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乱世の確率事象改変

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夕焼けは朱を深く刻む


 袁家。
 その資金は潤滑にして膨大。広げられた情報網は大陸でも屈指を誇る。
 孫呉の情報網は質が高いのに対して袁家のそれは数。余すところなく派遣された草の量は一所の諸侯に使うにしては贅沢に過ぎるが、この時代では情報収集は現代のように手軽なモノは無いので仕方ない。
 そんな袁家でも集められない程の情報とは何か。否、どの諸侯のモノなのか。
 かつて董卓軍の情報が集められずいたのは上に位置する十常侍達の画策もあっての事。大陸の行く末がどちらに転んでもいいように操作、制限されていたからこそそれが為されたと言っていい。
 今現在、情報の遮断が完璧に行える諸侯はただ一人である。
 その国を治める者の名は曹孟徳。
 来る乱世に於いて情報とは宝であり、いち早くその危険を察知した曹操は反董卓連合後すぐに内部の改革に手を掛けた。
 事前準備があってこそ為し得たモノであるが、彼女の迅速さはまさに乱世の奸雄たるに相応しいモノであった。
 歯軋りをしながら袁家の上層部は恨み言を零し、より強固に集めようとしたが……筆頭軍師である田豊はそれを否定した。
 それならば他の国の情報を真っ先に、深く、広く集め、今後に備えよと注意喚起を行ったのだ。
 だがそこで異を唱える者が一人。
 その者の名は郭図。一言で表すならば蛇のような男であった。
 先の董卓討伐に於いて非道な策を押し通したが、袁家自体の被害も抑えられ、最後まで気付かれず隠しきった功績が認められて今や軍師補佐となったその男は田豊に己が意見を話す。
「田豊さんの意見も最もかもしれません。ですがそれこそ安易に過ぎる事でしょうねぇ。他にはある程度毒を仕込んでいますし今のままで十分でしょう」
 郭図の言う毒とは長い期間を掛けて準備してきた必殺のモノ。
 仕込んだ場所は様々であるが、今の所重要なモノは三つ。
 荊州、益州、そして幽州である。
 劉の名は漢にとっての最大の生命線であり、民のよりどころでもある。だからこそ事前に二つには、遠い視点を以って仕込んできた。
 では何故幽州も含まれているのか。
 それは簡単な事で、家柄を第一とする袁家にとっては公孫賛の存在は一番の問題だったからだ。
 黄巾よりも前に仕込んだそれは今も尚、主君を侵す機会を伺っている。
「郭図、お前はあの女の恐ろしさを分かっていない。大量に送り込んだ所でなんの解決にもならない。逆に利用されるのが目に見えている」
「おやおや、随分とまあ臆病になったモノですねぇ。天才である田豊さんならその程度読み切れるのではないのですかぁ?」
 にやにやと薄ら笑いを浮かべて見下しながら挑発を行う郭図であったが、睨み返す田豊の双眸は力強く、揺るぎない。
「なんとでも言えばいい。私はあの女を過小評価していない。だからこそお前が言った電撃策を却下した」
「あれあれぇ? いいんですかねぇ? 私が仕込んだ毒のおかげで、公孫賛の動向が手に入ったというのにそんな事を言って」
 笑みを深くした郭図が告げると田豊の表情は苦く歪んだ。
 田豊が提案した大陸統一の為の長期戦略は外回りをじわりじわりと埋めて行くモノで、対して郭図が提案したモノは内側から早々に広げて行くというモノであった。
 袁家上層部が選んだのは田豊の戦略。
 理由は、何よりもまず家柄の薄い公孫賛を潰したいという下らない拘りから。身分の低い親から生まれた公孫賛が力を強めているという事実を認められないが故に。
 田豊の本当の狙いは袁家自体の打倒である為、いち早く公孫賛を手に入れたい。そして彼女は公孫賛を懐柔し、幽州平定の名目で袁紹を本拠地から引き離すことも考えていた。
 内に思考が向きやすい公孫賛には今のままで十分だろうと判断した田豊はこれといって手を打とうとしなかったのだが……しかし今回、公孫賛の行動は迅速であった。
 情報の秘匿も十分で、気付かれない内に休暇の名目で関靖を曹操の元に使いに出していた。
 公孫賛が曹操と密盟を結ぼうとしている。袁家の侵略に対抗する為に。
 毒からのこの情報が無ければ……知る事の出来なかった深い情報を得なければ、今回の会議は起こりえない。
「あなたの考えた策は素晴らしいモノでしたが、筆頭軍師の名に浮かれて油断してるんじゃないですかぁ? どうです? この様では大陸制覇なんて危ういモノだと思いませんか?」
 会議場に座る上層部の面々を見回し、声を高らかに上げた郭図はそれぞれに頷いて見せる。
「そうじゃのう、田豊よ。ぬしは少し己が才に溺れておる」
「まさしくですな。これを機に、軍師の体制を見直すとしましょう」
「では、甘さを持たぬ郭図と二人にすれば上手く行くのではないでしょうか?」
「おお、名案じゃ。今までの行いを評価すればそれが妥当じゃろう」
 口々に上層部の者達は発言し、かくして、いとも簡単に袁家の筆頭軍師は二頭体制となった。
 これこそが郭図の今回の狙いであり、その為に前々から上層部の者達に仕込みを行ってきた。それに気付いた田豊は拳を握り、歯を噛みしめて俯く。
「ありがとうございます。では……毒からの追加情報が入り次第、事を起こすというのはどうでしょうか?」
 続けられた郭図の提案にばっと顔を上げた田豊は焦った表情で口を開く。
「それはダメ。せめて偽りの離反を示してからでないと他の策が潰れてしまう」
 その発言に上層部の皆は一様に難しい顔をして思考に潜り込んだ。
 袁家は現在、大陸に二つ構えている。
 袁紹と袁術、どちらも傀儡としてではあるが国を治める主として政事を行っていた。
 田豊はこの一点だけは譲れないとばかりに悲痛な面持ちで上層部の面々を見つめ続ける。
「ふむ、確かにそちらも大切じゃの。ならばそれが行われてから、機を見てでよかろう」
 舌打ちを一つ、郭図は一瞬田豊を睨んだが、すぐにまた薄ら笑いを浮かべた。
「ではそのように、早めに離反を示しましょうか。事を起こすのはその時機という事で。それと……曹操に対しての情報収集は私が担当しましょう」
「任せたぞ、郭図」
「ああ、重ねてもう一つじゃ。公孫賛に対して進行する軍の軍師は郭図とする。あの成り上がりは完膚なきまでに叩きのめしておかなければ気が済まんからの」
 一人の、そんな発言に田豊の表情は絶望に堕ちた。
 郭図が担当するとなると公孫賛の取り込みは万に一つの希望も持てない。固まった思考をフル回転させてどうにか阻止しようと口を開いたが、
「任せてください。所詮、運が良かっただけの凡人です。必ずや叩き潰して差し上げます」
 郭図に遮られ、確定してしまった。
 これ以上己が意見を通そうとすると自分の立場がさらに悪いモノとなり、何も出来なくなってしまう。
 疾く、理解した田豊は口を紡ぐ。現状、彼女には打つ手が無かった。
 これにて会議を終了とする、との一言でその場は締められ、全ての人が出払ってから幾分、重い足取りで田豊は会議場を後にした。





「夕、おつかれー」
 会議室から出てきた夕を見て、明は快活な声を掛けた。
 しかし、信頼を置く友である彼女の声にすら反応せずに夕はそのまま歩き続けて行った。
 その様子を見て明は異常な事態が起こっていると気付き、夕の元へ駆けて行き、後ろから抱きついた。
「っ! 明? どうしたの?」
 抱きつかれてから漸く明の存在に気付いた夕は普段通りの無表情を向ける。
「夕こそどうしたのさ? あたしが声掛けても聞こえないなんてよっぽどじゃない?」
「……ごめん。考え事してた」
 一つ謝り、明の瞳を覗き見る。そこには心配の色が深まっていた。
「あのクズが私と同じ権限を持った。そして公孫賛との戦にはあいつが行く」
「ふーん、そっかぁ。またあいつが邪魔するんだ」
 話を聞き、すっと目を細めた明から殺意が溢れ出る。憎しみの感情は彼女の心を埋め尽くし、今すぐにも殺しに駆けだすのではないかと思える程。
 夕は向き直り、明の身体に小さな腕を回し、力いっぱい抱きしめた。何かを語る事はせず、ただ無言のままで。
 そんな夕の対応に明の殺意は収まっていく。
「大丈夫。確かにあいつは殺したいけどさ。それより……公孫賛に攻めるのがバレてたってホント?」
 頭を撫でながら自分にも言い聞かせるように言葉を紡ぎ、明は最後に質問を投げかけた。
「うん。公孫賛の連合参加は私達からの理由づけを防ぐためのはずだからこれ以上は警戒を強めないと思ってた。けど……先読みされてた。
 優秀な軍師もいないあの勢力がどうやって読んだのかは、草からの報告を洗いなおしたら予想出来た。戦の最終日に秋兄が公孫賛と宴の為に接触してたらしい。その時以外に公孫賛陣営への怪しい接触は無かったから秋兄からの打開策提示で確定だと思う」
「うへぇ……なんてめんどくさい事してくれるかね、あのお兄さんは」
 顔を顰めながらべーっと舌を突きだして心底めんどくさそうに言う。
 一人の男を思い出して、遠い所を見つめる明の思考に薄暗いもやが掛かった。
 劉備軍に居ながら全く違う思考を行うその男は、自身の、今やたった一つの大切なモノを変えてしまった。
 良い変化と悪い変化、その二つを齎したのだ。
 以前の、大切なモノが傍に在った時の、袁家筆頭軍師にのし上がる前の夕に引き戻した事には感謝の念が湧くが、同時に甘さを与えてしまった事に苛立ちを感じていた。
 夕は己が主の変化を望んだ事によって虎牢関までの非情さは顔を出さなくなり、他者を利用するのに少しばかりの躊躇いの線引きを行うようになった。
 人としては……まさしく正しい。
 だが明の同類としては……間違いである。
 今の夕は眩しく、受け入れにくい。
 どんな手段を使おうとも大切なモノを守りきる。それが明と夕であったはずなのに。
 もちろん線引きはちゃんとしてはいるが……最後に必要とあらば非道にも畜生にも落ちるのがかつての二人だった。
 そんな彼女達をして同類と言わしめた一人の男に対して、明は無意識の内に舌打ちが漏れた。
 どうして同類なのか、それは誰も気付かない事だろう。件の輩は、驚くことに大陸を平穏に出来たらそれでいいのだ。
 主に忠を示さず、大切なモノ、彼にとっては後の世に生き残る人々に平穏を与えられるなら、自分が最終的にどうなろうと、自分がどう思われようと、今生きる民をどれだけ殺そうがそれでいい。
 そんな者は頭のネジがぶっ飛んでいるとしか言いようがない。自分達と同じく、どこかしら壊れてしまっているか、心の形が歪になってしまっている。
 では何故、彼女達の思考の中では、似たような曹操や劉備が同類では無いのか。
 その理由は自分が入っているか入っていないかの違いが決定的である。
 秋斗は自分有りきでは無く、曹操や劉備は自分有りき、それだからこそ同類では無い。捉え方が違うだけで曹操や劉備とも同類と呼べるが、彼女達にとっては大きく違うのだ。
 劉備は特に秋斗に近いが、結局最後は自分が有りきの世界で完結してしまうので不可能。
 敢えて言うならば、洛陽で死の覚悟を決めた月こそが秋斗と同じ存在だと言える。常時そんな状態である者はまさしく異端だろう。
 今の夕はもはや、秋斗や明と同類では無い。夕は自分が居ないと世界は成立しない。そんな事は明も口に出しはしないが。
 ふと、思考を回すのを辞め、夕を見た明は……絶句した。
 夕も同じ人物の事を思い描いていたようだが、その頬には朱が差していた。
 瞳に甘い色が浮かび、思い悩むように眉を寄せ、それはまさしく恋をする乙女の表情。
「夕、秋兄に恋したね?」
「……恋? 分からない。これがそうなの?」
 ぽーっとした表情と、少し呆けた口調で語られ、明は厳しい表情になった。
「うん、多分ね。秋兄の事考えると……どんな感じ?」
「……少し、胸が暖かい」
「じゃあ、秋兄にどうして欲しい?」
「……私の傍に居て欲しい。頭を撫でて欲しい。見て欲しい。どうして私の策を、読みを越えられたのか教えて欲しい。それに明や私と同類なら、全てを理解して貰えるはず」
 愕然。並ぶ者のいなかった彼女の智を容易く乗り越えたから、そしてかつて同類であったが故の安心感があったからこそ恋とは無縁だった夕が恋に落ちてしまった。
 自分が追い詰められているにも関わらず、追い詰めた相手を求めてしまっていた。仮に、曹操が彼女を追い詰めていたのならばこうはならなかっただろう。
「ならどうする? 公孫賛の所を攻めたら、あたしたちには絶対に力を貸してくれないよ?」
 明によって非情な事実を突きつけられた夕は、肩を落とし、力無く俯いてしまったが、小さな声で言葉を紡ぐ。
「……分かってる。それにあの人は自分の為が第一だから助けに来てはくれない。それなら……手に入れる。お母さんも、桂花も、本初も、秋兄も、全部纏めて、私と明の傍に置く」
 本当は助けに来てほしい。夕はその想いを……呑み込んだ。
 彼女は軍師。待つだけでは軍師とは言えない。だからこそ自分から手に入れる為に動くという事。
 そんな想いを間違えず聞いた明は微笑んで、
「ならあたしは今まで通りにあなたの為に動くよ。夕の幸せだけがあたしの望みだからねー」
 夕に、自身の本心をいつものように語る。
 明はどこまでいっても、何があっても夕の為にしか行動しない。夕が変わろうともそれだけは絶対に変わらない。夕の為に――――それが自分の為だから。
「ありがとう。じゃあ、今度の侵攻で本初と協力して公孫賛、関靖、趙雲の三人を必ず捉えて欲しい。上層部を納得させる理屈は本初に伝えておくから」
「了解、任せてよ。じゃああたしは仕事に戻るね。今日は面会でしょ? 楽しんできてね」
「ん、いつもありがと、明」
「お互い様ってね。んじゃねー」
 軽く別れを告げて二人は背を向け合い、別々の通路を歩いて行く。
 互いに思う所は違ったが、それでも先の戦に求めるモノの為に思考を重ねながら。







「お母さん!」
 普段の少女の姿からは想像も出来ないような飛び切りの笑みを浮かべ、寝台に横たわる一人の女性に近寄っていく。
 女性はそれを見て微笑み、読んでいた本を閉じて少女の方を向き、
「いらっしゃい、夕」
 優しく、落ち着いた声で出迎えた。
 白磁の肌は透き通り、血色が良くないのは誰の目にも明らかであったが、それでも愛する娘の為に精一杯元気な素振りを振る舞う彼女は、まさしく母であった。
 そんな母の本心が分からないでいられる程、夕の頭の出来は悪くは無い。
 だからこそそこには触れず、ただ寝台の傍の椅子に座り、冷え切った手を温めてあげられるようにと両の手で包み込んだ。
「お母さんに大事な報告がある」
 夕の発言に微笑みながら少し首を傾げ、なぁに? というように無言でおしとやかに問いかけた。
「多分、私は恋をしているらしい」
「まあ、それは素晴らしい事ね。難しい事ばかり考えている夕だから色恋とは無縁かもと心配していたけれど、安心したわ。それで、どんな人なの?」
 上品に口に手を当てて少し笑い声を漏らして驚き、愛する娘の成長に安堵を感じた母は興味津々と言った様子で夕に尋ねた。
「優しくて、弱くて、強い人……だと思う。それと、明に少し似てる」
 どこでも頭を撫でる所とか、とは言わないでおいた。
 夕は洛陽で秋斗と話してから、そんな事を感じていた。飄々とした所も、二面性を持っている所も、優しい所も……どこか壊れている所も。
「そう、あの子と似てるって事はあなたとの相性もいいのでしょうね。きっとお似合いだと思うわ」
 母の言葉は夕の頬を紅く染め上げた。無防備な状態に不意打ちを仕掛けられ、恥ずかしさからか夕は少し俯く。
「あら、照れたのかしら? ふふ、いいわねぇ、若いって。私も昔なら――――」
 懐かしむように過去の出来事を話す彼女も、一人の少女の時があったのだと分かる。
 そんな母の様子を見て、話に頷きながらも夕の心は沈んで行った。
 母、とは呼んでいるが、実の所彼女の本当の母親ではないのだ。たまたま、暴漢から逃げていた孤児の夕を拾ったのがその人。
 体調が崩れる前、袁家の筆頭軍師であったのは沮授、夕が母と呼ぶ人物である。
 彼女は優しく、親を失った孤児を何人か育てており、最終的に袁家に残ったのはただ一人、夕のみ。
 どの子達も沮授には感謝していたが、強く、自分の為に生きろと言われ、夕以外は別の地に離れて行ったのだ。
 そして年々増していく過度な重圧から、そして袁家の腐敗したやり口による気疲れから、沮授は体調を崩してしまった。
 それと共に特殊な病が併発し、誰にも治す事が出来ず、延命するのが精いっぱいであり、黄巾が始まる頃には歩けぬ程に衰えてしまった。
 本来ならば、そこまで早く進行する病では無いのだが、策略があった。
 沮授の才に嫉妬した郭図が延命の薬を調合できる医者を誑かして薬を簡単に手に入れられないように、さらには袁家の人質とする事で夕の行動を縛り付けるために。
 ただ、後々その事実を知った明によって郭図は一度暗殺されかけており、その事から夕に対してはあまり酷い対応はしない。
 同時に、その事を理解していた沮授は無理を押して袁家上層部に掛け合い、自身と同格かそれ以上であるとの言葉を伝え、夕を代わりに筆頭軍師としての座に推挙した。
 袁家上層部はそれを聞き入れたが、交換条件として袁紹の管理と監視を命じた。
 泥沼のような状況を抜けて、腐敗した泥を踏み抜いて彼女達の今がある。
 夕は悔いていた。
 孤児である自分を拾わなければ、心労も少しは減ったのではないか、そんな思い故に。
 だがそれを伝えるのは沮授を傷つけると分かっているのでしない。
 だからこそ、沈む気分をそのままに無理やり笑顔を張り付けて頷き続けた。
「夕、あなたには何度も言っているけど、自分の為に生きなさいね。私がどうなろうと、あなたにはあなたの人生があるのだから」
 心を読んだかのような沮授の言葉に夕は目を瞑り、力強い瞳を合わせて告げる。
「ん、大丈夫。私は私の為に生きている。欲張りだから全部が欲しいだけ。だから安心して見てて。世界を変えてみせるから」
 奇しくも、語られたのは彼女の想う男と同じ言葉。何の因果か、彼女もまた、世界を変えたいと願った。
 ふっと微笑んだ沮授はゆっくりと震える腕を上げ、夕の頭を撫で始める。
 目を細めて、くすぐったそうに受け入れる夕は、今の幸せな時間をただ噛みしめていた。


 †


 仕事とはよく嘘をついたモノである。
 明は苛立ちささくれ立った心をそのままに一人の男の元を訪ねていた。
「おいおい。珍しいじゃねぇか。お前が俺んとこに来るなんてよぉ」
「あぁ? このクズが、欲しか頭に無いお前の監視に来たんだよ。どうせまた夕とあの人の時間を邪魔しようとか考えてたのは分かってんだ」
「クカカ、いつもの猫被った口調はどうしたぁ? そんなんじゃ田豊の奴に嫌われちまうんじゃねぇの?」 
 互いに、口汚く言い合う二人は普段の作った自分の皮をかなぐり捨てていた。
 憎らしげに一つ舌打ち、明は郭図の部屋の扉に背を預けて睨みつける。その眼の奥に光る殺意も、憎悪も全てぶつけて。
「あんたにお綺麗な言葉なんか使う気はないね。それに夕はあたしの素くらい知ってるから嫌わないし」
「はいはい、ごちそうさん。百合百合しいのは勘弁してくれよなぁ。ただでさえ顔良や文醜で見飽きてんだ」
 どっかと執務椅子に腰を降ろし、やれやれと言うように肩を一つ竦めてから、郭図は顔を歪めた。
「別にもう沮授如きに関わる気はねぇよ。田豊の発言力も下げられたし用済みだ」
 心底興味ないと、郭図は言い切る。もう筆頭軍師となったその男にとってはどうでもいい存在なのだ。
 夕を縛る為のエサであり、また目の前で今にも手を掛けようとしている明に対する抑止力として生かしているだけ。
 疎ましい。それが郭図の気持ちの全てであった。
 本来ならば、たかが少し関わりがあった程度の存在にここまで固執する張コウでは無かった。
 袁家の優秀な駒として最上級の手腕を持つ張コウは、田豊に感化されて反骨心を持ってしまった。
 初めに歪めてしまったのは自分達袁家だが、それでも異常なこと。
 田豊には人を魅了する何かがあったのだ。他人に対して何も興味の無かった張コウを揺さぶる何かが。
 郭図にはそれが何かは分からない。
「ならいい。それと……公孫賛への侵攻はいいけど、あまり外道な策は使うんじゃないよ」
「それぐらい分かってんよ。あのお綺麗は白馬姫は俺達の下で扱き使ってこそ価値があるしな。クソみたいな誇りを真正面から叩き潰して、屈辱の味を噛みしめさせた後に従わせてやんよ」
 にやにやと下卑た笑みを浮かべ、次に攻める地の主をひれ伏せさせる事を思い描く郭図の姿に、明は凍てつくような眼差しを向けてただ沈黙を貫く。
 自身の思考に潜っていたが、やがて満足したのか明に視線を向けた郭図は小さく鼻を鳴らして嘲笑った。
「そう睨むな。もう用事は済んだだろ? 筆頭軍師になった俺には、お前と違って仕事がたんまりあるんだ。それとも……可愛がって欲しいのかぁ?」
 三日月型に口角を吊り上げて笑い、発された言葉に明は汚らわしいと言わんばかりに顔を顰めて、乱暴に扉を開け閉めしてから部屋を後にした。
 それを見送り幾分、郭図は小さく笑った。
「バカが。お前らの言う事なんざ聞くかよ。代わりならいくらでもいる。どうしてわざわざ反抗しそうな奴を生かす必要があるんだよ。それに……正々堂々なんざ七面倒くせぇ事してられるか」

 誰に聞こえずとも呟き、己が欲のみ頭にある男はさらに笑い続けた。

 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。


郭図くん登場
そして夕ちゃん達のお話でした。
この物語ではこんな設定です。
発言力が強すぎると提言したのは史実でもありましたからね。
恋姫風な感じになっていたら嬉しいです。

ではまた 
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