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呉志英雄伝

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第十二話~時勢は混沌を帯びて~

【荊州動乱における報告】
今から約5年前の中平元年2月、太平道の教祖・張角が農民を煽動して起こした百万の規模にも上る大反乱・黄巾の乱に端を発して起きた、孫堅・劉表という荊州における二大勢力間の争い。
当初、荊州北端の宛城に巣食う黄巾二十万を包囲すべく、朱儁・袁術・劉表・孫堅の四勢力が集結した。しかし黄巾二十万に対して討伐軍が三十万だったとはいえ、敵勢力は籠城。
故にどこも手を出せず、膠着状態が続くと思われた。
その矢先、孫呉が敵城内にある兵糧庫、兵舎に同時に放火。慌てふためく城内に味方の軍勢を引き入れ、見事敵首領を討ち取る。
孫呉以外にも袁術・朱儁も主力の首級を挙げたが、劉表のみは何の功もあげられなかった。その翌日、意気揚々と帰還しようとする孫呉勢、その最後尾を行軍していた黄祖が突如孫堅に反旗を翻す。
それに呼応したかのように、伏せていた劉表軍が孫呉の軍勢を急襲。結果、孫呉の君主・孫堅は腰に矢を受け重傷、猛将朱才は黄祖の不意打ちを受け、未だ公の場に姿を現さない。一部では死亡説も流れている。
他にも祖茂を始め、名だたる将が野にその屍をさらした。
戦いののち、死に体で長沙へと帰還した孫堅は、以前より秘密裏に行っていた塩の製造が公となり、朝廷より隠退の沙汰が下り、新党首として長子・孫策が立つ。
また拠点は廬江となり、今は我が袁術の監視下に置かれている。
なお荊州はほぼ全土劉表の支配下となり、孫堅が治めていた南荊州四郡にはそれぞれ新たな太守が赴任している。





「義封よ、どこにおるのじゃ!」


ふと自らを呼ぶ声を耳にした青年は、読んでいた書を閉じるとその声の主である少女の方へと眼を向ける。
少女は見栄えのする金色の髪に翡翠色の瞳、そして愛嬌のある笑みを浮かべて、義封と呼ばれた青年へと駆け寄る。


「いかがされましたか、袁術様」

「堅いのう。真名は既に許しているであろ?」

「申し訳ございません。真名すら持たぬ兵卒の身なれば、名門たる袁家の袁術様を真名で呼ぶなど…」


青年の余所余所しさにむぅ、とかわいらしく頬を膨らませる袁術。兵卒に支給される兜を被っているため、どうにも表情をうかがい知ることは出来ないが、それでも恐縮した声音で弁解の言葉を紡ぎだす。


「仕方がありませんよぉ、美羽様。生まれが賤しく、本来なら美羽様と言葉を交わすことさえおこがましいんですからぁ」


そんな義封に毒を吐くのはこれまた美眼麗しい青髪の女性。こちらは袁術とは違い妙齡であり、甲斐甲斐しく袁術の世話をしているその姿は、傍から見れば姉のようであった。
とげとげしい女性の物言いに、袁術は心無し表情をゆがめる。


「むぅ、七乃。もそっと言い方と言うものがあるのではないか?」

「善処は致しますねぇ。………ところで袁術様、袁遺様がお呼びです」


今まで底意地の悪い笑みを浮かべていた張勲―七乃―は、間を取り、表情を引き締めると臣下として主に報告を申し上げた。
報告を聞いた袁術は先ほどとは違った表情のゆがめ方をする。


「…ふん、どうせまた孫呉に出向いて挑発してこい、などと申すのであろ?」


因みに確認しておくが、袁術が属する勢力の頂点は他でもない袁術である。
しかしその袁術の言葉からして、今彼女を呼びだしている人物は彼女以上の立場にあることが推察できる。それがすなわち何を指すのか。


「傀儡も楽ではないのぅ、七乃」


そこには年にそぐわない表情を浮かべる袁術の姿があった。そんな袁術を見た張勲は、その華奢な体を抱こうとするが、それでもそれは未遂に終わる。
袁術は俯きがちに、袁遺なる人物が待つ場所へと歩いて行った。
青年も張勲も、縮こまる小さな背中をただ悲痛な面持ちで見つめることしか出来なかった。





「…義封さん」


幼き主の背中を見えなくなるまで見続けていた張勲は同じく佇んでいた施然に語りかける。


「どうしましたか、張勲殿」

「…本当にこれでいいんですか?」


張勲の疑問の言葉には弱弱しさがにじみ出ていた。
そしてその態度に先ほどまでの毒づいていた彼女は感じ取れない。


「少なくとも、今は動くわけには参りません…袁遺殿も張勲殿が耐えていることに気が付いているのでしょうから。もし動けば…」


そこまで言うと施然は口を閉ざした。
言霊という言葉があるように、もし口に出してしまえば現実に成り得る。それだけはさせまいと、彼は口を固く結んだ。

揚州・寿春を中心に、また歴史に残る出来事が起ころうとしていた。




―――――――――――――――――――――――――――――――







汝南・寿春を含めた揚州北部における袁術の評価というものは著しく低い。
要因は様々にあれど、その最たるものが民を省みぬ重税である。また彼女の配下である者たちの素行も怨みを買う一助となっている。
そんな悪評高い袁術と異なり、着々とその名声、そして力を蓄えているのは皮肉にも彼女の一族である袁遺だった。
彼は度々暴政を敷く袁術に諫言を行うが、その悉くを無視され、また主意に逆らうが故に不遇を囲うことになったとされる。
民はそのことから袁遺を慈悲深く、物事の分別をわきまえる賢人と評した。無論領内では袁術に代わる為政者として袁遺を望む声が大半を占めている。
しかし民は知らなかった。
自らを苦しめる悪しき存在は何なのか。





「何の用じゃ」



不満気な表情を隠そうとしない袁術はこれまた不満を募らせた声色で、目の前の初老の男性に疑問を投げつける。
対する男は至って飄々としており、不満げな主などどこ吹く風、自分の用件を伝える。



「黄巾賊は瓦解したとは申せ、いまだに領内には民を苦しめる不逞の輩が跋扈していると聞きます。為政者として、これは野放しには出来ないでしょう?」

「ではどうしろというのじゃ。今のわらわに軍権がないことは、取り上げたお主自身がよく存じておろう」



袁術は憎憎しげに顔を顰める。
いまや袁術軍にとって、袁術の存在はただの象徴に過ぎない。ただ存在さえすればあとはどうなろうと構わないのだ。
自分の非は袁術の非。責任を転嫁出来るきわめて簡単な構図である。これは古今東西、袁術軍に限ったことではない。
しかし袁遺は違った。彼は袁術にただの象徴以上を求める。いや、ある意味では以下と言っても差し支えない。



「袁術様が軍を率いる必要などないでしょう?あなたには有能な『狗』がいるではありませんか」



袁遺の袁術を見つめる眼に嗜虐の念が宿った。
答えを直接言わず、あくまでも袁術本人に求めさせる辺り、民が揃って賛美するその慈悲深さは仮初めであることがよく分かる。



「また孫策のもとへ出向けと言うのかの?」

「さすがは聡明な袁術様だ。私なんぞ思いもつかぬことを簡単に思いつきなさる」



慇懃無礼もここに極まれり。
最早侮蔑と嗜虐しか宿さぬ袁遺の言葉に袁術は内心辟易していた。この男は自分を悪役に仕立て上げようとしているのがよく理解できるからだ。しかしまだそれを面に出すことはかなわない。
袁術はつい先ほど自らの部下に言われた言葉を反芻する。





『お嬢様が辛いのはよく分かっております。それでも今は耐えなければならないんです。今動けば向こうの思う壺ですから…』





自分が最も信頼する張勲の言うとおり、今は時期ではない。傀儡たる自分にもそれくらいの思考力はある。自分の倍以上生きるこの男は自分の周りを完全に部下で固めている。
事を起こせば間違いなく、今媚びへつらっている部下はいっせいに矛を向けてくる。今は雌伏の時なのだ。
喉まで出掛かった罵声を飲み込みつつも、彼女はいつ終わるかも定かではない雌伏を甘受する。
そして今日も彼女は袁遺に都合のよい『人形』として、課せられた使命を消化すべく動くのだった。






――――――――――――――――――――――――――――







袁術が去った後の、袁遺の私室。
そこには別の来客の姿があった。彼は人目を忍ぶように顔を布で覆い隠している。
しかし、袁術軍実質の支配者である袁遺はそんな無礼を意に介さず、その男に接する。



「ご苦労でしたな。これでようやく揚州の支配が実現する」



本来ならば高笑いの一つでもしたかったのだろうが、それを押し殺し、くぐもった笑いで済ませる袁遺。




「この度の策が成った暁には…」

「えぇ、もちろんですとも。約定を違えることはないですよ」

「………言質はとりました。くれぐれもお間違いの無きよう」




それだけ言い残すと、男は部屋を退出する。残った袁遺はその背中を見届け、しばらくするとつぶやいた。



「………むざむざ虎を野に放つなど有り得ぬだろうに」



その声音はあくまでも他者を蔑み、見下していた。
しかし、一月と経たないうちに彼のたくらみは一時的な中断を余儀なくされることとなる。

漢王朝の権威は完全に失墜し
各地の群雄が大陸の覇を競う
そのきっかけとなった出来事
『反董卓連合』結成の檄文来たれり。
時代の流れは眼に見えて激しくなった。
 
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