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三笠

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3部分:第三章


第三章

「あるつもりだけれど」
「やれやれ。困ったことじゃ」
「実感ないから。それはそうとさ」
「ああ、わかっている」
 困った顔であるが頷くのだった。こうして次の場所に向かう。
「行くぞ、艦橋にな」
「うん」
「その絵に描かれている場所にな」
 ようやく行くことになったのであった。
「やっとだね。それじゃあ」
「一応言っておくが天井はないからな」
 それはもう絵にも描かれている。この当時の戦艦の艦橋はそうだったのだ。後の戦艦や今の軍艦では艦橋も完全に建物の様になっているが当時は違ったのだ。
「雨は。大丈夫だが」
「流石に今日は降らないよ」
 快晴である。それこそ雲一つない。
「幾ら何でもね」
「そう。だからここに来たし」
 保正は言う。
「そういうことでな」
「鳥のウンコが落ちて来たら嫌だな」
「それはよけろ」
 今度は保次郎が素っ気無く言い返された。
「戦争をしていてそんなことは言っていられなかったぞ」
「また随分と大変だったんだね」
 こういうことは実感する保次郎だった。
「鳥のウンコはよけるしかないなんて」
「砲弾も当たるぞ」
 もっと怖い言葉が出て来た。
「戦争だとな」
「あっ、そうか」
「そうかで済むのか」
 どうしても実感を感じない保次郎であった。保正の言葉がまたしても呆れたものになる。
 しかし呆れてはいても。彼は言うのであった。
「まあいい。とにかく行くからな」
「さっきから結構言ってるけれど」
「御前があれこれと言うからだろうが」
 逆にこう言い返された。
「わかったらな。早く」
「わかったからそれじゃあ」
「全く。本当に困った奴だ」
 最後にはこんな愚痴も出た。長い話の後で展示室を後にして艦橋に向かう。艦橋の上は雲一つなくそこから奇麗な海も横須賀の街並みも見渡せる。遠くには灰色の自衛隊の軍艦さえ見えた。
「凄くいい景色だね」
「普通に見てもいい場所だ」
 保正の目が細いものになっている。どうやら心からこの場所が好きらしい。
「絶対に一度はここに連れて来たかった」
「そうだったんだ」
「暫くそこで色々と見ているといい」
 不意にこう言ってきた。見れば今艦橋にいるのは彼等二人だけだ。
「わしはちょっと」
「何処に行くの?」
「トイレだよ」
 少し気恥ずかしい顔になっての言葉であった。
「もよおしてきてな」
「何だ、トイレだったんだ」
「すぐに帰って来るけれどな」
「うん。じゃあそれまでの間は」
「景色でも楽しんでおけ。ついでに色々考えてな」
「考えるねえ」
 それにはまた首を捻る。今の彼にはどうしてもであった。
「何を考えても一緒だと思うけれどね」
「そう言わずに考えるんだ」
 祖父としての言葉であった。
「わかったな。それもじっくりとな」
「わかったよ。じゃあここにいるから」
「ああ。トイレが終わったら戻って来るからな」
 そう言ってからトイレに向かう。保次郎は一人だけになった。一人だけになるとただ空や辺りの海や街中を見ているだけだった。それなりに奇麗で気に入る光景であったがそれだけだ。彼はどうしても考えることがなくぼんやりと景色を眺めているだけであった。それだけだった。
 しかしその彼のところに。一人の男がやって来た。
「あっ、誰か来たな」
 彼は最初こう思っただけであった。
「誰かな、一体」
「おや、若い人か」
 やって来たのは小柄な老人だった。白い髪に髭をしておりその顔つきは温厚そうなものである。にこにこと笑っていてその服は和服であった。
「最近若い人がまた増えてきたな。何より何より」
「!?ここによく来られるんですか?」
「左様」
 老人は保次郎のその問いににこにことした笑顔のまま頷いてきた。
「ここはな。わしにとっては懐かしい場所でな」
「懐かしいって」
「あれじゃよ」
 また言ってきたのであった。
「何度もここには登ったさ」
「何度もですか」
「それこそ何度もな。飽きることのなく」
「飽きなかったんですか」
「いい光景じゃろ」
 まずはこう言ってみせてきた。
「遠くまで見えるし。しかも見栄えがいい」
「まあそうですね」
 見栄えがいいというのは保次郎も同意だ。彼も気に入ってはいるのだ。
「見ていると」
「どうしたくなるかの」
「そのまま遠くまで行きたくなるような感じですね」
 彼はこう答えた。これは偽らざる本音だった。横須賀に住んでいるせいか昔から海には慣れ親しんでおり好きであるのだ。
「ずっと遠くまで」
「海はいいものじゃ」
 老人はまた彼に言ってきた。
「奇麗でな。しかし」
「しかし?」
「波が高い時もある」
「ああ、それはそうですね」
 これは横須賀に住んでいるからわかる。海というものは決して穏やかなだけではない。時として荒れ狂うこともある。これはよくわかっていたのだ。
「何かあったらすぐに荒れますよね」
「そうじゃ。あの時も」
「あの時も?」
「天気は晴れていたがのう。波は高かったんじゃ」
 語る老人の目が細まる。細まりはするのだがそこにある光は強いものだった。保次郎はそのこんとらすとに気付いて不思議な感じを憶えた。
「あの」
「ここに来たから日本のことは知っておるな」
 老人は保次郎が問う前に逆に彼の方から問い返してきた。
「まあ少しは」
「少しでも知っているのと知っていないのとでは大違いじゃ」
 保次郎に語りながら海に顔を向ける。今横須賀の海は静かに落ち着いている。
「海でも。何でもな」
「何でもですか」
「何も知らないで騒ぐ者達程困ったものはない」
 老人の目が今度は憂いのものになる。どうやら何かあったようだ。保次郎もそれを察した。
「あの、何か」
「日本のことも」
 老人の今の言葉には憂いが込められていた。
「何も知らないで言うのは困ったものじゃな」
「それはそうですね」
 これには保次郎も同意だった。実のところ彼は市民団体というものが好きではない。かといって右翼も好きではないがああした市民団体に関しては本能的に胡散臭いものも感じている。何故市民だというのに先頭を行く者達の服装に一定の法則があるのかも気になっていた。不思議なことに私服であるというのにそこには一定の法則があるのだ。それが何故かは彼もわかってはいないが。
「あの時の日本は大変だった」
「今よりもですか」
「一歩間違えなくても潰れていた」
 老人の言葉はこうであった。

 
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