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三笠

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4部分:第四章


第四章

「ロシアが来ていたからな」
「当時は日本よりずっと大きな相手だったんですよね」
「大きいどころではない」
 老人は首を小さく横に振って彼に答えた。
「それこそ。日本なんぞは鎧袖一蹴じゃった」
「一蹴ですか」
「そう、一蹴じゃ」
 老人の言葉にはまるで当時に生きている人の酔うな説得力があった。保次郎は彼の会話と表情からそれを読み取ったのであった。
「簡単にな。潰せる様な存在じゃった」
「それが日本に向かおうとしていたんですよね」
「危なかった」
 老人は今度はこう述べた。
「本当にな。朝鮮まで来ておったし」
「そうしていよいよ日本に」
「迷ったわ、誰も」
 これは本当のことであった。誰もロシアに勝てるとは思えなかった。陸軍の首魁である山縣有朋でさえも。彼も最後の最後まで躊躇していた。明治天皇に至っては間違いなく敗北すると考えておられた。これは帝が臆病でも日本を卑下しておられたのでもない。帝は日本とロシアの力の差を見て冷静に判断されたのだ。しかしそれでも。日本は戦わないわけにはいかなかったのだ。そして日本は戦争を選んだ。
 国民にしろ戦争すべきと主張していたがそうそう勝てるとは思っていなかった。彼等とて愚かではないのだ。ましてや相手はあのロシアだ。ロシアへの恐怖はそれこそ骨身に滲みている。そうした存在を向こうに回しての判断であった。追い詰められていたのだ。なおこの戦争は出征した弟を想う与謝野晶子も支持していたしどういうわけか資本家といった存在をけなす癖のあった夏目漱石も支持していた。ほぼ誰もが支持していた戦争である。やるしかなかったのだから。
「しかし。わし等は戦った」
「戦われたんですね」
「そうじゃ」
 ここで保次郎は気付かなかった。老人の言葉に。話に引き込まれてしたっていたが故に。
「引くことは許されない。負けることも許されない」
「そんな戦争だったんですか」
「戦わなければならない時もある」
 よく使われる言葉であろうがこの時もそうだったのだ。
「それで戦った」
「そういう状況だったんですか」
「誰も好き好んで戦いはせぬ」
 この言葉もまた非常に重いものになっていた。そこには背負っている者の重みがあった。
「しかし。戦うからには勝たなければならぬ」
「そうですよね。それは」
「それで戦った。必死にな」
「必死にですか」
「誰もが。それぞれの責務を果たした」
 死んだ者も多い。しかしそれは無駄死にではなかった。彼等は果敢に戦い、そうして死んだのだから。守るべきものの為に。
「そしてその最後にな。陸で奉天があり」
「海ではあの」
「左様、日本海での戦いじゃ」
 この三笠の最大の見せ場であった。ここで勝たなくては本当に日本はなかった。
「あの戦いに負ければ」
「日本はなかったんですか」
「その通り、わかってくれているんじゃな」
 老人は保次郎の言葉を聞いてまた目を細めさせた。そのことが何よりも嬉しいらしい。
「左様左様、本当になかった」
「あの言葉ですよね」
 展示室で見たあの言葉をここで思い出したのであった。
「皇国の興廃この一戦にあり」
「その言葉のままじゃった」
 老人はその言葉を全て肯定するのだった。また真剣な顔に戻って。
「あの戦いで負ければ日本はなかった」
「今の日本は」
「そう。あの戦争は有色人種がはじめて白人に勝利を収めた戦いと言われたが」
 これもまた教科書では書かれないことが多い。そもそも何故かこの戦争自体が日本の侵略戦争になっている。実態は全く異なる。ロシアに対する防御戦争だった。あの戦争をしなければ日本がロシアになっていた可能性は高い。少なくとも当時の日本人達はこのままでは確実に日本はロシアになってしまう、そう危惧していた。日本はかなり深刻な状況下に置かれておりその中で戦ったのである。
 その戦争への勝利は確かにそうした一面がありこれに勇気付けられた様々な人種が奮い立った。しかし当時の日本はそんな意識はなかった。ただ生き残る為に戦ったのである。それだけだったのだ。
「実際そこまでは考えておらんかった」
「そこまではですか」
 老人もそれに言及し保次郎も聞いていた。
「うむ。生きたかっただけじゃ」
「それだけだったんですか」
「皆。生きたかった」
 語る老人の目が暖かく慈愛に満ちたものになった。
「それだけだったんじゃよ。あの戦争は」
「それで。勝ったんですね」
「必死に戦ってな。それだけだったんじゃ」
「それで勝ちましたね」
 見事なまでに。この海戦だけではない。日露戦争全体として奇跡的な勝利であった。ロシアにとってみればそれは単なる局地戦であったろう。しかし日本にとっては全てを賭けた戦いでありそれに勝利を収めたのだ。これを『勝ったことになっている』と貶めている輩がいるがこれは卑しい所業である。こうしたことを言う輩にはおそらく歴史を語る資格なぞないであろう。当時の日本人のことを何一つ知らないからである。
「何とかな。それで今の」
「僕達がいるんですか」
「結果としてはそうなる」
 老人は保次郎のその言葉を認めて頷いてみせてきた。
「しかしあれじゃぞ」
「あれ?」
「それを誇るつもりはない」
 老人はそれは否定した。
「誇るつもりはな。しかし」
「それを忘れてはならないんですね」
「戦争を否定することは容易いのじゃ」
 これはもう言うまでもない。嫌だ、と一言言えばそれで全ては終わる。だがそれで何かが解決するかといえば否なのだ。否定するだけでは解決はしない。
「しかし。そこから何かを学び取ることこそが」
「大切なんですか」
「だからこの三笠が残っているんじゃよ」
 老人は語りながらにこりと微笑んだ。その顔には見事な徳が浮かび出ていた。
 
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