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乱世の確率事象改変

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交錯するは向ける想いか

 荒ぶる風が牙門旗を大きくはためかせ、地を渦巻く砂塵は地に立つモノ達の感情を表しているかのよう。
 軍勢を率いる一人の男の大きな背を見て、兵士達の誰しもが己が想いをそこに馳せた。
 自分たちの大切なモノを守ってくれるのはこの方なのだ、この方についていけば守ることが出来るのだ、と。
 軍は広い荒野にて男の合図により歩みを止めた。もうすぐ戦が始まるという事実を認識して、彼らは緊張と恐怖と興奮が綯い交ぜになった心を持て余し始める。
 ここにいる兵は彼の身体たる徐晃隊がほとんど……では無く新たに集まった新参者がほぼ全ての割合を占めていた。徐晃隊も混ざってはいるが、彼の親衛隊としての役割である数百と、副長の周りに数十だけ。ただ、副長の元には一つの隠し玉を置いてあったりもする。
 現在、徐晃隊の大半は雛里に預け、鈴々と共に袁術軍本隊への対応に向かわせている。敵が行軍の道程を変えて別の経路から他の城を目指す場合を考えての配置、さらには隙があるならば少しでも数を減らす事を目的として。
 孫権を侮っているのでは無く、様々な思惑があった。彼としてもこの采配に自身の思惑を乗せている。
 練度の違う部隊の混成は自身だけでは扱いづらく、それならば戦場で無理やりにたたき上げを行ってやろうと考えて。今の内に本物の軍と当てれば被害とは別に新参の兵を精強に仕上げる事が出来るのが一つ。戦場の経験は何よりも得難いモノであり、非人道的な判断だとしても、これからの乱世を見れば早い内に手を打つことは悪くない。
 さらには、孫呉側の狙いもある程度読めている事や、先の敵対に向けて幾つかの楔を打ち込みたいというのもあった。如何に人質を取られていようと、タダで返す気などさらさら無い。
 思考を打ち切り、ふいと振り向いた彼は付き従う軍を見やるが、その目を見て全ての兵は生唾を飲み込んだ。
 普段であれば、彼のどこか親しみやすい人となりから穏やかな色が浮かび、自分達に安心と信頼を約束してくれるはず……しかしそこにあったのは凍てつくような冷たい色。優しさの欠片も無く、まるで兵を責めているかのようであった。

「お前ら、兵士になったって事は守りたいモノがあるんだろう?」

 瞳と同じく、聞いたモノを凍りつかせる声音で語られた言葉は兵士達にとって当たり前のこと。誰しもが個人の大切な何かを守りたくてこの戦場へと来ているのだから。
 それぞれがもちろん当然だとばかりに一様に頷き、今になって何故そのような事を聞くのかと疑問の視線を向ける。

「俺はそれを直ぐには守ってやらんぞ」

 呆然。兵達は彼の放った言葉に耳を疑った。困惑と期待を裏切られた事に対する憤りが胸中に込み上げ始め、誰しもから眼前に控える上司への信頼が落ち込み、批難の目が向けられて行く。しかし、

「守りたければ自分で守れ。戦うのは俺とお前たち一人一人なんだから他人なんかに易々とその想いを預けてくれるな。死んでしまうその瞬間まで誰かを守ろうとあり続けろ。死んじまった時だけ、俺がその想いを引き継いでお前らの大事なモノを守る為……いや、それが守られる平穏な世を作り出す為に戦う事をここに誓う」

 冷めた目で淡々と語られた言葉は兵達を呑み込む。
 新参の兵には戦争を行う為の覚悟が足りない。秋斗はその心に不足分を叩き付けたのだ。誰かを頼る心は戦場で大きな隙を生み、個としての想いを曖昧にしてしまう為に。
 練兵の時よりも戦場の真ん前で行えば、兵の一人一人がしっかりと意識を向けられると考えての事。戦前に於いて心が緊張や恐怖でブレている兵達は自分より上位な存在からの言葉を逃すことなど出来ないのだから。

「前を見てみろ、隣を見てみろ、後ろを見てみろ」

 言われたままに首を回す兵達は互いに目線を合わせていく。直ぐに決意の灯った瞳を掲げているモノもいれば、どこか不安そうに見えるモノ、自分も同じような顔をしているのだろうかと感じる兵も少なくない。
 視線が交差する場を見回しながら、秋斗は兵達へ尚も言葉をつらつらと紡いで行く。

「お前らが守るモノは故郷に残してきたモノと自分自身とそいつらだ。今、目に見えているモノは短い間でも同じ釜のメシを食った平穏な世を願う同志であり、大切なモノを守りたいという自分自身であり、死んじまったらお前らの宝物を代わりに守ってくれる奴ら、そして……一緒に自分の家を守らんとする大切な家族だ」

 じわりと、兵達全てに伝えたい想いが浸透し、一人……また一人と秋斗に視線を向けて行く。明確に守るべきモノを示され、誰しもが自分が為すべき事を確かめ合う。
 徐晃隊と似ているが少し違う思考誘導、それは一人の友を参考にして行われていた。
 己が住処を守りたいという願いを纏めるならば、彼女は一番の存在であろう。他の劉備軍の面々では無く、近くでその想いに触れてきた秋斗だからこそ、想いを込めて語る事の出来る口上であった。
 ふと、今は遠き大地にて戦う三人の友の笑顔を思い出して、秋斗は懐古の念から笑みが零れた。その微笑みは優しくて、精神が張りつめている兵達に少しの安堵と思考の空白を齎す。

「クク……問おう、お前達はこの地を守りたいか?」

 冷たい瞳では無く、強い意思を宿した光を灯して思考の隙間に放たれた問いかけは、兵達の心をたった一つへと駆り立てて行く。誰かに守って貰うでは無く、自分の意思で、自分のこの手で守りたい……そうして心底からの想いが共有されていく。
 数瞬の間を置いて、『応』と……全てを呑み込むような、乱れの無い返答が荒野に上げられた。もはや不足分は埋められた。新参なれども彼らは真の守り手となったのだ。
 その声、その眼、その心を見て、秋斗は大きく頷いてから続きを語る。

「ならば戦え、命を賭して! 友を守れ、家族を守れ、想いを守れ、家を守れ、自分を守れ! 我らが想いは今一つとなった! 来る全てを跳ね返し、安息の日々を作り出そうか!」

 毅然と放たれた導きに返そうと、同意を示す盛大な幾多もの兵達の声は天を突き、士気は最上へと上り詰めて行く。
 いつも支えてくれる軍師も共に戦う将の一人もおらず、初めての万を越える兵の指揮を行う事になる為、秋斗には一つとして油断や慢心は無い。
 例え新兵であろうとも、統一された心は戦場に於いてリミッターを外し、一人ひとりの恐怖を払拭し、死に立ち向かう事の出来る勇者と為していく。兵同士の結束と意識の統一によってより強固となったこの軍ならば、彼と共に戦うに相応しく、望む結果を出せる事だろう。
 秋斗は満足そうに微笑んでから沸き立つ兵達から目を切り、馬首を巡らせて前を見据え……己が元に歩みを進めているであろう敵に向けてポツリと言葉を零した。

「孫権……お前に同じようなモノ――未来の自分達の姿と戦う覚悟が充分であればいいけどな。もし中途半端な覚悟で戦場に立つのなら……その心、これからの為に叩き潰させて貰おうか」



 †



 遠くに構える陣容、そこにいる将の名を聞いて蓮華達は茫然としていた。

「な、本当に黒麒麟だけなの……?」

 挙げられている旗は徐のみ。まず間違いなく張飛や鳳統もいるモノだと思っていただけにその衝撃は大きい。
 思春や明命は武官であるが故にその顔に苛立ちを浮かべて行く。

「それでも負けない絶対の自信があると……舐められたモノだな明命」
「はい。いくら私達の名が売れていないからと言ってもさすがに……」

 闘志をむき出しにして語る両者に対して、どこか冷めた目で亞莎は一人思考に潜っていた。

――伏兵? 先の初戦でも行ったのならそれをしてもおかしくは無い。でもどこか引っかかる。天才と呼ばれるモノが同じ事を、それも続けて二度するだろうか。しかし……

 思考をいくら積み上げようともしっかりとした答えなど出る事は無く、情報にしても今回は秘匿が激しく、明命や思春も兵の指揮がある為に諜報に向かわせる事が出来ずにいた。
 二人の持つ強力な諜報部隊にしても、来る時機の為に袁術領のそこかしこへと向かわせている為、敵に対しては亞莎お抱えのモノを使うしかなかったのも一つ。

「とりあえず亞莎の考えを聞きましょうか」

 まずは今回の軍師である亞莎の話を聞くべきだと先を向ける蓮華。しかし彼女は深い思考の迷路に捉われて耳に入っていなかった。

「……亞莎?」
「ひゃい!?」

 蓮華に肩を叩かれながら訝しげに尋ねられると、素っ頓狂な声を上げて亞莎は跳ね上がってしまい、その姿に天幕内の誰しもが呆気にとられた。遅れて、明命が口に手を当て、顔を紅くして笑いを堪え始める。
 余りの恥ずかしさから亞莎は服の袖で顔の半分を隠すが、どうか笑うまいと苦戦する明命を恨めしそうに睨めつけた。

「はぁ……明命、笑っちゃダメよ。あなたの見解を聞かせて頂戴、亞莎」

 一つ嗜めてから話を振ると、亞莎はまだ恥ずかしいのか服の袖を上げたままおずおずと語り始める。

「その……先の初戦でも張飛が伏兵として現れたと聞いてます。敵が連続で同じような事をするのか、それともしないのかはまだ判断し兼ねます。此度の相手の兵数はこちらよりも少ない一万五千。総兵数にしても我らと袁術軍には負けていますので警戒するに越した事はないかと」

 言われて僅かに、思春と明命の表情が曇る。
 兵数でも将の数でも多いというのに、軍師すらいない敵に対して少し弱気では無いのか、というように。
 その空気を読み取ったのか亞莎は二人にきつい目を向け、静かに会話の主導権はまだ私にあると伝える。

「もし、万が一、という場合まで読み切らなければいけません。我らの目的は確かに勝利では無いですが、圧倒的な負けでも不可。出来る限り戦線を維持し、袁術軍から補充された兵の被害を増やし、時機を見て退却に足る兵数を失わなければいけません」

 亞莎は真剣な表情で、話の最後にゆっくりと蓮華へと目線を移した。心配の色を目一杯に浮かべて。
 彼女達が勝利してしまえば、思春と明命という不可欠な人材が後々まで戦場に縛り付けられたままとなり計画に支障を来してしまう。
 圧倒的な敗北をさせられては、孫呉の風評も下がり、蓮華という次世代の王への期待も地の底まで落ちる。孫策という戦姫が姉、その期待はそれほど重い。いくら治世を長く続けられる能力が高くとも、乱世では力が必要とされている為に。
 その二つは既に蓮華も理解している。だが……『兵を失わせる』という言葉は蓮華の心に重く圧し掛かり、表情を悲哀に堕ち込ませ、顔を少し下げさせた。
 知っていながら利用して失わせる。戦を行った結果の犠牲では無く、自分達が望むモノを手に入れる為にわざと切り捨てる命。その重荷を背負う事は彼女にとって初めてであった。
 例えば覇王であれば、表情を一つとして変えずにそれが最善ならばと躊躇いなく切り捨てる事を命じるだろう。散って行く命に先の世の平穏を約束しながら。
 小覇王ならば、悲哀の目を携えて、きつい口調で我らが大望の為に戦わせよと命じるだろう。己が家族の長きに渡る繁栄を必ず勝ち取るからと無言で詫びながら。
 黒麒麟ならば、少しだけ目を瞑り、感情の綯い交ぜになった瞳を向けてからそれを行えと命じるだろう。そのようなモノを出さない世を作ってみせると心を砕きながら。
 対して蓮華は……苦虫を噛み潰すように歯をギシリと噛みしめ、自身に圧しかかる重責と戦っていた。彼女は今、自分の妹と慕ってくれている兵達の命を秤に乗せている。傾く方向は既に決められていて、選べるモノは一つしかないモノではあるが。
 誰に頼る事も出来ない。決めるのは自分で、背負うのも自分自身。乱世に並び立つ王の誰しもが越えて来た、越えなければならない壁であった。
 目の前に迫って初めて、彼女は王というモノを理解した。この戦場に至るまでに煮詰めて覚悟が出来ていなかったのは彼女の、いや、彼女達の不手際。だが、それもまた功を奏していると言ってよかったのだろう。

「亞莎……いや、呂蒙。成功させる為にすべきことを述べよ」

 凛と、天幕内に響く声音は透き通っており、その場にいる誰しもの背筋を伸ばさせた。
 先ほどまでのどこか緩い空気は払拭され、その場にいる誰しもを厳しい面持ちに変えた。

「は、はい。まずは――」

 つらつらと亞莎が今回の戦で行う最良の手段、戦い方を話していく最中も、蓮華は目線を上げずにじっと下を見続けていた。

「と、いう流れがよいかと」
「周泰、甘寧の二人に何か良き案はあるか」

 目をみて聞かない事は無礼であったが、己が主の心境を予測して、そして有無を言わさぬ声音に圧されて二人共が己には何も代案が無いことと、亞莎の案への賛同を示す。
 それを聞いて、蓮華はゆっくりと顔を上げた。覚悟の光が溢れる瞳は見据えられた誰しもがその場に膝を付いてしまう程の覇気を叩きつけ、知らぬ内に三人は(こうべ)を垂れていた。

「我が臣に命ずる。呂蒙が計画を必ず成功させよ。我らが大望の為に失われる命、無駄にする事は許さんぞ」

 御意、の三つの声が上がり、一言も発さずに彼女達は天幕を出た。
 先頭を歩く蓮華の背は広く見え、付き従う三人に信頼と期待を与えた。
 例え選択肢が決まっていたとしても、真の王たるモノに変わる為には時間を要する。追い詰められ、無理やりに叩きつけられた現実は、有無を言わさず彼女を成長させ、揺れない芯を持たせることに成功した。

「これより戦場へ向かう! 相手は黒麒麟徐晃率いる劉備軍、我らが力を世に示す良き機会となろう! 精強たるその力を存分に振るい、我らが大望を果たす為に戦え!」

 整えられた兵列の前、戦場へと向かわせる王の声は気高く、全ての兵に希望と力を与える。
 覚悟を高める事に時間を掛けていれば、優しい彼女は威風堂々たる様ではいられなかっただろう。生来の真面目さから自分を責めて、少しだけでも、悲哀に暮れた瞳を向けてしまっただろう。
 行軍を始め、王の高みへと踏み出した彼女は付き従う者達に悟られぬように心で涙を零す。

――この先に……必ず笑顔溢れる治世を作ってみせるから。私達がお前達の望んだ世界を作ってみせるから。

 祈りを込め、想いを馳せ、彼女は進む、理不尽の溢れる戦場へ。

 敵がどのようなモノかも知らずに。






 渦巻く風はうるさくざわめき、張りつめた空気は背に汗を流させる。
 敵の部隊から突出してくる一人の男を見て、緊張が心を締め付けるも、構わずに馬を進めて行く。
 近づくにつれて遠くとも鮮明になっていく瞳、その昏さに呑み込まれそうになった。私を推し量っているのか、それともただ敵としてしか見做していないのか。
 気圧される事は無いと心を強く持ち、無言で睨み付ける事幾分、男はほんの小さく笑った。その笑みは何故か……姉様と同じモノに見えた。

「あれだけ無様な醜態を晒しておいて、性懲りも無く俺達の安息の地を踏み荒らそうというのか『袁術軍』よ」

 真っ直ぐに向けられる言葉は事実であろう。治める地を得たとしても、未だに私達は奴等に首輪をつけられているのだから。
 激情が胸に込み上げ、心にズキリと痛みが走る。

――あのような輩と一緒にするな。お前に……私達の何が分かるというのだ。

 すぐにでも叩きつけそうになる言葉を呑み込みギリと歯を噛みしめてその男を睨んだままでいると、呆れたようにため息を一つ。

「虎ならば噛み砕こうと口を開いてきただろうに……所詮は飼い猫、噛みつく事も出来んなら怯えたままで家に籠っていろ」

 私の胸にさざ波を作り出す言葉。男のやろうとしている事は分かっている。これは挑発だ。初戦もそれでのこのこと安易な突撃をしていいようにあしらわれたと情報にあった。
 ここには袁術の耳もあるのだ。私個人の感情程度で易々と計画を破綻させてたまるか。

「ふふ、下らん挑発には乗らんぞ徐晃。怯えているのはお前であろう。鳳統も張飛もおらず、我らと戦う事が怖くて仕方ないのだろうに」

 こちらは動じていないと兵に見せつけるように笑みと言葉を返した。論点をずらせばいい。敵から兵に与えられる不審を変えてやればいい。侵略を行う袁術に従うしか無い我らには大義名分など無い。ただ、袁術の将である事を堂々と口にするような事だけは……私には絶対に出来なかった。
 これが舌戦か。
 相手の立つ場所を弁舌で切り崩し、心の立つ場所を奪い合う。まさに言葉による戦。
 突然、その男は高らかに笑った。心底可笑しいというように、バカにした笑いでは無かったが、無性に私の心を苛立ちに染め上げた。

「クク、ははは! 下らん挑発ねぇ……お前ら! あいつらは俺が、俺達が怯えていると言って退けたぞ! 自分の暮らす土地を守りたいが為に戦場に立つ俺やお前らが怯えるわけないのになぁ!?」

 瞬間、弾けるような無言の激情が戦場に溢れかえった。
 敵兵の誰も彼もが怨嗟の炎を瞳に燃やし始め、先頭に立つ私を射殺さんばかりに睨みつける。向けられる憎しみの感情は深く昏い。
 同時に、私の心には奴の言葉が突き刺さっていた。
 相手も同じなのだ。いや、我らの過去、そして未来の姿なのだ。敵からすれば、私達は愛する地を踏み荒らす為にここに来た侵略者であり、抗って当然のモノ。
 私には……返す言葉が出て来なかった。心は抗い続けているというのに、何も言えない、言い返す事の出来ない事実も相まって、私の喉を詰まらせた。
 顔は笑みを浮かべながらも、徐晃はただ冷徹な瞳で私を見つめていた。その程度の覚悟も無いのかと落胆しているようにも見えた。
 そこで気付く。元から正統性が無い為に、舌戦に乗った時点で私の負けだったのだ。咄嗟の機転で言い返すにも限界があった。偽りでも袁術に従っている振りをすれば良かったのだ。しかし、自身の誇りによってそれを許す事が出来なかったというその点……徐晃はそこをついて来た。

「家に帰れ首輪付き。いや……俺達の怒りを受けてからでも遅くはないな! 二度とこの大地を踏めぬよう、お前達の全てを叩きのめしてくれる! 全軍、突撃せよ!」

 それは突然の号令であった。皮肉なことに……舌戦の敗北による屈辱よりも、後は戦うだけだと思考が向いて安堵している自分が居た。
 舌打ちを一つ。後に津波のように向かい来る敵に向けて剣を振りかざす。矛盾に彩られた心を抑え付けて。

「精強なる孫呉の兵よ! 来る敵を叩き伏せよ! 我らが願いの為に!」

 込み上げる悲哀も、押しかかる重責も、心をのた打ち回らせる屈辱も、全てを押し込めて指し示す。
 戦端は開かれた。私達はもう止まれない。敵がどのようなモノであろうと。
 雄叫びを上げ突撃していく兵達の背中を見ながら、私の心に深く刻まれる。
 ここは腐り果てた戦場。理不尽しか無く、甘ったるい正義等無いのだ。何を守りたいか、何を救いたいか、その目的の為に矛盾さえも貫くしかないのだと。
 人の波がぶつかり合う寸前、黒い麒麟が笑みを深めたように見えた。その笑みは私を蔑んでいるようにも見えたがどこか違い、今にも泣きだしそうな子供のようだった。
 目線を切り、悔しさと、無力さと、不甲斐無さを引き連れて、それでも私は王たる姿を見せる為に、心に仮面を被って指揮を始めた。




 †



 孫権軍は確かに袁術軍よりも精強であった。秋斗の口上と舌戦によって士気が異常な程高まっていた劉備軍相手に、練度の違う部隊を混ぜて連携の不足が目立つままで十刻に及ぶ戦闘を行っていた。
 どちらも引かず、押し込まれず、混戦する事も無く、じわじわと引き伸ばされていく時間の中、兵に多大な疲れが見え始めた頃合いを見て秋斗は一時退却の指示を出す。
 自身が戦う事無く引く様子を見て、亞莎は伏兵を警戒して追撃を不可とし、蓮華の後退指示を以って第一の戦闘は幕を下ろした。
 共に兵の被害は同程度。次の日も戦が続く為に陣へと引き返して束の間の休息を取り合う。
 兵が奇襲への警戒や食事の用意、次の日の戦の準備に慌ただしく動き回る劉備軍の陣にて、秋斗は中央の天幕内で物思いに耽っていた。

――孫権は未だ成長途中。侵略を行う覚悟も無く、自身の誇りに引き摺られて舌戦もままならない。孫策ならば従っている振りでもしただろうに。
 未だ屈辱の泥濘に叩き落とされていない身ならばそれも仕方ないのかもしれない。しかしこれで……彼女は大きくなるだろう。
 先ほどの舌戦で袁術に従うつもりはさらさら無いという事実がしっかりと確認出来た事も大きい。
 こちらから舌戦の途中で戦端を開いたのは助け舟。彼女が戦の理由に詰まっているのは明確であった為に行った、袁術軍の目を騙す為のモノであり、暗にこちら側には共闘の準備があると伝えておくための事。
 袁術に歯向かう時機、手段、方法、全ては分からないが、今は追い返すだけでいい。何かあるのならばあちらから交渉を持ちかけてくるだろう。
 袁術軍の持つ総兵数が下がるこの機を生かせないのであれば、この世界の孫呉はその程度の相手。孫策が出向いても噛みついてくるなら叩き潰すだけだが……まず無いか。
 ただ、俺はまた乱世を引き伸ばしてしまった。孫権の成長を助ける事になったのなら、後に強大な敵となるのだから。

 無意識の内にギシリと拳が握られていた。
 舌戦の最後からずっと、孫権の悲哀に満ちた瞳が彼の脳裏から離れなかった。
 秋斗は彼女の事を……自分に重ねてしまっていた。
 縛り付けられた事柄から選ぶ道はたった一つであり、それを選ぶしかないのだという事を理解して尚、戦う。守りたいという想いを叩きつけられても矛盾を背負って侵略を行う存在。
 孫権は秋斗に取って、桃香が覚悟を持てない場合、周りの現状で縛り付けられてしまった未来の自分の姿だった。本心からの侵略であれば問題は無く、己が望むままに叩き潰す為に動けるだろうが、現状の桃香を掲げて進んでは余りに足りなさすぎて愚かしい。
 今のままでは曖昧にぼかしたまま侵略を行う哀れな道化、理想を語りながら理不尽を振りかざす自覚のない偽善者……首輪をつけられているのは誰であるのか。
 ふいに、自嘲の笑みが口から零れ落ちる。

「クク、滑稽だな。未来の姿を叩きつけて心を潰すつもりが……まさか叩きつけられる側だったなんて」

 不思議と心に痛みは走らなかった。ただ、その姿が憎くて仕方なくて、戦場で自ら叩き斬ってやりたい衝動を抑え付ける事に必死であった。
 自身の力を驕ってはいないが、敵の練度、部隊の扱い、連携具合、どれを取っても行ける事を確信していた。
 孫権をこの手で屠る程度なら、被害を気にしなければどうとでもなったのだ。例え甘寧や周泰、呂蒙がどれほど守ろうとも、軍に隠した秘策を以って、秋斗を将として、後背に広い視点を持ったモノを置いて戦場を操る事が出来た為に。

――大丈夫。桃香は既に切り捨てる選択をしている。俺や雛里が何も言わずとも、必ず大陸を支配する王となってくれるだろう。だって、白蓮を切り捨てたんだ。王として諦観する事を決めたんだ。俺と同じ選択をしたんだから、今更何かを切り捨てる事を拒むわけが無いし、甘い考えなんかする事は無いさ。

 辿るかもしれない未来の自分を殺してやりたい衝動は、諦観の選択をした桃香の強い瞳を思い出して静まっていく。
 秋斗は一つ頷いてからそのまま次の戦闘に思考を向けようとして……自然な動作で隣に顔を向けた。
 そして茫然と、何も無い空間を寂しそうに見つめながら漸く気付く。

――ああ、そうだ。今回は雛里がいないんだったな。

 無意識の内に彼女が近くにいると……不安気ながら励ますように、労わるように底に強さを持った瞳で心配そうに見つめてくれていると思っていた。自身の弱さを見つめた時、これまでは必ずと言っていい程彼女が傍にいてくれた。
 それが今ここには無い。
 一人大きくため息を吐いて自分の弱さをまた自覚する。如何に彼女が自分にとっての支えなのかと。今回の出撃に向かう前の雛里の心配そうな顔を思い出して……彼の心に一つの欲が浮かび上がる。

――あの子の笑顔が見たい。


 胸に大きな痛みが走った。
 彼は……それがなんなのかを、今初めて理解した。
 以前の世界の倫理観も相まって、
 ずっと、そこに感情が向く事を無意識の内に押し留めていた事にも気付いてしまった。
 自分がこの世界にとっての異物だからと持たなかったモノ。
 人の心に聡い彼が、目を逸らし続けてきたモノ。
 漸く気付けたモノ。
 ここから進んでいくなら切り捨てなければいけないモノ。
 伝えてしまい、受け入れられたら、きっと自分は全てを話してしまう。
 世界の理の外の存在だと知られてしまえば、きっと恐怖や憤慨に駆られて誰もが離れて行く。
 隣にいてくれたとしても、自分だけが背負う嘘つきの罪過を、優しいあの子にも背負わせてしまう。
 そして詠が言っていた、今はそうではなくとも、何がなんでも助けたいモノに入ってしまうかもしれない。
 だから……自分にさえも……


 外から足音が聞こえ、思考を打ち切った彼はすっと顔を上げて天幕の入り口を見やる。急な人の気配の察知はもう慣れていて、踏みしめる足音のリズムは聞きなれたモノであったから。さっと天幕の入り口を開けて入ってきたのは一人の少女と大きな体躯の男。

「二人共、お疲れ。戦場の半分の指揮はお前達に任せて正解だったな。初めての戦場が多い兵達であれだけ抑え込めりゃ上等だ。後方で構えさせたから敵にはバレてないだろうし……二、三回後くらいには追い返せるかな」

 落ち込んでいた思考を振り払って、軽く綴られる言葉を聞いた二人は小さく頷く。
 その二人は自身が最も信頼を置き、片腕とまで称する男と、魔女帽子を深く被り、大きなリボンのついた服を着て、青髪を二つに括った……腰に手を当てて仁王立ちする眼鏡を掛けた軍師であった。

「わざわざ出て来てあげたんだから早めに終わらせられるわよ。今回の衝突で敵の狙いもある程度読めたしね」
「すまないな。よろしく頼む」


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

詳しい戦描写は無し。追撃無しで安全に退却出来た事が一番の成果ですね。

原作呉にて王を演じると言っていたので蓮華さんはこんな感じです。
雪蓮さんが死んでからの成長が大きく描かれていたので。

日常では無く、戦の陣中で気付くあたりが主人公らしいと思って頂けたら幸いです。

雛里ちゃんは眼鏡を掛けたら性格が変わるタイプだったり……したら面白いですねー。
ちなみに大きな声を出せないので副長の馬に一緒に乗って指揮してます。
副長にとって人生最大の至福の一時。他の徐晃隊の面々からは盛大なブーイングを食らったそうな。

次は戦を
ではまた 
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