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ラ=ボエーム

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第二幕その八


第二幕その八

「まさか今の恋人のお勘定も払ってなんて言えないでしょ?」
「そうだな。じゃあ行こう」
「ただちょっと待って」
「どうしたんだ?」
「靴が無いのよ」
 そう言ってさっき靴を脱いだ方の足を見せた。
「ほら、さっきのあれで」
「そうか」
「よう隊長さん」
 その彼等の後ろでまた歓声が起こった。
「よく来て下さった」
「いつもながら決まってるね」
 見れば鼓笛隊長がやって来ていた。ことさらに着飾り、パリッとした様子でやって来る。思わず振り向かんばかりの男伊達でありその手には金色の指揮棒がある。
「それでね」
 ムゼッタはマルチェッロに対して言った。
「手を貸して欲しいのよ」
「仕方ないな」
「それじゃ僕も」
 コルリーネもやって来た。そして左右から担がれて店を後にする。その次にロドルフォとミミが並んで続き、最後にいるのはショナールであった。
「さてさて」
 ショナールは店の方を振り返って呟いた。
「顧問官殿にはお気の毒だけれど。まあパリジェンヌのことはわかっているだろうしな」
 気紛れで贅沢を愛する。それがパリジェンヌである。振られただの一杯食わされただので怒るのは男として野暮なものであるのだ。
「まあ最後まで見れないのは残念かな」
「じゃあなムゼッタ」
「また来てくれよ」
「ええ、またね」
 ムゼッタは客達に応えていた。
「それじゃ後はお願いね」
「うん」
 一行は姿を消した。そしてそれと入れ替わりにアルチンドーロがやって来た。
「ふう」
 彼は額に流れる汗をハンカチで拭いながら店に戻って来た。
「お帰りなさい、顧問官さん」
「お疲れ様です」
「いやいや」
 彼は辛そうな息を吐き出して客達の挨拶に応えていた。
「困ったことだよ、全く」
「ムゼッタのことですか?」
「うん、何しろ我が儘でね」
 彼は困った顔でそう応えた。
「あれが食べたいとかこれが欲しいとは」
「いつもそんなのですか」
「そうなんだよ。いや、それはいいんだがね」
 彼はさらに言う。
「おまけに移り気で。すぐに他の若い男に」
「ムゼッタはそんなのですよ」
「君達も知ってるのかい?」
「だって有名ですから。なあ」
「ああ」
 彼等は互いに頷き合う。顧問官に同情するふりをして実は心の中で笑っている。
「それでね、顧問官さん」
「うん」
「ムゼッタは。止めた方がいいですよ」
「もっと大人しい娘が宜しいかと」
「そうは言ってもね」
 だがアルチンドーロはそれには首を縦には振らなかった。
「あれだけ美人だし。そもそも美人のパトロンになるのは」
「義務のようなものだと」
「君達もそう思うだろう?芸術家と美女はフランスの宝だ」
「この二つは何をしても許すと」
「まあね。人を殺しでもしない限り」
「わかりました。それを聞いて安心しました」
「安心!?」 
 彼は買ってきた靴を出しながらテーブルに座った。
「何を安心するんだい?一体」
「まずはテーブルを見て下さい」
「ムゼッタも随分食べたね」
 食い散らかされた皿の山と林立する空き瓶を見て言った。
「いつものことだけれど。もう少し上品に食べたらいいのに。まるでナポレオンが食べたみたいだ」
 ナポレオンの食事マナーはお世辞にもいいものではなかった。当時ようやくフォークが一般化してきていたというのに手掴みで食べ、食べた骨は床に投げ捨て所構わず汚れた手を拭く。料理が来るのが遅いとテーブルを蹴飛ばし慌てるコックに対してこう言ったのだ。
「そなたはまだいい。余一人の機嫌を取っていればいいのだからな」
 そして続けてこう言った。
「余は国民全ての機嫌を取らなければいけないから大変なのだ」
 そう言って料理を催促していた。そのうえ食べるのも非常に早かった。この時のパリではナポレオンの食事マナーと言えば無作法の代名詞であった。
「何度も言っているのに」
「マナーだけじゃありませんよ」
「まだ何かあるのかい?」
「ですからテーブルの上を」
「よく御覧になって下さい」
「お勘定があるね」
「はい」
「それも二つって・・・・・・えっ!?」
 その二つの勘定を見て思わず驚きの声をあげてしまった。
「な、何なんだこれは」
「ムゼッタからの餞別ですよ」
「払って欲しいって」
「一つはわかるがもう一つは」
「その芸術家のものです」
「芸術家」
 思わず声をあげた。
「もうここにはいませんよ、彼等は」
「ムゼッタと一緒にどっかに行っちゃいました」
「またか」
 アルチンドーロはそれを聞いて思い切り嘆息した。
「また若い男と」
「けれど怒らないんですよね」
 客達はこれ以上ない程落胆する彼に対して尋ねた。
「芸術家と美女はフランスの宝だから」
「人を殺しでもしない限りは何もしない」
「その通りだ」
 彼は泣きそうな顔でその問いに答えた。
「支払うよ。これもパトロンの義務だ」
「流石は顧問官さん」
「太っ腹なことで」
「けれど何でこうなるんだ?」
 本当に今にも泣き出しそうであった。
「ムゼッタと一緒にいると」
「それがムゼッタなんですよ」
「移り気で遊び人」
「しかも魅力的ときたものだ」
「難儀なものだな」
「けれどそれは承知だったんでしょう?」
「ああ」
 へたれ込んでいた。
「まさかとは思ったけれど」
「では次のパトロンを見つけましょう」
「運がよければまた彼女の方から来ますよ」
「そうするか。まずは」
「お勘定ですね」
「そうだったな」
 泣きそうなまま勘定を払う。彼にとっては踏んだり蹴ったりのクリスマスであった。
 
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