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幸せな夫婦

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第九章


第九章

「ボロ負け続きやで」
「こっちはそれ程でもないかもな」
 芳香は彼女の言葉を聞いてふと振り返った。振り返ってみると阪神程酷い有様ではないのかも知れないと思った。少なくともあのお家騒動はなかった。阪神名物はお家騒動だった。それはこの時代とりわけ酷かった。何かあるとすぐに選手や上層部、ふろんとが衝突を繰り返す有様だったのだ。
「まだ」
「それはええことや」
 静江は芳香の話を聞いて言う。
「うちの亭主もうそれでうんざりしてるところもあるから」
「まあそやろね」
「それでも応援は続けてるけど」
 かといって止めるようなら最初からファンにはなってはいない。阪神ファンとはそうした人種である。それもこの時代からなのである。
「そうなん、やっぱりね」
「そやけど。そっちも大変やね」
「なるようにしかならんけどね」
「そうやね、結局は」
 結論はこれであった。なるようにしかならないのだ。芳香はそれがよくわかっていた。何処か達観もしていたのである。それを実際に言ったのだった。
「ゆっくり待つわ」
「南海が優勝することやね」
「凄いエースが来てな」
 にこりと笑って言う。
「何か西鉄に凄い人おるらしいけど。ええと」
「稲生和久やろ」
 静江はにこりと笑ってその名前を出してきた。
「西鉄いうたら」
「そう、その人」
 芳香はその名前を聞いて言ってきた。
「その人に随分やられてるらしいから、南海」
「うちの旦那も言うてたで」
 静江は笑って言ってきた。
「阪神にあんなピッチャーいればなあって」
 阪神ファン名物のぼやきもこの時代から健在であった。そう言っては溜息をつくのだ。ただし巨人の選手相手には敵意を剥き出しにする。この時代では川上や千葉、別所がその対象だった。後にそれが王や長嶋になっていくのだ。あるタレントは子供時代あまりに長嶋に打たれて負けるので彼を殴ってやろうと球場の隅で待ち構えていたがそのオーラに圧倒されて動けなかったという。
「いつもな」
「こっちは切実やね」
 稲尾はパリーグである。この差がまた出ていた。
「南海に来るのを待つだけやけれどね」
「来るやろかね」
「運がよかったら。それか鶴岡さんが見つけてきたらや」
 康友に対して語ったのといささか被っていた。
「どうなるか」
「まあこっちも同じや。もう一人小山が来つかもて言うてるよ」
 当時の阪神のエースである。その抜群のコントロールで知られ精密機械という仇名を持っていた。押しも押されぬ大エースである。
「そういうことやさかい」
「気長にいこか」
 これで彼女達の話は終わった。実はこの時鶴岡は大物を狙っていた。その大物こそがあの杉浦忠なのであった。
 杉浦が南海に入る、それを聞いた康友はかなりはしゃいでいた。
「凄いかも知れんで」
 新聞を読みながら芳香に語る。朝からこの調子であった。
「杉浦や、杉浦が南海に来るんや」
「そんなに凄いん?その人」
「凄い」
 彼は断言してきた。
「立教大学のエースやで。巨人に行った長嶋と並ぶスターや」
「へえ」
「その杉浦が入った。これはでかい」
 得意面々で語る。
「優勝するかもな」
「ほなこれで一安心やね」
「いや、わからへん」
 だが彼はこう言って首を横に振ってきた。
「まだな」
「わからへんのん」
「そや。確かに人も揃ってる」
 当時の南海は所謂四〇〇フィート打線だ。頭角を表わしてきた野村克也を中心に攻守が揃っていた。だがそれでもわからないと言うのである。
「西鉄は強い」
 そのことが骨身に滲みていたのだ。
「杉浦が本物やっったらいけるやろけど」
「けど今喜んでるやん」
「それはな」
 それ自体は認めた。
「そうやけどそれだけやないから」
「安心はせんわけやね」
「それでも。優勝したら」
「どないするん?」
「御堂筋や」
 また御堂筋を出してきた。
「そこ行くで。ええな」
「お酒も用意してやね」
「わかってるやないか」
 芳香のその言葉に笑顔になった。
「そういうことや。それでええな」
「わかったで。その時はね」
「さて、どうなるかな」
 これからのことに想いを馳せてきた。
「南海も杉浦もな」
 何だかんだで楽しみにしていた。実際に杉浦は入団したその年から活躍した。いきなり二七勝をあげ新人王になった。しかし南海は優勝できなかった。
 この年のシリーズは伝説となっている。三連敗の後の四連勝、西鉄は稲尾の恐るべき力投で日本一になった。まさに鉄腕であった。
「凄いわ」
 これには康友も言葉がなかった。
「稲尾は凄いと思ってたけどここまでとは思わんかった」
「街でもこの人の話ばかりやで」
 芳香は家に帰ってラジオで話を聞く康友に対して言った。
「稲尾稲尾でな」
「当然やろ。こんなのできへんわ」
 唸っていた。
「最高のピッチャーやな。杉浦も凄いけれど」
「それ以上って言いたいんやな」
「そや。これは有り得へん」
 こうまで言う。
「最強のエースここに在りやな」
「けれどあんた」
 唸る康友に対してそっと言ってきた。
「何や?」
「世の中上には上がおるで」
 実はこの言葉には真意があった。
「そやから」
「杉浦が上いくってことか?」
「そうかも知れんやん」
「そやったらええけどな」
 あまり期待はしていない顔であった。
「けど稲尾以上は。やっぱり」
「期待はできるやろ?」
 それすらもない彼に対して言うのだった。
 
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