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冥王来訪

作者:雄渾
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第二部 1978年
狙われた天才科学者
  先憂後楽  その3

 
前書き
 ユルゲン兄ちゃん、久しぶりのクソガキムーブ回 

 
 マサキ達を送り返した一週間もした日、ユルゲンは副官のヤウクを伴って家路へ向かっていた。
途中、国営商店の「ハーオー」の店の前で、行列に出くわすと、
「なあヤウク。あそこに居るのはアイリスじゃないか」と訊ねた。
丁度、向こうから両手いっぱいに紙袋を下げたアイリスディーナが来るなり、
「もう帰ってたのか。別にハーオーで安物買わなくても良いだろ。
デリカートで上手いもの買ってきて、ベアに食べさせた方が良い」と窘めた。



 
 ここで、読者諸賢には、すでに歴史の中に消えてしまった、東ドイツの住民の暮らしが、どんなものであったか。
その一端を説明する為に、筆者から、解説を許してもらいたい。
 社会主義による平等を標榜する、東ドイツには、基本的にスーパーマーケットは国営商店であったが、おかしなことに、金額によってランクがあった。
一般的に、低価格スーパー「ハーオー」(HO)が有名だが、15の中心都市に置かれた大型デパート「中央(ツェントルム)」、商店チェーン「コンズーム」が、あった。
 1960年代後半になると、ウルブリヒトの経済政策で「富裕層」が出現したので、高級店が公に設置された。
高級品店「エクス・クヴィジット」と高級食材店「エクス・デリカート」である。
「デリカート」には品質の良いものが並び、「ハーオー」には安いが品質の悪いものが供給された。
庶民は「ハーオー」に昼間の早い時間から並び、数時間の行列の後、店内で粗悪な品物を購入した。
入荷時期などが流通の関係で不明瞭だったので、一度の買い物により、しばしば不必要な買い占めが行われた。
買い占めた品物は、自宅に貯められ、親族や近隣の住民と物々交換や僅かばかりの西ドイツマルクと交換された。


 さて、ユルゲンたちの所に再び視点を戻そう。
 ユルゲンから叱られた、アイリスディーナは、一瞬ためらったような表情を見せた後、
「流石に、将校服を着て、デリカートに入るのは……拙いと思います。
ベアトリクスの事を気になさるのはわかりますが、何処で、だれが、見てるか分かりませんし。
それに……」
「なんだよ」と、笑みを浮かべながら、答えた。
「兄さんは、色々なやっかみを買っているのをご存じないと思いますが……」
その声に気が付いて、ヤウクはずけずけと割り込んできた。
そして顔を見合うと、
「なんだ、そんな事か」と、おたがいにまた、笑った。
「大体、そんなことに気付く人物だったら、懲罰委員会に数度かけられるかね。
酒保(軍事基地の売店)で戦車兵と喧嘩したり、議会で議事妨害するもんか。
ソ連留学の時、カザフスタンで、僕と一緒になって基地司令と喧嘩する男だよ。ハハハハハ」
と声を上げて笑った。
アイリスディーナは、呆っ気にとられて、
「おふたりは、そんな事まで……」と、たずねた。
「そうだよ」と、ユルゲンは誇るように肯定して、かつ紹介した。
「こいつは、あの時、司令官に直言を呈し、あまり強く、核使用反対を表明した。
『君はドイツ人だ、この国の人間ではない』と言われた上、GRUの監視までつけられたのだよ。
フハハハハ」
「ワハハハハ」と、ヤウクも一緒になって、他人事みたいに笑って見せた。

するとほどなく、スカーフを被った、年のころは40前後の、細面の女性が、駆け寄って来た。
「坊や」と、声を上げ、とるものを取らずに、近づいて来た様に、驚いた顔をしたヤウクは、
「ママ」といって、駆け寄るなり、抱き着いた。
 ロシア人の既婚者と一目で見て、判る、首の周りに巻き付けるスカーフの被り方。
目の前に立つ婦人が、ヤウクの生母であることを、ユルゲンは理解し、
「ヤウク、君の御母堂(ごぼどう)か」と訊ねた。
「ああ。僕の母親さ……戦争になると思って会いに行ってなかった」
と、ヤウクの母は、息子から紹介されて、ユルゲンの人物を見、よろこびを現して、
「隊長さんですね。愚息がいつも、世話になって居ります」
とグレーの瞳を輝かせ、心からの礼を言った。
ユルゲンは、ヤウクの母に一礼を施した後、
「御母堂、いつも世話になっているのは、私の方です。
小官が、今こうしてあるのも、同志ヤウク少尉の助けがあっての事。
士官学校で席を並べて以来、御子息の存在なくば、職務を全うすることも叶いませんでした」
と慇懃に謝辞を述べた。
一頻り話した後、照れた表情をするヤウクは、
「では、僕は失礼させてもらうよ」と言い残し、母と共にその場を去っていった。




 さてまた。ヤウク達と別れたユルゲンは、アイリスと共に帰宅した。
しんと静まり返った家の中を見回し、
「おい、帰ったぞ。誰もいないのか」と、大声で呼びかけた。
すると奥より、ウエーブの掛かった黒髪が、特徴的な婦人を認めるや、ユルゲンは、
「あ、お義母さま。お久しぶりです」と、会釈をした。
件の婦人は、アベール・ブレーメ夫人で、ベアトリクスの母。
 まさかの人物の来客に、驚いたアイリスディーナは、
「ザビーネさん、お仕事は」と、問い質すと、
「ベアトリクスの様子が不安になり、休みを頂いてきました。
あの子の我儘で振り回され、ユルゲン君がやせ細っていないかと心配でしたが、安心いたしました。
ホホホ」と微笑を浮かべて、
「わたくしのほうでも、アイリスちゃんにも聞きたいことがありましてね」
「どうか致しましたか」
「例の木原博士と称する、東洋人が来ましてね」と、驚くようなことを言う。
その場に、衝撃が走った。

ブレーメ夫人の、ザビーネがいうには、
 昨夕、ふらりと一人の東洋人が、音もなく屋敷を訊ねてきて、
「自分はアイリスディーナの事を見初めた男だが、この際、親族の者たちに近づきの印を持ってきた」
と、腕時計や真珠の首飾り、絹と羊毛を5(ひき)ばかり、進物として持って来て、
(疋は長さの単位。一反の倍。着物は24メートル、洋服の生地の場合は50メートル)
「俺は、木原マサキ、天のゼオライマーのパイロットだ」と、啖呵を切った。
色を失って(おのの)く、アベールを別室に連れて行き、2時間ほど、ねんごろに話したという。

ブレーメ夫人は、その時の興奮が、冷めやらぬように、
「うちの人は、経済企画委員会に名を連ねる、すこしは名の知れた官吏。
ですから、ソ連やチェコなどより、ふいの来客など、決して珍しい事では御座いません。
でも、海の彼方の、日本より、壁を越えて来られるなど、今まで有ったことがありましょうか。
木原博士は、世には明かしていない、私たちの東屋(あずまや)まで訊ねられたのは、驚きでした。
姻族の、義父母にまで、丁寧に礼節を尽くされて、極東より、いらして下すったのです。
この事をお知らせしようかと思いましてね」という相談であった。
興奮して話す(しゅうとめ)の様を、なかば呆れた様な表情で見いていたユルゲンは、
「さあ、お茶でも淹れますので……」と、アイリスに目配せをする。
茶の準備を急がせ、玄関より応接間に向かった。

 応接間より、女の話声が聞こえるのを不思議に思ったユルゲンは、
「お義母さま、誰か客人でもお呼びになられたのですか」
「貴方がたにも縁のない人では、ございませんのよ。ホホホホ」と微笑を湛え、ドアを開けた。
部屋に入るなり、ユルゲンの表情は凍り付いた。
この数年来、絶縁状態になっていた、母、メルツィーデスの姿があったからだ。
愉し気に、ベアトリクスの話す様を見るなり、途端に嚇怒の表情を明らかにし、
「貴方が、どうしてここに居られるのですか」と他人行儀な対応を取った。

表情を曇らせたメルツィーデスを見た、ベアトリクスは不快感を露わにし、
「わざわざ訪ねてきた人にそれはないんじゃない」と、睨め付ける。
メルツィーデスの後ろへ来て、立っていたブレーメ夫人は、
「わたくしが呼びましたのよ」
と、説いたので、ユルゲンは、難渋(なんじゅう)した顔いろで、
「ですが……」と言って口をつぐんでしまった。
「貴方が、母君の不義を、父君に密告したが原因で、ご両親が離婚された。
そのことを、今でも悔やんでいる。
なにも、それならそれで、よろしいではありませんか」
と、ブレーメ夫人は、うららかに胸を伸ばして、
「木原博士は、わざわざメルツィーデスさんの所までも、あいさつに出向いたというのですよ。
聞けば、今の夫であるダウム氏に会って、博士は、深くお話をされたそうです」
面目なさげに立つユルゲンとアイリスディーナに、なおも、
「それに、まだあなた方はベアトリクスの祝言も、懐妊の話もなさっていないそうじゃないですか。
わたくしも、同じように娘を持つ身です。
それにユルゲン君。自分の子が孫を(もう)けたとなれば、会わせてやりたいのが人情。
わたくしの方で、デュルクに手配してお招きいたしましたのよ。ホホホホ」
ブレーメ夫人のザビーネは、こういって、ユルゲンの小心を笑った。


 ブレーメ夫人の、その男まさりな(りん)たる気性や、アベールや政治的な方面まで動かす力を知っていたユルゲンは、ただ黙するしかなかった。
それに元より、妹の事を考えて暮らしてきたので、その義母の頼みを、すげなく(こば)む気にはなれなかった。

「いや、お義母さまにはかないませんわ。ハハハハハ」と、天を仰いで、乾いた笑いを浮かべた。
『この女丈夫には、なんともかなわん』という思いは、深くかくして。 
 

 
後書き
 「隻影のベルンハルト」二次創作という原点を振り返って、ベア様のママとお姑さんを出しました。

 あと、ヤウクのママとのやり取りは、ロシア人では普通のやり取りです。
ロシア人自身が、人前でフルネームで呼ぶのは好まず、愛称で呼んだり、坊やと今でも言います。

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