・・・・あたしに・・・・・・死ね・・ってこと・・・・・だよね・・・・・・?」
「な・・いや、それは・・・・・・違うっ」
極論だが、それは間違いなくそういった意味を内包していた。だからこそ、レンヤの否定も力がなかった。
「おなじだよ・・・・・・ここで死ねば・・・・・あたしは・・本当に、死ぬんだよ?」
―――《ソードアート・オンライン》は所謂“デスゲーム”と化した。この世界で自身のヒットポイントがゼロになれば、この世界の肉体は消滅し、現実ではその脳を《ナーヴギア》によって破壊される。
先ほどレンヤが言ったとおり、それは事実であり、それが覆る時は今後おそらく訪れず、この世界を生き抜く為には、何より自身の強化と、この世界のあらゆる知識の吸収が急務といえる。
しかしそれら―――とりわけ“自身の強化”の為には、この街を発ち、フィールドに出現するモンスターを打ち倒して経験値を稼がなくてはならない。武器や防具である程度レベルを底上げすることも可能と言えば可能だが、現状の所持金(この世界では【コル】という単位がついている)ではそれもままならない。ある程度の装備一式と十分な回復アイテムを買ってしまえば、すぐに金は尽きるだろう。そうなれば、自身の更なる強化の為に金と経験値を稼がねばならず、必然フィールドに出なければならない。
・・・だが、当然ながらフィールドには凶悪なモンスター達が闊歩している。この世界のリアルな再現度もあいまって、如何な雑魚モンスターと言えども、人間の恐怖を煽るには十分過ぎる役割を果たしている。それは、人間の行動・思考を大きく束縛し、そこに生まれる隙は、命を刈り取るには十分と言える時間さえ生み出す。それほどまでに、フィールドは危険な所だ。
繰り返しになるが、この世界はデスゲームと化し、この世界での死は現実での死に直結する。なれば、そのような危険なフィールドに出るという事は、自殺行為に限りなく近い。
そんな所についてきてくれ―――などというのは、最早“死んでくれ”と言っているのと同義と言えた。
先ほどまでの、茅場晶彦によるチュートリアルにて絶望し、ましてレンヤに極論ではあるが“死んでくれ”と言われたなどと思い込んでしまい、そのあまりか、姿だけでなく口調までもが現実のものに戻ってしまったユーリーの言葉を、レンヤは否定することが出来なかった。
勿論彼にそのような意思はなかった。純粋に彼女の助けを欲し、また、彼女の助けとなる為にその身を惜しまないつもりでいた。
・・・だが確かに、レンヤの発した言葉にはそう言った意味が内包され、また、無意識のうちに、彼の信条の一つを彼女にも押し付けていたのだ。その事実に気づかず、あまりに迂闊な言葉をかけたと彼は自身を悔いる。
・・・それきり、再び俯き一言も発さなくなった彼女に掛ける言葉を、レンヤは持ち合わせてはいなかった。
「・・・・・・・・・ごめん」
・・・だからこそレンヤは、その言葉と共にある決意を口にする。
「・・・・・・・・・俺が、この世界から解放する」
その言葉にユーリーは、はっと顔を上げレンヤを見た。
この世界からの解放―――即ち、ゲームのクリア。それを自身が成し遂げると、彼はそう言っているのだと気づいたのは、ユーリーの前を通り過ぎ、部屋の出入り口まであと数歩というところまで来たときだった。
・・・そんなことは不可能だ。βテスト時代、千人ものプレイヤーが二ヶ月の時を経てもたったの八層までしか踏破しえなかったのだ。勿論その間に、βテスター達が何度死んだかわからないが、彼ら一人一人が十回死んだだけで、初回ロット数と同じ“一万”に手が届くのだ。彼女もβテスト時代で、三桁に後数回で乗ってしまうほど死んでいる。なれば、βテスト時代の全体の合計死亡回数は、今現在この世界に囚われたプレイヤー数“九千七百八十七”を大きく上回っているであろう事は想像に難くない。
それほどまでの難易度を持っているのが、この世界だ。到底一人のプレイヤーの力でどうにかできる代物ではない。ましてやこの世界に“次”はない。一度そのヒットポイントがゼロになったが最後、この世界の何処にも、そして現実世界にも帰ることが出来ない。
・・・だが、レンヤの瞳には、そのことに対しての恐怖が宿ってはいない。
そこにあるのは、ユーリーを深い絶望の淵に追いやってしまったことに対しての自責の念と、その贖罪の為に、先の言葉を必ずや実現してみせるという強い決意。
それらを宿した瞳は、扉へ手が掛けられる寸前振り返り、優しげな笑顔と共にユーリーに向けられた。
「少なくとも、ここにいれば安全のはずだ。時間は掛かるだろうが、待っていてくれ」
なにか、何か言葉をかけなければ・・・・・・。だが、いったい何と掛ければ良い?
頑張って? これから死地へ向かう者に向かって、そんな言葉はあまりに無神経だ。気をつけて? 彼がこのような愚行とも言える行動に移ってしまったのは自分の言葉が原因だ、その口で何を言うか。一緒に連れて行って? 先ほどその誘いを断ったと言うのに何を今更。しかも彼女は、未だに自ら死地へ赴く覚悟が出来てはいないのだ。彼と共に行った所で何の役に立てようか?
・・・結局、掛ける言葉が浮かばず、だが、それをレンヤがどう受け取ったかは不明だが、穏やかな笑顔を向け扉に手を掛けると、迷いなくそこから飛び出し、静かに扉を閉めていった。
・・・再び扉へ向き直った彼の背に向かって伸ばした右手は、しかし空をつかみ、力なくうな垂れた。
§
宿屋を出る寸前、今借りている部屋の代金を数日分払えるだけ払い、《メインメニュー・ウィンドウ》を操作し【Yury】とのパーティを解散した彼は、そのまま勢いよく宿から飛び出した。
・・・ゲーム開始直後のユーリーの話では、彼らが最初に出向いた草原の先に村があり、そこから何度か村やフィールドダンジョンを越えた先に、第一層の迷宮区があるのだと言う。
(まずは、その村か・・・・・・)
始まりの街を全速力で駆け抜けながら、簡単な方針を立てるレンヤは、ふと、視界の左端に映る細長いゲージに視線を向ける。
白い枠で囲まれたそのゲージは、薄い緑色で埋め尽くされていた。それの右下には【342/342】と表示されている。
これこそが、彼の命の残量。これが尽きたとき、彼は仮想・現実の双方で死を迎える事となる。そして、このような愚行を行っては、そう遠くなく、その未来は現実となるだろう。
・・・ふと、正式サービス直前に発売されたゲーム雑誌に載っていた、茅場晶彦のインタビューの一文を思い出す
『これは、ゲームであっても遊びではない』
今にして思えば、彼のその言葉は、正に今のこの状況を指していたのだろう。ゲーム内での死が現実での死となるこの世界は、間違いなく遊びなどではない。
死への恐怖がないかと問われれば、彼の中にも確かにそれは存在していた。
ならばなぜ、彼は今も次の村、その先にあるであろう第一層の迷宮区、果てはこの世界の頂―――第百層へ向けひた走っているのか?
別に、この世界を攻略し、残ったプレイヤー九千七百八十七名(今現在ももしかしたら何らかの理由で減り続けているかもしれない)を解放する“英雄”となりたい訳ではない。
彼の中にあるのは、このような結末を予想してなかったとはいえ(予想できるはずもないだろうが)この世界に自ら飛び込んでしまった事に対しての責任と、彼女―――ユーリーを、自身の言葉で傷つけてしまった事への贖罪。
・・・そして、このような状況でありながら、あるいはだからこそなのだろうか。この世界で、自分の力が何処まで通用するのか、そのことに対しての、小さな、しかし確かな、高揚。
ようやく、《始まりの街》の門を抜け、数時間前ユーリーと歩いた草原に足を踏み入れた。
仮想の肉体に呼吸の必要はなく(とはいえ、日ごろ無意識の内に行っている行動を止めることは出来ないが)、一切の息切れも、体力の低下もなく走り抜けてきた。元々体力には些か自身があったとはいえ、この処置のありがたみを感じ、しかし、身体の動きの鈍さはやはり気になる。それでも何とか、この身体の機能の限界値とシンクロさせ、その違和感を少しずつ消していくことに七割方成功した。
・・・突然目の前に、灰色の大型犬―――狼を模したであろうモンスターが現れた。視界にその存在を捉えると、迷わず左腰の鞘から剣を引き抜く。
「っ!!」
七割方慣らし終えた体と、思考とを最大限に駆使し、すれ違いざまに一閃。だがその一閃は、違わずモンスターのウィークポイントをついたのだろう。その肉体をポリゴン片へと変質させ、煌びやかなエフェクトと共に爆散する。
だが、それには目もくれず、剣を鞘に戻したレンヤは、ただひたすらに、七割方慣らした身体を十割に少しずつ持っていきながら、自身の全力をもって大地を蹴っていた。
・・・・・・その後、僅か一ヶ月で二千人近くものプレイヤーが死んでしまった。未だに第一層は攻略できていない。
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