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Magic flare(マジック・フレア)

作者:とよね
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第5話 僕タチハ死ンデシマッタ


 ―1―

 風鈴が怖い。
 居住区の外にはこういう物があるのだと、父が見せてくれた幼い日以来、ずっと怖い。首吊りを連想させるから嫌だ。この病室にだって、誰が取りつけたのか、カーテンレールに風鈴がぶら下がっている。
 あれが首吊りなら、音は死者の声だ。
 開け放たれた窓の向こうは一面枯れすすきのような曇り空で、風が止まらない。
 ここは空の上なんだと、向坂ルネは理解する。だからこんなに風が強くて、他の音がしないんだ。
 ベッドと窓の間に死者が座っていた。
 何故人には、死者を死者と判別する本能があるのだろう。中年の男だ。開きっぱなしだった死者の目に、黒目が戻った。開いていた口を閉じ、左右を見、ルネと目が合うと、だらしないところを見られた気まずさからか、愛想笑いを浮かべて軽く咳ばらいをした。
 死者はスーツのジャケットを羽織り、立ち上がると、ベッドの横をぶらぶら歩いた。
「ルネ、お父さん、お土産を持ってきたんだ」
 死者・向坂ゴエイは腰を屈めてパイプ椅子の下から植木鉢を出した。色とりどりのパンジーの寄せ植えだ。ゴエイは鉢植えとルネの顔を見比べた。
 お父さんはいつもニコニコしてる。ルネは思う。それは優しいからじゃない。空虚だからだ。
 するとパンジーの一つが甲高い女の声で喚いた。
「あなた! 入院してる子に鉢植えを渡すなんて何考えてるの! お見舞いに鉢植えは縁起が悪いのよ!」
 ゴエイは顔つきを変え、腕に抱く鉢植えに目を戻した。
「昔っから鉢植えは根がつく、『寝付く』って言ってねえ、お見舞いに鉢植えは禁忌なの。あなたって頭はいいのかもしれないけどねぇ、本当に人とずれてるんだから。この程度の一般常識誰も教えてくれなかったの?」
「そうだったんだ。知らなかった。いつもルネの部屋から見える場所に飾ってあったから」
「飾ってあったから? なにこれ、あなたこれうちの庭の鉢植えじゃない! なに勝手なことしてるよ!」
 パンジーの声はますます甲高く、耳障りになってくる。
「普通ねえ、新しい花買うじゃない! 何この土まみれの、花も終わりかけてるようなもの持ってきて。お医者さんや看護師さんに見られたらルネが恥をかくとか考えないの? あなたって昔っからこうよねぇ。行動する前に考えない。良かれと思ってしたことは何でも喜んでもらえると思ってる。私ね、時々あなたが私やルネの不幸を望んでいるとしか思えない時があるのよ。そもそもルネがこうなったのだって」
「うるさい!」
 ゴエイが怒鳴った。ルネはベッドの上で身を竦ませた。父親が声を荒らげている姿を見るのは初めてだった。ゴエイは鉢植えを床に叩きつけた。鉢が砕け、土が散乱する。
「僕は」ゴエイは床に膝をつく。「僕はだな」そしてパンジーの花を鷲掴みにし、引きちぎり始めた。
「僕は、僕はただ、ただ、家にあるのと同じやつのほうがルネが落ち着くと思って!」
「お父さん、やめてよ。お母さんが死んじゃうよ」
 殺戮されたパンジーの中で、ゴエイが涙で汚れた顔に、いつもと同じ意味のない笑顔を浮かべて立ち上がった。
「大丈夫。お父さんは幽霊を作れるんだ」
 ルネは父を刺激しないよう引き攣った笑みで応えた。
「お母さんの幽霊を作るの?」
 風がパンジーの残骸を舞い上げる。風鈴が怖い。死者の声が怖い。
「お父さん、風鈴をとって」
 ゴエイは立ち尽くしたままだ。
「お父さん、ねえ。風鈴をとってよ。怖いよ」
「ルネ――」
 生前の髭の剃り跡や、加齢によって開いた毛穴から、ぱっと小さなパンジーが咲いた。目の下に。ほくろのようだ。すると口の横に、次に喉仏に、次に鼻に、次に眉に、毛穴を押し広げて赤や黄や白のデイジー、サクラソウ、カランコエが咲いて、もう地肌が見えない。
「――ルネエエエエエエエエエエエエエェ!」
 開いた唇、舌、歯茎、歯からサギソウ、ベゴニア、ペチュニア、スミレ、父が花に食われていく。
「お父さん、お父さんぁあああお父さんぁおまえをおおおおおおおぉ!」
 死者の目から涙、それは花を濡らし、眼球を突き破ってカンパニュラ、瞼をめくり上げるようにその他もろもろ花花花、草草草。
「許してくれええええええええぇ!!」

 ルネは頭から布団をかぶる。
 眠ってしまった。目を覚ます。ひどく薄暗い。
 どれほど眠っていたのかわからない。そしてここが本物の病室であることに、ルネは驚愕し怯えた。
 枕もとに色紙が飾られていた。手を伸ばす。
『1年B組のみんなより』
 中心に円があり、円の中にそう書かれていた。寄せ書きだった。『向坂君へ 早く目が覚めて元気になってね』『また一緒に遊ぼうぜ』メッセージに目を走らせ、自分はこの病院に入院しているのだと知った。理由はわからない。学校のことは思い出せる。寄せ書きに記された同級生の名前と顔も思い出せる。ルネは頭を抱えて、記憶が戻るのを待った。
「そうだ」
 春の体育祭の準備があった。準備をしていた記憶はあるが、体育祭が行われた記憶はない。そして自分は体育祭の実行委員だった。つまり、体育祭の実行委員に選ばれてから体育祭が行われるまでの間の記憶が失われていることになる。
 ルネは足をベッドから下ろし、スリッパを履いた。体は問題なく動く。特に痛むところもない。
 廊下に出た。真っ暗だ。非常灯が光っている。誰にも会わなかった。開きっぱなしの病室を覗いた。全ての窓にカーテンがかかり、ベッドが乱れ、人がいた気配はするけれど、人の姿はない。ナースステーションを覗いた。働いている人も見えない。
 一階に下りた。
 非常灯を頼りに病院玄関を出て、ルネは初めて外を見た。
 都市が、壊れていた。
 ドームが消え、スカイパネルも見当たらない。街路を彩るACJ社の様々な演出も、今日はない。目の前には左右に延びる一本の道、そして、黒く黴の生えた亀裂が走る建物が並ぶ、向かいの商店街。放置されたアイスクリーム売りの屋台。
 初めて見る本物の雨が、都市を叩いていた。

 ―2―

 ドーム崩壊後、居住区とその外側はテープと縄と簡易ゲートで区切られた。クグチが張り紙をして回っているのは居住区の外、そう遠くない過去に飛行機から見下ろした貧民街である。もう何枚も手書きしたせいで、張り紙の文面は完全に覚えていた。
『伊藤ケイタさんを探しています。お心当たりの方は中央掲示板にてお知らせください。明日宮』
 張り紙を守るビニールが早速雨をはじき、細い滝を作る。クグチは笑いたくなった。伊藤ケイタ。一体この日本に何千人、何万人の伊藤ケイタがいるというのだ? 無理に笑顔を作ってみた。顔の筋肉が痛い。すぐ無表情に戻り、張り紙に背を向けた。
 簡易ゲートまで戻り、ボックスの中の警察官に無言でACJの社員証を見せた。土気色の顔をした警察官は頷き、ボックスから出ることなくゲートを操作し、開けた。ここはまだ被害が軽微な地区だ。人も車も消えた道を十分ほど歩くと、市民会館が近付いてくる。避難場所だ。その外を、傘もレインコートもなしに、何をするでもなく市民たちが立って集まっている。
 その内の一人がクグチを凝視しながら足許の瓦礫を拾い上げたので、立ち止まって身構えた。
「よせよ、あれはACJの人間だ」
 別の市民が近付いて、瓦礫を持つ男に言った。男は瓦礫を捨てた。
「火事場泥棒にゃ、気をつけにゃならんからな」
 通り過ぎる時、話しかけるわけでもなく、誰かが言った。
「残った場所まで荒らされちゃたまんねぇからな。都市の外のゴミ食いどもによ」
 透明のレインコートに全身を蒸されながらも、背筋に冷たいものを感じた。守護天使の目をなくした市民たちが本性を表しはじめている。抑圧され、存在しないものとして扱われてきた暗い感情が噴出しようとしている。
 角を曲がってから、そっと振り向いた。誰もついて来ていなかった。身を守る方法を得なくてはいけないと、クグチは思った。
 自転車置き場に戻り、鍵を外す。汗をかきながら漕ぎ続け、一時間近くもかけてACJ道東支社に帰りついた。支社の建物は一部崩れたり火に煽られたりしたものの、崩壊は免れていた。あの夜の火災は奇跡的にも、ACJ支社の裏の地区で食い止められていた。それより先は壊滅状態になっている。
 十三班の警備員詰所に戻った。岸本にマキメ、島や、他の同僚たちもいる。一緒になったことのない準夜勤、夜勤チームのメンバーの顔もある。クグチは職場や同僚に思い入れを持ったことはなく、むしろ疎んでいる。それでもやはり、この状況では群れていることに安堵を覚える。
「どうだった?」
 レインコートを吊るし終えると、マキメが小声で聞いた。意味があって小声なのではない。小さな声でも嫌というほど聞こえるのだ。それほど静かだ。
「どこもかしこも幽霊だらけです」
 陰鬱な調子で答えると、岸本が後を引き継ぐ。
「深夜だったが、あの祭りの最中だったからな。多くの守護天使がログインしていた。それが被害を大きくした。その上どうも今までの幽霊どもとは様子が違う」
「死への自覚がないからでしょう」
 と、マキメ。
「あまりに多くの人が、一瞬で死んでしまいましたから。いずれにしても持ち主を失った守護天使を放置しておくわけにはいかないよ。死んだはずの人、生死不明の人、そんな人と同じ姿の存在が都市をさまよっている状況は、生き残った人には辛すぎる。……だから、ほとんど誰も外に出ていなかったでしょう。何も見ないために。幽霊たちを駆除しない限り、この都市は滅ぶしかない」
 幽霊には、自分たちが殺人者に見えるだろう、とクグチは考える。駆除対象の電磁体が持ち主と自己との境を失い、持ち主の人格を写し持ち、自分を人間だと思い、自分を生きていると思うなら、それを駆除する存在は、彼らの目には殺人者にしか見えない。
 それならハツセリはどうだろう。
 自分を人間だと思っている仮想人格を消去するのが殺人なら、自分を仮想人格だと思っている人間を殺すのは、殺人にならないのか?
「かと言って見つけ次第駆除していたんじゃ、人もUC銃もいくらあっても足りん」
 今度は岸本。
「この電力不足でUC銃の充電などおちおちやっとれんからな」
 それに、指示を出す人間がいない。
 クグチは二日前に尋ねていた。
『都市庁の花井とかいう人はどこに行ったんですか?』
『逃げた』
『向坂さんは?』
『生死不明だ』
 こんな有り様である。
「明日宮」
「はい」
「いつから気付いていた?」
 クグチは首をよじって岸本を見た。
「何がですか」
「幽霊が……廃電磁体が他人の守護天使を汚染し、人を自分は死者だと思いこむように洗脳させる危険性があることに、だ。何故そんな危険性があることを黙っていた」
 失礼にならない程度の眉を顰めた。
「そんなことは憶測の段階に過ぎなかったんです。それに、平和な時に俺がそれを言ってもたぶん誰も信じなかった」
「……それもそうだ」
「俺だって、そんなことが起こり得るなんて信じていなかった。今でも半信半疑です」
「証明されるかもな。この町が巨大な実験場になる」
 静寂が深みを増し、雨の陰気が少しずつ、少しずつ窓をすり抜けて部屋に満ちてくる。
 ハツセリがどこに行ってしまったのか、クグチは知らない。避難所にもいない。誰に聞いても情報を得られない。彼女は、彼女しか知らない場所に隠れてしまったのだろうか……あるいはあの夜の炎の中に。
「休みます」
 クグチは一礼し、部屋を出た。
 雨は小降りになっていた。
 出たところの道を、向こうから、人が歩いてくる。
 クグチは眼鏡を外し、目をこすった。それからもう一度眼鏡をかけた。
 少年だ。

 クグチが目の前に立つと、少年は身を強張らせて立ち止まり、ぎこちなく笑顔を作って一礼した。
「よかった。誰もいないかと思ってました」
「市民はみんな避難してる」
「やっぱり……僕、逃げ遅れてしまったのかな」
 少年が一歩踏み出した。
「ACJの人ですよね。父がここで働いてるんです」
「へえ。君のお父さんの名は?」
「向坂ゴエイです」
 心臓が強く脈打ち、目を見開いた。クグチは冷静さを取り戻すまで黙った。
「……あの」
「君の名前は」
「向坂ルネです」
「どこに行くところだったんだ?」
「学校に」
 ルネがまくし立てる。
「僕、入院してたんです。起きたらこんなことになっていて、誰もいなくて、何が起きたのかわからなくて、それで学校に行ったら何かわかるかもって」
「何故、入院していたんだ?」
「……わからないんです。記憶がなくて」
「どこの学校なんだ?」
 ルネによれば、壊滅した地区にほど近い、今では無人になっている地区に建つ高校だという。
 二人は並んで歩いた。クグチはルネに、〈あさひ〉打ち上げの祝祭の夜に、Q国からのミサイルが撃ちこまれたのだと説明した。驚いたことに、ルネは〈あさひ〉のことさえ知らなかった。
「太陽活動の動向は、どの国にとっても無視できない情報だ。その分野において日本が先んじることで不都合がある国も存在する。Q国は前々から〈あさひ〉打ち上げが実行されたらそれを撃ち落とすと声明を出していた。恐らく狙いがそれて、巻き添えを」
「最初から狙ったに決まってます。Q国の奴らが考えることなんて」
「狙ったのなら道東居住区を直撃していただろう。そうであったら俺も生きていない。いずれにしろミサイルはQ国の狙いとは異なる場所に落ちた。磁気嵐の影響か、単に技術力の問題か」
 そのあたりがどうなのか、本州からのニュースは何も届いていなかった。暗い気持ちを抱えてルネと共に歩き続けた。
 大通りから外れた住宅地に、その高校はあった。周囲は焼け野原に近い。グラウンドの脇に延びる道をたどって校舎に向かう。
 ルネが、あっ、と声をあげて足を止めた。校舎と繋がった二階建ての体育館の軒下に、人々が一かたまりに集まっていた。
 生徒ではない。いいや、生徒らしき少年少女が数人混じっているが、あとは父兄と思しき大人が十人ほど。
 駆け寄ると、眉を吊り上げた中年女が早速口を開いた。
「あなたここの生徒?」
 ルネが頷いた。「ふぅん」女は神経質そうに腕時計を見、吐き捨てた。
「生徒たちが困って集まって来てるのに、どうしてこんな時に誰一人来ないのよ……バカ教師ども! あんなに高いポイントもらっておいて!」
「まあまあ池上さん。怒ったって仕方がありませんよ」
「そうは言いますけどね、あなた、教職員であることがどれほど幸福指数に影響しているかご存知?」
 女は右手の指で左腕をこつこつ叩きながら言った。
「こっちはね、子供をいい学校に入れるためにそりゃもう努力しているじゃない。高校受験の時の子供たちはみんなキッズランクだからね、そうなると親の幸福指数を見られるわけでしょ。一生懸命ポイントにいいとされるねえ、習い事して、いいものを買って、ボランティアに顔を出して、あなた達もそうでしょ!」
 一際声を荒らげ、
「お金をね! 社会に吐き出し続けてきたわけじゃない! 子供たちのために! 幸福指数が上がるから! なのにねえ、教員であるってだけで楽して良いランクを手に入れた連中がどうして! こんな時に何もしないのよ!」
「したくても、出来ないのかもしれません」
 クグチは冷たい声で制した。
「先生方も死に絶えてしまったのかもしれませんよ」
 向かいの少女が動揺して声を漏らし、顔を引きつらせた。
「なんてことを言うんだ君は!」
 中年男が睨みつけてきた。
「ところで君は何なんだ? 学校関係者には見えないが?」
「ACJの者です。『幽霊狩り』ですよ」
 降り注ぐ視線に軽侮が混じる。クグチは付け加えた。
「人を探しているんです。ハツセリという名の少女です。高校生くらいの、髪の長い女の子です。知りませんか」
 生徒たちは顔を見あわせ、無言で首を横に振った。
「あるいは、桑島メイミという名を名乗っていたかもしれない」
「……わかりません。すみません」
 生徒の一人が呟き、わかっていた答えだが、それでも落胆した。
 ハツセリという名は何だろう。あの少女、つまり肉体の持ち主の名前だろうか。それとも死んだ桑島メイミの守護天使の名だろうか。
 もしも守護天使が本当に、自分を死んだ持ち主自身だと思っていたならば、「ハツセリ」ではなく「桑島メイミ」と名乗っていたはずだ。
 ハツセリを名乗る存在は、桑島メイミの記憶と人格を引き継ぎながら、その名を語らなかった。彼女は桑島メイミの不在を誰よりよく知っていたのだ。けれど通常の廃電磁体=幽霊と定義される存在に当てはめるにも、彼女は異質すぎる。何と言っても、肉体があるのだから。
 ハツセリも、廃電磁体も、いずれ必ず廃電磁体となることを宿命づけられた守護天使たちも、それに振り回される人々も、そこから弾き出された自分のような人々も、なんと悲しい存在だろう。
「あの」
 ルネが上ずった声で呼んだ。
「僕、お父さんを探してきます。迎えに来てるかもしれないから」
 クグチが頷くと、ルネは一礼して、開け放たれた校舎の通用口に走っていく。父兄たちは好き勝手に怒りと不平不満を撒き散らし、誰も雨具を持っておらず、結構降っていたはずなのに、誰一人濡れていない。
 クグチは一人一人の顔を順に見て、おもむろにイヤホンを切り、眼鏡を外した。
 誰もいなかった。

 ―3―

 土足で校舎にあがりこんだ途端、ドアに強風がぶつかり、勢いよく閉じた。その音が長い廊下の果てまで響きながら吸いこまれていく。
 外からの明かりは僅かだ。遠くに玄関があるので、その辺りがぼんやり白く明るい。
 歩きはじめると、廊下に並ぶ全ての部屋の戸が開け放たれていることに気付いた。やはり誰か、先生が来たのだ。そして、すぐにこの学校を避難所として使えるように、校門を開放し、全ての部屋の鍵を開けた。きっとそういうことだ。
 職員室を覗いた。
 誰の姿もなく、全ての窓が閉まって暗く淀んでいる。
 その中に一つ動く物があった。
 ルネは目を凝らした。机の列の中央辺りで、赤い紙の束が風もないのに勝手にめくれて浮き上がり、床に落ちて渦を巻き始めた。ルネは恐怖を感じ、走って職員室から離れた。
 一階の廊下は玄関で一旦途切れる。まっすぐ進めば階段、左を向けば校庭、右を向けば中庭がある。
 開け放たれたまま固定されたガラス戸から校庭に出た。
 足許に、紙でできた花が吹き寄せられていた。雨に打たれ、汚れている。
 春の体育祭の看板を飾っていた造花だ。ルネにはこの花を手作りした記憶があった。紙の花はどれも乱暴にむしり取られたように、半分ちぎれている。そこに誰かの怒りを感じた。グラウンドは水たまりで海のようだ。教室の窓から下がっていた垂れ幕もない。春の体育祭を匂わせる気配はどこにもなかった。
 体育祭はもう終わってしまったのだろうか。引きちぎられた造花を見下ろして、ルネは記憶が戻らぬかと、意識を造花に集中させた。
 戻らなかった。体育祭がどうだったかも、何故入院することになったかも思い出せない。
 がさりと廊下で音がした。
 廊下に戻ると、職員室から出てきた赤く光る紙が、がさがさ床を這い、自ら人の形になって、歩き始めた。
 ルネは目を凝らした。紙に字が書かれている。『亡』と読めた。
 あんな存在が実在するわけがない。あれは、おかしくなった電磁体だ。ルネは自分の目に指を入れて、レンズを取り外そうとした。指は眼球をつるつる滑った。レンズの外し方を思い出せない。紙の人が近付いてくる。ルネは耐えきれず、背を向けて二階に逃げた。
 小声で言い争う声が聞こえた。視聴覚室だ。その後ろ側の戸のガラス窓には黒い布がかかっている。教室の前側の扉は開いていた。争っているのは二人、男と女だ。よく聞こえないが、問い詰めるような男の声と、反論する調子の女の声。
 視聴覚室を覗いた。
 女子が一人で中央の席に座っていた。
「宮沢さん」
 同級生だった。女子は、固く唇を結んだまま、ゆっくり顔を上げた。
「……宮沢さん、今、もう一人誰かいなかった?」
 やはり口を開かぬまま、首を横に振る。ルネは戸惑い、言い淀んだ。仲が良かった同級生ではないが、こんな無口な、暗い人だったという記憶もない。
「宮沢さん、何してるの?」
 戸口に突っ立ったまま尋ねた。
「何か困ってるの?」
「大事なものをなくして……」
「何を?」
 答えない。
「どこでなくしたのかな」
「伊庭君と……体育館の、二階の体育準備室の前で会う約束があったから、そこかもしれない」
「体育館」
 ルネは頷いた。
「あの、宮沢さん。春の体育祭って、どうなったの」
「何言ってるの。体育祭どころじゃないでしょ? あんなことがあったのに」
「あんなことって? 僕、入院してたからわからないんだ……ねえ、僕はどうして入院していたの?」
「怪我をして――」
 言いかけたまま口をつぐんだ。
「……宮沢さん」
「体育館に行ってみたら、思い出せるんじゃない?」
 ルネは不安と不快を共に抱えて背を向けた。
 この廊下の突き当たりに、体育館の二階につながる渡り廊下もある。渡り廊下と校舎を隔てる戸も開放されていて、ほの白く明るい。
 雨が強くなっていた。
 体育館の一階の外にはあの父兄たちがいたはずなのに、どこに行ったのか、もうその声が聞こえない。
 二階の体育準備室には渡り廊下に面した窓がある。窓には格子がかかっているが、その窓が、開いていた。
 格子越しに中を覗いて、ルネは動揺し、声をなくした。
 剣道の防具が並ぶ中に、女子がうなだれて正座していた。
「宮沢さん」
 ルネは声を絞り出す。
「どうやって先に来たの? なんで」
 彼女はゆっくり、ゆっくり、白い花が開くように顔を上げ、「開かないの」と呟いた。
「開かないって?」
「閉じこめられちゃった。吉野さんたち、ひどいいたずらするな」正座したまま、「私が伊庭君と会ってるのが気に食わないんだ。ブスども」
「宮沢さん、でも、さっき視聴覚室にいたじゃない――」
「はあ? 変なこと言わないで。私ここから出られなくて困ってるんだよ?」
「――ごめん」
「鍵を持ってきてよ。吉野の体操服のポケットに入ってると思う。あいつ頭悪いからしょっちゅうそうやって忘れるんだよね。あ、3Cの教室だから」
「3年C組? なんでそんなとこに」
 答えない。ルネは格子に触れた。冷たくて、びくともしない。
「……わかったよ。待ってて」
 暗い校舎に戻った。三年の教室は四階だ。
 四階まで上がると、学校のまわりに他に高い建物がないため、教室から廊下にこぼれる光の量が増えた。
 3年C組の教室を見つけ、足を踏み入れた。
 その窓辺、こちらに背を向けて立つ後ろ姿を目にし、ルネは今度こそ恐怖の声をあげた。
 宮沢さんがくるりと振り向いた。ああ、見てはいけない、と、ルネは顔を背けた。
「あなたはいいわよね、自分でさ……」
 顔を背けたその先の机に花瓶が置かれていて、挿された花が、黒くしなびている。
「向坂君」
 背中の産毛がすべて逆立つのを感じた。
 下から来る。怖い奴が来る。紙人間が来る。
 殺しに来る。
 宮沢さんが叫んだ。
「私は死にたくなかった!」
 教室の後ろの引き戸が勢い良く開かれて、UC銃が見えた。紙人間ではなかった。UC銃の持ち主と、視線があった。
 銃の持ち主、明日宮クグチと入れ違いで、ルネは廊下に飛び出した。ルネはもう、わかっていた。記憶が存在しない理由を理解していた。
 怖かったのだ。今、UC銃が怖いのと同じように、あの時は未来が怖かった。この先の人生に自分のものが何もないという予感が怖かった。
 だから逃げた。今と同じように。
 開け放たれた非常扉から外へ。
 非常階段への手すりから身を乗り出した。
 高い、と思った。二十メートルくらいだろうか。たかが二十メートル。それを移動する手段に転落を選んだ。
 だから僕は。
 手すりからACJの特殊警備員がUC銃を突き出し、狙っている。いや、これすら幻覚かもしれない。

 体育会は自粛になったんだ。
 僕が自殺したから。

 ―4―

 ルネが弾けて消えた後の地面を、クグチは非常階段の手すりからUC銃を突き出したままの姿勢で見つめ続けていた。ルネや、生徒や、父兄たちの『幽霊』が存在した形跡は、もはやどこにもなかった。あの人たちの遺体はどこにあるのだろう。クグチは雨に打たれて動かない。遺体も、消えたのだろうか。電磁体と同じように。潰され、焼かれ、跡形もなくなったのだろうか。
 銃をひっこめた。クグチは二階の視聴覚室に向かう。

 視聴覚室の黒いカーテンを閉め切り、古いパソコンの電源を入れた。緑のライトが点灯する。起動音をたて、モニターに光が宿った。
 学校で使われるだけあって、モニターに表示される画像は素っ気ない初期設定のものだ。クグチはずっと持っていたショルダーバッグからトロフィーを取り出した。そこに収められたメモリーデバイスを、パソコンに挿入した。
 パソコンがデバイスの読みこみを始める。やがてメッセージが表れた。
〈1件 のデータを確認しました 動画 1件〉
 再生する、の青い文字を押す。
 スピーカーからノイズが流れ出し、画面が明滅する。
 五人の人物が画面に現れた。男が四人、女が一人。皆まだ若い。照れたように、気まずそうに、四人は撮影機材を直視せず、薄笑いを浮かべている。
「いやその、どうする?」
 左端の男が言い、女が答えた。
「やっぱ明日宮君からでしょ」
 心臓が凍りついた。
 クグチは左端の男を凝視した。浅黒い肌の、背が高い男だった。男は困ったように、それでも満面の笑みで、頭をかいた。男は機材を凝視する。
 そして呼んだ。
『クグチ』続けて、『それから、あさがお』
 あさがお? あさがおって誰だ?
『まずは紹介かな。みんな、お父さんの仲間で友達だ。えー、向かって左から伊藤ケイタ君』
 小柄な男が機材に向かってニコリとした。
『続けて強羅木ハジメ君と向坂ゴエイ君』
 なるほど、強羅木は面影がある。よほど照れくさいのか、睨むような目をして、フイとよそを向いた。
『それから桑島メイミさん』
 髪を団子状にまとめ、白衣を着た、清潔感のある女性だった。
『お前たちはまだ小さいけど、もし大きくなってからこれを見てるなら、俺は生きて日本に帰れなかったってことになるな』
 胸が締めつけられるのを感じ、拳を握った。
「……親父」
『えー、その、もしその時は、クグチ、お前のことは桑島さんがご実家で面倒を見てくれると約束してくれた。桑島さんには妹がいてだな、そのまあ、妹さんはもうすぐ赤ちゃんが生まれる予定なんだ。無事元気な赤ちゃんが生まれたら……仲良くしてほしいと思ってる』
 桑島メイミと視線を交わしあい、
『そしてあさがお、お父さんはお前のことが心配だし、不安で仕方がないけれど、お母さんを一人にしたくないっていう気持ちを最大限、尊重したい。何かあったらってことで手渡した桑島さんへの連絡先を使うことがないように、願っているよ』
 まだ若い明日宮エイジは、じっと黙って言葉を選んだ。
『クグチ……大人になったら、お父さんの代わりにお姉ちゃんとお母さんを守ってほしい。傍にいてやれなくて、申し訳ない気持ちでいっぱいだ』
 エイジは後ろに下がった。代わりに向坂ゴエイが前に出た。以前に会った向坂は、クグチと接触することもままならぬ、小心で消極的な男だったが、クグチが知っているその姿よりもずっと生気がある。
『ルネ』
 向坂は微笑んで言った。
『お父さんも明日宮君と一緒にこの国に残ることにした。正直いつ日本に帰れるかわからない。でもね、お父さんは生きて帰って、ルネがこの映像を見ることがないようにしたいと思う、うん。ルネ、あー、この映像を録ってる今、君はまだ二歳だからな』
 向坂は赤面し、何度も何度も頭を掻いた。
『アカネ、愛してる』
 声を詰まらせたのがわかった。向坂は目を赤くし、顔を拭った。
『駄目だなぁ』
 失笑し、涙をこぼしている。
『その……もし、君がこの映像を見るようなことになったら……ルネにも愛していると伝えてほしい。ルネがいつか立派な……』
 鼻をすすりあげた。
『……いや、立派な大人になったその後も、ずっと見守っている』
 伊藤ケイタが機材に近付いた。その手が伸びてきて、映像が終わった。

 やがて、レインコートも着ずにクグチが校門から出てくる。彼は誰もいない町を歩き、それが次第に早足になり、走り出し、放置された自転車を見つけて、それを凄まじい勢いで漕ぎ始めた。
 クグチは町を走り抜けた。一度は収まりかけた雨が、今また激しくなる。

『これね、よだれかけ』
 雨の中、決してこんなに激しくなかった、優しく明るい雨の中、縁側の女が言う。赤い刺繍糸を縫いつけながら言う。
 何かを問いかける。何かを。女は答えてくれる。
『うん。クグチ君もつけてたと思うよ、赤ちゃんの時は』
『クグチ君も、お姉ちゃんやお母さんが毎日きっと替えてくれてたんだね』
『ぼくも赤ちゃんのよだれかけ替えるの?』
『そうだね。お兄ちゃんだもんね。順番だよね』
 女が笑う。映像の中の桑島メイミが明るく笑う。
『クグチ君、もうすっかり気分はハツセリのお兄ちゃんだもんね』
 それから雲の向こうから、轟音が聞こえてきて、それから……それから……。

「強羅木!」
 クグチは自転車を捨て、黄色いテープをかいくぐって居住区の外に飛び出した。
「強羅木!!」
 もう視界は白く、雨以外何も見えない。泥で弾けた雨粒が霧になり、体温を奪う。
「ふざけるな!!」
 クグチは眼鏡を泥の上に叩きつけた。自転車をこぎ続けたせいで息が乱れている。そのまま肩で息をし続け、収まってくると、眼鏡を拾い上げた。レンズの汚れを服で拭き取る。
 眼鏡をつけた。イヤホンの電源も入れた。瞬きと視線の操作で発信モードに切り替え、視界に照射されるアドレスから、強羅木の守護天使を呼んだ。この眼鏡は発信専用で、受信は出来ないのだが、守護天使を持たないクグチにとっては他人とコミュニケーションをとる数少ない手段だ。
『強羅木ハジメです』耳の中で強羅木の声が答えたが、本人ではない。『本人は取りこみ中につき、ご用件をお伺いします』
「本人を出せ」
 クグチは怒りをこめて伝えた。強羅木ハジメの守護天使は話し相手が誰かを認識し、口調を変える。
『何のようだ。俺は忙しい。後にしろ』
「代われ」
『急用か。どうしてもってんなら……』
「うるさい! さっさと代われ!! 偽物のくせに偉そうな口――」
「俺だ」
 唐突に本人が答えた。
「クグチ、お前なのか? 今どこにいる? 何をしている?」
 会議中らしく、声を潜めている。周囲から人の声が聞こえてくる。席を立つ音、ドアを開閉する音の後、強羅木は声を大きくした。
「道東か? 無事なのか? なんでもっと早く連絡を寄越さな――」
「あさがおって誰だ?」
 クグチは遮った。
 イヤホンの向こうが静寂に変わる。
「強羅木」
「……なんだ」
「俺に姉がいるなんて話は聞いたこともないぞ」
 強羅木の反応を待った。
 クグチに見える世界では、雨だけが強く、雨だけ不滅で、雨音は最も親しい声だった。強羅木より、父より、誰よりも。
「全部話せ」
 その中に、涼やかな別の音色が混じる。
 近くの家を見た。軒先に下がる風鈴を、幼い頃にも見たことがある。
「どういうことか、全部話せ」
 クグチは風鈴を、怖いと思った。

 
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