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Magic flare(マジック・フレア)

作者:とよね
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第4話 夢ノヨウ恋ノヨウ

 ―1―

 降りしきる銀糸の夜である。
 クグチは雇用契約書にサインし、提出した。
「なんだその顔は。嫌そうだな」
「騙された気分です」
 頭痛がするのか、岸本は眉のつけ根をつまんで揉んだ。そのまま窓辺に歩き、降りしきる銀糸と向き合う。
「故意に廃電磁体を都市に招じ入れようとする奴らがいることは前からわかっていた」
 岸本はクグチに背を向けたまま溜め息をついた。
「方法はわからないが、それについてはACJの技術部門が解明する。動機についてはACJのサービス部門が解明するだろう。わからないのはそれが為された時、都市と利用者に何が起きるかだ」
 クグチは椅子から立った。窓に映る岸本と視線があった。
「今の三十代後半から下の世代は……俺の世代だ。人格形成期から電磁体と関わりあってきた。もっとも俺がガキの頃のは、今みたいに守護天使などと言う大層なパッケージングはされていなかったがな。それに比べりゃおもちゃみたいなもんだったが……いずれにしろ、廃電磁体による汚染で守護天使が狂えば自分も狂うという人間が多数存在することは十分に予測できる」
「たかだか都市サーバの電子データが人格の一部だとでも」
「そういう人間は多い。さらに守護天使が示す幸福指数で、都市機構は人間の価値を決める。何十年とかけてこのシステムがゆっくり崩壊し、移り変わっていく分にはいい。だがそれが悪意の人間によって急速に瓦解すれば、大変な混乱が起きる」
「その程度のことで……」
 クグチは呻いた。
 そうは言っても、守護天使が社会の、人間の、何を隠しているかを、クグチも見てきたつもりだ。喪失の記憶を。悲惨の記憶を。クグチとてそうだ。鮮明な記憶と黒く塗り 潰された記憶の途絶がいつもある。
 田舎の一軒家の濡れ縁のこと。そこに女と座っていたこと。懐かしい雨と、赤い刺繍糸。微笑する女。奥の部屋で赤子が泣きだし、雲の切れ間から顔を出す爆撃機。
 動悸が激しくなり、目の前がくらみ、両脇と額に汗が浮く。そうして続きが思い出せない。クグチは自分で自分の記憶を隠した。守護天使を使わずに。思い出したいとは思わない。
 大変な混乱とは言い過ぎかもしれないが、守護天使の不在は確実に社会に不安と問題をもたらすはずだ。
 今窓の外を降る銀糸や、守護天使、様々にデザインされた幻覚が消えて、本当は静かな都市の本当は黴の生えた建物群、本当はひび割れた道、本当は空のない檻、その景色よりも死を選ぶ人がいたとて不思議はない。
「地下勢力を拡大させるわけにはいかない。連中は電磁体保護法が施行されれば何らかの形で裁きを受ける」
「事後法ですか」
「連中の規模や勢力は知らんが、対処できるのは俺たちのこの十三班だけだ。決して多い人数ではない。この少人数の中でいざこざを起こすのは不毛だと思わないか?」
 岸本は振り向き、ゆっくりクグチの前まで歩いて来た。そして掌で机を叩き、大きな音を立てた。
「口のきき方には気をつけろ」

 渦巻くミルクの夜である。銀糸が路上のミルクの大河に落ちると波紋が広がる。水面下には魚の背が見え、靴が迫ると逃げる。
 岸本ダイチはミルクの河を渡って家に帰った。温かい窓の光が庭に落ちている。チャイムを押すが、誰も出てこない。二回押して待った。それから諦めて鍵を探し、鍵穴に突っこんだ。
 ドアを開けた瞬間、女たちの笑い声が高い壁となって岸本を拒んだ。眉をひそめ、鍵をかけ、靴を脱いで家にあがる。誰も主人の帰宅に気付く様子はない。
 居間のドアを開け放つと、笑い声の壁は更に厚くなった。そして薄らぎ、消えた。妻と、妻の友人たち、その子供たちが居間を汚していた。
「今何時だと思ってるんだ」
 岸本は客人たちに挨拶もせず、妻に不機嫌な声で言った。途端に部屋の空気は静まり、冷えた。不本意そうな目で、妻が腰を上げた。
「帰って来るとは、思わなかったわ」
 まず言うことがそれか。岸本は苛立ちを堪えた。カーペットに五歳の息子が寝そべっている。重いため息をつき、居間を大股で横切って、息子を揺さぶった。
「ハヤト。自分の部屋で寝なさい」
 息子は薄ぼんやりと目を開け、「パパ、眠いよう」と言った。女たちはそわそわし始めた。
「ごめんなさいね、すっかり長居してしまって」
 岸本は息子を抱き上げ、子供部屋に連れていった。女たちの声を殺した話し声と、子供たちのぐずる声が居間から聞こえてきた。
 シャワーを浴びた。浴室から出て居間を覗くと、続きになったキッチンで、妻がたった一人で食器を洗っていた。こちらを見もしない。
 寝室に行き、寝転がった。眼鏡もイヤホンも外す。うとうとし始めた頃、妻が入って来て、彼女のベッドに横たわった。
「ランクには関係ない程度だけど」妻は岸本が起きているかも確かめず、言った。「ポイントが減ったわ」幸福指数のポイントだ。面倒くさくなって寝たふりを決めこんだ。妻がホームパネルの電源を入れ、番組を見始めた。その話し声の洪水が部屋に満ちると同時に妻が呟いた単語を、岸本は聞き逃さなかった。
「不幸ねえ」
 退勤直前に明日宮クグチと話したことを、なんとなく思い出した。
 岸本は、今の息子と同じくらいの頃に初めて、電磁体を与えられた。それは強い恐竜にもなった。かっこいいロボットにもなった。自分だけの友達だった。かつて子供たちが空想だけの中で持つことを許された友を、時代とACJは実際に与え得た。深い喪失感と表裏一体であることを、気付かせもせずに。
「事故だった」独り言を呟く。妻には聞こえていない。「仕方なかった」
 不幸。岸本は守護天使を失った時、自分は不幸だと思った。今は違う。妻は、自分を不幸だという。夫が帰って来て、友人たちが去り、気分が白けたせいで幸福指数のポイントが減ったからだ。岸本も妻を不幸だと思う。かわいそうだと。心から思う。
 幸福がないと不幸になるのか……あるから不幸になるのか。
 またしても思い出すのは、あの気に食わない新人だ。いい歳して反抗期のような目をしている。その顔に心の中で問いかける。守護天使などないほうがいいと思うか。だがな、そう思っているのはお前だけじゃない。粋がったガキじゃあるまいし、それくらいわかれよ。仕方がない。仕方がないんだ。
『――今夜は太陽観測衛星〈みらい〉特集! 技師たちの愛と感動の秘話はこの後すぐ! テレビの前の皆様はハンカチのご用意を……』

 かれこれ十二時間前。
 廃ビルへの不法侵入者を警察に引き渡した後、廃庭園で明日宮クグチを見つけた。彼は庭園の入り口に背を向けて立ち、こちらを見なかった。
「明日宮!」
 呼びつけて、初めてこちらを振り向いた。
 顔は土気色で、汗をかいていた。幽霊でも……何か想像を絶するものを見たような目で、明らかに何かに怯えていた。そのことに岸本は驚いたが、隠した。
「なんで勝手にいなくなった」
 乱暴に問うと、少しずつ落ち着きを取り戻した様子を見せ、目を伏せてやがて謝った。
「すみません」
「すみませんじゃねえよ、理由聞いてるんだろうが」
「岸本さん、ここではやめましょう」
 マキメが止めに入った。岸本は苛立って、クグチや、マキメや、その場にいる全員を睨み回した。
「一旦帰るぞ」
 廃庭園を出る。その時、マキメがクグチに尋ねた。
「他に誰もいなかった?」
「はい」
「中庭の足跡、君の?」
 思わず足を止めかけると、クグチはすかさず「はい」と答えた。

 妻は寝たようだ。規則正しい息の音が聞こえる。
 ニュース速報を告げるチャイムが、芸人たちの声に被って聞こえたので、画面を見た。
『日本時間22時36分、太陽観測衛星〈みらい〉打ち上げに抗議するQ国元首は、〈みらい〉打ち上げが実行された場合は武力でこれを破壊すると発表した』
 そうテロップが出た。続きを待った。しかしそれで終わってしまった。岸本は次々チャンネルを変えた。しかしニュースはやっていなかった。
 ホームパネルの電源を切った。遠くでスカイパネルが喚いている――戦いましょう! 戦いましょう!

 ―2―

 クグチは自転車を買った。一番安いものだが十分だ。それで出勤した。
「いつからああいう人たちはいるんですか?」
 その日は午後から新式銃の研修、午前はマキメが道東支社の各建物内を案内してくれる。
「どういう人たち?」
「人目を忍んで都市内部に幽霊を招じ入れようとする人たちです。他人の守護天使を汚染する危険を冒して、組織的にやろうという人たちは」
「はっきりしたことはわからない。中心人物について私たちは何も掴んでいない。噂話なら二年ほど前から……でも、その頃はただの都市伝説にすぎなかった」
 倉庫に行き当たったのは幸運である。
 西棟の暗い廊下に、扉が開け放たれている部屋があった。
「あれは?」
「倉庫だよ。来月から使ってなかった部屋を使うことになったから、荷物を移動したり整理してるの。仕事の邪魔になるから夜間の作業だけどね」
 何気なく中を覗いた。
 作業員たちがしゃべりながら出てきて戸を閉め、鍵穴に挿しっぱなしだった鍵を回した。

 夜、マーケットの買い物袋を自転車の前かごに放りこみ、クグチは出かけた。マーケットでの買い物が割引される専用の買い物袋だ。しかしクグチはマーケットを素通りした。繁華街を抜け、住宅地を抜け、町の暗い方、低い方へ、突き進んだ。
 問題のビルに着き、門の内側に自転車を隠した。買物袋を掴んで、開け放たれた玄関扉から内部に入りこみ、中庭を囲む廊下を庭園方面に進む。
 廃庭園に明かりがともっていた。オレンジ色の光を放つボール型のライトが、ハツセリと、アクリルのハープのオブジェを照らしていた。
 遠く揺らめく月虹を背負って、ハツセリが立ち上がった。クグチは額の汗をぬぐい、眼鏡を外した。月虹は消えた。
「早かったのね」
 ハツセリは立つ。彼女が座っていた椅子にマーケットの買い物袋を置いた。
「保存食は持ってきてくれた?」
「幽霊のくせに腹は減るのか?」
「私はこの体に憑依しているもの。とりあえずこの体は維持しなきゃ」
 買い物袋から助六寿司のパックを出して渡した。
「あら、海鮮堂だわ。懐かしい。学生の頃よくここでお弁当買って研究室で食べてた」
「あんた何歳だよ」
「私こう見えても、あなたが生まれた年に今のあなたと同じくらいの歳だったのよ」
「あんた、俺の親父を知ってるのか?」
 不信感と苛立ちを堪えてクグチは少女に尋ねた。ハツセリが寿司を食べながら剣呑な目を向けた。それから目を寿司に戻し、黙って食べた。
「言えよ。俺はあんたのことを岸本たちに黙っておいたんだ」
 クグチは続けた。
「あんたから聞きたい話があるからだ。それくらいわかるだろ」
「わかってるわよ。物食べてる間くらいちょっと黙ってて」
 箸でつかんだ最後の一切れを押しこむように口に入れ、のみこんだ後、ハツセリは少し苛立った様子で言った。
「明日宮エイジは良い男だったわ。あなた似てないわね。お茶ちょうだい」
 投げつけてやろうかと思ったが、やめた。
「ありがとう。あなたが小さい時、私は明日宮君と一緒にQ国にいた」
「あんた、どう見ても俺より年下じゃないか」
「最後まで聞いて」
 ハツセリが睨む。
「ところでQ国って変な呼び方よね。当時はちゃんと国名で呼んでたのよ。相手国のこと。あなたQ国の正式な国名知ってる?」
「余計な話は聞きたくない」
「あなたのお父さんは、Q国で泥棒をしたの」
 ハツセリは庭園の奥のガラス壁に歩いていく。黙って続きを待った。ハツセリは肩を竦めた。
「ひどいもんだわ。研究泥棒。生前の私と明日宮君は、あと強羅木君も向坂君も、大学を出た翌年には軍属の研究員としてQ国で戦利品部隊に同行していた」
 強羅木の名が出たことでクグチは動揺したが、彼と明日宮エイジは学生時代からの友人だったという。明日宮エイジを知っているのなら、強羅木を知っていても不思議はない。
「戦利品部隊?」
「略奪部隊ね。Q国で地上戦が行われた後、軍は陥落した都市から文化財などを盗み出し、盗み出せない物は破壊した。私たちが関わったのは電磁体研究所の研究データだったけど、あなた、その方面には詳しくなさそうね。折角だし、それじゃあ明日宮君の話をするわ」
 窓越しの光がハツセリの横顔の輪郭を浮き立たせる。
「彼、いつも忙しそうだった。学生のうちに結婚したから。その後陸軍所属の電磁気学研究所にスカウトされて、それを受けた。彼も結婚生活にお金が必要だったのよ。その年の卒業生で同じ研究所に入ったのは他に四人いた。強羅木君と、向坂君と、私と、もう一人」
「優秀だったんだな」
「スカウトされたのは明日宮君だけよ。私たち後の四人は大学の推薦枠で」
「その内親父とあんたは死んだとして……まあ、あんたの主張は措くとして、どうして強羅木と向坂は今ではつまらない場所でくすぶっているんだ?」
「つまらない場所?」
「特殊警備員室の室長だよ」
「知らないわ。まあありそうなことは、そこが安全だからでしょうね」
「安全って、どういう意味だ?」
「あの頃私たちの間では……電磁体技術は崇高なものだった。そして強羅木君も向坂君も理想主義者だった。わかる? 彼らは電磁体が下らない目的のために利用されるのを見たくなかったのよ。例えば今守護天使だとか呼ばれているようなものを。だけどそもそもは、電磁体生成は陸軍が行っていた研究だった。そして陸軍は民間企業のACJと手を結び、それを今の形で普及させた」
 強羅木との会話を思い出し、クグチは身震いした。
『守護天使がどれも、少しずつ特定のイデオロギーを利用者に刷りこむことができるとしたら?』
『守護天使には潜在的にそういう能力がある』
 ふと、あれは警告だったのかと思う。
「私たちは優秀だった」
 ハツセリは壁際を歩き回った。
「だけど、明日宮君はQ国で亡くなった。私も死んだ。ACJに転職した向坂君と強羅木君は、つまらない部署に追いやられている。あの頃のみんなはいなくなってしまった」
 廃庭園の中央に戻ってきた。
「守護天使は不幸な人をたくさん生んだわ」
「幸福指数なんてものがあるからだ。幸福がなければ不幸もない」
「幸福の基準がなければ、と言うのが正しいんじゃない? 幸福の基準が明確であればあるほど、そこからあぶれる人は多くなる。そしてあぶれた人は不幸。更に守護天使育成はゲーム。ゲームのルールと勝敗は明確じゃなくちゃいけない」
 クグチは買い物袋に手を突っこんだ。紙で包まれたトロフィーを取り出し、ハツセリに突き出した。怪訝な表情で受け取ったハツセリは、紙をはがして目を見開いた。
「……懐かしい。どこで手に入れたの?」
「あんたは知らないんだな。誰がこれを俺に寄越したのか」
「その口ぶりじゃ、向坂君からでもないのね」
「向坂はあんたのことを知ってるのか? 強羅木は?」
 ハツセリはカード型のメモリデバイスに目を止め、大股で廃庭園の出口に歩いていく。いつの間にか彼女は懐中電灯を持っていた。クグチも無言でついて行った。
 建物の奥、二階の一室に、廃墟にしては清潔に掃除された一室があった。部屋のデスクの全てにかなり旧式のパソコンが設置されている。
「これを再生できるのは、私が知っている中ではこの一台だけ」
「起動するのか?」
「わからない。外付けバッテリーを持っておいで。ここまで旧式のだと、手に入りにくいかしらね」
「いや」クグチは首を振った。
「心当たりがある」

 先日岸本たちが捕まえた男たちとは、ハツセリはどういう関係だったのだろう。それについて聞いていなかったと気付いたのは、寮に戻ってからだ。
 結局ハツセリの正体は何だろう。あの肉体はただの少女であるとして、ハツセリの名を名乗り、自分は幽霊である、と語った女の正体は?
 死んだ女の幽霊が少女に憑りついている、などという説明を信じるわけにはいかない。
 しかし、幽霊という言葉にはもう一つの意味がある。
 守護天使は幽霊になれる。守護天使は持ち主の生前の記憶を引き継ぎ、自分がその記憶の持ち主自身だと信じることができる。死の記憶を持つ理由を、自分がその死者であるからだと、すなわち今の自分は幽霊であるからだ、と判断し、思いこむことができる。
 そして守護天使は他の守護天使に干渉できる。
 寝転がっていたクグチは思わず起き上がった。
 例えばあの少女が幼い頃から守護天使を持っていたら。
 例えばあの少女の新しく未発達な守護天使が、幼い内からあの女の守護天使の干渉を受け、情報汚染されていたら。
 幼児を、自分は幽霊だと、この肉体に憑依した死んだ女だと信じこませることは容易い。
 まさか。そんな話は聞いたこともない。
 しかし、全くあり得ないと言い切れるだろうか。
 そう考えることは、ハツセリの話ととりあえず矛盾しない。しかし矛盾しないことは証拠にはならない。
 クグチはいらいらして部屋を歩き回ったが、もう一度服を着替え、自転車の鍵を取った。こうしていても仕方がない。帰り道に考えていたことを実行すべく動いた。
 手足が震えるのを堪え、自転車をACJ道東支社の西棟へ急がせた。夜間にも働く人間はいるから、どこかが開いているはずだ。裏に回ると、明かりが点るガラスのドアがあった。受付に守衛が一人いた。一般の警備員だ。
「こんばんは」
 守衛は眠そうな目をくれた。
「社員証を見せてください」
 昨日渡されたそれを守衛に見せた。
「ご用件は?」
「忘れ物を取りに来ました」
「行き先は?」
「特殊警備室の十三班の待機室です」
「どうぞ」
 とりあえず侵入には成功した。
 クグチは警備員室には向かわず、昼間マキメに案内された倉庫を目指した。
 倉庫の戸は廊下に向かって開け放たれていた。戸が盾になって、内部の作業員の目からクグチを隠している。そして、鍵穴には鍵が刺さったままだった。
 クグチは鍵を抜いた。それから足音を立てないようにそっと引き返し、建物を出てから、自転車置き場に全力で走った。
 門限の直前に寮に帰った。ひどく汗をかいていた。部屋の電気を消す。暗闇の中で着替える。脱ぎ捨てた服のポケットから倉庫の鍵を取り出した。
 倉庫の鍵は、きっとすぐに付け替えられてしまうだろう。機会はそうない。
 戦いましょう、戦いましょう、スカイパネルがしゃべっている。クグチはイヤホンを外す。強い光がカーテンを染め、消えて、また染めた。戦いましょう。道東居住区にほど近いあさひ打ち上げ基地防衛の件だ。Q国の件だ。
 クグチは壁を向いてきつく目を閉じる。
 紫色の果実が腐臭を放つ影の庭園の夢を見る。果実の中には岸本の顔があり、マキメの顔があり、島の顔があり、強羅木や、南紀支社での同僚や、都市の人々の顔があり、甘ったるい果実にくるまれ死んでいく。
 ハツセリが何か言っている。だけど聞こえない。

 ―3―

 翌日出勤したクグチは、「今日は休みだよ」とマキメに言われる。控室には岸本もいて、咎めるようにクグチを睨んだ。岸本は週替わりでチームを見ているそうだが、今週はクグチのチームの担当らしい。
「シフト表はもらってないのか」
「はい」
「島に渡しとけって言ったのに。アイツほんと使えねえな」
 クグチは気まずくなって目を逸らした。そういうことをわざわざ口に出して言う奴のほうがよほど嫌いだ。
「うん、あのね、余分は刷ってないんだ。寮に戻ってな。島に今日中に渡すように言っておくから」
 クグチはマキメに従うことにした。守護天使を持たないクグチたちは、電磁体を介したデータのやりとりができない。不便だが仕方がない。出て行こうとしたら、ドアが開いた。
 入ってきたのは一番年配の星薗だ。職場だというのに酒臭い。岸本が何を言うかと思ったら、顔をしかめただけだった。
「おう、アレやろうや、アレ。昨日の続き」
「星薗さん、また将棋?」
 星薗と年代の近い、沢下と石塚という中年二人が応じた。
「休みの日にまで、熱心だねえ」
 マキメを見ると、困ったような、渋い顔つきをしている。クグチの視線に気づくと声を潜めた。
「他に行き場がないんだよ、あの人は。岸本さんも匙投げてるし。でも君はああいう歳のとり方しちゃ駄目だぞ」
 クグチは星薗の姿に重なって、十分にあり得る自分の未来が見え、ぞっとした。
「いいじゃねえかよう、どうせ他にすることもねえんだしよう」
 彼は将棋盤を持って、二人の同僚がいるローテーブルに歩いていった。
「出動なんか滅多にねえ。訓練もたまにあるだけ。一日中パチパチ将棋打って時間が経つの待ってりゃおまんま食える。えっ? いい商売じゃねえか」
「星薗さん」
 岸本が睨むのを感じてか、石塚が小声でたしなめた。
「えっ? 何だ? 何か間違ったこと言ったか、俺?」
「一日中将棋やってりゃいいってのは言いすぎでしょう、俺たちにだってちゃんと仕事はあるわけだし……」
「どうも、何回説明しても現状を理解できない奴がいるようだな」
 と、岸本。
「廃電磁体を故意に都市に招じ入れようとする連中が存在することは、前回の出動で明らかになったはずだ。今後俺たちの出動が増えることはあっても減ることはない。出動時に邪魔になるような奴には出て行ってもらうしかない。そこんとこわかってんだろうな」
 クグチはこれ以上場が険悪になる前に、さっさと退散することに決めた。ドアを開けると、ちょうど廊下側からも誰かがドアを開けようとしていたところで、ばったり至近距離で顔を突き合わせる形となり、思わず飛びのいた。
「ああ、ちょっといいですかね」
 夜勤の警備員だ。しかも見覚えがある。昨夜裏口で出入りを見張っていた警備員だ。岸本も星薗も黙った。
「何ですか」
 岸本がぶっきらぼうに尋ねた。
「や、念のためお伺いして回ってるんですが、この中に昨夜、二階の倉庫に行った人はいませんかね」
 立ちくらみが起き、顔が熱くなった。全員黙っている。目が泳ぎそうになるのを我慢し、動揺を堪えるために、そっと深呼吸した。
「いないんじゃないですかね」やる気なさそうに岸本が答えた。「何かあったんですか?」
「いや、昨夜倉庫作業中に作業員が倉庫の鍵を紛失しまして……まあ、入っているのもガラクタばかりなんですがね、まあでも、施設内の鍵がなくなるなんてのも剣呑な話ですからね」
 警備員は室内の全員の顔を窺い、最後にクグチに目を止めた。
「ああ、あなた、昨夜ここに来たとき、何か不審な人は見ませんでしたかね」
 全員の視線が、一斉に背中に突き刺さるのを感じた。
 もっと早く部屋を出ていればよかった。クグチは後悔したが、今更どうにもならない。
「昨夜? 昨夜ここに来たのか? 何しに?」
「忘れ物をしたんです」
 冷や汗が額と脇の下から噴き出した。
「忘れ物? 何を?」
 岸本が質問を重ねてくる。何を? 何を忘れたことにする? わざわざ取りに戻るほど大事な物。社員証? いや、入館時に提示している。財布? いや、退勤後に食券を買うところを見られている。寮の鍵? いや。自転車の鍵? いや。岸本がこちらを凝視している。マキメも。他の同僚たちも。
 クグチは思考を回転させた。昨日、ここで何をした? 持ち物の中で、どんな忘れていきそうな貴重品があった?
「実印です」
 クグチはやっと、思いついて答えた。
「昨日、雇用契約書に捺したやつを……」
「ふぅん」
「で、この部屋まで取りに来たの?」
「いえ」
 と、マキメの質問に、今度は咄嗟に答えた。
「部屋に来る途中に、ポケットに入ってたことに気付いたんです」
 そして、作業員を振り向いた。
「なので、二階には行ってません。お力になれずすみませんが」
「ああ、そうですか。まあいいですよ。作業も終わったし、盗まれて困る物もないしねえ。まあ大方、作業員がどこかに置いたつもりでなくしちまったんでしょうよ。どうも」
 警備員は疑う様子もなく、廊下を引き返していった。クグチは気付かれないように、長い息を吐いた。
「……じゃあ、これで」
「待てや」
 星薗が険のある声で呼び止めた。緊張で首の筋肉が強張るのを感じながら、クグチはゆっくり振り向いた。
「おめぇ、どうも何かさっきから怪しいな」
「何がですか?」
「おめえ、昨夜自転車でどこ行ってた?」
 クグチは凍りついて、星薗の酔ってどす黒い顔を凝視する。
「だから、忘れ物を取りに来てたんです」
「その前だよ」
 見られていたのだ。どこからだろう。もしかしたら、自転車置き場の真上が星薗の部屋なのだろうか。
「えっ? どこ行ってた?」
 部屋が静まり返る。全員が驚くほどの真剣さで自分を凝視しているのを感じる。
「言えよ」
 言われるまでもない。でも何を言えば?
「わかるんだよ、怪しい奴は。俺は昔刑事だったからな」
「この前は昔教師だったって言ってたでしょう」
 うんざりした声でマキメが助け舟を出した。
「で、その前は、昔鉄道技師だって言ってなかったっけ? 明日宮君、そんな気にしなくていいんだ」
「昨夜はサイクリングに行ってました」
 クグチは、やっと答えた。
「まだ、市街のことよく分かってないから……だから、別にどこに行ってたってわけでもありません」
 星薗や岸本たちがつまらなそうに凝視を解いた。
「これ以上不愉快な思いをさせる前に教えておく」
 今度は岸本だ。
「廃電磁体の件でこそこそしてる連中の存在が大っぴらに取り沙汰されないのは、まだ連中を裁く法が整備されていないからだ。奴らが大々的に動くなら、法が施行される前だ。それは昨日話しただろう」
「はい」
「連中が道東だけにいるとは限らない。他の都市のグループと合流しようとしているかもしれないし、最悪の場合特殊警備員の中に紛れこんで、情報を横流ししている可能性もないとは言い切れないわけだ」
「それで、俺が疑われてるんですか?」
「疑われるようなことをするなと言ってるんだ。もう帰れ」
 クグチは今更動悸が激しくなるのを感じながら建物を出た。
 自転車を引いて歩き、近くの公園で気が落ち着くのを待った後、ある場所に向かって自転車を漕ぎ始めた。誰かが自分を何かに巻きこもうとしていることは確実だ。それについて無関心ではいられないし、単純に、実の父親について興味があった。ハツセリから得られる情報だけをあてにするつもりはなかった。
 クグチは、目的地が迫るにつれ悲壮な心持ちになってきた。幼少期の記憶はほとんどない……いずれ何か嫌な記憶を思い出すことになりそうな、予感に満ちていた。
 大学図書館は一般に公開されていることが多い。期待した通り、道東工科大もそうであった。
 たっぷり半日後、クグチは寮の自室に戻っていた。机に本を積み、更に、帰途に早速倉庫から盗み出してきた外付けバッテリーの充電を始める。
 椅子に座って腕組みし、本の山を睨んだ。クグチは読書に親しみがない。しばらく本の背表紙に視線を注ぐ。著者名はどれも同じだ。大学図書館の校誌で見つけた名。
 明日宮エイジの同期生。
 そしてハツセリが言う『もう一人』、卒業後に、電磁気学研究所に入った男だ。
 名は伊藤ケイタ。
 クグチは真剣な表情で迷った後、一番簡単そうな本のタイトルに手を伸ばす。
『あなたでもわかる電磁気学研究誌』
 実際には電磁気学の本でも研究誌でもなく、Q国での従軍の日々を回想したエッセイだ。同じ著者の他の本も借りてみたものの、専門性が高くて初めに手を出すにはハードルが高い。この先にだって読むことはない気がする。クグチは自分の読書嫌いを呪ったが、今更仕方がない。
 一番簡単そうな本の目次を見て、関係がありそうな場所だけ読もうと決めた。それが一番、挫折しにくそうだ。
『一章 電磁気学のなりたち』
 違う。
『二章 僕が電磁気学を選んだワケ』
 これも違う。
『三章 道東工科大の日々』
 これか? 

 ―4―

〈こうして、現在ではQ国と呼ばれる現地での調査メンバーに私が選ばれることとなった〉
 クグチはマーケット前でタクシーを拾う。
「中央十一区へ」
〈同じチームに配属されたのは、先述の明日宮君、強羅木君、向坂君、そして紅一点の桑島君であった。私たちはみな大学の同期生であったので和気藹々とした雰囲気でQ国入りを果たしたが、現地での活動内容がほぼ略奪に等しい、現地研究所の研究データの横取りであることがわかってくると、私たちが額を寄せ合って深刻に話し合う回数は次第に増えていった。〉
「ここで降ります」
 クグチは繁華街をうろつく。足もとの銀河、宙を泳ぐ星の魚の夜である。
 紅一点というのだから、桑島という人物がハツセリの……ハツセリを名乗る幽霊の……正体だろう。
 桑島メイミ。明日宮エイジの、強羅木ハジメの、そしてまだ見ぬ向坂ゴエイの、同期生。
 クグチは寮のホームパネルから接続できる、市民データベースから得た情報を反芻する。
 伊藤ケイタ。道東工科大学卒。道南大学理学部客員教授。元SF小説家。理学エッセイスト。著書多数。
 クグチはまたもタクシーを止める。透きとおる銀河を渡る白き方舟のタクシーである。
「北三区の入り口へ。公園手前までで結構です」
 伊藤ケイタ。桑島メイミ。新しく得た名前が頭の中で渦を巻く。
 伊藤ケイタ。国防技術研究所を僅か一年で依願退職。その後大学院に入り直し、同時に文筆業の世界に足を踏み入れる。道南大学に客員教授として招かれたものの、やはり僅かに勤務した後自主退職。その後道東居住区に居住権を得るが、現在は消息不明。
「やっぱり、ここでいいです。降ろしてください」
 桑島メイミ。休暇中、道東大空襲に遭い死亡。
「東二十六区へお願いします」
 今度のタクシーは魚の気球。
 馬鹿げてる。
 馬鹿げてる。
 馬鹿げてる。

「それで、バッテリーは持ってきたの?」
 この女が桑島メイミなのか? 廃ビルの一室に立つ少女のハツセリを前に、クグチは思いを巡らす。あるいは桑島メイミの守護天使か。守護天使に洗脳された少女か。
 わからない。この存在を形容する言葉は存在しない。
 そのハツセリは、機嫌がいい。目には踊るウサギのレンズがはめられて、決められた動きを瞳の中で何度も何度も繰り返している。
「随分、協力的だな」
「当たり前でしょう。明日宮君が遺したものよ、興味がないわけないじゃない」
 バッテリーを挿す。古いパソコンに充電中を示すライトがつく。しかし、電源はつかなかった。
「古いもの。仕方ないわね。本体を持ってきて」
「大きすぎる。流石に盗み出せない」
「じゃあ、基盤を持ってきて組み立てる?」
 ハツセリがかわいらしく肩を竦める。
「わかった」
 クグチは約束せざるをせない。
「一番小さいやつを持ってくる」
「盗み出すのね」
「当たり前だ。今時そんな旧式のマシン、売ってるわけないだろう」

 ホテルで夜明けを待つ。クグチはベッドに横たわり、目を閉じるが一睡もできない。寮の警報が解除される時間を見計らい、寮に帰り、制服に着替えた。
 自転車置き場を通らずに、西棟へ向かう。
 正面から入る。中庭で警備員たちが、ラジオ体操をやっている。クグチは倉庫に向かい、鍵を回し、開けた。
 その瞬間、警報が鳴り響いた。
 最初、何故警報が鳴ったか分からず、硬直し立ち竦んだ。やがて下の廊下から足音が迫り、それが階段を駆け上がってくると、クグチは慌てて鍵を抜き、全力で廊下の端へ駆けた。
 男子トイレに体を滑りこませるとほぼ同時に、足音がこの廊下の、反対の端に達した。
「倉庫が開いてる」
 と、警備員たちの声が、警報にかき消されながら聞こえてきた。クグチは一番奥の個室に身を潜め、彼らが去るのを待った。
 警報が止んだ。早朝の建屋内は、耳が痛いほど静かになる。
 足音が散り、その内の一つがこちらに向かってきた。階段を下りていってくれるのを静かに願ったが、足音は少し考えてから、トイレに入ってきた。
 一番手前の個室のドアが、ギィッ、と軋んで開かれ、閉じた。
 すぐに二番目の個室が、同じように調べられる。
 終わりだ。クグチは震えを堪えてドアに寄り掛かった。
 どうやって言い訳しよう?
 あるいはばっくれようか?
 個室に鍵をして、いかにも用を足していた風に?
 三番目のドアが開く。
 まだ決めあぐねている。出勤してくるような時間でもないのに、こんな階のトイレで用を足していたことを、どう説明すればいい?
 四番目のドアが開く。
 駄目だ。何も思いつかない。
 五番目のドアが開く。
 立て籠もるか? 立て籠もったところでどうする?
 ついに警備員の気配が個室の薄いドアの向こうに立った時、
「何かあったのかい」
 別の男の声が入ってきた。
「向坂さん」
 警備員の声は、まだ若い男の声だった。
 向坂? あの向坂ゴエイなのか? 恐怖と緊張で呻き声が漏れそうになるのを堪えながら、ことの展開を待った。
「誰かが倉庫に入ったみたいなんです。それで、警報が」
「ああ、なるほど」
 おっとりした調子の中年男の声が続く。
「僕はずっと倉庫の隣の部屋にいたけど、さっき、誰かが凄い勢いで階段を駆け下りていったよ。後ろ姿しか見えなかったから、誰だかよくわからなかったが……」
「本当ですか!」
 警備員の気配が、さっと個室の前から離れた。座りこみそうになるのを堪え、クグチは立ち続けた。足音を立てて、向坂と呼ばれた男が男子トイレの前から立ち去る。
 しばらく間を開けて、そっと個室のドアを開いた。
 中年男の背中が階段を下り、踊り場を曲がって行くのが見えた。この男が向坂だろう。その後を、足音を殺して歩く。男は一階に下り、そのまま建屋を出て行った。
 ぶらぶらと散歩するような歩調で、ドーム越しの朝の光の中を寮へ歩いている。
 倉庫の隣の部屋にいた向坂には、警報が鳴った直後、廊下を走って逃げるクグチの姿が見えたのだろう。何故、俺を助けたんだ? クグチは心の中で問う。
 後ろ姿を観察する限り、どこにでもいそうな中年だ。スーツ姿で中肉中背。彼が寮に入る時、横顔が見えた。彼は食堂に入り、列に並んで朝食を取り、十二班のテーブルに座った。十三班のテーブルの目の前だ。
 クグチもパンと、サラダと、スープを受け取った。
 向坂と話をしたいが、既に向坂の向かいに別の人間が座って、何か話をしている。クグチが話しかけるような隙はない。
 向坂の顔が見える場所に席を取ったクグチは、何気なく食堂の入り口を見て、向坂の気を引く方法を得た。
「島さん!」
 入り口でトレイを手に取った島が、いい具合に大きな声で挨拶を返してくれた。
「あっ、明日宮君! おはよう」
 向坂に視線を戻した。彼がすかさず自分から目をそらすのがわかった。
「早いんだね」
「島さんこそ」
「いや、俺食べるの遅いから、いつも早めに来るんだ。昨日はごめんね。シフト表の件」
「いえ」
「寝れてる? 何か疲れてるっぽいけど」
 クグチは朝食を口に運びながら首を横に振った。
「道東には慣れた? 遠くから来て、いろいろ不安なこともあると思うけど」
「俺、子供の頃道東に住んでたんですよ。父親もここの出身なんです」
 向坂を見る。
 彼は彼の話し相手から決して目をそらさず、クグチを見ない。
「そっか、じゃあ初めての土地ってわけじゃないんだ」
「父親が道東工科大の出身なんです」
「へえ、お父さん頭いいんだ。すごいな」
「その同期生で伊藤ケイタって人がいるんですけど」
 向坂の眠そうなまぶたが引き攣るのを見た。クグチは向坂に視線の圧力をかけるのを、やめなかった。
「わりと有名な小説家みたいで、父親の知り合いだったんです」
「そうなんだ。その小説家の人とも知り合いなの?」
「いえ、でもその共通の友人が道東にいて……」
「じゃあ、頼りになる人がいるんだね。よかった。一人で心細いんじゃないかって思ってたんだ」
 向坂が立ち上がり、やけに大きな声で言った。
「ちょっと、裏口で外の空気吸ってくるよ」
 クグチは朝食を急いで片付けると、島との会話を適当に切り上げ、寮の裏口に急いだ。
 誰もいない。
 それは、向坂ゴエイと二人きりで接触する、最初でそして最大のチャンスだった。
 桜の木の陰からスーツ姿の向坂ゴエイが姿を見せた。彼はクグチに向かって歩いてくる。
 クグチも歩み寄ろうとした。
「明日宮君!」
 しかし、クグチを呼んだのは女の声だった。
「そんな所で何してるの」
 マキメだった。ゴエイはどこかに姿を隠してしまった。
 悔しさを隠して出勤するしかなかった。
 朝礼。不審者がうろついていることが、岸本の口から告げられる。倉庫の件については、あえてだろうが、話は出なかった。そして今日は訓練。
「本来のこの部署の室長である向坂さんからお茶の差し入れをもらった。後ろの冷蔵庫にあるから、みんな一本ずつもらっていくように。以上」
 パーテーションで区切られた冷蔵庫。そこで、クグチは自分宛てのメッセージを見つける。
 南紀製のロットの眼鏡だけが、お茶の上に浮く緑の文字を見ることができた。
〈暫くは彼女と会わないように〉

 ハツセリのもとに行かないまま、一日経つ。
 二日目。
『市民の皆様にお知らせします。四日後に迫る〈みらい〉打ち上げに備え、第十一防衛海域は海上封鎖されております。万一の事態に備え、居住区からの出入りは控えていただきますようお願い申し上げます』
 三日目。
「この間は疑うようなことを言って悪かったよ。でもまあ、こんなご時世だしさ。私は君のことを仲間だと思ってるよ」
「ありがとうございます」
 四日目。向坂を見つけるも、人が多くて接触できない。
 五日目。人が少ない場所を見つけるも、向坂がいない。
 六日目。もう待てない。

 ―5―

〈あさひ〉打ち上げまで半日を切り、そのまた半分の、また半分を切った。
 お祭りの夜である。何事もなく退勤したクグチは、自転車を引っ張ってまっすぐ廃ビルに向かった。今夜なら、帰りが遅くなったところで誰にも怪しまれない。
「パソコンは持って来れなかった」
 暗い庭園で、クグチは倉庫での一件を、向坂に助けられた事も含めて説明した。ハツセリはそれについてクグチを責めなかったが、落胆した様子は伝わってきた。
「そう。向坂君とは話はできた?」
「それもまだなんだ。あの人は……何ていうか、こそこそしている。どうしても二人きりで話したいようだが、機会がなかなかない」
「こそこそしてる?」
 ハツセリが眉を寄せた。何か彼女にとって失礼な発言だっただろうかと思ったが、そうではなく、単に怪訝に思ったのだと、続く言葉でわかった。
「彼がそうする必要はないはずなのに。あなたのお父さんと彼の関係が周囲に明らかになることが、そう不都合だとも思えないわ」
「しばらくここに来なかったのも向坂さんの進言があったからだ。直接言われたわけじゃなくて、班への差し入れのお茶に、俺だけにわかるようにメッセージがタグ付けされていた」
「私の所に来ないようにって?」
 クグチは頷く。ハツセリは、一週間ここで誰にも会わずに過ごしたようにはとても見えないほど清潔だし、食事もとっているようで、健康そうだ。
「向坂さんは、何かを秘密裏に進めたがっている。俺にはそう見える」
 ハツセリは黙っている。じっと何かを考えている。庭園よりずっと遠くで、偽りの花火が上がる。その光がハツセリの細い頬を青く染めた。その黒々とした瞳孔の中で光がチラチラ揺れ、唇がわなないている様を明らかにした。ハツセリは、その唇に指をあてた。
「……あのトロフィーはね、黙っていたけど、向坂君が預かっていたものよ」
「何だって?」
「彼は」
 クグチは息を止めた。そうせずにいられないほど、彼女の声は苦悩に満ちていた。
「彼は自分のやり方で罪を償おうとしているようね」
「どういうことだ?」
「ゴエイ」
 脅迫するような低い声で、ハツセリは呼んだ。
「ゴエイ」
 今度は、優しく、懐かしむように。
「……彼は私を弔う方法を考えているのだわ」
「あんたは生きているじゃないか」
「誰が?」
 大輪の花火が、彼女の目を鋭く光らせた。
「誰って……あんただよ」
「私が生きているって、何故そんなことが言えるの?」
「だって、それは、少なくとも死んではいないじゃないか。死んでたら話はできない。死んでないなら生きている。あんたに……」
 クグチは一瞬、口ごもった。
「あんたに憑りついている……というか、その、幽霊を自称するあんたには死の記憶があるかもしれない。だけど」
「私は死んだわ。まぎれもなく。あのひどい空襲で」
「じゃあ俺が話してるあんたは何なんだ!」
「幽霊よ。人類は幽霊を作ったの。科学の力で」
 クグチはハツセリの両肩を強く掴んだ。
「じゃあ俺が今触れているこれは何だ。生きてる人間の体じゃないっていうのか?」
「この体が誰のものだと?」
 ハツセリはクグチの手を払いのけた。
「今、あなたと話している幽霊である私のもの? この体を持って生まれた女の子のもの? あなたは誰と話しているつもりなの?」
 クグチはわからず、それでも答えを探した。俺が話している相手は誰だろう。桑島メイミか。その記憶を受け継いだ守護天使か。それとも死んだ桑島メイミの守護天使と人格が癒着してしまっている少女の、もともとの人格か。
 ハツセリとは何を、誰を、どうした状態を指す名前なのだろう。
「それがわからないなら、あなたは最初から誰とも話してなんかいない」
 背後で石を蹴る音がした。ハツセリがクグチの肩越しに闇を見て、目を見開いた。
 クグチは何かが終わると予感しながら、ゆっくり振り向いた。
 花壇の陰に、岸本がいた。
 マキメもいた。
 その他のチームの仲間も数名いた。
「その――」
 隠れるのをやめた岸本が、近づいてくる。
「その女の子は誰だ」
 クグチは立ち尽くして、もういっそ、永遠に口をつぐんでいたいと願う。廃庭園を照らす花火は、目まぐるしくその色を変える。
 ハツセリはというと、鮮やかな赤い唇に笑みを乗せて、
「こんばんは、幽霊狩りの上司の人」
 挑発するような声で言った。
「どういうことだ、明日宮。何か怪しいと思ったら、そいつは誰だ」
「幽霊よ」
「黙ってろ!」
 クグチは叫んだ。
「幽霊だと?」
「この人は……彼女は……」
 微笑んだままのハツセリを、少しだけ振り返った。
「……恐らくは、多分、電子の幽霊と化した守護天使……廃電磁体です」
「眼鏡を外しても見えるぞ。肉体を持っている」
「この少女は自分を幽霊だと……死んだ女だと思っている。廃電磁体にそう思いこまされているんだ」
「馬鹿な。そんな話は聞いたこともない」
「守護天使にはできるのではありませんか? 廃電磁体と化す前の守護天使が完成された人格を持っていたら、それが誰かの持ち物である未完成の守護天使を情報汚染したら、その持ち主を自分が幽霊であると洗脳することができる。死んだ人間の記憶を植えつけて。絶対にないとは、言い切れなさそうな話じゃないですか」
 クグチの推理をどう思っているのか、ハツセリの不気味な微笑からは読み取れない。
「……まあ、何故お前がそんな存在を匿うことになったかは後でゆっくり聞こう。もしもそんなことがあり得るのなら」
 岸本が、二人の前まで歩いてくる。クグチは意識せぬうちに、ハツセリを庇うように立った。
「……廃電磁体はいかなるかたちであれ、居住区内に存在することは許されない」
「わかるわ。方法さえあれば私を消したいでしょ。だけどUC銃は効かないし、私を消すにはこの肉体を殺すしかない。そんなことを許す法律はこの国にはないわ」
「ハツセリ……」
 一歩、二歩と後ずさりながら、クグチは尋ねた。
「どうしてそんなことを言うんだ? 怖くないのか?」
「死ぬのは怖くない。だって一度死んだもの。だけどね」
 ハツセリは喋り続けた。
「どちらかと言えば死ぬのは嫌。私は私がどう弔われるのか知りたいから――」
 振り向いた。ガラスのハープを背に、彼女の背後が強い光で赤く染まり、その黒髪の縁をそめ、顔を逆光で黒く塗り、目はらんらんと輝き――あれは――あの光は何だろう? あれは――
「知るまでは、存在していたいの」
 あれは花火じゃない!
 凄まじい震動によろめき、倒れた。轟音が、ガラスに、枯れた植物に、床に、椅子に、アクリルのハープに悲鳴をあげさせ、口から、耳から、頭皮から、人体の穴という穴から入りこんで、体内を滅茶苦茶に掻き乱した。
「ハツセリ!」
 クグチは叫びながら、叫んでいる自分を他人のように感じた。
「ハツセリ!!」
 耳をおさえながら顔を上げ、あの光は幻覚の花火ではなく、本物の紅蓮の炎で、槍のようにドームを貫き、都市を舐めたのだと直観した。
「ハツセリ……」
 いない。
「ハツセリ」
 いや、いる。後ろにいる。伏したクグチの髪に触れている。
「私、明日宮君のことが好きだった時期があったのよ」
 クグチは意味を理解できない。彼女は何故、今それを言う?
 わかるのは、彼女が真実を言っているということだ。それだけが伝わってくる。そのことが、彼女にとっては、今、どうしても、伝えなければならないことなのだ。それだけ、わかった。
「あなたを見ていると嬉しかったわ。夢のようだった……恋のようだった……」
 誰かが立ち上がる。岸本か? マキメか? 全員だ。自分以外の。
「雨」
 衣擦れの音を立てて、ハツセリが立ち上がった。
「懐かしい……雨」
 雨がどこに降っている? クグチはやっと身を起こした。
 ハツセリがいない。誰もいない。
「ハツセリ!」
 庭園の奥へ走った。ガラス扉を押し開けると、熱風が顔を叩いた。
 都市に炎はあれど、都市に光はない。眼鏡をとっても、眼鏡をつけても、見える光景は同じだった。
 大破したドームと、都市の遠くのほうを包む炎。
「ハツセリ!」
 眼下の外階段を、ほっそりした影が下りていく。
「ハツセリ!」
 ハツセリは、振り返らなかった。


 
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