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真・恋姫†無双~現代若人の歩み、佇み~

作者:Duegion
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第三章:蒼天は黄巾を平らげること その6



「老骨に朝から鞭を打つとは。お前、それでも儒教徒か?」

 その一声は季節の変わり目と、秋の到来を予感させる柔らかな風が吹き抜ける広宗の城壁にあたり、声を掛けられた青年、丁儀は黙したまま階段を上っていく。城外の遠く、青い地平線の方から聞こえてくる合戦の響きに表情を引き締めると、ぴしっと腰に手を当てて俯瞰する。人の前に立つには申し分ないほど堂々としており、その武勇も確かなものがあるのだが、不思議なことに彼はこれまで一度たりとも戦場に立とうとはしてこなかった。新参兵からは内心軽んじられてはいるが、古参兵らは一様に納得して彼を擁護している。丁儀はあくまで『しすたーず』の『ふぁん』であり、いわゆる親衛隊の隊長に属する人間で、決して兵士では無いのだ。
 てくてくと、漸く後ろから老人が追いついてきた。商売道具をたんと詰めた風呂敷を背負いながらぶつぶつと小声で不満を言い、膝をえいしょえいしょと上げて段を踏む。小言を言う割には大して表情を歪めておらず、またきつい運動をしているのに息を切らしていないこの占い師、管輅は階段を登りきると丁儀をじろりと見た。

「おい、聞いているのか。お前は信心を持ち合わせているのか」
「俺は太平道だ。お前の宗教と関係ない。というか昨日の占いで、早起きすべしと説いたのはあんただったろうが」
「若い者にはいつだって得だ。健康長寿の源だからな。しかし、わしのような老人まで巻き込む必要は無かろうに。御蔭で朝の市場に出向けなくなったではないか。この落とし前、どうつけてくれる?」
「それはこれから説明する。見ろ、官軍だ」

 丁儀の言葉に管輅は目を向けて、歳相応に衰えた視力を何とか働かせんとした。まだまだ季節は夏だ。燦々とした光が地面に跳ね返っているように見えて、蜃気楼が浮かんでいるかのようだ。だがよく見ればその中に、騒乱によるものであろうドドドと震える砂煙とひしめき合う多くの人影があった。その数は多くは多くは無いだろうが、優に数千は超えていると見て間違いないであろう。何せ黄巾党と官軍が衝突し合う様子であるのだから。
 「今日は空気が澄んでいる。遠くまでよく見渡せるぞ」という若人の言葉にむかつくものを感じる管輅ーーー彼の視力は老いてなお悪くはないが書物を見るのに苦労する事はあったーーーであった。立場の違いゆえに遠慮するものがあるのだろう、城壁を守護する一般兵は石のように近付いてこない。それをいいことに丁儀は続けた。

「ご苦労な事だ。何度やっても飽きないのが彼ららしい」
「お前の部下が戦っているのに、お前は行かないのか?」
「生憎、将軍としての素質はこれっぽっちも無い。戦術なんてものは、俺より頭が良い奴にやらせればいい」
「その残念な頭でよくも三姉妹を救出したいと言ったものだ。党の首脳部は呪術者としては落第だが、一軍の指導者としてはそれなりにできるぞ。簡単にいくと思っているのか?」
「俺の目的は姉妹と、そして可能なら古参の兵をここから逃がして、ただの『あいどるぐるーぷ』と『ふぁん』として、浮世から離れて活動してもらう事だ。非情な言い方だが、新参者の生死には興味が無い。他の連中もな。俺の手は皆を助けられるほど長くないし、お人好しでもない。
 さて、話をしよう。今あの曹操の軍に俺の旧知の友がいる。名を仁ノ助といい、長社で波才を討ち取った男だ」
「武芸者であろうな?で、そいつをどうしたいのだ?」

 陽射しによって俄かに熱くなっている白い城壁に手を当てて、丁儀は遠景の戦いを望む。「次の戦いは」と枕を置く。

「おそらく官軍は全兵力を投入してくるだろう。新しく赴任してきた皇甫嵩は、漢室一の戦術家と聞く。素人の俺達が立ち向かっても敵わないだろう。忌々しい妖術を使おうともな」
「続けよ」
「敵軍は我等の防衛線を破るだろう。波濤のような勢いに飲まれ、味方は破られていく。だが同時にそれこそが最大の好機だ。広宗が混乱に陥った時こそ脱出の最初で最後の機会なんだ。
 戦闘が始まれば、本城にいる古参兵が反乱を起こして姉妹を助ける手筈になっている。管輅。お前は皆を連れて俺の所へ来るんだ。俺は仁ノ助と会い、協力してもらうよう事情を説明しておく」
「まさか、逃走を見逃せとも言う気か?」
「ああ、その通りだ。大所帯で逃げ出すんだからな」

 逃げ出すという言葉を聞いて管輅は耐え切れぬように噴き出し、城壁にゆらりともたれかかった。あまりに荒唐無稽な話に、理解すると同時に呆れが込み上げてきたのだ。
 しかし本人からしたら真剣な話をしているつもりなのだろう。立腹したように腕を組んで、丁儀はじろりと管輅を睨んだ。

「なにがおかしい。俺と仁ノ助は深く結ばれている。あいつならば俺の意図をすぐに汲んでくれる。官軍の捜索を邪魔するくらいは訳もないはずだ」
「いやはや、とんだ戯言を聞かされたものだ。お前がとっておきの策を示すといったから来たものの、最終的に頼るのは怨敵の善意か?しかも久しぶりに会う友人のなけなしの意思に?なんと浅はかで、厚顔な男だ。我が仙術に誓って断言しよう。お前は碌な最期を迎えないだろう」
「そんなもの、修羅の道に入った時から決めている。ようはやるかやらないかの問題だ。俺はあいつとの友誼に全てを賭ける。あいつは必ず、俺達を助けてくれる。そういうお人好しだ」
「付き合いは長いほうなのか?」
「一年と少しだ。共に力を合わせて修羅場を生き抜いた。それだけのただの友人だ」

 しかしだからといって久方ぶりの再開の際にいきなり、自分が生きるための橋げたとなれというものではないだろう。まともな付き合いを構築していようがいまいが厚かましい頼みに変わらないと同時に計画の杜撰さに嘆息を禁じえなかった。
 占い師という立場、先行きの見えぬ将来にどうしようもないほどに失意を募らせた者を相手にしたことが度々ある。田畑が賊に襲われて台無しになり税の徴収のために家財が奪われ無一文となった農民や、元は勇猛な義士であったのに何を間違えのか山賊となり老後になって半生を後悔している男など、数えればきりがない。そういう輩は占いに返答を求めてはいない。できもしない立身出世のストーリーや、二重の虹のような夢のごとき博打を成功させると息巻いて勝手に満足して帰っていくのである。
 はたして管輅の目から見て、そういう馬鹿共と丁儀はいっしょくたに見ても大した違いが見当たらなかった。ただ身体が若いか老いているかの違いで、千載一遇の大博打にすすんで突っ込んでいく危うさが見られていた。救いようのない愚昧の輩である。
 であるからこそ、煽る分には面白い。破滅するなら勝手に破滅するがいい。世を掻きまわしてこそ占い師は生きるための糧を貪れるのだ。

「ここまで馬鹿な奴は久しぶりに見たな。面白いぞ、丁儀」
「光栄の至り」
「お前の浅はかな策では心許なかろう。心の広い私がお前の策を万全とすべく力を添えてやろう。なに。わしほどの者なら、仕込みは簡単だ」
「期待していよう。どんな過程であれ、あの方々が生き残れるならそれでいい。・・・おい、兵士!銅鑼を鳴らせ!今日はもう十分に勝った!そろそろ撤退させろ!」
「お前、戦術は分からなかったのではないのか?」
「どこで事を仕舞にするくらいなら俺でも分かるわ、爺。伊達に『あいどるふぁん』を続けていないからな」
「その『あいどるふぁん』とやらは、愉しいのか?」「人生が様変わりするぞ。華やかに、煌びやかになる」

 いたく真面目に答える丁儀の背後、街の正門に置かれた鐘楼からガンガンと大銅鑼が響き渡る。思わず肩をびくりとさせる程のものであったが、そのくらいでなければ遠くで勇戦する同朋達には聞こえないのであろう。
 まもなく、砂煙の中で行われていた激しい旗のやり取りが無くなって徐に黄天をいただく数千もの群衆が近付いてきた。結党当初と比較して少なくなってしまった立派な軍馬に指揮官が跨り、勇壮ぶりを誇るように広宗へと帰還していく。またも官軍を退けた仲間を歓迎すべく、城を守備していた者達は喝采し、共に勝鬨を上げた。城壁に佇んでいた丁儀はそれらに加わろうとせず、あくまでも冷ややかな視線を地平線の向こうにいるであろう官軍の本隊へと注いでいた。



ーーー戦闘後、官軍の陣営にてーーー



 夕刻の赤い光を浴びる中、広宗を前に敗走した官軍は而してそのムードを引き摺ってはおらず、そればかりか明るい様子で早めの夕餉を取ってわいわいがやがやとやっていた。ここ最近まで温かいのに不味いという負け飯を食らっていた彼らの顔には、貪欲で、そして明確な勝利に対する希望が滲んでいた。今日斃れた仲間の事を想えばなんのその。そんな面持ちにも見受けられた。
 曹操軍の新参である蒋済は狐色に焼かれた豚足をばりばりと齧り、景気づけにきつい酒を煽っていく。大酒のみの彼にとってはたかが数杯程度の酒は水と同義。夜中に用を足せば酔いが消えてしまうため、明日の大事を控えても堂々と飲酒できる自信があった。

「曹仁!お前さん、何人討ち取ったよ?俺は少なくとも十はいったぞ」
「俺は十二だ!あんたみたいな新参者に武勇で負けるなんて、俺の誇りが赦さないな」
「どうやら数え間違いをしていたみたいだ。馬が轢いた分を入れれば俺は十五はいったかもしれん!残念だが、戦勝祝いはお前の奢りだな」
「何をほざくか。馬も入れるなら俺は二十はいっているぞ。卑怯だとは思わないのか、新参者の癖に」
「酒の時くらい静かにして下さい・・・いや、酒乱に言っても無駄か。はぁ、席を外したい」

 ぐびりと杯を煽る曹洪の頬はあわい赤色になっており、いくらか出来上がっていた。聞かれても構わないといった具合にぼろぼろと愚痴が出るのはその証である。
 ふと、天幕内の騒がしさに惹かれて仁ノ助が中に入ってきて、すぐに酒気に顔を顰めた。既に軽く食事を済ませていたのだが、腹に流したものが喉にせり上がってくると錯覚するほどの酒気であったのだ。床に転がる酒樽を見て嘆息してしまうのも無理は無かった。
 喉をぐぅといわせながら蒋済が振り返る。喋っていくたびに口から咀嚼していたものが吹きだしていくが、それを気にするものはいなくなってしまった。

「おう、旦那。酒も飲まないで見回りとは、ご苦労なこった。ところでさっきの戦いだがよ、あんなのでよかったのかよ?随分と潔い引き際だったが」
「いいんだよ。寧ろここで下手を打つと後が面倒だ。勝つのは論外だし、負け過ぎては明日の攻城が滞る。適当なところで刃を離せばいい。言い出しっぺの皇甫嵩が会戦を努めないのが気に入らないが、まぁ、総大将にそれを求めても仕方がない。俺達はただ策の成功を祈って、英気を養うだけさ」
「お前には分からないだろうな。うちの毒舌軍師が評価するほどの策の凄さってやつが」
「そんなにすげぇの?」
「しーらね。うわ、この肉うめぇ」
「おい、味わって食えよ。結構いい育ちだったんだから。・・・それで曹洪、敵がこちらの策に気付いた様子は?」
「全くといっていいほどありませんでした。うわべだけの勝ち戦に浮かれています。ついでに言っておきますが今日の戦、私は首級三十を挙げて参りました。つきましては私を一番槍にしていただけるよう曹操様に話を通していただけるよう・・・」
「なんて奴だ!一人だけ良い所を取る心算か!」
「私が一番頑張ったんだから当然でしょう!誰が殿を努めたと思っているんですか!」
「んだったら俺だって先陣切ってやったんだぞ、新入りなのによ!ちょっとそれは抜け駆けが過ぎねぇか、曹洪さん?」

 やれ俺が一番だ、違う俺がそうだなどと、三者は酒宴の勢いに身を任せていく。明日は本当に大丈夫なのだろうかと心配になるが、そこはそれ、他人より身体が丈夫なのが取り柄であるのだからこの程度の騒ぎで酔い潰れはしないだろう。後で介抱するのが面倒なだけに潰れないでほしいと祈り、仁ノ助は天幕から去っていく。
 他の陣営に比べて仁ノ助は感じる。食事をとる兵達はみな落ち着いて、あるがままに時を過ごしている。信賞必罰を第一の規律の骨子とする曹操軍は羽目を外すところがあるかもしれないが、手が付けられないほどの馬鹿騒ぎを起こす者はいない。この前、袁紹軍を視察した時は酷かったものだ。それと比べれば自陣の何と静穏で、秩序ある事か。我等が大将に対する忠誠心かどうかは知らないが、少なくとも大事を起こさない程度の理性を皆が持ち合わせているというのはこの大陸では珍しいのではないだろうか。
 仁ノ助はぶらぶらと陣営を歩き、就寝前となって人気が静まってくると、その辺の木箱を椅子代わりとして篝火をぼぉっと見る。辺りはすっかりと暗くなっており、寝苦しき夏の夜にボォボォという篝火が浮かび上がっている。
 炭がばちりといって火花が散る。それが地面に消えて行くのを見ては、また紅い火を見る。外側の火と内側の火が混じって、一層激しく、また色濃い火花を散らす。文人であればさぞいい比喩と詩句を言うであろうとは思うが、仁ノ助に詩を吟じるような才覚は備わっていなかった。『まるで人の戦いみたいだな』と、在り来たりな事を考えて暇を潰していく。
 何分かそうしていただろう、ゆっくりと見知った気配が近付いてきて、隣にずずずと木箱を引き摺って来た。

「隣、いい?」
「ああ」

 柔らかな赤い髪が視界の端を掠め、木箱に重みをかけた。しばらくの間は無言のままであったが、不意に紙屑が篝火に投げられてボォと盛んに火を吹き、仁ノ助は抗議の意をこめて隣に座る錘琳を見る。好物の肉まんを食らったらしく肉汁の薫りが服に染みており、夕陽のせいか頬がいつもより赤くなっている気がした。まるで恋を知った少女のようだと、自然に思えてしまう。
 錘琳は込み上げた欠伸を噛み殺し、涙をぱっぱと払って仁ノ助を見る。「すっかり男連中のまとめ役ね」。仁ノ助は苦笑交じりに返す。

「そういう役割なんだよ。俺だって新参者の一人なのにさ、なんだかんだであの中で軍功を一番稼いでいて、一番上の立場になっている。不思議な事もあるもんさ。名前の価値でいえば、曹仁や曹洪の方がずっと凄いっていうのに」
「謙遜しないで素直に喜びなさいな、仁ノ助。蒋済あたりがやっかみを言い出すわよ」
「あいつはそんな狭量じゃないって。酒乱だが分別を弁えている。皆いいやつだよ。この軍に入ってきて良かった事は、仲間に恵まれている事だな。本当にそうだ。いいやつばかりだよ。
 ・・・詩花。今日は早めに寝ておいた方がいいぞ。夜更けには総攻撃だ。今のうちに英気を養え」
「それは勿論分かっているわよ。そのためにたくさん力を補充してきたし。ま、それとは別にね、ちょっと話したい事があるんだよね」
「もったいぶるってまで話すような事か?まぁいいけど・・・なんだ?」
「・・・乱が鎮圧されたら、世の中は一先ずの平穏を迎える。その後も曹操に忠義を尽くす気なの?つまりね、曹操の配下として身を捧げる気?」
「ああ。そのつもりだ。試しているのか確認したいのか知らないけど、俺の心は変わっていないぞ。これからの時代の主役となる人達と、一緒に戦場を駆ける。自分の生きた証をこの大地に残す。俺にとっては何よりもそれが一番で・・・あれ、靴が結構ぼろぼろになってるな」
「この前、桂花ちゃんに足をひっかけられて派手に転んだでしょ?思いっきり靴が地面を掠めていたから、その時にできたんでしょうね。いつ交換するんだろうって思ってた」
「気付かなかった。身の回りのものに案外だらしがないんだな、俺って」
「もっと敏感になった方がいいわよ。些末な事でも後になれば大事になることだってあるんだから」

 ーーー特に女なんか。

 思わず靴にやっていた視線が硬直して肩がぎくりと震え、ついでに息を呑み込んでしまう。なぜだろう。視界の端にある女性の温もりがひどく恐ろしく見えてしまう。
 固まっていた仁ノ助の頭を錘琳はがしりと掴み、無理やり自分の方へと向けさせる。口元は笑っているのに目は皓皓として直視に耐えない。しかしがちがちと頭を掴まれているためにそれができない。鬼畜少女、錘琳は冷ややかに続ける。

「隠しているつもりなの?私には分かっているわよ」
「なんだよ、そんな目をして。疚しい事なんて俺は・・・」
「孫堅」「・・・申し訳ありません!軽率過ぎました!」

 木箱を蹴飛ばして仁ノ助はその場で土下座した。一瞬呆ける錘琳。仁ノ助はただ頭を地面にこすりつけて、誠意を表す。

「戦いが終わった後、俺はどうしようもなく興奮していた。命のやり取りをする中で血が湧き立って、頭がぐらぐらしていたんだ。それでその滾りを抑えようとするよりも先に、背徳を犯してしまった。俺が完全に間違っていた。
 この件に関しては孫堅殿は悪くない。あの人は俺に対して優しさを見せてくれたんだ。戦場を共にした事や、彼女を戦地で助けた事に対して。事に及ぶ切欠というのも彼女からの誘いだ。だがそれは言い訳にならない。頭が働いていれば、今がどんな時期であるか考慮できたいたのに、俺はそれをしなかった。本当に、駄目な男だと思う」
「まったくよ。仮にも!孫堅は漢室を守る武門の誉れであり、なにより孫家の当主でもあるのよ?今頃、朱儁将軍と一緒に賊の残党と交戦しているでしょう。そんな中、あなたがやからした事がバレたらどうするの?『実は他の男と遊んでいました』って孫堅が言ったら、彼女の部下は激怒するわよ。どう責任を取る心算なの。打ち首どころじゃなくなるわよ」

 仁ノ助は低頭の姿勢を少しだけ元に戻す。錘琳は呆れたようなしかめっ面をしており、事の当事者に対して腹立たしいものを持っているようであった。こんな大事な時期に何をやっているのだと、叫びたい気持ちがあるのだろう。 
 ただ謝り、許しを請うだけならば誰でもできるが、問題を解決するにはそれだけでは消極的過ぎる。仁ノ助は馬鹿な当事者としてその解決策を提案する義務があった。

「流石に今更、彼女と俺との間に何も無かったんですとはいえない。今はバレていないが、そのうちバレるからな。その時はだ、俺が諸々の手を打ってーーー」
「待ちなさい。あなた自分が犠牲になって全部を解決しようとしているんじゃないでしょうね?華琳様が赦す訳ないでしょう!あなたはもう大事な部下の一人よ!はいどうぞと捨てられるような存在じゃーーー」
「分かった分かった、悪かった。言葉が少なかった。今度はちゃんと説明する。
 ・・・この前の軍議の後、華琳が義勇軍を視察しただろう?あの後自陣に戻った時に、俺が華琳にこう言ったんだ。『頼りになるであろう軍は見極めるべきであり、劉備は言うに及ばず、朱儁麾下の孫堅も精強である』と。孫堅との協力を推薦したわけだ」
「へぇ?もう意識して行動していたのね。手の速さに呆れやら感心するやら・・・何とも情けない男ね」
「んでっ、その話なんだがな。残念ながら『今は性急すぎる』という事で、受け入れられはしなかった。しかし考慮するという言質を得る事はできた。それは、『話を通すための足掛かりを構築してもいい』という暗黙の了解だ。まぁ、俺の勘からくる解釈なんだけどさ。
 それで本題だ。俺は今後、武官として働くだけじゃなくて、隠密を養成したり登用したりして、水面下で孫堅と協力していこうと思っている。うまく話がつけられたら華琳との連合の話を持ちかけて、曹操軍代表としてに会いに行こうと思う。そしてその機会に、俺と彼女の問題について手を打つんだ。直接顔を合わせられるのは、多分その時しかない。孫堅の部下に説明できるのも・・・その時くらいだ」

 話を一通り聞いて、錘琳はジト目でありながらも納得したように首肯する。仁ノ助のいう事は要約すると、『政治的な動きによって事の当事者が属する勢力を拘束し、問題に気付きにくくさせる状況を作り上げた後、なぁなぁでそれを闇に埋没させよう』という事であった。はっきりいって下種の手段であるがこれ以上の策が思いつかないのが、仁ノ助の限界であった。
 次に放たれた錘琳の口調は割と落ち着いたものであり、彼女なりの及第点をつけてくれたと仁ノ助は考えた。しかしその可憐な胸に一抹の心痛が走っているとは気付かなかった。

「武将の割にはまともな考えじゃない?表面的には華琳様のためを思っての行動。あなたと孫堅との関係について認識していなければ、誰も気づく余地がない」
「まぁ、そうかもしれない。だが問題はある。
 一つ、本当に華琳が話を呑んでくれるかは誰にも分からない。絶対的な実益がないと彼女は梃子でも動かないだろう。時代が為政者の実益を造っていくのかもしれないが、それが何時生まれるかを知る事ができるのは予言者か狂人だ。つまり本格的に事を動かすにはまだまだ時間がいるっていう事だ。
 二つ。状況的にやってもいいものでなければ事はできない。既成事実だけを持ち運んでこれをやろうといっても、『勝手な事をやってくれるな』と仲間から反対されたら終わりだ。外交政策は重臣全員の同意がなければやってはいけないんだから。それに乱が終わった後、漢室から新しい赴任地を与えられた際、距離的にも政治的にも孫堅と接触しにくくなったら駄目だ」
「前途多難ね」
「三つ目だが・・・これは孫堅側から発露するかもしれない問題だ。あー、その、女性なら分かるだろう?」
「なにが分かるって・・・うそ、冗談でしょう?あなた、本当に?」
「・・・倒されて、離されるまで何度も。・・・それが真相の一面でもある」
「・・・自分からがっついたわけでは?」
「さ、最終的にはそう見られても仕方ないな。開き直っちゃったんだから。・・・我ながら流されやすいと思うよ」
「・・・あの時、もっとあんたを蹴っておけばよかった」

 思わず鼻柱を抑える錘琳。彼女がうんざりする輩共は、男女の仲となったら気を付けなければならない最低限のマナーを守らなかったというのだ。薄氷の上を進むというのに、踵が棘のようになった靴を履いてくるようなものだ。これについて錘琳はいかなる抗議も受け入れず、もしされればただただ辟易し失望するだけであろう。 

「大問題ね。年嵩を重ねたとはいえ彼女にもまだ可能性は残っている。どうしましょう・・・」
「・・・孫堅は娘を持つ身だ。皆の前で話を持ち出すことはないだろう。あそこまで拘束してきた女性がその選択をするとは」
「拘束ってなに!?」
「も、もののたとえだから、そうかっかしないで・・・」
「あんた、本当に反省しているでしょうね!?妙に冷静だし、あの女の肩を持つし・・・。産むと思っているの?」
「ち、直感では、な。虎は子供を大事にするというからな」
「・・・それも勘からくる発言?どこまでも勘頼みなのね」
「・・・それしかもう縋るものがなくってさ」

 情けないまでに声が小さくなってしまう。ともすれば火花が散るのに負けるのではないかと思ったくらいに。仁ノ助の今の気丈さは篝火風情に打ち負かされる程度のものにまで萎んでいて、背中は糸車のように丸まっていた。普段の彼の姿とはほとんどかけ離れあたかも薄弱な十代後半の男子のごとき様相となっているのは、この歳に至るまでここまで女性関係に翻弄されるのは彼にとって初体験であるからだ。『前の世界』でもここまで胸が痛くなる事は無かったのである。
 このギャップに錘琳は言葉を失う。嘆息の代わりに悲しみの視線を少しだけ地面に向けると、懊悩を我慢するように仁ノ助の両肩を掴む。

「ほら。あなた騎馬隊長なんでしょう?いつまでもそこに座ってないで、自分の席に座りなさい」
「・・・」

 仁ノ助は言葉を返さず、後ろめたいように顔を背けて蹴り飛ばした木箱を取ってきて、どっかりと座り込んだ。表情の暗さを隠そうと俯いてはいるが、篝火の明るみのせいで不運にもそれが横顔に露わとなっていた。この世の終わりを垣間見て人生の終演を悟ったような暗いものだ。張り詰めた糸のように、ナイフで触れたらすぐに千切れてしまい、彼のなけなしの自尊心は崩壊してしまうだろう。
 
 ーーー心配だ。

 錘琳は彼の顔を覗き込むようにしながら、それまでとは違った優しい声を掛ける。

「他に縋るものがあるでしょう?頼りになる仲間はどうなのよ?馬鹿みたいに意地にならなくても、他にいい案が出て来るかもしれないわよ?思い詰めると頭が鈍っちゃうから。いつも以上にね」
「で、でもさ・・・」
「分かった。あんた気張っているんでしょう?自分で犯した問題から自分だけで解決しようとか考えているとか。
 そういうものじゃないでしょ。そりゃ、他の女性に相談したら思いっきり罵倒されるわよ。『馬鹿なやつだ』って。でも最後はきっと親身になってあなたの助けになるわよ。私だって今そうしているんだから。男連中だってそうじゃないの!特に蒋済なんてうちの中では一番人生経験豊富な男・・・かもよ?
 兎も角。私は呆れてはいるわ。あなたは思った以上に軽々しい行動をする。でも、それではいさよならって言う理由にはならない。たかが他の女と密通したからって、それで見捨てるという訳にはいかない。あなたは私の命の恩人であり、軍に入るまでは戟を教えて、一緒に旅をしてくれた。賊の魔の手からずっと守ってくれた。今度は私が助けになりたいの!」
 
 ーーー嗚呼、この人はなんて・・・。

 声にならぬ感謝の念が仁ノ助の胸中に込み上げる。彼の人生で、ここまで親身になって助けになろうとしてくれる人が現れたのは何時振りだろうか。『前の世界』での大学の同期のゼミ生や中学以来の友人、また『この世界』における人生の序盤で会ってきた碌でもない者達とも違う温かみで、彼の心に重金属のように降り注ぐ泥濘を漱ごうとしてくれている。目頭がぶわりと熱くなり、仁ノ助はそれを誤魔化すために天を向いて大きく息を吐く。ぶるぶると小鹿の如く震えて、彼の心の揺れがバレたのは言うまでも無かった。 
 錘琳は傍の篝火にも負けぬ晴れやかな笑みを湛え、ばしりとーーー思わず呻いてしまうくらいに強くーーー仁ノ助の背中を叩いた。

「ほら。年下の女性がこんなに気を遣っているんだから、何時までもうじうじしないで、しゃきっとしなさい!
 答えなんて、問題を認識した時にはもう出ているものよ。あとはそれを実行するだけ。なんとかしようと頑張っていれば、結果は自ずとついてくる。あ、これ私じゃなくて、父上の台詞なんだけどね」

 「そんなんじゃ、華琳様と一緒に時代を走れないわよ」と付け加えて、彼女は膝を抱えて、その間に口を埋める。これ以上は話す事は無い。後は自分で答えを出せという意味だろう。ちらりと仁ノ助を見遣るのは、心配してくれての事である。
 だがそれはもう不要といってもいいだろう。会話の中、視線は合わさずともだんだんと仁ノ助の表情に明るみが戻ってきていた。瞳にも生気が帰還して、皓皓とした星々を見詰めている。決意の光が宿っていた。
 本心が彼の胸中を占有していた。自分なりに思う所を、叫びたい所を抑え込んでずっと語り掛けてくれる彼女の健気さに応えていきたい。何時までも落ち込んだままでは本当に取り返しがつかなくなるし、何よりこの程度の問題・・・女性にとってはそれだけで済ましていいものでは無いだろうが、しかしこれに何時までも躓いてはいられないのだ。彼女の最後の言葉が『新しい世界』にかける己の思いをじりりと焦がした。そうだ。どんなに情けない切欠であろうと、己を貫徹させるチャンスを見逃すだなんてやってはいけないのだ。辰野仁ノ助は男であり、曹操の自慢すべき武将であるゆえに。
 仁ノ助は己の両頬を思い切り、バシリと叩いた。びくりとした錘琳は、彼の迷いの無い瞳を見て安堵を覚える。

「気分は晴れた?」
「・・・まだ、超曇天だよ。けどすぐに晴れる。今はそう思える。・・・今日はすまない、詩花」
「すまないじゃなくて、有難うでしょ?気が向いたら、一緒に飲みましょう。一緒にいる時間が少なくなっても、私とあなたの仲だからね」
「それってどういう意味さ?」
「自分で考えなさい、鈍ちん」

 こつんと彼の側頭部を叩き、錘琳は軽い歩調でその場から去っていく。万感の感謝を込めて仁ノ助は彼女を見送る。
 はらはらと揺れる短い赤髪の後ろ姿に、仁ノ助は彼にとっての天使を映していた。全ての罪を詰り、許す、最高の人だ。



ーーー明朝、広宗にてーーー



 その時は来た。朝の赤が天に伸びていくより前に、勝利の美酒と夜更けの油断を突くように、雲霞の如き人波が襲い掛からんとしていた。 
 初めに気付いたのは城壁に昇っていた兵達だ。警邏の任とはいえ最近の連戦連勝で心は伸び切ったバネのようになっている。上官に隠れて飲酒・姦淫を働くなどは当然の事といえ、上官らもそれを黙認する所があった。そんな中、地平線の闇から押し寄せる轟きを聞いてもすぐには信じられなかったし、身体でその振動を理解する時には人波は数里の距離にまで迫り、彼らが掲げる軍旗にも悟るものがあった。更にゆるゆるの心を引っ叩くほどに衝撃的であったのはその数だ。
 
 ーーー桁が違う。

 口をあんぐりと開ける愚昧の者達に近付いていく、数え切れぬほどの大軍勢。大地に罅を入れんかといわんばかりに軍靴を鳴らし、すべての者の快眠をぶち破らんかといわんばかりに鎧を鳴らす。地獄の湯気のように砂煙が立ち上って薄暗い天地を灰色に染めていく。それらが出来るのはたかだか二千、三千程度の小規模なものではない。数万の大人数でなければできなかった。
 警邏の兵は身体の酔いを恐怖に変え、人生最大の力を籠めて警鐘の銅鑼を鳴らした。大地の震えによって広宗の眠りは既に妨げられていたが、この高調子によってその意識は一気に変容する。誰もが殺気立ち、怯えを来したように慌てはじめた。

「て、敵だっ!敵が攻めてきたぞ!!」
「臆するな同胞たちよ!我等の意思は岩の如く、我等の闘志は炎の如く!黄巾の旗を掲げよ!!朝焼けの黄金色を、我等の旗で埋め尽くせ!!」

 事態を察した上官が声を荒げ、鐘楼に声を投げた。兵等は縋る思いで軍旗を挙げんと縄と引いていく。
 不意に、ビゥと一陣の風が城壁を薙いだ。目を細めた彼らの耳にばきりと嫌な音が響き、一人の兵の頭上に何かが落ちて彼を城壁に押し付けた。それを見て上官は狼狽える。

「な、なんと不吉なっ・・・戦う前より牙門旗が折れるなど」
「伝令!『張角』様より伝達です!敵は勢い盛んにして、野戦で抗する意味はなしと!兵は急ぎ城壁に集まり、本城を死守せよと!」
「むぅっ、おのれ蒼天の獣め!!」
 
 怒りを闘志に変えて上官は官軍を睨んだ。たかが吉凶ごとき、結束と努力で何とかして見せるといわんばかりにやる気を燃やしていた。これまでに見た事がない夥しい敵軍に恐怖する味方を叱咤し、男は自らの存亡をこの広宗に投じんとした。
 所変わり、鐘楼の反対側にある城壁ではちょうど丁儀が城外の敵を視認した頃であった。なんたる軍勢であろうか。広宗の兵だけでなく、市民をも含めてようやく互角にならんかという程の数だ。そして足が速い。大自然の嵐が人の姿を借りて迫ってきているような光景であり、胸がばくばくと鼓動してしまう。

「くそっ!なんて勢いだ!これじゃ逃がすどころじゃなくなるぞ!やり過ぎではないのか、官軍は!おい、他の兵は!?」
「今、向かってきている模様です!」
「遅い!痩せたケツを叩いて、さっさと来いと言え!くそ、まさか俺が指揮を執る羽目になるとは・・・」

 歯噛みして今の状況を恨むも、人手不足だけはどうにもならない。せめて姉妹達が逃げるまでは黄巾の指揮官として振る舞わねば自分の命すら危うい。何とか時を稼いでいる間に、あの占い爺が事をうまく運んでくれるよう祈るしかなかった。
 固く閉ざされた城門に官軍がいよいよ近づいてきた。牙門旗の字がはっきりと見えそうになる頃、兵の一人が怯えながらに言う。

「丁儀様、御指示を!敵の第一波がまもなく城壁に辿り着きます!」
「分かっている。旗は・・・『袁』と『公』が先鋒か。ならば遠慮はいらん!弓兵は一斉発射の後、各自打ちまくれ!敵兵は城壁に登らせるな!梯子は全て蹴落とせ!城門を決して割らせるな!・・・うん?おい!そこのお前!」
「はっ」
「あいつらはなにをしようとしている!!今は戦っている真っ最中なんだぞ!!」

 兵等が急ぎ防衛に取り掛かる中、場違いな雰囲気をした者達が丁儀の目に留まった。その者らは城門から少し離れた所にある儀式用の大きな盃ーーー前に丁儀が準備したものだーーーに近付いて、四方を固めるように座り込んだ。むくむくと上る紫煙が僅かに色濃くなったように見受けられた。
 疑問に兵が応えんとするが、丁儀はその者にどこか違和感を覚えた。悪夢のように現れた官軍に恐怖する兵達とは違い、男はやけに冷静な面持ちだ。瞳に皓皓としたものを湛えながら男は応える。

「あれは『張角』様の兵です。これより祈祷を行うため、兵をあそこに遣わしたと聞いております」
「なに?俺はそんな事・・・」
「知る由もないでしょう。何せあなたは姉妹の側に付いているのですから」

 冷えちいた口調。鋭く覗いた汚らしい犬歯。あるがままに男の手が腰元の剣に伸ばされており、指が鞘に絡みついて徐にそれを抜かんとしている。
 
 ーーーこれは拙い。

 丁儀は後ろに退かんとする。男は目をかっと開くと瞬間、居合にて斬捨てんと剣を抜く。両者の間は数歩もないため、男にとっては二秒もあれば十分に相手を弑することができる筈であった。しかし丁儀は詰め寄ってきた男の手を抑えると、後ろへと倒れながら男の腹を蹴りあげて、巴投げの要領で投げ飛ばす。抜刀敵わぬ姿勢のまま男は宙を舞い、下に積み重なっていた木材の束につっこんでしまった。
 何とか危機を脱した丁儀は飛来してくる官軍の矢に気を付けながら身体を起こし、周囲を見て表情を硬くした。つい先程までは闘志あふれる黄巾の兵達が丁儀を囲っていて、彼の指示をよく聞いてくれていた。だがその者らは怯えた顔をしながら方々へと押し退けられ、代わりに別の者達が丁儀を包囲している。その手には一振りの剣があり、あきらかな殺意を彼に向けている。大洪ら自称『張三兄弟』が、憎たらしくも、自分に遣わした従順な私兵である事は明白であった。
 斬りかかるタイミング見計らうようにじりじりと歩を詰めてくる彼等に、丁儀は呆れた。

「こんな時に仲間割れか?外を見ろ。今にも官軍が城壁をよじ登らんとしているんだぞ。わが身可愛さに外よりも内側の掃除を優先するとは、賢くないな」
「問答無用。黄巾を捨てる裏切り者め。剣を抜け」
「裏切り、ね。まぁ、そういわれても仕方がないか」

 あまりにも自分達とかけ離れた雰囲気のためか、他の兵達が助けに来ない。否、実際に仲間割れなどどうでもいいのだろう。官軍に攻められるこの状況では。
 その時、『ドォン』と、何かを強く揺るがす音が正門から響いた。ちらりと、慌ててそこへ駆け寄る兵達を見るに、官軍の破城槌が正門に辿り着いたのだろう。城壁にも次々と梯子が掛けられて、最上部にある孫の手のような鉄鎌によってがっちりと城壁に噛み付いている。狙い澄ました弓によってそれを取り外そうとする者も現れない。遠からず城壁の上で戦いが始まるだろう。

(時間は限られているな。曹操軍が入ってくる前に、何とかして正門に辿り着かねば。仁ノ助を説得しなければ官軍はどこまでも俺達を追ってくるに違いない)
「やれ」

 刺客の刃がきらりと光り、彼等の背後でついに官軍の先兵が城壁の縁に手を掛けて、戦意皓皓とした顔を露わにした。
 丁儀はその場の誰よりも早く、足を城内へと向けると一歩二歩として、思い切り跳躍した。倒壊した木材の束を軽々と越え地面を数度回って勢いを殺すと、丁儀は兵であふれかえる表通りを避けるように裏路地へと進む。「見失うな、追え!」との声が響き、幾多もの足音が彼を追跡してきた。目の前の小路から飛びだしてきた男が此方をぎろりと睨み、剣を抜かんとする。だがそれを許さず、丁儀は得意の居合抜きを見舞ってなで斬りにし、さらに走っていく。官軍が突入するまでにどうにか刺客を振り払わねばならない現実に、彼は煮えたぎるような苛立ちを覚えた。 
 
 合戦の音は時と共に強く、そして険しいものとなっていく。ごうごうといわんばかりに兵達の絶叫が絡み合い、何もできぬ市民らは家に隠れて震えるばかりであった。
 広宗の中心にある本城の最深部、むせ返るような死臭が漂う奥の間にて、三人の老人が儀式を執り行わんとしていた。野獣と思えそうなほどに穢れ、長く伸ばされた白髪。装束は生贄ーーー老人らの眼前にはそれぞれ紫炎が燈された大盃があり、人と思わしき手足が縁から覗いていたーーーを捌いた際に掛かった返り血で染め上がっている。
 震えんばかりの狂気に身を委ねて、張三兄弟という身分を偽った大洪、楊鳳、そして白爵は口々に唱えた。

「時勢、いよいよ盛況にして審判の時来たり。大願、まさに広大にして漢世顛覆(てんぷく)の時迎えん。黄巾の同朋らよ、いざ祈りを捧げようぞ!」
「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉にならん!」
「我らの思いを天は受け入れようぞ!いざ集え、黄巾の奇跡の兵達よ!!」

 祈りは叫びとなり、声にならぬ奇声へと変じた。風もないのに荒れ狂う紫炎が生贄の躰を焦がして、さらに臭いを強烈なものとしていく。遠くで、『おおっ』とどよめく人々の声を聴いて三人は儀式の成功を確信し、さらに万全なものとすべく祈りを唱え続けた。赤黒く汚れた『太平要術の書』を胸に抱えながら、大洪は官軍を呪い、そしてわが身の平和を誰よりも強く念じた。
 祈祷に没頭する彼らを邪魔立てするものはいない。扉は妖術によって堅く閉ざされて、祈祷が中断させられぬ限り誰にも開けることはできない。さらには精鋭中の精鋭にして人形のように従順な護衛兵が何十人も守護してくれる。信徒の中でもとりわけ優秀な者達で、いかに丁儀であろうと三人を同時に相手取ることはできないだろう。これらが冷静さの担保となっており、なお一層の注力を祈祷に注ぐことができた。
 だがそれでも、もう少し外に気を配っていたなら気付いたに違いない。戦の闘気とは無縁である本城の一角にて、甲高い断末魔が上がった事に。そこは『あいどる』という名の奇跡を最初に起こし、その名声を妖術使いの老人らに簒奪された、張三姉妹が監禁されていた部屋であった。

「お迎えに上がりました、しすたーずの方々」

 姉妹らはたじろぎながら部屋の入口を見る。自分達を閉じこめていた老人の尖兵は鮮血を流しては床でびくびくと痙攣している。それを踏み越えるように、一人の胡散臭い老人が佇んでにっこりとほほ笑んでいた。握られている仕込み刀から彼が兵を倒したことが分かったが、目の前で殺人が行われた事に姉妹は怯え、そして今どうするべきかただ戸惑うばかりであった。
 管輅は純真なままの彼女等の心を傷つけてなお、笑みを浮かべ、問答無用の二の句を告げた。

「さぁ。自由の大地はそう遠くは無い。この爺と一緒に、駆けていただけますな」

 遠くからの兵達の叫びが、遮るものが壊されたかのように明瞭になった気がする。ついに城門が割られたか。
 選択の余地は少なく、それゆえに決断の時間もいらなかったようだ。偽りではなく真の存在である張角は、青褪めながらもしっかりとうなずいた。管輅はそれに首肯して彼女等を脱出路へと導いていく。
 
 広宗の運命が定まる時が近付いていた。

 
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