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冥王来訪

作者:雄渾
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第二部 1978年
歪んだ冷戦構造
  少女の戸惑い その3

 
前書き
 グレーテルいわく、カレルは反社会的な人間なので、より反社会的な人間にしました。 

 
 1978年の暮れの東ベルリンは、年初の緊張と一変して、恐ろしいくらい平和だった。
相変わらず西と違って、町は薄暗く、戦後の焼け跡の間からひそと話声が聞こえる程度であった。

 さて、グレーテルは、校庭の端で昼食をとっていた。
学校では社会主義を信奉する優等生として通っているせいか、友人らしい友人がいなかったためだ。
 しかし、今は、寂しさはない。
マルティン・カレルという、秘密を共有する仲間が出来たからである。
 カレルとの関係は、今年の夏休みにまでさかのぼる。
7月20日の終業式の際、オラニエンブルク近郊の町にある不法投棄現場まで、彼の後を付けていったのが関係の始まりだった。
 それから夏休み中、彼の調査活動を手伝うとして、一緒にベルリン近郊の村落を見て歩いた。 
 何か特別なことをするわけではなく、彼と一緒に時間を過ごす。
そんな何気ない事が、グレーテルには愛おしい時間だった。

 突然、グレーテルの面前へ、男子生徒が、眼いろを変えて駈けて来た。
「カレル、一体どうしたの」
 短い金髪に、怜悧(れいり)そうな顔をし、十代にしては逞しい体つきの男子生徒。
 この少年こそが、グレーテルの思い人カレルであった。
彼は、身をふるわしていうのだった。
「答えてくれ、グレーテル。
君のお父上が、議長に暴言を吐いたそうじゃないか」
 カレルは、瞋恚も明らかに、ぐっとグレーテルへ詰め寄った。
「やっぱり、例の話は本当だったのだね。
君のお父上が大変なのは、僕も聞いている。
でも、党幹部や大臣、お偉方にどうやって説明するんだい。
それに僕たちは未成年だ。陳情書も出せないよ」
 グレーテルは、力をこめていった。
「ベルリンにね、近いうちゼオライマーのパイロットが来るの。
彼に会って、私の父の件を頼みこもうかって……」
 そういうカレルの顔を、穴のあくほど見つめていた。
グレーテルは、なおさら、真面目づくって、
「貴方を、巻き込みたくなかった」
グレーテルは、気まずさをこらえきれず、目を伏せてしまう。
「巻き込む、僕は、君の友人じゃなかったのかい。
今更、水臭いことを言うなよ。巻き込むも、何もないだろう」
 カレルの言葉に、感激で胸が震えた。
同時に強い悲しみが、グレーテルの胸を襲う。
彼に迷惑をかけてしまったと、双眸(そうぼう)に熱いものが溜まる。

 カレルは、グレーテルに密着し、腰に手を回した。
二人は、視線を交わしている。
以前にはなかった、親密な空気に支配されていた。
 カレルが、ここまで感情をあらわにするのを、グレーテルは初めて見た。
しかし、それは当然の反応だった。
「無茶だよ。外国人だろ、日本人だろ。僕たちじゃ接点がなさすぎる」
カレルの感情を抑えるような声が、グレーテルの頭上に振ってきた。


 父を救うために、木原マサキに会いに行く。

 純情な少女の執念ともいえる、グレーテルの計画。
この計画には、致命的な欠陥があった。
それは、彼女がマサキの顔を知らないと言う事である。
 
 この時代の東ドイツには東洋人は少なかった。
BETA戦争で、東欧から帰国してしまったのも大きい。
 なにより、9年前の中ソ対立によって、ソ連と中国の関係が悪化したのが原因だった。
1960年代に多数いた、中国人留学生や外交官は皆、帰国してしまった。
 また、出稼ぎに来ていた北ベトナム人や北朝鮮人。 
彼らのような親ソ衛星国の国民の事を、現政権は怖れた。
 ソ連の煽動工作を怖れて、政府は帰国命令を下した。
 つい先ごろ、ドイツ国内から、退去するように命じた議長名の政令を発布したばかりであった。

 その為、東洋人は、東ドイツ全土からほとんどいなくなってしまったのだ。





「まさか、ベルリンの繁華街を歩いて探そうっていうのかい」
グレーテルは、金縛りにあったように、足は動かず、声も出なかった。
「図星だね……」
 そういいながら、カレルはグレーテルの周りをゆっくりと威圧的に歩き続ける。
グレーテルは、暗然と、眼をくもらせたまま、なすすべを知らなかった。
「日本人、いや外国人観光客のたくさん来る場所なら心当たりがある」

 カレルの計画は、実に簡単なものだった。
学校から帰った後、二人でペルガモン博物館に行こうと言う事だった。
 グレーテルがさらに衝撃を受けたのは、マサキに会うまで毎日続けるという途方もないものだった。


 グレーテルは、日々変化していく自分にかすかな不安を覚えはしたものの、カレルとの秘密の関係には満足していた。
その至福と絶頂は、何物にも代えがたいものに感じてならなかった。
 だがそんな秘密の関係は、露見せずにはいられなかった。
いつまでも、一人密かに恋に浸り続ける事は出来なかった。


 今日もなお36万人の人員を誇る諜報機関KGB。
それに勝るとも劣らない東ドイツの諜報機関シュタージ。
 約20万人の職員の大半は、嘱託の医師や看護婦、料理人や炊事婦、ボイラー技士や整備工だった。
また首都を防衛するフェリックス・ジェルジンスキー衛兵連隊や高速道路警備隊などである。
 実際のスパイ作戦に従事する者は少なかったが、それでも9万人近い情報提供者を抱えていた。
これは人口1600万の東ドイツでは、異様な人数だった。
 また地方の監視活動は、KGBの国内保安局の手法をまねて、網の目の様な防諜網が敷かれていた。
 
 ゆえに、カレル少年とグレーテルの夏休みの逢瀬は、シュタージの地方局からすでに本部に上がっていたのだ。
シュタージは、イェッケルン課長の失態を手ぐすねを引いて、待っていた。 
 そして、今回の事件を大いに利用しようとしたのだ。
上手くいけば、グレーテルと、その父であるイェッケルン課長を貶めることが出来る。
 成績優秀なグレーテルを逆恨みする生徒や父兄も多く、彼女は狙われていたのだ。
また、イェッケルン課長は生真面目すぎることで、各所から恨みを買っていたのも事実だった。
当人たちの知らないところで、大規模なシュタージの工作が、今、仕掛けられようとしていた。


 その夜。
失意のうちに、イェッケルン課長は帰宅の途に就いた。
彼は、茫然と歩いていた。
ミッテ区の共和国宮殿から出て、プレンツラウアー・ベルク区のわが家のほうへ。
こう歩いていても、人ごこちのない程、彼は、憔悴しきっていた。

「お帰りなさい」
わが家へはいって、椅子へ坐っても、まだ考えていた。
「グレーテルの事で、学校から通知が来ております」
 彼の妻は、彼が坐るとさっそく、一煎の薄い茶と、一通の手紙を前へ持って来た。
手紙は、学年主任からで、ひと眼見ても、ことの重大さが、すぐ知れた。
 内容は以下のとおりである。
『成績優秀な貴兄のご息女ですが、何やら芳しくない噂を聞いております。
過激なブルジョア思想にかぶれた少年と交友し、いかがわしい場所に出入りしていると伺っております。
後日、警察や教育委員会と協議し、今後の対応を検討したいと考えております』
 妻が、前にいるのも知らぬように、課長は、ぶるぶると身を震わしながら、二度も三度も読みかえしていた。
余りに興奮しているので、前にいた彼の妻のほうが、間が悪くなって、もじもじしていた。

手紙を畳みながら、彼は、にがりきって、独り言を大きくつぶやいた。
「この話は本当なのかね!」
「はい」
そういって、妻が耳打ちをしてきた。
「役所のうわさで聞いたんだけど……どうもそうらしいのよ……」

「西のヒッピー思想にかぶれた小僧と、グレーテルが遊んでいるだと……」
 彼には直ぐ思いあたることがあった。
ここ数年来、危険な思想をもちつづけているヒッピーの活動家に、娘がたぶらかされたのではあるまいかということだった。
 経済発展を最優先にする東独では、環境問題の活動家はヒッピーと同一視された。

「もしもだけど、うちのグレーテルがそういう輩に誑し込まれて、駆け落ちしたら……」
「その時は、俺の方でシュタージなり、警察なりに、そのヒッピー野郎を訴えてやる」
と、呼吸も荒く、妻を叱ったが、
「グレーテルは、意固地だが、根は正直な娘だ。
そんな大事な一人娘を、西のブルジョア思想にかぶれた屑野郎にくれてやる理由もない。
あの子は、田舎の役所の簿記でも務めながら、いい男の目にでも止まってくれれば……」
 彼は、反省した。
しかし反省は、あきらめではない。
グレーテルを、早く諭したほうがよいと考えたまでのことである。

 積極情報、世にいう偽情報工作は、KGBの十八番(おはこ)であった。
例をとれば、戦前に世界各国を騒がせた『田中上奏文』である。
 この怪文書は、1925年ごろ、ジェルジンスキーの提案に基づき、OGPUが作った物である。
(OGPU、合同国家政治総本部とは、KGBの前進機関である)

 1929年9月、突如として日本国内に持ち込まれ、当時京都で開かれていた太平洋問題調査会の会議の座上で提出されたの始まりという。
そして日米開戦前の1930年代に米国共産党の秘密ネットワークによって全世界にばらまかれた。

 東ドイツの環境問題に関心を持ったカレル少年。

 カレルが調査していた、高速道路沿いの不法投棄。
それは、人民コンビナートと呼ばれる、東独の国営企業の産業廃棄物が原因。
急速な戦時増産体制によって、ごみ処分場が足りなくなり、空き地に建設残土とともに廃棄していたのだ。
 そして、カレルが調べていた高速道路は、シュタージ第8局の管轄だった。
いくら総合技術学校の9年生とは言えども、シュタージはその目を逃さなかったのだ。

 彼は、シュタージの陰謀によって、ヒッピー思想にかぶれた危険人物とされてしまったのだ。
そんな彼と夏休み中、逢瀬を重ねたグレーテルは、ヒッピーの恋人という烙印を押された。
 
 駐留ソ連軍が撤退し始め、ソ連による抑圧政策が弱まってきた時世である。
KGBの下で働いていた、シュタージにも敵対的な眼が増えてきていた。

 
つまり、イェッケルン家は、シュタージの偽情報工作の真っ只中に放り込まれてしまったのだ。 
 

 
後書き
 ご意見、ご感想、お待ちしております。

マルティン・カレルは、アニメの最終回でグレーテルの病室を見舞いに来た青年です。
外伝小説の短編の登場人物です。 
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