| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

ボリス=ゴドゥノフ

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第三幕その二


第三幕その二

「蚊は薪を割って水を運び」
「蚊が」
「はい。南京虫は粉を練ってそれで蚊にお弁当を作ります。けれどその途中にトンボがいました」
「どうなるの?」
「そのトンボが飛びまわって南京虫に当たりました。すると南京虫は驚いてそのお弁当を川の中で落としてしまいました」
「蚊は怒ったでしょうね」
「勿論」
 クセーニャの顔が明るくなった。乳母はそれを見て話のリズムをさらによくする。
「怒った蚊は薪を手にトンボを追いかけます。そしてその薪をえいやっと」
 乳母はここで何かを投げる動作をした。
「投げましたけれど当たらない。かえって力んだ蚊がこけて自分のアバラをポッキリと」
「折ってしまったのね」
「そうです。そしてそこに倒れ込みましたがそれを助けに来た南京虫は」
「どうしたの?」
「立たせようとしますが彼も朝からお弁当を作っていて腹ペコで。蚊を支えきれず倒れてしまい結局南京虫もアバラを折ってしまいました」
「痛そうな話ね」
 クセーニャは最後まで聞いてこう述べた。
「アバラをなんて」
「はい」
「けれど変わった話だね」
 一緒に聞いていたフェオードルが言った。
「最初は威勢がよかったのに最後は痛い怪我をするなんて」
「けれど二匹は仲良く入院して怪我をなおして。前より仲良くなったんですよ」
「前より?」
「ええ」
 乳母はクセーニャに対して頷いた。
「最初はお弁当をなくして怪我をして悲しかったんですけれど。それが治ったら前よりもずっと仲良くなったんですよ」
「いいお話ね」
 クセーニャの顔が段々明るくなってきた。
「それじゃあ私も元に戻れるのね」
「勿論ですよ。嫌なことは忘れておしまいなさい」
 優しい声で語り掛ける。
「そして新しい恋を見つけましょう」
「そうね」
「クセーニャ」
 ここでボリスが部屋に入って来た。
「御父様」
「思ったより気分がいいようだな」
「ええ、フェオードルとばあやのおかげで」
 父に対して答えた。
「少し気が楽になりました」
「そうか、それは何よりだ」
 ボリスはそれを聞いて顔を崩した。
「それではそれを完全なものにして欲しい。ばあやよ」
「はい」
「クセーニャをお友達の場所へ連れて行ってやってくれ。そしておしゃべりで暗い気持ちを完全に晴らすのだ。よいな」
「わかりました。それでは姫様」
「はい」
 クセーニャはこうして部屋を後にした。ボリスはそれを見届けると今度はフェオードルに顔を向けた。
「そなたは何をしていたのかな?」
「はい」
 フェオードルはそれを受けてボリスに答えた。それは父と子としてであった。
「我が国を見ておりました」
「ロシアをか」
「はい。この地図で」
 そう言ってテーブルの上に置かれていた巨大な地図を指差す。
「ロシアが一体どういった国かを学んでおりました」
「それは非常によいことだ」
 ボリスはそれを聞いて頬を緩めさせた。
「雲の上から見下ろす様にロシアのことを知れ」
「はい」
「間も無くこの国がそなたのものになるのだからな。だがな」
 だがここでボリスの顔が暗くなった。
「決してそれは楽なことではない」
「はい」
「この国の皇帝になって六年が経った。その間に心は疲れ平穏なぞ一時もなかった」
 沈んだ声で語る。
「生も権力も名声も、そして民衆の歓呼も私を楽しませてはくれぬ。家族ですら不幸に覆われている」
 これがクセーニャのことであるのは言うまでもない。
「神の断は厳しく、そこには僅かな慰めの光もない。信仰すらも救いにはならないのだ」
「神もですか」
「そうだ。そして外敵がいる。敵は外だけではない」
「それは」
「貴族達だ。あの者達の反乱を忘れたことはない。そして飢饉と疫病もだ」
「ロシアは病んでいるのでしょうか」
「その通りだ」
 ボリスはそれを認めた。
「ロシアは病んでおる。その病んだロシアには民衆の獣の様な嘆きが響いている。それはわかるか」
「いえ、それはまだ」
「近いうちに嫌という程知ることになる。そしてその原因は全て私ということになるのだ」
「父上が。何故」
 フェオードルにはそれが何故かわからなかった。彼にとってボリスは優しく、頼りになる父であったからだ。
「それもわかるだろう。私の前にいつもいる者が」
「いつもいる者」
「私がやったのではない。時代がそうさせたのだ。だが」
 ボリスの声は低くなった。そしてそれが心さえも沈めようとしていた。その時であった。
 遠くから先程の乳母の声が聞こえてきた。何かを追い払おうとしている声であった。
「しっしっ!」
「どうしたのだ?」
「見て来ましょうか」
 フェオードルが名乗り出てきた。
「うむ、頼む」
 ボリスはそれを受けた。そして息子は部屋を後にした。彼と入れ替わりになる形で若い侍従が部屋に入って来た。
 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧