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占術師速水丈太郎  横須賀の海にて

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第七章


第七章

「消灯」
 その声がすると彼は部屋を出た。そして影の様に音もなく甲板に出た。行く先はこの前と同じ艦首であった。
 世界はあの時と同じであった。濃い紫の帳が世界を覆いその中で波の音と街の灯りが見える。今日は船の汽笛まで聞こえてきた。そして上には満月があり朧な黄金色の光を放っていた。速水はそれを背にして艦首付近の丁度中央に立ったのであった。
 普通に見ればただ幻想的な光景である。しかしそれは違っていた。それは彼の顔を見ればすぐにわかることであった。
 そしてその仮初めの幻想もすぐに破られた。彼の前にあの死霊があの時のままで姿を現わしたのであった。まるで影の様に。
「約束通りだな」
「こちらは約束するつもりはなかったがね」
 速水はこう返した。
「覚悟はよいか」
 死霊は冷たい声で語りかけてきた。
「覚悟、さて」
 だが速水はそれにはとぼけてきた。
「何を覚悟するというのか」
「私のいる世界にかわりに行くことだ」
「生憎そんなつもりはなくてね」
 彼は軽い調子で返す。
「まだこちらの世界にいるつもりだよ」
「ほう」
「行くのはそちらだ。むしろ帰ると言った方がいいか」
「私がか」
「そう。その為にこの日を選んだんじゃないのか」
「そんなつもりはないがな」
 死霊は言葉を返した。
「この日を指したのは誘い出す為」
「私を」
「満月の時私は確かに死者の世界に帰ることができる。だがそれと同時に」
 彼は言う。
「私の力が最も大きくなる時なのだ。月の霊力によってな」
「月の」
「左様」
 死霊は答えた。確かに月には魔力が備わっている。彼はその力を大きく受けるようである。
「その力でそなたを退けるつもりだ。だからこそ覚悟を問うたのだ」
「そうか。だがいらぬ節介」
 速水は言い返した。
「私は今まで霊に負けたことはない。私が負けたのは」
「誰だ」
「生憎貴殿には関係のない話だ」
 口の端だけでニヤリと笑って応える。
「詮索は無用だ」
「そうか。ならば聞かないでおこう」
 死霊もそれ以上聞こうとはしなかった。
「行くぞ。よいな」
「来るがいい」
 速水はそう言いながら左手を顔にあてた。顔の左下に。
「この数日で私も備えはしておいた」
「備え?」
「そう。何故私が顔を隠しているか今教えてやろう」
 その声が次第に深いものとなっていく。まるで海に入り込むように。
「私の目は普通の目ではない」
 そう言うと右目も不思議な光を放ちはじめた。
「かっては邪眼と呼ばれたこの目」
 左手は次第に上へあがっていく。それと共に髪も上がっていく。
「この目こそ私の力。今その力を解き放とう」
 言葉と共に手がゆっくりと上がっていく。そして最後に髪が上に完全に上がった。それと同時に今まで隠されていた顔の左半分が姿を現わした。
 そこは顔自体は右半分と変わらなかった。白い、彫刻の様に整った顔がそこにあった。そうした意味では左右対称であった。
 だが決して対称ではなかった。それは目にあった。右目は黒であったが左目は金色であった。夜の闇の世界にまるで妖星の様に輝いていた。
「その目は」
「これが私の目だ」
 彼は言った。
「この目は全てを見る。そう、何もかも」
「何もかもか」
「この世にないものをな。だからこそ私は占い師になれた」
 言葉を続ける。
「そして死者の世界を覗くこともできた。全てはこの目の為にな」
「それで退魔師にもなれたのだな」
「そうだ。それまでには色々とあったがな」
 そう語ったところでふと顔に陰がさす。
「だがこれもまた貴殿には関係のないこと。この左目は全て異なった世界を見、そして死せる者達を退ける為にある」
「ではその目の力を使うがいい」
 死霊は彼を挑発するようにして言った。
「そして私を退けてみよ」
「無論」
 速水は動いた。
「だからこそこの仕事を引き受けたのだからな」
 左目が輝いた。すると彼は急に姿を消した。
「消えたか」
 死霊はそれを確認して呟いた。その態度にはまだ余裕があった。
「それもまた目の力だったのだな」
「そうだ」
 姿は見えないが声だけは聞こえてきた。
「この目は私に魔力を与えてくれた」
 彼はまた言った。
「その魔力の結果だ。この姿を消すことも。そして」
 突如として空中にタロットカードが現われた。そしてそれが死霊を襲う。
「ムッ」
「このカードを使う術も。全てはこの黄金色の目の力だ」
「邪眼の力というわけか。これも全て」
 死霊も姿を消した。そしてそれでカードをかわしたのであった。正確には死者の世界へ一瞬戻ったのであろうが。
「面白い。どうやら今までの者達とは違うな」
「私を侮ってもらっては困る」
 速水はまた言った。
「この目もな」
「そうだな。では私も力を見せよう」
 死霊はこう言って甲板の中央に姿を現わした。
「この力で。その目も何もかも滅してくれよう」
 身体全体にあの青白い炎を出した。そしてそれを艦に撃ちつけた。
「焼けよ」
 彼は言った。やはりその顔は全く変わりはしない。声の調子だけが変わった。
「生きる世界にいようとも死せる世界にいようとも。この炎からは逃れられはせぬ」
 炎が艦を覆った。死霊はその中心に立っていた。
「これなら逃れられまい」
 死霊は立ち上がりながら述べた。その顔はぼんやりと前を見ているように見えた。
「この炎は。どちらの世界にいようがそなたを焼き尽くすぞ」
「それはどうかな」
 だがそこで上から声がした。
「炎を避ける場所は何処にでもある」
「何っ」
 死霊は上を見上げた。するとそこに彼が立っていた。
 速水は空中に一人立っていた。その白いコートに手を入れて悠然と死霊を見下ろしていた。
「空か」
「そうだ」
 彼は答えた。
「私は空にも立つことができるのだ。浮遊術というやつだ」
「それまで知っていたのか」
「驚くことはない。基本中の基本だ」
 彼は静かな声でこう言った。その顔は死霊を見下ろしていた。
「違うのか。そちらの世界では」
「くっ」
「どうやら貴殿は空には弱いようだな」
 速水は死霊を見下ろしたまま言う。
「海に心がある為。もう一つの青の世界には来ることができぬか」
「空なぞ」
 彼は呻く様に言った。だが顔は変わりはしなかった。口さえ開かない。
「何もない場所だ。だが海は違う」
「違うというのか」
 速水の身体も死霊の姿も青白い炎が照らしていた。今二人は下からその光に照らされていた。速水の青い服も白と赤のコートも死霊の黒い服も全てその青白い光を映していた。それが死霊の表情のない仮面の様な顔も速水の白面に黄金色の目も映し出していた。今二人は夜の闇の中にその青い光を浴びて対峙していた。
「そうだ、違う」
 死霊はまた言った。
「空には何もない」
「何もないか」
「何があるというのだ。あるのは雲と」
 言葉を続ける。
「雷だけだ。全てを滅ぼす雷だけだ」
「全てを滅ぼすか」
 速水はその言葉にあるものを見ていた。
「それ以外には何もない。空には何一つありはしないのだ」
「だが海にはある」
「そうだ」
 死霊は答える。
「だからこそ私はここにいる。全てが存在する海に」
「貴殿が海を愛しているのはわかった」
 速水はそこまで聞いて答えた。
「だがな。ここは生きる者の世界だ。死せる者の世界ではない」
 冷たく、抑制の効いた声で語る。
「それはあちらの世界で言うのだな。少なくともここで言うことではない」
「今更その様なことを」
 死霊は聞き入れようとはしない。
「言おうとも無駄なことだ。それは私を倒してから言うのだな」
「ではそうさせてもらおう」
 速水は答えた。
「今ここで倒してな」
「フン、戯れ言を」
「戯れ言だと思うか」
「言った筈だ、私は満月の時に強くなると。見よ」
 青白い炎の力が強くなった。
「これが私の力だ」
 艦どころか海までもが炎に包まれた。
「この炎で。御主を焼いてやる」
「冥府の炎でか」
「そうだ。魂を焼き尽くすこの炎で。今そこまで燃やしてやる」
「迷惑なことだな」
 速水は足下に迫る炎を見下ろして呟いた。
「幸い他の者に害はないにしろ。ここまで派手にやられると」
「滅びるのだ」
「そもそもこんなのものは冥府の炎ではない。本当の冥府の炎とは」
 表情が変わった。
「黒いものだ。それを知らないとはまだまだ甘い」
「何だと」
 死霊はその言葉に対して問うた。
「黒い炎だと」
「そうだ」
 速水はニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。そして言う。
「見たことはないようだな。その炎を。ならばいい」
 言いながら身構える。
「それは幸いだ。何故なら絶対的な恐怖を知らないのだから」
「絶対的な恐怖」
「わからないならいい。だがそれはあちらの世界で知ることになる」
 そう言いながら左腕をゆっくりと動かす。そしてそこに左目から放たれる黄金色の光をあてる。
「先に死んだ者達からな。私ができるのはそちらに送ること」
 光が腕に満ちた。すると彼はそれを下に向けて放った。
「消えろ」
 腕が一閃された。すると光は矢となって海に突き刺さった。そしてそれで死霊の炎を全て消し去ってしまった。
「なっ」
「黒い炎ならこうはいかない」
 速水はまた言う。
「私が彼女を虜にするにはまだ先のことだろうな、残念ながら」
「またわからぬことを」
「だから言っているだろう。これは貴殿には関係のないこと」
 彼は相変わらずであった。
「詮索は無用だ。ではこれで決めるぞ」
「来るがいい」
 死霊は炎をまた出してきた。今度は両腕にである。
「その光で私を倒すというのなら」
 上を見上げる。そして構えていた。
「やってみせよ」
「言われずともそのつもりだ」
 また左腕に光を集めてきた。腕がまるで星の様に眩く輝いていく。濃紫の空にその黄金色の光が映えていた。
「滅せよ」
 それが極限になったとみるやまた光を放った。そしてそれは先程と同じ様に光の矢となって下に向けて放たれる。それは一直線に死霊に向けて襲い掛かる。
「この程度で」
 死霊は呻いた。そして両手を上にかざす。その手に宿らせている炎で防ぐつもりであった。
 光と炎が激突した。両者は拮抗しているように見えた。だがそれは一瞬のことであった。
 炎が消えた。まるで霧の様に煙を立てて消える。そして遮られるものを消し去った光はそのまま死霊に向かって降り注ぐ。死霊はそれをまともに受けてしまった。
「ぐはっ」
 苦悶の声が漏れる。だが顔は変わりはしない。やはり彼は声だけで苦悶をあげていたのであった。
「これで決まりだな」
 速水は下を見下ろしたまま言った。
「全ては終わった。その光を受けて退かぬ異形の存在はない」
 ゆっくりと下に降りながら言う。
「違うか。最早この世界に留まってはいられぬだろう」
「確かに」
 もう今にも消え入りそうな声となっていた。死霊はその声で言う。
「どうやら。私はこのままこの世界を去らなければならないようだな」
「そうだ。どうやらこの左目には貴殿も適わなかった様だな」
「うむ」
 彼は頷いた。
「上からそれを放つとはな。生憎私は空には弱い」
「それだが」
 速水は完全に艦に降りてきた。そして死霊と対峙した形で問う。
「空が嫌いなようだが。何があった」
「さっき言ったな」
「雷か」
「そうだ。私の乗る船は雷により沈められた。嵐の夜にな」
 昔はこうしたこともあった。木製であり避雷針もない船は落雷に対しては対処する術を持ってはいなかった。従ってそれを受けたならば炎に包まれて沈むしかなかったのである。
「それ以来。空を恨んできた」
「空をか」
「だからこそ海に留まっていたかった。忌まわしい雷の支配する空ではなく全てを包み込んでくれる優しい海にな」
 声が温かいものとなってきた。
「もうここには留まってはいられぬが。だがあちらの世界では」
「行くがいい」
 速水は感情を込めずに言った。
「本来はそこへ行く筈だったのだからな」
「本来はか」
 死霊の声はもう消えようとしていた。
「そうか。そうだったな」
「数百年の妄執を捨てて。消えろ」
「消えるとするか。最早話すこともできなくなってきた」
 その言葉通り声はさらに小さくなった。
「それでは。異界の者は消えるとしよう」
 その姿がすうっと消えていった。まるで影の様に。そして霊気も。速水はそれを感じて死霊が完全にあちらの世界に行ってしまったことを感じていた。
「これで終わりだ」
 彼は最後に呟いた。
「数百年の海への思いも。一条の光で消える」
 呟きながら懐から何かを出す。
「終わった。今一つの魂が還った」
 それはタロットのカードだった。死神のカード。全てを無に還す死のカードが全てを現わしていた。こうして速水と死霊の戦いは幕を降ろしたのであった。


 
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