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大洗女子 第64回全国大会に出場せず

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第16話 ハンガリー戦車哀史

 


「……こんな話をご存じ?」

 その場にいる皆が構える。この元が付くダージリンは、ことあるごとに格言名言にこと寄せして自分の考えを韜晦して語る奴なのだ。

 しかし、このとき彼女が語ったのは、本当に「話」だった。






 オーストリア=ハンガリー二重帝国は、第一次世界大戦に参戦するも、敗北を重ねる。
 ドイツ人とマジャール人の国家連合だったこの国は本来多民族国家であり、帝室のたがが外れるにつれて、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニア、そしてソ連邦に加入したウクライナ、さらにはハンガリー自身、そして消滅させられたポーランドが独立。
 こうして第一次世界大戦が終結するころには当のオーストリアもはるかに領土を縮小して共和国となり、ハプスブルグの末えいは消滅した。
 オーストリアは東欧唯一のドイツ人国家となった。そして貧しい国となった。ドイツ共和国との合邦も禁止されたからだ。
 一方で二重帝国の片方の頭として他民族に君臨していたマジャール人の方は、周囲の国々の恨みを買った。かつての領土を新たに独立した国に奪われただけではない。彼らは弱ったマジャール人から、さらなる領土をかすめようと虎視眈々と狙っていた。
 とくに二重帝国の重工業地帯が丸ごと独立したチェコスロバキアは、第一次世界大戦の落とし子である戦車を次々と生産し、東欧圏における陸軍強国となっていく。
 1918年に共和国となったハンガリーだったが、翌年共産党がクーデターで政権を掌握。
 第一次世界大戦は終結したが、ルーマニア人の住むトランシルバニアの奪還を目的として連合国側で参戦したルーマニアは、いまだ戦争を続けていた。相手はハンガリーだ。
 そしてハンガリーは、ルーマニア、チェコスロバキア、ポーランドの三国から攻められたあげく全土を占領されてしまった。ルーマニアはトランシルバニアを得て矛を収める。
 ハプスブルグ家の国王不在のまま二重帝国の海軍長官だったホルティが強引に摂政位について、ハンガリー王国が再度成立したのは1920年のことだった。(
 ハンガリー=ルーマニア戦争の反省から軍事力の強化をホルティは目論んで独裁を強化するが、このときのハンガリーには食品などの軽工業しかなく、ほぼ農業国だった。
 とくに重工業国であるチェコスロバキアには大きく水をあけられていた。なにしろチェコでは自前で最新兵器の「戦車」を生産していたのだから。
 ハンガリーが無理を承知で戦車の国産化に突き進んだのは、そういう事情からだった。

 しかし、完全国産にはどうしても至らなかった。
 輸入するにも国庫は貧しく、イタリアからタンケッテのCV33やCV35を買うのがやっとだった。
 当時はドイツでナチスが政権をすでに奪取しており、党首ヒトラーは大統領と首相を兼務する『フューラー(国家指導者)』となって一党独裁政治を布いていた。
 ゆえに右傾化が進んでいたハンガリーも、彼らに与することで自国の安全保障を得ようとする。
 輸入ではタンケッテがやっとのハンガリー陸軍は一足飛びに国産へ進みたかったが、技術がそもそもなかったため、他国戦車のライセンス契約から始めることにした。
 最初にスウェーデンのランスベルグ社からすでに旧式だったL60Bのライセンスを購入し、38M軽戦車Toldiとして少数生産していた。
 実はこのときハンガリーの周辺の脅威はなくなりつつあった。チェコスロバキアは重工業地帯のチェコをドイツに併合されており、チェコ製戦車がハンガリーに攻めてくることはもはやない。
 しかしハンガリーはドイツにⅢ号戦車のライセンス契約を打診。ドイツはそれを拒否するも、そのかわりチェコで設計だけできていたLT35後継戦車、T21の設計図を渡す。
 これはシェコダ社でハンガリー仕様に改設計され、ヴァイス・マンフレート社はこれを元に40M中戦車Turánを作るが、生産は遅々として進まなかった。
 その間にナチスドイツはルーマニアを脅して、係争地のトランシルバニア地方をハンガリーに割譲させた。
 ハンガリーはドイツに頭が上がらなくなった。
 1941年6月、ドイツは「共犯者」ソ連と手を切り、ソ連側旧ポーランド領に侵攻する。
 ドイツの衛星国と成り果てて、枢軸側に組み込まれた諸国もまた出兵を強要された。
 このときハンガリー陸軍はドイツの装甲師団を範とした「機動軍団」を持っていたが、装備する戦車は前面装甲わずか13mm、装甲車しか倒せない36/M20㎜戦車砲装備のToldiが200両ほどだけだった。

 200両あまりのToldiがブラウ作戦に加わり、ハンガリーから出撃する。
 この頃にはもうBTやT-28のような旧式弱体の戦車は姿を消し、ゴーリキやニジニ・タギルで量産されつつあった当時の最新鋭戦車、T-34が千両単位で待ち構えていた。
 この頃のドイツすら、T-34と一対一で戦える戦車を持っていなかった。
 スターリングラード目指して進撃するドイツ南方軍集団に加わったハンガリー第2軍。
 ヒトラーは例によって前線の将軍を勝手に罷免して自ら指揮をとり、ブラウ作戦をバクー油田とスターリングラードへの二方面作戦に変更、ソ連軍はこの混乱に乗じて戦略的後退を図る。枢軸軍は何もない草原をただ走って物資と燃料を消費する。
 ソ連軍はこの後退に当たっても焦土作戦を実行し、枢軸軍は徹底的に破壊された燃える油田を目の前にしながら燃料不足に陥る。
 バクー油田の占領もチモシェンコ軍の撃滅も失敗したヒトラーは、メンツにかけて敵元首の名を冠した人口60万の都市、スターリングラードの占領に固執する。
 スターリングラードに突入し、市街の90%を占領したドイツ第6軍だったが、両翼を伸ばして市街を取り囲んだソ連軍に包囲され、ハンガリー第2軍を含む他の部隊は、1,000両のT-34を先頭に押し立てて第6軍のうしろを守るルーマニア第3、第4軍を討とうとするジューコフの攻勢を正面から受けてほぼ壊滅した。
 このときハンガリー第2軍に所属した200両あまりのToldiは、ソ連軍が後退戦を演じていたときから撃ち減らされ続け、T-34の前に文字通り鎧袖一触の惨敗を喫し、ほぼ全滅してしまった。
 マンシュタイン将軍は撤退するドイツ軍のために、同盟国の輜重部隊をすべて取り上げてしまい、ハンガリー軍残余もロシアの厳しい冬のさなか、さらに消耗を重ねた。

 ハンガリーの戦車将校タールツァイ・エルヴィンが、ようやくのことで再編成された2個装甲師団のひとつ、第2装甲師団に配属されたのは1943年1月のことだった。
 彼の所属する連隊はTurán180両、Toldi86両を基幹とし、ウクライナ方面から来襲する猛将イワン・コーネフの率いるソ連軍と激突、ドイツ軍の撤退掩護をしつつ戦線を一度は押し戻すも、返す刀で保有戦車のほぼすべてを失い後退する。
 Toldiの紙装甲はあいかわらずだったし、Turánも正面装甲垂直50mmとⅢ号程度の防御力しか持っていない。
 彼らがもっていた戦車は後方に温存していたわずか7両。しかし師団が「火消し」ことモーデル元帥のドイツ北ウクライナ軍集団の指揮下に付いたことで、ティーガーⅠ10両、Ⅳ号12両、Ⅲ突10両を供与される。エルヴィンはその後ずっとⅣ号に乗って戦い続ける。

 ハンガリーの首都ブダペシュトにあるヴァイス・マンフレート社では1943年から短砲身75mm主砲装備のTuránⅡに43口径75mm砲を搭載する改良を始めるとともに、T-34などのソ連新鋭戦車に対抗しうる主力戦車の開発に着手する。
 しかし既存のTuránの量産も遅々として進まない状態であり、新規の、しかもはるかに大きな主力戦車の開発に割けるリソースはほぼなかった。
 その新型戦車は、1944年になっても影も形もなかったが、陸軍当局によって1944年制式兵器を表す44Mという記号と、ハンガリー建国7部族の族長の一人から名を取って「Tas」と呼ばれることとなった。Tas重戦車が歴史に名を記したのはわずかにこのときだけだった。
 そしてTuránの改良型の試作車に砲を乗せるところまでいけず、Tasの試作車台がやっと組み立てられ始めた1944年7月27日、ヴァイス・マンフレート社は米軍機の爆撃を受け、本社と工場すべてを失った。
 試作中の戦車も破壊され、あとは焼け跡にわずかに残った部品で、寄せ集めの戦車を細々と作るという惨状となる。ここにハンガリーの国産戦車の夢は断たれた。
 Tas重戦車については1/10スケールのモックアップ模型だけが今に残る。その模型も2種類存在し、設計作業が相当困難であったことは想像に難くない。もし戦時でなく、試作がまっとうに行われたとしても、量産型になるまで大幅な変更は避けられなかっただろう。
 パンターを超える大きさで38トンの重量というのは、希望的観測ではないだろうか。

 1944年10月、ドイツを見限り単独講和を図ったホルティだったが、それをドイツに察知され、スコルツェニー大佐率いる特殊部隊に息子を誘拐されてしまう。
 ホルティは摂政位を退位し、極右の矢十字党が政権を掌握。そしてハンガリーのユダヤ人たちもドイツ国内の絶滅収容所に送られる。

 ここにきてルーマニアが枢軸を離脱、ソ連についてドイツに宣戦布告した。
 このときエルヴィンの所属する第2装甲師団は、すでにⅣ号とパンターの混成軍となっていた。
 そして彼らはルーマニアとの国境、トランシルバニアに赴く、さらにクロアチアも陥ちたことで転戦を続ける。だがあろうことか、ソ連との最前線で戦っていた第1装甲師団の半分以上がソ連に寝返り、同士討ちを始めた。
 Turán同士が撃ちあう中、ソ連軍はいよいよブダペシュトに迫り来る。
 1945年1月、ブダペシュトの包囲を完成させたソ連軍は、婦女暴行と略奪のためだけにこの東欧の古都に殺到し、必要以上の乱暴狼藉を繰り返した。戦意を失った兵士を容赦なく撃ち殺す政治将校どもも、むしろ率先して略奪に狂奔する。
 中世以前からの歴史的建築物はすべてがれきの山と化し、ソ連軍占領地域で無数に起きた悲劇がここでも繰り広げられた。
 ドイツ軍はもはや唯一の友邦であるハンガリーを救出せんと無理に部隊を抽出し、クルト・マイヤー率いるティーガーⅡの部隊まで投入したが、それはドイツ軍の終焉を早めただけに終わった。

 こうして欧州最後の枢軸国、ハンガリー王国は滅亡した。
 エルヴィンらは西の国境まで後退して抵抗を続ける。そのさなか、彼は3月に結婚式を挙げるが、その3日後、ソ連軍との戦闘で乗車のⅣ号を撃破され、負傷した彼は行方不明となった。
 残余のハンガリー軍も、ドイツの降伏とともにソ連軍に降伏。
 短いハンガリーの装甲部隊の歴史は、ここに幕を閉じた。 
 
 
 
 
 
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