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乱世の確率事象改変

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詠われる心は彼と共に

 孫権軍の行軍情報が入って直ぐのこと、秋斗は雛里と詠を集めて秘密の軍議を行っていた。
 鈴々は部隊編成、月は侍女の業務を代わりに行っている為、その場にはいない。

「な……ボクに対孫権の指揮を任せる……ですって?」

 詠は秋斗の放った言葉に耳を疑った。事情を知っている他の者が聞けば、人並みの幸せを探せるようにと彼女達に願っていたはずなのに、今更それを取り上げるというのは何事かと言うだろう。軍師としてもう一度戦場に立ち、人殺しの重責をさらに背負えと言うのは余りに非道ではなかろうかと。
 だが、詠の驚愕は別。敗軍の軍師である自分に全てを預けるほど期待しているというその一点であった。元から秋斗が自身の望みの為ならばなんでも利用する者である事は理解していた。自分を軍師として使うという選択も、詠の予想の範疇にはあったのだ。ただ、この重要な場面で連携の容易い雛里では無く、共に練兵も何も行っていない負けてしまった軍師である自分を使いたいという事が異常に思えていた。
 本城から朱里を呼び寄せる時間も余裕も無く、愛紗にしても内部の安定に尽力しているので同様に呼び寄せる事は出来ない。袁家はどのような手段を用いて来るか分からない為に。
 例えば以前の州牧の後継、その自己顕示欲を擽った内部反乱が起これば、戦場での差配は容易に引っくり返り、本城の守りがいない状況では桃香の命も危うい。そのような事が起こらないように朱里が手を打ってはいる。しかし、まだ内部の安定が確立されていない状態では万が一という事もあるので愛紗や朱里、桃香自体が戦場へ来る事はまだ却下されていた。
 雛里によると、もうすぐ桃香自体も動ける程度には内の安定も一区切りつくとの予想であり、そうなれば全軍を以って袁術軍を叩く為に動ける。ここまで迅速に軍を動かせるのは一重に桃香達が本城で頑張った成果でもある。
 ただ、そのようにまだ本隊が動けない現在、秋斗達の駐屯している徐州南部に於いて孫権軍の参入で戦場は苦しい状態となるが、守り抜いて且つ大きく動かすには将、もしくは指揮を確実に出来る軍師が足りない。ならばと秋斗が考えたのが董卓の元で筆頭軍師を張っていた詠の存在。外敵による涼州への侵略を幾度も防衛し、対黄巾でも膨大な兵を操っていたという経験は間違いなくこの局面でも使える。
 雛里は渋っていたが、袁家本隊の対応にはさすがに正体が露見する事を恐れて送る事が出来ない為、秋斗の判断に首を縦に振る事となった。徐晃隊の最精鋭を率いた秋斗ならば一人でも抑えられるだろうと考えていたが……彼が徐晃隊の精鋭のほぼ全てを雛里に預けると言ったのも頷いた理由の一つ。徐晃隊と雛里の組み合わせは相性が良いので無駄な被害も抑えられ、鈴々との連携についても上手く行く事が予想されていた為に。

「確かに詠さん程の人に手伝って貰えれば徐晃隊と張飛隊の主力精兵を残しつつ戦場を大きく動かせます。鈴々ちゃんだけで袁術軍の対応の指揮を取らなくても良くさせられますし」

 如何に袁術軍に有能な将がいないといっても突撃思考の強い鈴々を一人で向かわせるのは不安があった。さらには、孫呉との交渉が何時出来るようになるか分からない為、自然と秋斗か雛里は孫呉への対応に残らざるを得ない。

「でも……兵にボクの言う事をどうやって聞かせるのよ? しかも袁家の草が紛れ込んでるかもしれないのよ?」

 詠が直ぐに了承しない事は当然。彼女は徐晃隊とは密に関わりがあっても、他の一般兵とは全くない。今回の戦で新規参入の兵を強制的に戦場に慣らすという思惑も相まってのこと。さすがの雛里もそこをどうやって行うかは思いつかないらしく、疑問の目を秋斗に向ける。

「何、簡単な事だ。詠には雛里になって貰う」

 茫然。二人は目を真ん丸にして秋斗を見つめた。言葉が足りなかったと思い至ってすぐに秋斗は続きを語る。

「いやな、此処の所雛里は内政業務ばっかりで初戦の後にここに来た兵からは顔を覚えられてないし、服を借りたらいけると思うんだ。号令は副長の馬に乗ってあいつにやらせればいい。同時に草を炙り出すいい機会にもなる。そんなモノが紛れこんでいるなら徐晃隊のバカ共が黙っちゃいない。侍女をしていても何があるかは分からんし、お前たちのこの先の不安も少し解消されるし一石二鳥だ」

 そこで雛里は視線を落とし、じーっと詠の身体の一部を見つめた。不思議に思った秋斗は視線の先を辿って見やる――――途中で雛里の見ているモノに気付いてばっとその膨らみを両手で隠した詠に怒鳴られた。

「見てんじゃないわよバカ!」
「秋斗さん、さすがに私の服では……」

 自身の慎ましやかな胸を両手で押さえながら、背が少し高いくらいなのに自分とは違う豊満な胸を見せつけられ、がっくりと項垂れて言う雛里の言は正しく、さすがに起伏の無い彼女の服は着れないと誰もが判断するだろう。
 そんな雛里を励まそうといつかのように貧乳の素晴らしさを語り始めそうになるも、さすがに場違いな空気を作りすぎるのは良くないとどうにか我慢することに成功した秋斗は、

「あ、ああ、その問題があったか……張遼みたいにサラシを巻いたら――」

 提案の途中で、詠からさらに睨みつけられて口を噤んだ。そのまま詠はため息を一つ。既に自分が出る事は彼の頭の中では確定しているのだと理解して。次に、副長と乗る事で自分がただの策の一環でしかないと思い込ませる事が可能になると気づいて。
 人の命の大きな動きが関わってくるのだから詠も戦場に立つ事には乗り気であった。彼女自身、心の根っこには一人でも多くを助けたいという想いがあり、以前の戦で一人を助ける為に戦場を逃げ出してしまったという負い目もある。既存の兵を騙す事になるが、その程度は被害が増える事と天秤に掛ければどちらに傾くか言うまでも無い。
 少しだけ逡巡した後、

「雛里……一着だけ服をダメにしちゃうけどいい? 胸の部分だけ目立たないように布を継ぎ足したらいけると思うんだけど……」

 未だに自身の胸に不満の眼差しを向け続ける雛里に問いかけた。それを聞いて雛里は泣きそうな、女としての敗北の悔しさがありありと浮かんでいる瞳を向ける。

「……構いません。こちらの被害が抑えられる事は確実ですから。でも……ひ、一つ聞きたい事があり、ありましゅ」

 何故か噛み噛みになる彼女に秋斗も詠も訝しげに見つめる。雛里は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら詠に身体を寄せて、

(胸が大きくなる方法を教えてくだしゃい)

 自身の望みを小さく耳打ちした。空白の時。後に、詠は盛大にため息を吐いた。

「秋斗、あんたは胸の大きさで女を好きになる?」
「え、詠さん!?」

 突然の質問の意図が分からず、秋斗はしばらく考えた後に、胸の大きさを気にするのは女の子によくある事だと思い至って自身の意見を述べる事にした。

「大きい胸も小さい胸もいい所がそれぞれあるだろうよ。女の価値や良さは胸の大小じゃない。それを中心に好き嫌いの判断をする男は欲が真っ先に出るケモノで、俺が一番なりたくない部類の男だ。ま、胸がどうだろうと、雛里も詠もとびきり可愛くていい女である事に変わりない」

 答えを聞いた雛里はゆでダコのように顔を染めて俯いた。詠も頬を紅く染めたが、この鈍感男が勘違いしての無自覚発言だから気にするなと言い聞かせて心を落ち着け、不思議そうに少しだけ首を傾げる秋斗をじろりと藪睨みして口を開く。

「あんたはホントに腹立つくらい……まあ、これで次の戦場に向かう人選は確定。月を守る為に徐晃隊第一小隊の腕っぷしが強い順で二十人をそれとなく城に残してくれるなら、ボクも安心出来るしお願いしていい?」
「ああ、最初からそれはするつもりだ。第一のバカ共は『ゆえゆえを守れるなら喜んで!』なんて嬉々として残るだろうし。それと副長と数十人を詠に預ける。戦場では『鳳統』と呼ぶように言っておくが……クク、いつものように『えーりん』と呼ばれても振り向くなよ?」
「分かってるわよ! 全く……徐晃隊のバカさはおもしろいけどあの呼び方だけは直して欲しいわ。まあ真名しか名乗れないから直接呼ばれるよりはマシだけどそれでも――――」

 からかいの視線を向ける秋斗に跳ねるように食って掛かった詠は続けてぶつぶつと不満を零していき、雛里はその様子を見てクスクスと可愛らしく笑った。
 次の戦場は近いが、どこか穏やかな空気で続けられる軍議に三人の心は張りつめすぎずに最良の状態であった。



 †



 戦前の軍議の様子を思い出して、副長と共に馬の上で揺られる詠の緊張は今回の戦場に赴く前に和らいでいた。そのままの心理状態で行われる思考は鋭く、今も冷静さを保ち続けている。
 孫権軍との初戦は予定通り互角に抑える事に成功し、幾日かは戦が行われなかった。次の日も続けて出撃を行おうとしていた秋斗に対して、詠が一つの忠告をした為に。
 彼女は孫権軍の勝ちにも負けにも拘っていないような兵の動かし方を見抜いていた。
 それならば、こちらからそんな茶番にわざわざ乗ってやる事もない。早い内に追い返したいのは間違いない。ただ、それで兵を無駄に死なせてしまうのは違う。
 連続戦闘は出来る限り避けて、出来れば日を置いての数回で決めてしまうのが最善だと献策した。
 秋斗もその案に頷き、実行に移したのが数日前。
 二回目の戦闘では秋斗自体が戦った為、味方の被害は抑えられ、敵の被害も上々であった。その戦闘で敵が取ってきた戦術は防衛集中、目立った攻勢は無く、狙いは徐公明からの被害を減らすことのみ。
 敵将の甘寧、周泰は秋斗を止める為に動くかと思われたが、変則的な動きを以って並み居る部隊の隙間をついて劉備軍の連携を崩す事に専念しており、その対応に追われて少し手こずった程度。
 そして現在。初戦から十日ほど経った三回目の戦闘。
 互いの軍は拮抗していた。秋斗が直接突撃していない状態で。
 敵の狙いは袁術軍の被害を増やすことを念頭に戦線を維持している。詠は頭脳をフル回転させて入る情報を整理し、後に一つの波紋を作ることを決めた。

「周倉、今から本格的に戦場を動かす。暖めてきた徐晃隊を使うけど秋斗にはちょっと無茶をして貰うことになるわ。動揺を誘う為に戦線を押し広げましょう。最後の狙いは――――」

 語られた策に目を見開いた副長はすぐに大きな声でそれぞれの隊へと指示を出し始める。

「上手く行けばこれで決まる」
「……えーりんはただの侍女だと思ってたんだが……ここまですげぇ軍師とは思わなかったぜ」
「えーりん言うなバカ!」

 小さく怒鳴った詠に対して、副長は小さく苦笑して受け流す。普段の徐晃隊では良く見られるその光景に周りにいる数十の徐晃隊員達は安堵に包まれた。
 この時、副長も徐晃隊も彼の元に馳せ参じたいと焦れていた。鍛え上げた力と連携で彼の手助けをしたい、彼の行く道を広げてやりたい、と。
 そんな中で行われた他愛ない詠と副長のやりとりは、彼が告げた命を遂行出来るようにだけ意識を向けさせる事に成功した。
 適度に緩い空気で待つこと幾分、秋斗から了承の伝令が来ると同時に詠がコクリと頷き、副長は大きな声を張り上げる。

 ゆっくりと劉備軍の陣容は大きく変わり始める。
 その様相は二つの羽を伸ばす鳥のようで、されども中央は鋭い角で貫いてやろうというような、黒麒麟が鳳凰の羽を手に入れたような不思議なモノであった。



 †



 詠からの伝令を受けて、気付かない内に俺の顔は笑みに変わっていたらしい。胸の内にこみ上げるのは確かに歓喜であった。漸く本気で叩き潰せる事が嬉しくて仕方ない。
 振り向くとずっと最後方に控えさせていた旗を掲げていない徐晃隊が近づいてくるのが見えた。目を輝かせる様子からはあいつらもどれほど我慢していたかが伝わってくる。
 あいつらも俺と同じ気持ちだったんだろう。自分達ならばもっと戦える、もっと敵を追い詰められる、もっと皆を救えるのだと。

――大丈夫だ。もう我慢しなくていい。

 心の内で呟いて、彼らに笑みを向けると俺の気持ちを読み取ったかのように不敵に笑い返してきた。
 詠は少し見誤っている。きっと俺に無茶をさせると考えているだろう。でも違う、これは無茶じゃない。俺達徐晃隊にとっては普通の事であり、お前が言った以上の事が出来てしまうのだから。戦場は盤上の遊戯とは違う事を良く知っているだろうから、俺達の動きにも合わせて貰うぞ、詠。

「さあ、待たせたなお前ら。敵は孫呉の精兵、と言っても……俺達には敵わない。だってそうだろ? ここからは俺達クズの戦場で、血みどろの殺し合いなんだから。クク、いつも通りだ。俺に付いて来い。甘ったれた愚かモノに本当の黒麒麟がどういうモノかを教えてやろうか」

 静かに揺れる信頼の瞳を俺に向けて『応』と統一された返事をする徐晃隊。彼らから目を切って戦場の真正面に目を向ける。
 徐々にではあるが、敵はこちらの狙いを勘違いして左右へと広がり始めた。
 左翼最先端に徐の牙門旗が揺れている。その後ろでは俺に体躯が同じくらいで黒服を着た、月光とは違う黒馬に乗った徐晃隊の一人が指揮をしている。そこに向かうは周と甘の旗との事。まんまと引っかかってくれたわけだ。
 右翼最先端では膨大な兵が突撃を仕掛けている。今までに無い苛烈な突撃に焦っているのか敵兵は包囲されないようにと俺達より外へと陣を広げ始めていた。こちらも問題なく嵌ってくれたわけだ。
 長く、広くなった戦場で、副長の周旗が揺れ動く。右翼の注意を引き付ける為にゆっくりと。敵の軍師には伝令が飛ぶだろう。鳳統がこの戦場にいるのだと。ならばどうする、どう動く。当然、即時対応の為に動かざるを得ない。
 深読みした彼らは時間が経つ度に右左翼の戦闘へと意識を引き摺られていく。
 そのまま後方で指揮をしながら待つ事幾刻。漸く急ぎの伝令が届き、詠の望んだ状態へと戦場が変化した。俺が望む状態へと戦場が変わってくれた。
 確かに通常の兵相手であれば耐えきれる事が予測される敵兵の壁が中央には敷かれているようだ。だがそれは、俺達にとってはなんでも無いモノ。如何に重厚に並べようとも、所詮は普通の兵相手に対してのモノ。徐晃隊最精鋭という異常なモノを相手取る為には薄すぎる。

――やっと、お前を叩き潰してやれるぞ、孫権。

 ギシリと手綱を持つ拳が握られた。自分の感情を押し殺す為に。感情を殺さなければ刃は速さを失い、自身の動きが鈍る。
 大丈夫、大丈夫と口の中で呟いて、戦場を駆ける為の思考へと向けて行く。
 ゆっくりと目を瞑り感情を凍結させて行き、開けると視界は良好だった。やっと冷めた頭に自分自身で少し呆れながら、前で蠢く味方の後背へと大きな声を放った。

「安息の地を守る勇者達よ! とくと見るがいい! 我ら黒麒麟の戦をな! 俺達は今、敵を貫く槍とならん! 焦がれたなら追いすがれ、守りたいなら付いて来い! 貫け、俺達と共に!」

 俺の声を合図に徐晃隊が全力疾走で駆けて行く、その数七百。先頭を走る部隊長は高く、長く笛の音を鳴らしながら。俺が跨る月光は徐々に、ゆっくりと助走の速度を上げながらそれらに並走して行く。
 徐晃隊が分かれた味方の合間を過ぎ去る中、徐晃隊で無いモノ達は口々に声を上げて俺達を見送る。その瞳の色は歓喜、信頼、そして決意。奴等はきっと、俺達の後ろで戦ってくれるだろう。俺達を守る為に押し寄せてくれるだろう。
 詠の伝令は全ての兵に行き渡っているようだった。俺達の使う笛の音――黒麒麟の嘶きと兵達から呼ばれ始めている音が聴こえたら中央は道を開けろ、と。
 最前の中央戦線を保っていた部隊は初戦で新たに仲間となった徐晃隊所属予定の元袁術軍の新兵達。笛の音の合図の意味はこの短期間で嫌というほど染み込ませており、笛の音を聴いた全員が瞬時に、敵の攻撃さえも無視して左へと動いていった。
 出来た隙間に、困惑が支配している敵の視界の真ん前に俺達が姿を現す。遅れて、計算上は同時にぶつかる時間を幾分か残して、

「行こうか相棒。お前も足りないよな? お前の本気を見せてくれ」

 月光に声を掛けると、助走はもはや十分だと戦場を最速で駆け始めた。徐晃隊は自然と俺と相棒の為だけの道を開けて敵兵に突撃を仕掛けて行く。
 全てがぶつかるまで数瞬、驚愕に目を見開きながらも槍を突きだそうと構える敵兵達は……なるほど、確かに精兵と言えるだろう。しかし、

「クク、ははは! 甘すぎるなぁ!」

 徐晃隊のバカ共の実力への見誤りと、俺の相棒への認識の甘さと、俺達が仕掛けるちょっとした最悪の悪戯が面白く感じて、自然と笑いが口から零れた。対して月光は、自分を舐められた事に対して憤っているようで小さくうざったそうに嘶いた。甘ったれた敵に、お前の存在をその脳髄に深く刻み付けてやれ。

「跳べ、月光!」

 呼びかけると大きな嘶きと共に、相棒は大地を蹴って空を駆けた。高く、速く……敵も、突き出される槍をも飛び越えて。
 時間が止まったかのような感覚の中、吹き抜ける風は心地よく、日輪の光が眩しかった。数多の怯える視線が俺達を貫いているのを感じて小さく苦笑が漏れる。

――見ろよ月光。奴等はお前を恐れたぞ。ここからはいつも通りだ。俺と一緒に輝こうか。

 気高く美しい相棒に心の中で呟き……そして恐怖と混乱に支配される敵兵の真っただ中に俺達は降りたち、そのまま鮮血の紅華をいくつも咲き誇らせた。






――なんなのだあれは。

 情報にあった戦場で鳴る笛の音が耳に届き、その方を見やっていたら……一頭の黒馬が宙を駆けた。馬の跳躍は幾多も見て来たが、戦場でそれを行うモノは初めて見た。
 数瞬後、降り立つと同時に、鮮血が一つ、二つ……幾つも宙に吹き出し、戦場の空気が一変された。
 私はその空気を知っている。圧倒的な武力を持つ者に蹂躙される恐怖。圧倒的な強さの敵に押し込まれる怯え。過去に敵がそれに呑み込まれて行くのを何度も目にしてきた。姉様が戦場に立つ時、必ずと言っていいほどその空気が敵を支配していた。
 だが、今それに支配されているのは自分達の軍。孫呉の精兵である、母様に従ってきた者達や私達が手塩に掛けて育て上げてきた者達が……呆気なく、崩れ始めているということ。
 困惑が頭を少し染め、思考が回る。黒麒麟は敵左翼にいると思っていた。奴は騙していたのだ。牙門旗をそこに置き、自身の部下に自分の真似をさせて。第二の戦闘でその姿を見せつけていたのは明命と思春をおびき出す為か。こちらの狙いと偶然重なっていたのも悪かった。
 さらに、鳳統の姿が目撃されたとの情報も入ってから、何か策があると深読みして陣を広げたのはこちらの失策。亞莎がその対応へと向かい、薄くなった中央には私が指揮に出るしかなく、士気を上げる為に自然と前線に近い位置に引き摺り出されていた。奴等は全てこの時を狙っていたんだ。私を殺せる程の機会を。
 ここは戦場。例え誰であろうとも、死は平等に隣に控えている。大将だから、軍師だから、武将だから……そんな甘い事は通用しないのだ。
 奴等と密約を結んでいれば本当の茶番を演じられただろうが、それでは女狐の目は騙せない。私も、きっとそのような甘えた状態のままではボロを出してしまっただろう。
 絡み合ったお互いの思惑から、目的が違う可能性も多々ある。私を殺せばどうなるか奴等も幾つか予測くらいはしているだろう。それでも、確定しているわけでは無い。私を殺す為も十分に在り得るのだ。
 じわじわと、握りしめる拳が湿っていく。脚も、身体も、唇も、全てが震えていた。

――この様では……私は王足りえない。これを乗り越えて、この戦場を遣り切って、生き残って初めて、死んだ仲間と、生きている兵と、家族たちに顔向けが出来る。だから……

 心に込み上げるモノを気力で抑え付けて、自分を鼓舞するかのように声を張り上げる。

「敵の大将たる黒麒麟がのこのこと自ら飛び込んできた! 恐れる事は無い! 奴もただの人間、疲れもしよう、鈍りもしよう! 奴の頸を手土産に、我ら孫呉の存在を大陸に知らしめようではないか!」

 ビシリと空気が張りつめるのが分かった。私の声で一気に、恐怖に駆られ始めていた空気が払拭されていく。さすがは孫呉の精兵。こんな未熟な私に……よく従ってくれる。
 ゆっくりとではあるが、私の周りから戦場の空気が変わっていく。これでしばらくは持たせる事が出来るだろう。同時に、

「甘寧と周泰を呼び戻せ。部隊はそのまま部隊長に任せ、二人だけこの場に来いと。この戦場で黒麒麟を……捕えるぞ」

 敵左翼に釣られた二人へと指示を出す。直ぐに味方の兵は伝令へと走り出した。
 討ち取ったらどうなるかは分かっている。先の交渉が成り立たなくなるだろう。でも捕える事が出来たなら、間違いなく有力な手札となる。
 亞莎の計画は最初からそれであった。徐晃を捕えて私達の名を上げ、同時に兵の被害の大きさを理由に戦場から退却すること。何か言われてもこちらは大きな仕事をしたのだから十分だと強気な姿勢を見せておく事も大事。ただでさえ風評が下がっているのに弱った部隊を戦場に出し続ける事など出来ないのだから。
 その時、徐晃の身柄を袁家が欲するのは目に見えている。劉備軍に対する有力な手札となるのはあちらも同じであり、可能ならば姉様達に対抗する将も欲しいのだから。徐晃の身柄を売り渡せば戦場から撤退する手土産に追加されるのも一つ。
 そうなれば、捕えて直ぐに交渉しておけば、呉の地を解放してから見逃す代わりに私達の望みを手伝わせ、袁家に対する毒と為せる。撤退と同時に劉備軍に明命を送り込んでその件を伝えられれば最善となる。
 徐晃が手を結んでくれない事は無いと確信している。姉様が言っていたが、あれは自分達の利を真っ先に考えるモノ、とのこと。知勇兼備の猛将でもあるのだから、ここで自分が死んだらどうなるか考えられないバカでも無いはず。
 それに……あの姉様があれだけ求める程の将が、そんな簡単に戦場以外で死のうとする部類な訳がない。
 姉様は黄巾が終わってから、劉備軍の情報が入る度に徐晃が欲しいと楽しそうに語っていた。まるで恋焦がれる乙女のように。そして何故か、私に必要な人物だとも言っていた。理由を尋ねても自分で考えろと教えてくれなかったが。
 今の私に足りないモノを持っているのか、私の足りない所を補ってくれる者なのか。一人でも成長出来る、などと意固地になる事はもう無い。私は多くのモノに支えられ、導かれ、信じられて王たる事を学んで行っているのだから。ならその一つに奴も加わる、それだけの事。
 戦場の指揮を継続しながら、ふいにあの男の泣きそうな表情を思い出した。
 胸に沸々と興味が湧く。何故私にあのような表情を向けたのか、と。

「孫権様! 徐晃自体は兵が無理やり壁となって止めたので失速しましたが被害が大きく、さらには追随する数百の兵が異常過ぎてこのままでは持ちません!」

 駆けつけてきた兵からの報告で思考が打ち切られる。敵は旗も掲げておらず、混在した状態では最前の様子は良く分からない。この報告はありがたかった。まだ思春と明命の二人が着くまでには時間が掛かるだろう。私では姉様と互角らしい徐晃には敵わない。
 蒼褪めた兵の顔からはどれほど恐怖しているかが見て取れた。間違いなく、敵はここで決める気だろう。なら……

「中央以外は戦線を一押ししてから斜傾陣を敷きつつ後退! 薄い包囲くらいくれてやれ、外側に流せるなら流せ! 中央は突貫してくる敵への対応に集中! 決して抜かれるな! 待機している部隊は私と共に徐々に後退せよ!」

 大きな声で指示を出して自身もゆっくりと後退していく。中央はすでにある程度の所まで抜かれていると見た。これは時間との勝負になるか。押し込まれているのならそのままでいい。この状況の中、下手に陣容を変えてしまえば軽く食い破られて総崩れになりかねない。
 焦れる心を抑えながら思考を巡らせていると、ふいに左翼方向から呂蒙隊が近づいてくるのを視界に捉えた。亞莎が瞬時に判断してくれたのだろう。

――あちらも厳しいはずなのに、兵を減らしてまで私の方を優先してくれるとは……本当に助かる。後は思春と明命が間に合えば……

 ゆっくり戦場が下がっていく中、耳を劈く兵の絶叫が近づいて来た。盛大に紅華が咲き誇るのが鮮明に視界に映る。私は戦線を下げて、中央の部隊はそのままであったというのに、もうあんな所まで来たのか。
 脳髄が警鐘を鳴らしだす。一番精強な中央の部隊をこれほど速く抜いてくる相手に、呂蒙隊程度の補充で相手になるのだろうか、と。
 ゾワリと肌が泡立つ。大きく退く等と、弱気な様を見せていいのか。ただでさえ士気が低下しているこの状況で。
 ここに来て私は……迷ってしまった。
 信じて留まり続けるか、大きく退き下がるか。
 血霧は尚も戦場に舞い続けている。砂埃が風に乗って流れて行くのが近くなってきた。もはや悩んでいる時間は無い。

――私は……

 決心を固めようとしたその時……二つ前の部隊の戦列、その中央に孫呉の兵が弾き飛ばされてきたのが見えた。
 目を見開き、その後方を見やると、血に塗れて私を見据える黒い麒麟が巻き上がっていた砂埃の中から現れる。
 まだ遠くとも良く見えるその双眸は、ただひたすらに昏く、私の事を責めているかのよう。
 蜜に群がる蟻の如く、奴に突撃を仕掛けて行く兵達が見えるも、寸分の乱れも無い連携で動く奴の兵達に妨害されていた。
 一人が弾いて一人が突く。一人が防いで一人が突く。
 二人一組で重なるように繰り返される連撃は互いに邪魔をすることは無く、味方が殺されても後ろから別のモノが代わりに飛び出して動きに狂いも無く、徐晃を先頭としてただ淡々と作業のように人の壁を貫いてくる様子に全ての兵達が恐怖に染まっていた。
 練度が違い過ぎる。一体どれほど厳しい訓練を行い、どれほど掲げる将を信頼し、どれだけの想いがそこにはあるのか。
 戦場の空気が敗色へと一気に引き戻され、直に目にしたことによって心が決まる。部隊と共に後退している暇は無い。あれらにはそんな生易しいモノは効かない。
 私はすっと剣を前に構えて奴に指し示した。そのまま言葉を上げようとしたら、驚くことに奴も私に剣を向けた。その突然の行動に、私は呆気に取られてしまった。
 にやりと笑った徐晃はそのままボソリと口を動かし、
 そしてそのまま……私と、私の前に立ち竦んで奴らを見ていた兵は、恐怖の底に叩き落とされた。



 †



「最短路を作れ。俺の為に」

 それは短い命令であった。
 秋斗が放った言葉は徐晃隊の耳を打ち、瞬時に全ての者が今までの防御主体の戦い方を止めて、攻撃へと意識を向けて行く。
 一番前の一人は、ただ突撃した。
 一人でも殺そうと槍を突き出し、腹を貫かれても槍を突き出し、最後まで多くの敵を殺さんとして……その命に幕を下ろした。顔に笑顔を張り付けて。
 続くように一人、また一人と突撃していく。横合いから穂先を向けられようと、切りつけられようと、貫かれようと気にせずに前へ、ただ前へと。
 周りの敵兵はその姿に恐怖した。狂っている、と誰しもが思った。恐怖は足を止め、腕を鈍らせ、心を縛る。その隙が戦場では命取りだというのに。
 直ぐに彼は人差し指を立てた片手を上げて軽く振る。右、左と繰り返されるその動きを見た後続徐晃隊は突撃していった仲間の抜けた空間から分かれて、仲間へ武器を振るう敵へと同じような突撃を行っていく。
 己が身を気にせず、ただ効率的に数を減らす為、ただ機械的に繰り返される突撃に敵の誰しもが怯えた。精強な孫呉の兵であろうと、異常な狂気溢れる戦場に脚が震えて後ずさり始めた。
 ただ一人の兵の例外なく、死に逝くモノ達は笑みを浮かべていたから。
 彼らは徐晃隊最精鋭。たった一つの共通意思の元に、するりと命を燃やして咲き誇らせる。
 彼の下した命が今生きる全て。後悔の涙も、断末魔の絶叫も、怨嗟に燃える瞳も、最期の瞬間まで持つ事は無い。
 彼らは理解している。自身が朽ち果てようとも、己が主は掲げた願いを叶えてくれるのだと。皆が想っていた、皆が祈っていた、皆が願っていた、求めて止まない平穏な世界を作り出してくれるのだと。
 果てる一瞬に負の感情など持つことがあろうか。否、遣り切ったと喜びこそすれ、怨み憎むはずがない。
 彼らは知っているのだ。誰よりも誰かを助けたい男がどれだけ自分達を想ってくれているかを。どれだけ男が自身を憎んで、苦しんでいるかを。どれだけ、未来に生きる人の幸せを願っているのかを。
 その優しい男の為ならば、乱世に鮮やかに咲く華になれる事を誇りこそすれ、どうして醜い負の感情など持てようか。
 彼らが死の間際に笑みを浮かべるのは、ただ単に、彼に一つの想いを伝えたいが為。

 俺達は御大将と戦えて幸せだった。だからどうか悲しまないでくれ、と。

 秋斗も、その想いを間違う事は無く、だから自身が下した命に対しての責任を取る為に戦う。一つたりとて彼らの命を無駄にしない為に。
 徐晃隊が突撃した後は間が出来た。一つの紅い絨毯のようなそれは彼の為の道。茫然と、今も馬の上で恐怖に心が縛られて指示を出しかねている彼女へ辿り着く為の道。敵と味方の命を対価として作られた、高価で大切で残酷な道。
 充分に距離が出来て漸く、月光の腹を蹴って彼はそこを駆けた。
 聞きなれた蹄の音は徐晃隊にも聞こえている。耳に届けば自然と誰も彼もが道を開けて左右の敵へと向かった。
 助走は十分。後は辿り着くだけ。恐怖に縛られた敵兵は震えながらも己が主に近付かせまいと攻撃の素振りを見せるも、秋斗に気を取られたモノは徐晃隊に殺されていくだけであった。
 血みどろの殺し合いの戦場はやはり地獄のよう。彼は駆け抜けながら自分達が作り出した地獄の醜悪さに心を冷やしていく。
 駆ける内、秋斗は目をすっと細めた。その視線の先に迫るのは……馬を駆った孫呉の姫君。その行動は怯えきった兵への鼓舞であったのか、それとも狂気に当てられて身を這いずる恐怖に耐えきれなくなったのか。携えた瞳には決意の輝きが燃えているのが見えて、彼はその姿に感嘆の念を覚えた。
 蓮華が行った選択は間違いでは無かった。浮足立っていた周りの兵の誰しもが自分を取り戻し、徐晃隊という化け物に向かい行く勇気を持つことが出来たのだから。
 さすがは英雄、と。一つ口の中で呟いた秋斗は月光の速度をさらに上げた。
 周りの兵はその状況を理解する。大将同士の一騎打ちなのだと。それを穢す事は誰にも出来やしないのだと。
 誰しもが自分の主を信じて眼前の敵兵へと向かう中、目線を合わせて睨み合いながら突撃する二つの影は……遂に交差する。
 秋斗の剣は異常な程長く、容易に蓮華の剣の間合いの外から届いていた。力の差は戦うまでも無く歴然であり、受け止める事よりも受け流す事を選んで斜めに剣を振り上げた蓮華であったが、甲高い音が鳴ると同時に自身の予測より大きな衝撃によって弾かれ、腕の痺れから一瞬の間が出来た。
 そこに、交差する瞬間に、彼は滑るように無理やり身体をずらして月光の背を支点とし、蓮華に対して蹴りを放った。

「ぐっ!」

 鈍い音が戦場に一つ落ちる。幸運な事に弾かれた腕が落ちていた為、肩で蹴りを受ける事が出来たので身体への深刻な損害は無かった。しかし蹴りの威力は強く、蓮華は真横からの衝撃に馬上から投げ出された。
 馬の手綱をそのまま持っていれば、馬の首の骨が折れて方向転換も出来ずに敵中に投げ出されるは必至であった為の咄嗟の判断を行えたのは称賛されるべきだろう。
 そのまま蓮華は味方の兵列に突っ込み、二人の兵によってどうにか受け止められた。しかし……受け止めた兵の鎧で頭を打ち、朦朧とした意識ではもはや指揮さえ行えない。直ぐに主の危機を判断した二人の兵はその場から蓮華を連れ出し始めた。
 劉備軍側からは歓喜の声が上がる。敵大将を行動不能にまで追い詰めたのだ。それを戦場に示す事は大きな意味がある。
 対して、駆け抜けた秋斗を迎えたのは数多の敵兵。一瞬の交差であれ、大将の身の安否が不明になった為に孫呉の兵達は意識のスイッチが切り替わった。
 そこに顕現するのは死兵。自身の掲げる人物への信が強ければ強い程になり得るモノ。
 目を怨嗟に染めて向かい来る敵に舌打ちを一つして、秋斗は薙ぎ払いながら速度を緩めて戦場を駆けて行く。
 秋斗に追随する徐晃隊と一つの感情に支配された孫呉の兵はほぼ同じと言ってよかった。ただ……感情の高ぶりは視界を狭め、速さを削り、連携を無くす。どちらが強いかは言うまでも無い。そも、同じ様な兵が来たとしても、徐晃隊はそれを相手取る訓練を紅白戦のカタチでしているので問題は何もなかった。
 自然と脚を止めた秋斗の周りに小さな偃月陣が敷かれ、彼を最前の支点として戦場が押し広げられていく。徐晃隊が進撃して来た後方からは破竹の勢いで押し寄せて来る劉備軍新兵。もはやこの戦場の優位は一つに決まった。立て直す為の時間も無い。
 そのまま戦場で武を振るう中、秋斗の左の視界に二つ黒い影が映った。
 俊足と呼ぶべき速さで駆けてくるそれらは、立ち並ぶ徐晃隊や孫権軍の隙間を縫い、肉薄と同時に二方向から剣と短剣を突きだす。
 身体を捻り、片方の刃を躱しながら鈴の音の方向へと剣を振った秋斗は、追撃としていつの間にか放たれていたクナイを避ける為に月光の上から転がり落ちた。

「我が名は甘興覇! 孫権様の一の臣なり! 徐公明……貴様のそっ首貰い受ける!」
「我が名は周幼平! 徐公明、ここから先は行かせません! 孫呉の兵よ! この男は我らが食い止める! 孫権様を守り通せ!」

 秋斗の前に立ちふさがったのは主を傷つけられて激昂する思春と、激情を携えながらも親友である亞莎の敗走時の案を思い出して指示を出す明命。
 遅れてきた二人の到着で冷静さを取り戻した孫呉の兵達は徐晃隊の猛攻をいなしつつどうにか下がり始めた。ただ、それを逃すほど詠も甘くは無く、劉備軍の前兵は兵列を整えながらもじわりじわりと追いすがっていく。
 中央ではゆらりと、長い剣を引きずって立つ影が一つ。目を細めて二人を見つめる秋斗はごく自然な動作で、いつものように剣を水平に構えた。

「徐晃隊の隙間を抜けてくるとは……しかも不意打ちで俺を殺そうとしたってのは褒めてやる。だけどな……ここからはお前らじゃ力不足だ」

 思春と明命に対してなんでもないように言って退けた秋斗は、返り血で染まった顔でにやりと笑った。
 それを見て、激情と冷静のハザマで感情が揺れるも、瞬時に全ての感情を殺して敵への殺気のみを収束し、二人の少女は二方向から最速の攻撃へと移った。
 肉薄同時に刃を向けようと構えを変えた一寸の時間、剣をするりと手放した秋斗の姿がその場でぶれた。
 相手が秋斗でなければ二人の連携は見事。秋斗が剣を振っていれば、確実にその速さを以ってどちらかが大きな傷をつける事が叶ったのだから。
 彼女達は知らない。地に脚を付けた彼がどれほど暴力的な存在であるのかを。一瞬であれば、自身達と同じほど速く動ける事を。剣を振るわずとも十二分に戦える事を。
 膝を抜いて縮地を行い、絶妙な間隔を保って迫ってくる二人、その懐に潜りこんだ秋斗は流れる体躯の勢いを乗せて双方の腹に掌打を叩き込んだ。
 一瞬の出来事に思春も明命も判断を見失う……事は無く、衝撃で吹き飛ばされてから、痛む腹を抑えながら思考を繋いで大きく距離を取った。
 諜報という側に身を置いてきた彼女達の判断能力、適応能力はずば抜けて高い。故に、彼の実力を見誤らず、剣を拾い上げた秋斗と睨み合った。
 三人は互いに膠着していた。いや、動けなかったというのが正しい。どちらの思惑も主力の将を縛り付けて被害を減らす事だと一致していたから。
 もはや退却戦となった為に孫呉側は被害を少しでも抑えたい。徐公明という武将は脅威であった。
 追撃戦となった劉備軍側も同じく、二回目の戦闘で部隊を上手く操っていた二人をこの場に長く縛り付けておきたい。
 しかし、何がどれだけ得かを考える頭は秋斗の方が上。
 二人が撤退指揮をとった方が孫呉側は得が多い。だからこそ、この場に居座る選択をした。
 ただ、秋斗は彼の事を心配する人の心は読めなかった。

「御大将、『鳳統』様より休めとの指示が来ております。下がりましょう」

 徐晃隊の一人が駆けてきて二人の将と相対する彼へと言葉を掛ける。それを聞いた秋斗は目を細めて、

「……あいつがそう指示を出したのか」

 剣を少し下げた。間違いなく、兵の被害を減らすなら秋斗も追撃に加わる方がいい。それを抑えてまで下がれと言うからには詠にも何か考えがあるのだろうと考えて。

――体力的には二人と戦ったとしてもまだ行ける。しかし徐晃隊はどうだろうか。

 そこまで至って秋斗は剣を降ろす。さらには洛陽で雛里に怒られた事を思い出して万が一の場合を考え直した。そこまで大きな無茶をするつもりは無いが、どちらも渡れるが吊り橋よりも堅実な石橋を選べというのが詠の言いたい事なのだろう、と。
 兵の被害よりも自身の確実な安全。想いを繋ぐのは誰であるのか。
 そのまま、二人の若き将に自分の行き場の無い感情と思惑を叩きつける。

「見逃してやる。失せろ首輪付きの忠犬共。後な、出来るなら鎖に繋がれた虎に伝えろ。早い内に引きちぎれる事を願っている、とな」

 自身を睨み続ける二人に、これ以上はもう必要ないとばかりに背を向けて秋斗は引き返していく。
 思春がまだ飛びかかろうとしたが、明命が剣を向けてそれを制した。

「我らが大望の為に」

 たった一言。そして見つめる哀しい瞳を受けて、思春はギシリと歯を食いしばって両の手に持つ刃を下げた。
 戦場はまだ続いている、ならば自分達に出来る事を。
 悔しさに捻じれる心を抑え付けて二人は駆けだし、それぞれの部隊の指揮へと向かっていった。




 撤退を行う孫権軍に対して、劉備軍は追撃をそこそこに引き上げた。
 その日の夜、戦場で連れ出されながら気を失っていた蓮華は、意識を取り戻してから自身の不甲斐無さから悔し涙を流した。臣下達も、自身の主を命の危機に瀕する事態へと追いやった事に拳を握りしめて己を責めた。
 皆の心には深く完全敗北の文字が刻まれる。軍師にしても、将にしても、王にしても全てが足りなかった、と。
 ただ、彼女達の望みは確かに叶った。
 大きく数を減らしても、屈辱的な敗北に心を焦がしても、絶妙な時機で戦場を離脱する事に成功したのだから。
 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

雛里ちゃんコスのえーりんを想像して頂けたら幸いです。
その頃ゆえゆえは徐晃隊の皆様と一緒に大掃除に取り掛かっていたそうな。

徐晃隊最精鋭の実力はこんな感じです。冷静な死兵の部隊程恐ろしいモノは無いかなと。異常さを感じて頂けたら幸いです。
ただ、相手が孫権だけに下手したら『~来来』になりかねない……


孫呉側はこの時点で引き返せた事が一番の成果です。
最後の蓮華さんは突出せざるを得ない状況にありました。追い込んだのは徐晃隊と、周りから向けられる孫策の妹という期待です。
尻尾を巻いて逃げる選択もありますが、兵の心も離れて、袁術軍の二の舞になるのは目に見えていましたからね。

次は桃香さん達が出ます。
ではまた 
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