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シンクロニシティ10

作者:ミジンコ
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第三章

  コンピュータ画面には、直線と曲線が複雑に交差して描かれ、その狭間に数字と記号がちりばめられている。マウスをクリックすると、その全てが一瞬にして消え、かわって全体像がすっと浮きあがる。石田はぼんやりと画面に見入りながら、図面を弄んでいた。
 石田は今の会社で正社員になって10年になる。幸子と別れてから大学に戻ったのだが、卒業後、アルバイトをしていたこの会社に28歳で再就職した。同世代と比べるとかなり遅いスタートを切ったことになる。
 そのハンディを埋めるために寝る間を惜しんで勉強した。そのかいあって36歳で難関の資格を取得し、1年後管理職になった。何もかも順調だった。家庭も仕事も、上司に恵まれていない点を除けば申し分なく推移していた。
 結婚は32歳の時だ。辛い過去の傷を引きずって7年、恋心を心から締め出していた。それが、7歳年下の部下、亜由美の積極さにほだされた。女が自分に好意を抱いても何の反応も示さずにやり過ごしてきたが、他の女達と違う何かを亜由美に感じたのだ。
 亜由美は、甲府で老舗といわれる宝石の卸し問屋の一人娘だった。そのブランド嗜好とプライドの高さには辟易していたのだが、その天衣無縫さには驚かされた。幸子はどこか暗さを秘めていた。その対極にある明るさが石田には新鮮に映った。
 結婚してすぐ子供に恵まれた。新生児室のガラス越しに見た知美は10年前、同じ状況で見た晴美の姿とうりふたつだった。一瞬、過去をさ迷い目眩を感じた。それは晴美に対するうしろめたい気持ちがそうさせたのかもしれない。
 夫婦仲はよかった。家庭は何もかも順調だった。いつものように自宅のドアを開けるまで、そう思っていた。それが一瞬にして奈落の底に突き落とされたのだ。信じられない事態に呆然自失とした。
 石田は、この半年、妻と子供の行方を捜すために休暇を取り続けた。会社では大きなプロジェクトが進行中で、直属の上司、氏家部長はこの時とばかり、石田の追い落としに動いている。新設した仙台支店への異動である。
 今日も、石田は机の抽斗に休暇届をしのばせていた。一月以上あった有給休暇も残り少なくなっている。マウスをいじりながら、タイミングを計っていた。氏家部長は、真後ろに位置しているが、石田がさっきから仕事をしていないことに気付いていない。コンピュータ音痴なのだ。
 石田は椅子から立ちあがった。その瞬間、氏家は白髪混じりの眉毛を吊り上げ、ふーっと溜息をついた。
「おい、おい、また休暇なんて言うんじゃあるまいな。」
「その休暇です。本当に申し訳ありません。」
この男にはどこまでも下手に出るに限る。二人の不仲はいつ始まったのか何度も思い返してみた。あの場面かもしれないと思うところは幾つかある。しかし、どれも仕事に関わる意見の対立で、理は自分にあると信じていた。
「石田課長、お前は仕事を何だと思っているんだ。随分と遅れているってことはお前が一番よく分かっているだろう。このまま行くと、工期に間に合わんのじゃないか。」
石田は頭を下げながら答えた。
「だいじょうぶだと思います。恐らく、工期延伸は先方から言ってきますよ。JRと東芝電鉄との折衝はそう簡単には運ばんでしょう。またぞろ、設計条件の変更を言ってくるはずです。このまま進めて、全てやり直しではかないませんからね。」
「おい、君は預言者か。設計変更が出るってどうして言えるんだ。」
「実を申しますと、東芝電鉄の工務課には後輩がいますから、情報は入ってきています。JRもそうそう無理は通せないでしょう。」
「本当なんだろうな。その後輩の話ってのは。」
「ええ、間違いありません。」
延々と頭を下げ続け、説得した。妻の居所が掴めかけたと嘘もついた。氏家部長は苦虫を潰したような顔で判子に手を伸ばしたのである。


 東芝電鉄の後輩の話は嘘である。しかし、設計変更が出るという自信はあった。直感でしかないが、それはJRの担当者との打ちあわせでそのニュアンスを読み取ったのだ。氏家も参加した打ちあわせである。どうやら、氏家は何も感じなかったようだ。
 氏家は典型的な左脳人間である。言葉のニュアンスが分からず、行間が読めない。こうしたタイプは理科系と役人に多い。かつて榊原に聞いたことがある。
「キャリアっていうのはどっちのタイプが多いんだ。」
「言うまでもなく左脳人間だ。記憶力と論理はさすがだが、おおよそ、第六感とか閃きとは縁のない連中だ。かつて後藤田が言った通り、新たに創造する能力はない。とはいえ、人生一度きりのテストで将来を約束された500人ほどのキャリアが、つまりその左脳人間である警察庁キャリアが、俺達の頭を押さえ込んでいるんだから参るよ。」
石田が聞いた。
「でもキャリアが現場に降りてくることなんて、めったにないのだろう?」
「ああ、現場に赴任してもお殿様だからな。俺たちジャコが関わることはない。でも全くないわけじゃない。そんな時失敗こいて、そのお殿様に睨まれたら一巻の終わり。一生日の目は見られん。たとえ昇進試験に受かってもな。」
「おいおい、現場中心の職場で昇進試験かよ。検挙率とか行動力とか或いは統率力で評価されて出世するんじゃないの?」
「いや、試験に受からなければ昇進出来ん。」
「しかし、バリバリの現場で試験が昇進の判断基準では組織がおかしくなる。」
呆れたような顔で榊原が言った。
「だからおかしくなっているんだ。現場での能力なんて昇進には役にたたん。胡麻摺り能力のほうが余程有効だ。それに、ワシがどんなに成績を上げても、厚いバインダーに記録された考課表は変わらん。あるキャリアがワシに下した評価は、次々と引き継がれ警察を辞めるまでついてまわる。」
「なんだそれ。」
「ワシも、つい若気のいたりでヘマをこいたのさ。」
「一発のヘマでも出世に響くのか。」
「そういうこった。ワシが警部になれない理由もその辺にある。」
こう言うと、榊原は押し黙った。濃い褐色の液体を喉に流し込み、グラスの底をカウンターに叩き付けた。コーンというその乾いた音は、これ以上聞くなと言う合図のように感じられた。誰にでも、話したくない過去がある。それは石田も一緒だった。

 その榊原から連絡が入ったのは、晴海のことを聞かされて二週間ほど経ってからだ。榊原がそれなりにセッティングしてくれるのかと思っていたが、晴美の携帯の番号と会う日時と場所を連絡してきただけだ。晴美は会うことを楽しみにしていると言う。 

 その日、その時間に、石田は不安と期待を胸に抱きながら電話を入れた。晴美も同じ心境だろうと思っていたが、石田が名乗ったのち、受話器の向こうから聞こえた声は存外明るかった。
「もしもし、晴美です。今日はありがとう。あの…」
しかし、ここで声は途切れ、やはり緊張しているのか静かな吐息だけが聞こえる。石田も雰囲気に気圧されて何を話したらよいのか分からない。晴美が声を詰まらせながら続けた。
「今日、会えるんでしょう?」
「ああ、そのつもりで電話したんだ。今、君が指定した渋谷の駅前にいる。」
「それじゃあ、15分後に。あっ、そういえば、携帯、非通知設定になってないでしょう。」
「えっ、非通知設定。」
「つまり電話番号を相手に知らせないように設定しているかどうかってこと。さっき、電話掛かってきた時、慌てていて画面見なかったから、番号が表示されていのたか、それとも非通知設定だったかよく確かめなかったの。」
「ああ、大丈夫だ。非通知設定じゃない。僕の電話番号は携帯に残っているはずだ。15分後、その番号に電話してくれ。僕はこげ茶色のTシャツに白のジャケットを着ている。君の特徴は。」
「お父さんにそっくりだって、榊原のおっちゃんが言っていたわ。」
石田はにこりとして答えた。
「分かった。自分の子供が分からんはずがない。じゃあ、待っている。」

 14年ぶりの再開ということになる。二人は喫茶店で向かい合った。ほんの数分前、二人はぎこちなく挨拶を交わし、はにかみながらも互いの血の濃さを確認し合った。その時、石田はかつてこの少女に会ったことがあるような気がした。
 勿論、子供の時の晴美ではない、別の誰か。確かに会ったことがあると感じた。じっとその顔を見詰めていると、ふとその目に引きつけられた。茶色がかった瞳、切れ長の二重瞼、きりりとした眉、その面影が心に浮かんだ。妹の目元に似ているのだ。
 全体的に晴美の方がすっきりとした顔立ちで、細い鼻梁と尖った顎は妹のそれではない。晴美の方が今風のシャープな感じなのに対し、妹は古風な日本人を思わせる丸顔のぽっちゃりタイプだ。しかし、晴美は間違いなく叔母にあたる妹の目元を引き継いでいた。
 石田は晴美に妹の面影を重ねた。じっと見詰めていた。なつかしさがこみ上げてきた。沈黙に耐えられず晴美が口を開いた。
「あのー、さっきから、どうしてそんなに見詰めているの。」
「ああ、実は、君の目元が死んだ妹にそっくりなんだ。顔全体の雰囲気は違うし、君の方が美人だけど、目元がそっくりで、本当に驚いた。」
「あら、私の叔母さんに当る方ね。どうして死んだの。」
石田は一瞬息を呑んだ。思案をめぐらし咄嗟に嘘をついた。
「病気で死んだ。高校2年の時。白血病だった。」
「ふーん、可哀想、でもやっぱり、不幸な家系なんだ。」
と言って、遠くを見詰めた。石田は何と答えてよいのか分からず、煙草をとりだすと火を点けた。
 晴美の先ほどまでの明るさと幼さが一瞬にして崩れた。何のブランドかは分からないが、高級そうなバッグから銀のシガレットケースを出し、煙草を咥えた。半開きの唇に艶っぽさを漂わせている。
 妹の和代とは別の人間であることを思い知らされた。煙を吐き出しながら晴美が言った。
「榊原のおっちゃんに、お父さんに会えって言われた。慰めてやってくれって。奥さんに逃げられたんでしょう。」
「ああ、君のお母さんに次いでこれで二度目だ。よほど女運が悪いらしい。」
晴美は無表情のままだ。石田は溜息混じりに聞いた。
「榊原に詳しく話を聞いたのか。」
「ええ、今、奥さんと子供の行方を捜しているって。」
「榊原の奴、全く余計なことを言う奴だ。」
晴美は石田の不機嫌そうな顔を見て話題を変えた。
「でも、冴えない中年だったらどうしようと思っていたけど、素敵なオジサンで良かった。それに話は違うけど、喧嘩強いんだって。榊原のおっちゃんが言ってたけど、公式戦には出られなかったけどクラブで一番強かったって。」
「ああ、強かった。でももう昔のことだ。もうすぐ40だからね。」
石田は一呼吸あけると、一番気になっていることを口にした。
「ところで、僕のこと、と言うか中野の家のこと、記憶にあるの。」
煙を横に吐き出しながら、視界の端で晴美の反応を窺がった。晴美は思案顔で視線を巡らせると、にこりとして答えた。
「ぜんぜん。」
 ふわーっと肩の力が抜けてゆく。火の付いたように泣き出した幼子の顔が一瞬蘇る。石田は心の襞に隠していた疚しさなど微塵も見せず、何食わぬ顔で言った。
「僕と君の母さんのことは、いずれ話そうと思うけど、今日のところは勘弁してほしい。今から思えば僕が一方的に悪かったと思っているけど……」
「聞いてるわ。写真のこと。」
石田はぽかんと口を開けたまま晴海を見た。幸子が不貞の事実を娘に打ち明けたと知って面食らったのだ。
「ママ、最近になって話してくれたの。二人が別れた事情。多分、私の口を借りて、お父さんに言い訳がしたかったんだと思う。」
石田は、思わず身構え、押し黙った。あの時、幸子の話を聞かなかったことを今でも後悔していた。晴美の口が動いた。
「あの写真の男は高校の時のボーイフレンド。名前は杉村マコト。肉体関係はなかったって言ってるわ。」
石田はごくりと生唾を飲み込んだ。いよいよ真実が明かされる。今更の感はあるものの、あの写真の男、杉田マコトという名を心に刻み込んだ。
「その人、高校時代、ママのために暴力事件を起こして退学になったの。高校の先生がママに不当な言葉を吐いて、それでキレたみたい。」
石田はすぐにピンときた。あのことだ。
「そういう人種など無視すればいいんだ。どこにでもいる、馬鹿な連中だ。」
「ええ、ママも私も気にしてなんかいないわ。でもマコトは我慢できずに暴走してしまった。ママのことが好きだったから。本当にマコトの男って感じ。で、その人と別れる時、つまりその人が福岡を去る時、ある約束をしたそうよ。」
「どんな。」
「ママの20歳の誕生日に、福岡のある場所で会う約束をしたの。ママは迷ったみたいだけど、その日、その場所に行ったの。愛する人が出来たことを報告するつもりで。でも、とうとうその人は現れなかった。」

 石田はぼんやりと遠くを見つめた。やはりそんなことがあったのか。何か事情があるとは思っていた。あの日、唐突に母の墓参りにゆくと福岡に飛び立った。そして、幸子はその直後に妊娠した。そして石田はその暗い疑念を心の襞に隠しつづけていたのだ。
「その人が今のお父さんなの。」
「違うわ。そうであったらどんなに良いか。プラトニックな愛のために自分の将来を犠牲に出来る人なんて、そうはいないもの。退学になったのは、県で一番の進学校よ。」
「結局、その人とは結ばれなかったわけだ。」
「ええ、一度、東京で再会しただけ。あの場所で会って、それっきり。」
「あの場所って、写真の場所のことかい。」
「ええ、そう。ママに言わせると、急に抱きすくめられてキスされそうになったけど、胸を押してそれを避けたんだって。」
言われてみれば、写真はやや右斜め後ろから撮られていた。キスしているように見えただけだったのかもしれない。
「では、あの写真を撮ったのは誰なんだろう。」
何度となく繰り返した疑問を口にしていた。恐らくあの人物だろうと思うところはあるのだが。
「分からない。ママも分からないって言っていたわ。」
石田は大きな吐息を漏らすと、くらくらと目眩を感じた。何もかも、自らの卑小さが作りあげた妄想に過ぎなかった。そんなもの、幸子の人となりを知っていれば一蹴できたはずだ。しかし、今さら後悔したところで始まらない。石田は素直な気持ちで言った。
「ママに謝っておいてくれないか。一方的に僕が悪かったって。」
「ええ、言っておくわ。こんな作り話を素直に信じたって。」
こう言って、晴美はけらけらと笑った。笑いながらも、どこか醒めた視線を投げかけている。石田が聞いた。
「ママは幸せか。」
「不幸のどん底。パパに三行半を突きつけて、離婚を迫っているわ。パパには女がいるのよ、きっと。でもパパは離婚を拒否しているの。」
「別居しているのか?」
「まあ、そういうこと。でも、ときどき何かにかこつけて家に来ることがある。ママは無視しているけど。あんな奴、家に上げなければいいのに。」
こう言うと、晴美は視線を窓の外に向けた。この話題にはもう触れられたくないらしい。石田も外を眺め、何とも言えぬ複雑な思いを噛み締めていた。

 それから1時間ほど話した。晴美の興味は次々と湧き起こり、石田の今の生活や仕事のこと、晴海の母親とのこと、中野の家の出来事など、聞かれるままに語った。晴美は自分のアイデンティを探求するかのように石田の話に耳を傾けていた。
  結局、石田ばかりが話をするはめになり、晴美の心の襞に触れることはなかった。ふと、晴美がしきりに時計を気にしているのに気付いた。どうやらお開きにしたいらしい。石田は最後に父親らしいことを言いたくなった。
「榊原に聞いたけど、シンナーやっていたって。」
「心配しないで、もう止めたから。あんなの子供がやるものよ。」
「そうか、よかった。お父さんも心配していたんだ。」
晴美が笑いながら言った。
「あっ、今、初めて、自分のことお父さんっていったわね、僕ではなく。」
「ああ、なかなか言えなかったけど、ようやく言えた。本当に心配なんだ。お、と、う、さ、ん、は。」
「でも、私、お父さんって言うの、何となく恥ずかしいわ。それより、仁って呼んでいい。ママがそう呼んでいた。だから私もそう呼ぶ。」
「ああ、いいよ。それより、ご飯食べて行こう。」
そう言って、伝票を取り上げレジに向ったが、後から声がした。
「今日、これからデートなの。」
石田がレジで清算していると、晴美はその後をすり抜け外に出た。扉から顔だけ出して石田に声を掛けた。
「仁、今日は有難う。会えて本当に良かった。また電話する。今度はゆっくりとお食事しよう。」
石田は振り向くと、晴美の微笑みに応えた。その顔がドアから消えたと思ったが、すぐにまた現れた。そして言った。
「奥さんとお子さん、見つけられるように祈ってる。」
石田は気の利いた台詞も思い付かぬまま、苦笑いするしかなかった。 
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