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幸せな夫婦

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第七章


第七章

 この三球団は親会社同士の仲は非常によかった。当時南海は川勝、近鉄は佐伯、阪急は小林という名経営者達がいてそれぞれの沿線で会社を発展させると共に人々に大きな貢献を果たしていた。棲み分けをしていた関係もあるが彼等の仲は円満で関西の私鉄は半ばカルテル化していた程だ。
 そのうちの一人佐伯はとりわけ凄かったと言われている。近鉄中興の祖と言われ彼なくして今の近鉄はなかったであろうとまで言われている。
 それぞれの沿線で栄えていた関西の私鉄だがファンもその沿線に沿っていた。これは実際に親会社の思惑と宣伝によるものだが大阪だと河内が近鉄、摂津が阪急であった。そして和泉は南海だったのだ。天下茶屋は南海線なのでやはりパリーグは南海であったのだ。
「そやから大阪球場も怖いで」
「外から野次はよお聞こえるな」
 芳香もそれは知っていた。
「そういえば」
「そやろ?そういうことやねん」
 静江もそれを言う。
「阪神の応援のまんまやから」
「だからうちの人も」
「あんたの旦那だけやないんや。南海のファンだけやないねん」
「他のチームのファンもかいな」
「凄いで」
 こう言ってきた。
「関西球団同士の試合なんてなあ。試合より野次が凄いんや」
 今ではもうない光景の一つだ。大阪でも藤井寺でも西宮でもそうであった。応援よりも野次が凄かった。ファン同士野次というエールを送り合っていた。それはさながら阪神ファン同士の罵り合いであった。実際にセリーグは阪神を応援していて甲子園では一緒なのだから当然と言えば当然であった。
「南海電車ではよ帰れ!」
「近鉄電車ではよ帰れ!」
「阪急電車ではよ帰れ!」
 決まり文句だ。選手個人に対する野次も凄いものであった。今となってはこれもまた昔の話だがそれでもこの時代は普通であったのだ。
「旦那さんもそやろ」
「うちの人は普段はそうでもないんよ」
 少し考えてから言う。
「阪神にはあんまり興味ないみたいやし」
「そうなん」
「そやけど秋の終わりになったら五月蝿いわ。シリーズで」
「そこやねん」
 静江はそこを言ってきた。
「相手が巨人やろ」
「うん」
 この時代はいつもそうだった。
「ここは関西やしな。巨人嫌いな人ばっかりやし」
「それでか」
「他にも色々あるみたいやけれどな」
 実は南海と巨人の間には遺恨もある。巨人にエース別所を強奪されているのだ。目的の為には手段を選ばずその手段に溺れるのは今も変わらない。
「うちも巨人嫌いやしな」
「そういえば私も」
 実は芳香も巨人は好きではない。むしろ何となく嫌いだ。
「そやろ?巨人が相手の時は」
「そっと様子を見る」
「男の人にとっては野球がツボやさかい」
 今度は静江が教えていた。芳香はそれをじっと聞いている。
「相撲とな。この二つだけは」
「注意して、やな」
「そういうことや。それじゃあんじょう」
「何か色々あるね」
 コーヒーカップを持ってから言う。
「男の人も」
「芳香ちゃんわかってると思うけどな」
 静江はにこりと笑ってそう返してきた。
「うちより」
「いや、今度は私が教えてもらったで」
 彼女は笑って言った。
「野球のことは詳しいないから」
「相撲はどうなん?」
「そこそこやね」
 こう答えた。
「うちの人は相撲は見る位やし」
「他には空手とか柔道もあるけど」
「そっちは全然」
 笑って左手を横に振った。
「興味ないみたい」
「最近柔道で面白い漫画があるらしいけれどな」
「子供が読んどるあれ?」
 ふとそれを口にした。何処か軽く見ているのはこの時代漫画の評判がよくなかったからだ。少なくとも親達にとってはそうでそれが芳香にも出ていた。
 ここもまた面白い。これより少し前は学生ではあるが哲学書を読むべきであり小説を読むのはけしからんとされていた。しかしこの時代は漫画がけしからんとされていたのだ。子供はもっといい本を読めと。だから手塚治虫もそうした批判というか的外れな中傷に苦労していたりする。
「そうやねん。うちの子供も読んでるみたいや」
「漫画っていうと手塚治虫?」
 実際に彼は非常に名前を知られていた。戦後の、日本の漫画を形づけた異才はこの時は子供達にとっては神様のような存在で親達にとっては悪の権化であった。
「それとも赤胴鈴之助?」
「いや、それともちゃうねん」
「じゃあ何やろ」
「イガグリくんって漫画らしいわ」
 柔道漫画の古典である。今となっては何もかもが懐かしい漫画だ。
「イガグリくん」
「何かうちの子それ見て柔道やりたいって言うてるねん」
「ええんちゃう?」
 それは別に悪いとは思わなかった。
「つよなるし。躾にもなるし」
「じゃあやらせてみよか」
 静江は考えながら述べた。
「柔道」
「そやね。うちの子も何かやらせてみよか」
「野球なんてどやろ」
 その野球を出してきた。
「実際にやると遊びとはまたちゃうらしいし」
「そうなん」
「スポーツは身体にもええし。やらせたらええわ」
「そやね、野球も躾にええし」 
 この時代はそうしたことが重く見られていた時代だった。まだそういうものが残っていたと言うべきであろうか。大阪の下町でもそれは同じだったのだ。
「そやったらやらせてみよか」
「うん、そうするべきやで」
 静江はそう勧める。
「あと勉強もや」
「それなあ」
 芳香はそれには少し首を傾げさせてきた。
「うちの子等は勉強でけるし」
「心配いらんってこと?」
「うん、そう思うんや」
 そちらの心配はしていなかった。その分だけ気が楽ではあった。
「別にな」
「大学行ける位かいな」
「まだそこまではわからへんよ」
 その問いには笑ってこう返した。まだまだ大学に行けるのは狭い門だった時代だ。大学という存在が高嶺の花であったのだ。
「まだな」
「それもそうか。けれど勉強がでけるだけええで」
 静江は笑って言う。
「といってもやっぱり一番ええんわ」
「健康やってことやな」
「そういうことやね。よお考えたらうちの子は二番目はやる時はやるし」
 それは安心しているようだった。にこにことした笑顔を芳香に見せてきていた。
 
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