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冥王来訪

作者:雄渾
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第二部 1978年
ソ連の長い手
  恩師

 
前書き
 ソ連軍も現実はともかく軍隊手帳や教育で『ヘーグ陸戦条約』の可能な限りの順守を指導されます。 

 
 東ドイツ・ベルリン 

 ベルリンにあるドイツ駐留ソ連軍総司令部。 
深夜にもかかわらずハバロフスク襲撃の報は、即座に総司令官の元に入った。
 テレックスで伝わった電報を読む司令の元に、数名の男達がなだれ込む。
男達は着て居る軍服も階級もまちまちで、それぞれ自動拳銃や回転拳銃で武装していた。
 執務机の椅子に腰かける薄い灰色をした両前合(ダブルブレスト)の将官勤務服の男に、銃が付き付けられる。

 男は、椅子から身を乗り出して叫んだ。
「ゲ、ゲルツィン!」
司令官は、老眼鏡越しに男を()()けた。
「き、貴様等、何のつもりだ……」
大佐の階級章を付けたM69野戦服の男が、挨拶代わりに軍帽を脱ぐ。
「ソビエトの主人公は誰か。教えに来たのさ……」
男は、懐中よりマカロフ拳銃を素早く取り出す。
既に司令を取り囲む様に、赤軍兵が居並んでいる状態だった。
「我々は、党指導部の人形じゃない……」
消音装置を銃口に付けると、遊底を強く引く。
「労農プロレタリアートこそが、ソ連を動かしていると……」
大佐は居並ぶ兵士に、檄を飛ばす。
「諸君!泡沫(うたかた)でもいい……新しいソ連邦の夢を描こうではないか」
ピストルを勢いよく司令官の左の顳顬(こめかみ)に突きつける。
「ど……、同志ゲルツィン……」
その刹那、拳銃の遊底が前進し、9x18ミリ弾の薬莢が宙を舞う。
 司令官は衝撃で顔を歪めると、右側に崩れ落ちる。
椅子事、後頭部を叩き付ける様に倒れ込んだ。

 床に広がる血の海を見ながら、唖然とする周囲を余所にゲルツィンは続ける。
「東ドイツの連中への手土産は用意できた……」
彼の脇に、すっと中尉の階級章を付けた男が近寄る。
「同志大佐。無血で駐留軍を我が物にするという話は、駄目でしたな……」
男はゲルツィン大佐に、黒い『ゲルべゾンデ』の箱を差し出す。
西ドイツの高級煙草で、ターキッシュ・ブレンド。
両切りで何とも言えない甘い香りは、口つきタバコが好きなソ連人さえも魅了した。

 ゲルツィン大佐は、男に差し出された箱より両切りタバコを取ると口に咥える。
「オレは、(はな)から無血で片付くとは思ってねえよ」
酌婦のように火の点いたライターを差し出して来る男に、顔を近づける。
「司令の首を持参して、交渉の入り口づくりをする……」
一頻りタバコを吹かした後、ふうと紫煙を吹き出し、天を仰ぐ。

 大佐は、左手の食指と中指でタバコを挟んだ儘、指示を出す。
「ベルリンのドイツ軍参謀本部に直電を入れて置け……。
連絡の文面は……、次の様に書け。
『同志ユルゲン・ベルンハルト中尉へ……同志エフゲニー・ゲルツィンより』
以上」

男の合図とともに、連絡要員が通信室に駆け込んだ。
「同志大佐からの命令だ、ヴュンスドルフの空軍基地から戦術機部隊を回せ」

 総司令部から連絡の有ったヴュンスドルフの空軍基地で慌ただしく出撃準備が始まる。 
滑走路に数台の戦術機が居並び、跳躍ユニットのエンジンが吹かされる。
 そのうちの一機の手に握られているのは、20メートル近くある二本の旗竿。
それぞれには、軍艦に掲げられる大きさのソ連国旗と白旗。
国家間の交戦規程を記した『ハーグ陸戦条約』32条に基づく措置であった。
 強化装備姿の男達が駆け込んでくると、管制ユニットに滑り込む様にして乗り込む。
轟音と共に戦術機はベルリンへと向かった。

 

 深夜のベルリン・パンコウ区。
自宅の寝所(しんじょ)で妻と寝ていたユルゲン・ベルンハルト中尉は、叩き起された。
彼は、毛布を蹴飛ばすとベットより起き上がる。
黒いランニングシャツに深緑のパジャマのズボン姿で、周囲を見回す。
気が付けば、真横に野戦服姿のヤウク少尉がタバコを口に咥えた姿で佇んでいる。
多分、渡しておいた合鍵で入って来たのであろう。

 怒気を含んだ顔つきでヤウクの顔を見ると、こう告げた。
「随分と荒々しい起こし方だな。それに我が家では寝室は禁煙だぞ……」
茶色いフィルターのタバコを咥えたヤウクは、右の親指で外を指す。
「僕に起こされたことを感謝するが良いさ。シュタージの送迎で来た……」
何時もはユルゲンに気を使ってタバコを吸わない彼が紫煙を燻らせている。
ただ事でないのは、理解できた。

「可愛い奥様のパジャマ姿は、奴等に見せたくはあるまい」
ヤウクは、ベットの端に座るベアトリクスの方を見る。
彼女は濃紺の寝間着一枚。状況を把握できず、右手で寝ぼけ眼を擦っている。
(はだ)けた上着から見える豊満な胸は、何とも艶かしく見る者を魅了した。

「ヤウクさん……何時だと思ってるの。深夜2時よ」
ベアトリクスの一言に、ヤウクは気を取り戻すと余所行きの笑みを浮かべる。
「申し訳ないけど、御主人……連れて行きます……」
怫然とする彼女は、乱れた髪を手櫛で梳きながらヤウクを睨む。
 
 ヤウクは表情を改めると、左わきに抱えたビニール袋をユルゲンに投げ渡す。
「君のサイズの行軍セットだ……急いで支度して呉れ」
行軍パックセットと言われる上下長袖の下着と靴下やハンカチの入った一揃いの袋を受け取る。
 袋をまじまじと見たユルゲンは、思わず不満を漏らした。
「うわ、官品(カンピン)かよ……、これ嫌なんだよな」

 その一言に苛立ちを感じたのか、ヤウクは紫煙を勢い良く吐き出す。
普段、行儀のよい彼にしては珍しく舌打ちをした後、反論した。
「こんな時間に酒保が開いてるわけないだろ……無理して用意したんだ。
我儘はいい加減にしろよ」
彼は、ヤウクの説教に辟易したのか、顔を背けて返事をした。
「ハイ、ハイ……」

 ユルゲンは、話しながらクローゼットの前に移動する。
観音開きの扉を開けると、中にあるレイン・ドロップ模様の迷彩服の一式を取り出した。
脱いだパジャマをベットの上に投げ捨てると、夏季野戦服に手早く着替える。
腰を屈めながら官帽を被ると、鏡台を見ながら両手で整える。
「良し、準備万端……」
そう言うとユルゲンは、立ち上がる。
「じゃあ、ベア……行ってくるよ」
ベットの端に座るベアトリクスの方へ振り返って、彼女の薄い桃色の唇に口付けをした。



 玄関先に待っていたのは、小柄で金髪な男だった。
「同志ベルンハルト、久しぶりだな。ゾーネだ」
右手で挙手の礼を取り、ユルゲンを見据えた。
ゾーネは、灰色の国家保安省の開襟制服に身を包み、官帽を目深に被っている。
「お前さんはアスクマン少佐の……」
「これでも自分は少尉だ……。将校らしく扱って欲しい」
キュッと長靴の踵を鳴らし、向きを変える。
「あと自分の事は、同志大佐の色男でも何とでも呼べばいい……」

 何気ない一言であったが、ユルゲンの心には響いた。
ゾーネは、今し方アスクマン少佐の事を、大佐と呼んだ。
 ああ……、あの『褐色の野獣』は黄泉の国に旅立ったのだな……
何時も不敵の笑みを浮かべてた、あの俳優顔の男はもうこの世に居ない。
 ヤウクやカッツェと棺を蓋う、その時に立ち会ったのに……
ユルゲンは半年近く経って、改めてアスクマンの死を実感した。

 ゾーネ少尉は咳ばらいをすると、ユルゲンの顔を覘く。
「単刀直入に言おう。
駐留ソ連軍が軍使を参謀本部に寄越した。先方からの御指名で君を迎えに来た」
妖しい目で、ユルゲンの事を舐めまわすように見る。
そして一頻り哄笑した。
「ふふ……、同志大佐が君の事を焦がれたのも、分かる気がするよ」
そう言うとゾーネ少尉は、ユルゲンの臀部に右手を当てた。
ユルゲンは、左手で彼の右手を押しのける。
「気色の悪い冗談は止してくれ……」

 彼等の真後ろに立つ、明るい緑色の人民警察を制服を着た男が口を開いた。
「宜しいでしょうか」
口調からすると下士官だろうか。運転手の男が、ゾーネ少尉に呼び掛ける。
「同志少尉、お時間の方は……」
腕に嵌めたグランドセイコーの腕時計を見る。
「さあ、詳しい話は車に乗ってからだ」
彼等はゾーネ少尉の指示に従って、後部座席から人民警察の緑色のパトカーに乗り込む。

 警察使用のヴォルガGAZ-24は青色の警告灯を回転させながら、走り抜ける。
深夜のパンコウ区を勢い良く進む車内で、密議を凝らしていた。
ユルゲンは思い出したかのように、ふと漏らした。
「野獣の腰巾着が、俺に用って何かい……新手の軟派(なんぱ)か」
彼は、先程のゾーネの戯れに拒否感を示した。
ゾーネは気にすることなく、淡々と返した。
「気が立っている所を済まないが……同志ベルンハルト。
エフゲニー・ゲルツィンという男を知っているかね」
そっと懐中より電報の写しを取り出すと、ユルゲンに手渡す。
それを一瞥した彼は、ふと告げた。
「ゲルツィン教官が生きて居られたとは……」

 ユルゲンは電報を握りしめながら、過去の記憶に深く沈潜した。
忘れもしない……、4年前のソ連留学。
モスクワ近郊のクビンカ基地で受けた、半年間の地獄のような特訓。
 ゲルツィン教官は、空軍パイロット出身で数少ないカシュガル帰りの衛士。
ソ連改修型のF-4Rで光線級に肉薄。ナイフを振るい、単機生還という噂も聞いた。
超音速のジェット戦闘機乗りから転身して生き残っただけでも驚異的なのに……


 並のドイツ人以上にロシア人に詳しいヤウクは、嘗ての教官に不信感を抱いた。
ヴォルガ・ドイツ人の祖父母や両親からロシアの習慣を聞いていた故に、ふと疑問に思う。
 ロシア人の姓でゲルツィンという姓は庶子であったアレクサンドル・イワノヴッチ・ゲルツェンの為に、父イワン・アレクセイヴッチ・ヤコブレフが特別に作った姓。
しかも子息や孫は欧州に移住し、其処で最期を迎えたはず。
モスクワで1947年に亡くなった孫・ピア・ヘルツェンの子孫が居るという話も、寡聞にして知らない。

 テロ組織『人民の意志』の系統をひくロシアの党組織は秘密主義。
議会を通じて、社会主義を広めようとしたドイツやフランスのと違い、暗殺や強盗もいとわなかった。
暗殺者を兄に持つレーニンや銀行強盗で数度の脱獄を繰り返したスターリン……。
彼等が偽名なのは、つとに有名……
今もソ連共産党の幹部の少なからぬ人間は偽名で活動している。
アルメニア人やカザフ人、ユダヤ人なのにロシア風の姓を名乗り、公職に就く。
教官が出自を隠ぺいするために、人民主義(ナロードニキ)の元祖、ゲルツィンの名を偽名で名乗る。
十分、あり得る話だ……

 矢張り件の男は、KGBかGRUの工作員だったのではないか。
スターリン時代、モスクワで国際共産党(コミンテルン)大会が開かれた時、各国からの招待者をNKVDが世話したことは(つと)に有名だ。
 あのトロツキーを暗殺した伝説的なNKVD工作員、レオニード・アレクサンドロヴッチ・エイチンゴン。
彼もレイバ・ラザレヴッチ・フェリドビンという名前のユダヤ人だった。

 東ドイツからの36名の生徒を、KGB或いはGRUが付きっ切りで教える。
今回もその線ではないのか……、決してあり得ない話では無いのだ。
 
 ソ連の策に乗るシュタージも愚かだが、理解して付いて行くユルゲンも考え物だ。
もっとも彼を叩き起した自分もそれ以上に愚かではあるが……

 ヤウクは煙草に使い捨てライターで火を点けると、後部座席の窓を手動ハンドルで開けた。
紫煙を燻らせながら、助手席で正面を向いて座るゾーネ少尉に問うた。
「君達が動いたと言う事は誰の指示だい。政治局絡みだろ……」
ゾーネは後ろに振り返ると、彼の顔をちらと見て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
親父(おや)っさんと言えばわかるだろう……」

 それまで黙っていたユルゲンが、口を開く。
「あの人がやりたい事は、荒唐無稽だが理解できる」
刺すような目つきで、窓より振り返るとゾーネの事を見つめた。
「あの人の夢は……俺の夢でもあるのさ。一緒に命賭けて戦う仲間だよ」
そう告げると、再び車窓に視線を移した。

 思わぬユルゲンの一言。
ゾーネ少尉は目を見開いて、彼の方を見る。
「議長と君との関係は、噂通りだったのか……」
ユルゲンは、右の助手席から身を乗り出しているゾーネに顔を向ける。
不敵の笑みを浮かべながら、漏らした。
「どんな綺麗事でも力がなくては駄目だ……。
俺はこの4年間戦術機を駆ってBETA共と戦う合間、政治の世界に翻弄されてきた」
彼は鋭い眼光で、ゾーネの眼を射抜く様に見つめた。
「政治は力や数の論理で動く。
この祖国や愛する家族を前にして詰まらぬ良心は要らない……。
俺一人ですべて抱え込むのも限界がある。そう考えてあの人と杯を交わしたのさ」

 再び静寂を取り戻した車内。
ユルゲンは嘗ての恩師からの電文を握りしめながら、一人家に置いて来た妻を想う。
漫然と車窓より、新月で薄暗い市中を眺めていた。 
 

 
後書き
 「隻影のベルンハルト」より、ユルゲンのソ連留学時代の教官を出しました。

ご意見・ご感想お待ちしております。 
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