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幸せな夫婦

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第三章


第三章

 商店街から帰ってすぐに支度をはじめる。幸いごぼ天は安く手に入り鰯もかなり大きいのを買うことができた。それをたいて子供達を外で遊ばせていると亭主の康友が帰って来た。眼鏡をかけた几帳面そうな顔だ。スーツが実によく似合う、そんな男だった。
「ただいま」
「お帰りなさい」
「ああ、今日は鰯か」
 玄関に帰ると玄関のすぐ側の台所で料理をしている女房を見た。割烹着で手際よく料理をしている。
「この匂いは」
「そうよ。たいてるで」
「というとあれか」
 康友は芳香のその言葉を聞いて顔を晴れやかにさせてきた。
「生姜を入れてるんやな」
「そうや。それもたっぷりとな」
「ええな、それって」 
 康友は生姜が大好物である。それで今の言葉を聞いて顔を晴れやかにさせたのだ。
「あんたが好きやからやで」
 芳香はにこりと笑って亭主に顔を向けて述べた。
「だからや」
「丁度生姜を食べたいと思っとったところや」
 そう答えながら背広の上を脱ぐ。玄関からあがって服を脱ぎ一旦猿股だけになる。そこから和服を着てくつろいだ姿になってちゃぶ台のすぐ側に座って話を再開させた。
「わかったんか」
「何となくやけどな」
 そう答える。
「それにあれやろ。晩酌にも合うし」
「ああ」
 彼は煙草は吸わないが酒は飲む。日本酒もビールもあるものを飲む。しかしそれを飲んでいるからといって身体を壊すこともない。芳香が家にある酒の量を調整しているからである。そうしたところにまで気を配っているのだ。康友はこれには気付いていない。
「その通りや。飯にもええしな」
「だから鰯にしたんや」
 康友に対して語る。
「そうしたことを考えて」
「それだけじゃないみたいやで」
 康友は新聞を読みながら芳香に語ってきた。
「他にもあるんか」
「ああ、新聞に載ってるけれどな」
 そう女房に語る。
「カルシウムとかそういうのが一杯あって身体にめちゃええそうや」
「ああ、そうやったん」
「そうらしいで。他には秋刀魚とか鯖とかも身体にええって書いてる」
 そうしたことも広まってきていた時代であった。新聞や雑誌に何の食べ物がいいかとかそうしたことが話題になり続けていた。無論鰯もその中に入っているのだ。
「米は・・・・・・何やこれ」
 新聞の中を見て眉を顰めさせていた。
「先進国は皆パンだとか。東大の教授様か」
「パンがどうかしたん?」
「馬鹿馬鹿しい。米が一番に決まっとるわ」
 そう言って新聞を閉じてきた。
「パンを食べれば頭がよくなるとか書いとるで。アホな教授がおるもんや」
「あら、東大の先生やのに」
「東大で先生やっとってもアホはアホや」
 康友はこう言い捨てた。
「新聞書いとる奴もや。アホはアホで人間が腐っとるのは腐っとる」
「何かあったん、あんた」
「何かあるから言うんや」
 ふてくされて一人勝手にビールの栓を開けていた。
「ちょっとやるで」
「ええ」
「全く。ソ連がええとか北朝鮮がええとか」
 その開けたビールを腹の中に入れながら愚痴を言いはじめた。
「何をどうやったらそんなアホなことが言えるんや。あいつ等は獣や」
 半ば罵倒していた。
「ゴロツキか犯罪者の集団みたいなもんや。そんな奴等を何で褒めるんかわからん」
 実は彼は戦争では満州にいたのだ。彼は何とか逃げ帰ることができたのだがそこでソ連軍と戦いその暴虐な有様も見ていた。だからソ連がとことんまで嫌いだったのだ。
「それでわし達が遅れているか。ふざけるのもいい加減にせんかい」
「世の中おかしなことを言う人もおるんやね」
「戦争が終わってから急に増えた」
 彼はこう言う。
「変な世の中になったわ。子供達には間違ってもな」
 苦々しげにビールが入ったコップを持ちながら述べる。
「あんな奴等を仰ぎ見るようにはしたくないもんや」
「真っ当にってことやね」
「そや」
 それが彼の信念だった。
「ソ連とかあんな奴等よりも自分を信じればいいええんや。そうやないかい?」
「そうよね、やっぱり」
 鍋の中の鰯を箸でさばいて味噌汁の様子を見ながら言う。大根の味噌汁であった。
「まともにしないとね」
「まともなのが一番や」 
 話しているうちに不快の虫が収まってきていた。次第にその関心を夕食に向けてきていた。
「それで味噌汁はあれか」
「ええ。大根の葉っぱやで」
「やっぱり意外とええな」
 康友は言う。
「最初は何やと思ったけれどな」
「意外とええやろ」
 夫の言葉ににこりと返す。
「大根の葉っぱも」
「そうやな。食べとると美味いもんや」
 康友もにこりと笑う。笑いながらまたビールを飲む。
「意外やったな。こんなの何処で見つけてきたんや?」
「思いつきやで」
「そうなんか」
「そやで。けれど意外とええやろ」
 にこりと笑って夫に言う。もう料理はかなりできてきていた。
「大根も」
「そうやな。それであれもしてくれや」
「鯨やね」
「ああ、ええよな」
 この時代は鯨はごく普通の食べ物だった。醤油や生姜と一緒に煮たりしてよく食べられた。かつては日本人の主要なタンパク源であったのだ。
「鯨のコロと菜っ葉でな」
 所謂ハリハリ鍋だ。この頃は安く普通の食べ物であった。大阪では有り触れた食べ物だったのだ。鯨がそうであったからこれは当然である。
「またやってくれや」
「子供達があまり好きやないけれどね」
 それが芳香には少し不満だった。
「鯨のコロも」
「あんな美味いものないのにな」
 康友は首を傾げて言う。
 
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