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ボリス=ゴドゥノフ

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第三幕その一


第三幕その一

                    第三幕 空虚
 ボリスの家であるゴドゥノフ家はモンゴルの小貴族の出身である。彼はそこにコンプレックスがあった。この時代のロシアは依然大貴族の力が強く、また彼等の血筋が大きな意味を持っていた。ゴドゥノフはそれを熟知しており、イワン雷帝の時と同じく彼等を抑える為に様々な手を打ってきた。多くの者を抜擢したり、官位を与えて自らの信頼の置ける部下達を作り上げると共に商工業者や下級貴族達を優遇した。農奴制も自らの基盤を確かなものとする為であった。雷帝がその非情そのものの統治で作り上げたものをさらに完成させようとしていたのである。彼の家もその中に当然ながら入っていた。
 彼は欧州の名門貴族との縁組を進めていた。彼の娘であるクセーニャとデンマーク王の弟であるヨハンとの婚姻もその中の一つであった。だがこれは不幸な結末に終わってしまっていた。  
 ヨハンがモスクワ入りしてすぐであった。婚礼を目の前にして急死してしまったのである。原因は不明だ。それは表向きはわかっていても真相は藪の中という意味である。王家や貴族の間ではよくある話だ。今まで壮健そのものであったのに急に病に倒れ世を去るのは。彼もまたそうであったのかも知れない。
 だがこれで悲しむ者がいるのもまた事実である。美しい王子に一目会っただけで心を奪われたクセーニャがそれであった。彼女はヨハンの死以来悲しみの中に身を置いていた。
「そうか、クセーニャが」
 ボリスはそれを玉座において聞いた。クレムリンの奥深くにある広い皇帝の間において。彼はその大きな身体を巨大な玉座に埋めていた。だがその玉座は決して温かいものではなかった。
「無理もないことだ」
 ヨハンの死は皇帝としてのボリスにとっても悲しいことであった。これで権威と権力基盤を確かなものとしようと考えていたからであった。そして娘の婚約者の死は父としてのボリスにとっても悲しいことであった。
「如何為されますか」
 それを見越してか目の前に控える貴族の一人が問うてきた。ボリスが抜擢した貴族の一人である。
「私が行こう」
 ボリスは低い声で答えた。
「行って娘の悲しみを抑えて来る。よいな」
「御意」
 ボリスはそこまで言うとすっくと立ち上がった。そして皇帝の間を後にしてそのまま娘のいる私邸へと向かうのであった。
 クセーニャは広い部屋にいた。大きいが質素な調度品に囲まれている。その中にある大きな椅子に黒い髪と瞳の小柄な少女がいた。顔立ちは父の血であろうかいささかアジア的な色合いを残している。その髪と目も何処かアジアを思わせるものであった。
 大きな椅子に埋もれる様にして座っている。そして悲しい顔で泣いていた。その前に赤い髪の少年がいた。見れば彼女よりも数歳程下の様であった。
「姉さん、泣かないで」
 彼はクセーニャに対してこう語っていた。
「悲しいのはわかるけれど泣いたって何もならないよ」
 優しい声で言う。だがクセーニャはそれでも悲しい顔のままであった。
「けれど」
 赤い目をして言う。
「あの人はもう」
 机の上にはロシアの巨大な地図がある。どうやら少年はそれを見て勉強していたらしい。そして部屋の左隅には大きな時計が置かれている。この時計だけは豪奢でありベルまで付いていた。ボリスが子供達の為に特別にスペインから取り寄せたものである。
「お墓にいるのよ、フェオードル」
 弟の名を呼ぶ。
「それなのにどうして悲しまずにいられるの?」
「それはあれを見て心を慰めて」
「あれ?」
 クセーニャはそれを受けて顔を上げる。
「ほら、あれだよ」
 フェオードルは時計を指差す。そのスペインの時計を。
「あの時計は凄いんだよ」
「凄い?」
「そうさ、時間になったらベルが鳴ってラッパや太鼓と一緒に人間達が出て来るんだよ」
「おもちゃでしょ」
 からかうように告げる。だが。
「けれどそのおもちゃが人間そっくりなんだ。凄いだろ?」
「スペインの時計ね」
「うん」
「凄いのはわかるわ。スペインなんだから」
 当時のスペインはそれまで国を支えてきたフェリペ二世をなくしていた。だがそれでも依然として欧州にその名を知られた強国であった。寒い欧州の端にあるロシアから見れば夢の様に眩く、そして華やかな国であった。
「そのスペインのものなんだよ」
「けれど私のあの方はデンマークの方だった」
 やはり気は晴れなかった。
「もう私は」
「姫様」
 ここで年老いた乳母が部屋にやって来た。
「そんなに悲しんでも仕方ありませんよ」
「けれどばあや」
「殿下も言っておられるではありませんか。悲しんでも仕方ないと」
「それでももう」
「姫様」
 乳母はクセーニャの側まで来るとまた言った。
「娘の涙は朝露と同じものですよ。お日様と共に消えてしまうもの」
「けれど私の涙は消えないわ」
「さて、それはどうでしょうか」
 あえてクセーニャの言葉をひっくり返してきた。
「一目惚れはよくあること」
「一生のことだったわ」
「けれど捨てる神があらば拾う神ありですよ。まずは御聞きなさい」
「何を?」
 彼女は暗い顔のまま乳母に問うた。
「私の話を。いいですか?」
「よかったら話して」
 クセーニャはそれを促した。
「何のお話かよくわからないけれど」
「わかりました。それでは」
 乳母はそれを受けて話をはじめた。
 
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