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いろいろ短編集

作者:ゆいろう
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桜の音色に包まれて

 
前書き
原作:ラブライブ!サンシャイン!!
百合、ようりこです。 

 


 その音を耳にした瞬間、自分でも嫌というほど分かってしまった。

 その淡い桜の音色を、私が聴き間違えるはずがない。

「曜ちゃん……?」
「梨子ちゃん……」

 あまりにも突然すぎて、心の準備すらできていなかった。

 私の初恋のひと。
 十年ぶりに会った彼女は、少し大人びて見える以外、なにひとつ変わっていなかった。

 彼女の音色、声、姿。
 その全てが、捨てたはずの初恋を蘇らせようとする。

 ――ああ……私はまだ、梨子ちゃんのことが好きだったんだ。

 捨てたと思い込んでいた私の初恋は、どうやら完全には捨て切れていなかったみたいだ。




 四月の中旬。その場所を訪れたのは、本当にただの偶然だった。

 企業に所属するプロ高飛び込み選手の私――渡辺曜。その日、会社の上司との付き合いで、私はそこを訪れたのだ。

 ――近所に良いピアノバーがあるの、行ってみない?

 上司相手に断れるはずもなく、私はそのピアノバーを訪れた。

 中はランプの照らす仄かな明かりだけで薄暗く、全体的にオシャレな雰囲気の漂う内装。そんな高級感溢れる雰囲気をさらに引き立たせるように、店内にピアノの演奏が流れ始めた。

 カウンターで上司と飲みながら、私はその音色に耳を傾けていた。

 その音を聴いて、私はすぐに理解してしまった。グランドピアノを優雅に奏でているのが、誰なのかを。

 ピアノに隠れてその人の姿は見えないけど、その奥にいるのが誰なのか、私にはハッキリと分かる。

 どこか温もりを感じる桜色。それが、店内に響きわたる音色だった。私はその音色に懐かしさを覚えながら、演奏が終わるまで耳とグラスを傾けていた。

 やがてその音色が聴こえなくなると、店内にはパチパチと疎らな拍手が代わりに響いた。私は伴奏者に拍手を送りながら、十年前、まだ私が高校生だった頃を思い出していた。

 ――あの頃も彼女のピアノを聴き終わったあとは、こうして拍手していたっけな。

 観客たちの拍手に迎えられて、さっきまでピアノを弾いていた人物が立ち上がった。

 鮮やかなワインレッドのドレスに身を包んだ彼女は、久しぶりに会うことも加味してか、少し大人びた印象を受けた。

 彼女は拍手に応えるように、手を振りながら店内をぐるりと見渡す。

 そんな彼女の様子をまじまじと見続けていた私。やがて彼女が私のほうに視線を向けると、

「曜ちゃん……?」
「梨子ちゃん……」

 バッチリと目が合ってしまった。

 彼女の名は桜内梨子。高校の同級生で、青春を共に過ごした大切な仲間であり、親友。

 そして、私の初恋のひと。




 私にとって輝かしい高校生活。あれから十年が経ったが、その頃の記憶は今も色あせることなく、まばゆい輝きを放ち続けている。

 なかでも彼女が奏でるピアノの音色が好きで、毎日のように音楽室に足を運んでは、隠れながらこっそり聴いていたものだ。

 そうやって毎日聴いていた彼女のピアノの音色は、十年経った今でもその色を失っていなかったと、つい先ほど思い知らされた。

 音の色と書いて音色と言うように、音にはそれぞれ色があるのだと思う。

 彼女の音色は、淡い桜色だった。その優しい心と、彼女自身の清楚で綺麗な見た目を体現しているような、そんな桜色。

 毎日のようにその音色を聴いていた私の心は、いつしかその桜色に染まっていた。

 優しくて、純粋で、温かくて。
 そんな音色に包まれた私が、彼女に恋をするのは必然だった。

 だけど私は、その恋は叶わないものだと諦めた。女の子同士の恋愛なんて、上手くいくはずがない。告白なんてしたら、きっと彼女は困った顔を浮かべるだろうし、きっと私は距離を置かれるだろう。

 彼女とは友達のままでいい。会話をして、笑いあって。そんなふうに友達として同じ時間を共有できれば、それで十分幸せじゃないか。
 想いを告白して距離が離れるなら、その想いはそっと胸の内にしまって、鍵をかけておくべきだ。

 私の初恋は、そうして終わった。

 ――はずだったのに。

 大人になって、彼女の音色を聴いて、彼女の姿を見た瞬間、私はまだ彼女のことが好きなんだと思い知らされた。

 まるで彼女の奏でるピアノの音色が、厳重に閉じていた鍵をこじ開けたかのように。

 私に二度目の初恋が訪れた。




「梨子ちゃん、どうしてここに?」

 十年ぶりの対面。最初に口をついて出た言葉は、彼女がどうしてこのピアノバーでピアノを弾いていたのかという、そんな疑問だった。

 高校を卒業して違う大学に進学した私たち。しばらくは彼女とも連絡を取り合っていたけど、だんだんとやり取りは少なくなって、大学を卒業する頃には完全に連絡を取り合わなくなっていた。

 そんな彼女と、偶然訪れたピアノバーで再会するなんて、誰が予想できただろうか。

 少しロマンチックな言い方をするなら、神様がいたずらしたかのような、運命の巡り合わせ。
 運命だなんて言葉はあまり好きではないのだけれど、今日この場で再会したことは運命としか言いようがないような、そんな突拍子もない偶然だった。

「わたし、ここで働いてるの。今日みたいに毎晩ピアノ弾いたりして。昔は他のことも色々やったりしたけど……やっぱり私には、ピアノしかないんだって気づいたの」

 どこか申し訳なさそうに言いながら、梨子ちゃんはグラスを傾けた。

 ピアノを弾き終えた梨子ちゃんは、今はカウンターに私と隣り合って座り、カクテルを嗜んでいる。
 グラスを口に運ぶ仕草は妙にさまになっていて、高校生だった頃とはやっぱり変わっていて、あのときからの時間の経過というものをまざまざと痛感させられる。

「そういう曜ちゃんは、どうしてここに?」

 私がしたものと同じ問いが返ってくる。梨子ちゃんはいたずらに成功したような笑みを浮かべていて、彼女のそういう顔を見るのも久しぶりだなぁと、懐かしい気持ちになる。

「会社の上司との付き合いで、たまたま偶然。私と梨子ちゃんが知り合いだと知って、今は席を外してるけど」
「そうだったんだ。こんなところで会うなんて、ほんと偶然だよね。まるで運命みたい」

 どうやら梨子ちゃんも運命みたいだと思っていたみたいで、同じことを考えていた自分がなんだか嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが入り混じる。

 同じ思考をしていたなんて、彼女に知られたらなんて思われるのか、たまったもんじゃない。

 そんなことを思っていると、後ろからポンと肩を叩かれた。誰かと思って振り返ってみると、私をここに連れてきた上司だった。
 梨子ちゃんと再び会えることができたのはこの人のおかげなのだけれど、今は梨子ちゃんとの会話中。邪魔しないでもらいたい。

 ――渡辺、もう帰るぞ。

 そう言われ、私は梨子ちゃんの顔を伺う。

「私は毎日ここにいるから、よかったらまた来てね、曜ちゃん」

 そんなことを言われた。本当はもう少し話していたかったし、梨子ちゃんにもそう言ってほしかった。そう思ってしまう私は、自分勝手なんだと思う。

「うん、また来るね」

 本当に来るかどうかは定かではないが、私は梨子ちゃんの言葉にそう返した。すると梨子ちゃんはニッコリと微笑んだ。
 思えば彼女の笑う顔を見るのも、ずいぶんと久しぶりな気がする。十年ぶりに見た梨子ちゃんの笑顔は、昔と変わらず可愛くて。

 私はまだ彼女のことが好きなんだと、改めて強く実感したのだった。


***


「曜ちゃんって、今じゃ日本を代表する高飛び込みの選手じゃない?」

 カクテルの入ったグラスを傾けていると、唐突にそんな言葉を投げかけられた。

 梨子ちゃんと再会した翌日。仕事が終わった私は、梨子ちゃんの働くピアノバーに再び足を運んだのだった。

「そうだね。それがどうかしたの?」

 バーに行こうかどうか迷ったけれど、やっぱり今の私は梨子ちゃんに会いたいみたいだった。二度目の初恋を自覚したぶんだけ、その思いは強かった。

 実際バーを訪れて梨子ちゃんのピアノを聴いて、梨子ちゃんの顔を見ると、私の胸はドキリと高鳴ったのだから。

 高校生のとき、一度目の初恋をまだ捨て切る前の私が味わったあの感覚と同じ胸の高鳴りだった。

「テレビで曜ちゃんの活躍とか見るとね。なんだか曜ちゃんが遠い存在になったような気がしたの。だから昨日曜ちゃんに会って、お話すると昔と全然変わらなくて。やっぱり曜ちゃんは曜ちゃんのままなんだなって」

「なにそれ、なんか今日の梨子ちゃんヘンだよ」
「ふふっ、お酒飲んでるからかも」
「なんでもすぐお酒のせいにする、梨子ちゃんはダメな大人だ」

 他愛のないやりとり。そんな何でもない普通の時間が愛おしくて、まるで高校生の頃に戻ったような気分だ。
 でも私たちはもう大人になっていて。同じ時間を共有していた私たちは、それぞれ別の道を歩んでいる。今は離れ離れになった道が、偶然にも合流しただけ。
 梨子ちゃんと私を繋いでいるのは、このピアノバーという場所だけなのだから。

 今日の梨子ちゃんは淡い桃色のドレスを身に纏っている。ドレス姿がこのピアノバーでの正装なんだろうか、昨日も梨子ちゃんはワインレッドのドレスを着ていた。

 大人になってからの梨子ちゃんを、私は何も知らなかった。ピアノバーでピアノを弾いている事も、こんな綺麗なドレスに身を包んでいることも。
 他にもたくさん、私の知らない梨子ちゃんがいるのだろう。そう思うと、梨子ちゃんの全てを知りたくなってしまう。

「……そうだね。曜ちゃんに比べたら、私なんて……」
「いやいやゴメン! そういうつもりで言ったんじゃないから!」

 落ち込んだように言う梨子ちゃん。私は慌てて取り繕った。すると梨子ちゃんはふふっと笑みを零した。

「……ふふっ、冗談だよ。曜ちゃんは変わってないね。昔も今も、ずっと優しい」

 ――優しくなんてないよ。

 口から出かかった言葉を直前で飲み込む。
 私は梨子ちゃんの言うように優しいなんてことはない。むしろ自分勝手で傲慢な人間だと思う。

 高校生の頃、梨子ちゃんに恋をして、その恋を勝手に捨て去って。と思えば昨日梨子ちゃんと再会して、またあのときの恋が再燃してきて。
 どこまでも自分勝手な感情で、私自身も振り回されているのだから。

 結局私は、梨子ちゃんのその言葉に返事をすることができなかった。




 その次の日も、私は梨子ちゃんの働くピアノバーを訪れた。
 今はバーカウンターに腰を下ろしながら、梨子ちゃんの奏でるピアノの音色を、目を閉じてじっくりと堪能している。

 目を閉じて梨子ちゃんのピアノを聞くと、まぶたの裏側に風景が浮かんでくる。

 見えるのは、満開の桜。
 内浦の潮風に吹かれて宙を舞う桜の花びらが、まるで五線譜に並ぶ音符のようにポツリ、ポツリとアスファルトの上に舞い落ちる。

 桜と言えば春を連想するように、梨子ちゃんのピアノの音色はどこか温もりを感じる。

 春は出会いの季節とも言われるように、高校生の頃、梨子ちゃんが転校してきて私とであった季節は、春だった。
 そして十年後、このピアノバーで再び出会った季節もまた、春である。

 季節はやがて過ぎ去っていき、そしてまた巡り巡ってやってくる。梨子ちゃんの演奏が終わり、バーの客たちから拍手が響き渡った。
 立ち上がって一礼する梨子ちゃんに、私は拍手をしながら視線を送っていた。

 すると、梨子ちゃんとバッチリ目が合う。それがなんだか気恥ずかしくて、私は静かに目を逸らしてしまった。

「今日もきてくれたんだね、曜ちゃん」

 ピアノの演奏が終わって、梨子ちゃんは昨日と同じように私のところまでやってきて、バーカウンターの私の隣に腰を下ろしている。

「仕事終わりで、暇だったから」

 思わずそんな嘘をついてしまう。本当は梨子ちゃんに会いに来たのだけれど、本当のことを言う勇気が私にはまだ足りなかった。

 高校生の頃となにひとつ変わらない。私に勇気がなかったから、私は梨子ちゃんに告白することができなかったのだから。

「……そうなんだ。てっきり私に会いに来てくれているのだと思ったけど」
「そんな……」

 図星を突かれて、言葉を上手く発することができなかった。そんな自分がいたたまれなくて、私は視線を落としてしまう。

 高校生の頃からなにも変わっていない自分。捨て去ったと思っていたはずの初恋が再燃し、私はまた捨て去ろうとしている。

「ピアノを弾いているときね。曜ちゃんの視線、ずっと感じるんだもん」
「……そうだよ」

 このままじゃいけないと思った。情けない自分を変えないといけない。捨てるのは二度目の初恋ではなく、羞恥心にしよう。

「梨子ちゃんに会いに来たんだ」

 過去の自分と向き合い、今それを清算しようとしている。梨子ちゃんへの恋心を実らせたいとかじゃない。

 私はただ、どこまでも自分勝手な思いで、梨子ちゃんに向き合う。


***


 それは、よく晴れた休日の昼下がりの出来事だった。

「あれ、曜ちゃん?」

 お気に入りの漫画を買うために本屋に立ち寄ったところ、うしろから声をかけられた。聞き間違えるはずがない、私が恋したひとの声。

「梨子ちゃん……」

 振り向くと案の定、そこには梨子ちゃんが嬉しそうに笑いながら立っていた。なぜそんな笑顔を浮かべてるのか私にはよく分からないけど、梨子ちゃんの笑顔が見れたので深くは追求しない。

「こんなところで会うなんて偶然だね。曜ちゃんは、なにか買い物?」
「うん。ちょっと漫画を買いに」
「そうなんだ。私もね、漫画を買いにきたの。今日は仕事お休み貰ったから。一緒だね」
「そうだね」

 まさか梨子ちゃんも漫画を買いに来たとは驚きだ。私は千歌ちゃんに影響されて漫画をよく読むほうだけど、梨子ちゃんが漫画を読むというイメージが全く湧いてこない。

 梨子ちゃんといえばピアノというイメージが強すぎるのだろうか。私にとって梨子ちゃんが漫画を読むというのはかなり衝撃だった。

「せっかくだし、一緒に買い物しようよ」
「うん、いいよ」

 特に予定のない休日だったけれど、こうして梨子ちゃんと巡り会えたことは幸運だ。私たちは一緒に本屋の漫画コーナーへと向かう。

 目立つところに平積みされていた漫画を取ろうと手を伸ばす。すると、私の横からも白くてか細い手が伸びてきた。

「あれ? もしかして曜ちゃんもこの漫画買いに来たの?」
「うん。もしかして梨子ちゃんも?」
「うん。すごいね私たち、同じものを買いに来たなんて」

 本当に、なんという偶然だろうか。まるで最初にピアノバーを訪れたときに梨子ちゃんと再会したときのような、そんな運命じみたなにかを感じずにはいられない。

 同じ時間に同じ場所で、同じものを買いにきただなんて、まるで神様がそうさせたかのような、そんな見えない力でもあるんじゃないかって思ってしまう。

 そんなことを考えている自分が、なんだか善子ちゃんみたいだなぁと、ふと高校時代の中二病の後輩を思い出す。元気にしているだろうか。

 私と梨子ちゃんは同じ漫画を手に取り、レジに行って購入を済ませる。漫画を購入した梨子ちゃんちゃんの表情は、どこか満足気だった。

「まさか曜ちゃんも同じ漫画を読んでるなんて、思いもしなかったなぁ」
「私もだよ。梨子ちゃんって漫画読むイメージ全然なかったから、びっくりした」
「そうかな? 私、漫画とかすごく好きなの。あまり表には出さなかったけど、高校生の頃からずっとそうだよ」
「そうだったんだ」

 まさか高校生の頃から漫画が好きだったなんて、今初めて知らされた事実だった。

 梨子ちゃんに恋をしていた私にも、彼女の知らないところがあったんだと思うと、今日そのことを知れたのが、なんだか嬉しい。

 好きなひとの知らなかった一面を知ることは、案外楽しいものだと知った。




 それから、梨子ちゃんと近場のカフェに寄ることになった。今はお互いに注文したドリンクを時々口にしながら、黙々と先ほど買った漫画を読み進めている。

 もともと家に帰ってから読むつもりだったけど、梨子ちゃんからカフェでお茶しながら漫画を読もうと提案されて、私はそれに乗った。

 今、私たちはカフェで同じ席に座り、同じ漫画を読み、同じ時間を過ごしている。
 まるで高校生の頃に戻ったみたいで、ほんの少し頰が緩んでしまう。漫画に集中しようと視線を落としても、対面に座っている梨子ちゃんが気になって内容が頭に入ってこない。

 梨子ちゃんは漫画に集中している様子で、視線を一切漫画から逸らさない。私の視線は漫画と梨子ちゃんを行ったり来たりしているというのに。

 そんなふうに時々梨子ちゃんを見ていると、ふと視線を上げた梨子ちゃんとバッチリ目が合ってしまった。

「どうしたの、曜ちゃん?」
「ううん。なんでもない」
「そう?」

 梨子ちゃんは再び視線を漫画に落とした。かと思いきや、すぐにまた視線を上げて、私の顔を見つめてはニコリと微笑んだ。

「こうして曜ちゃんと過ごしてると、なんだか高校生の頃を思い出すね」
「そ…だね……」

 まさか自分がさっき思っていたことを梨子ちゃんに言われて、顔から火が出そうになるほどの恥ずかしさに襲われた。

 ――どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい。

 梨子ちゃんも私と同じことを考えていたというその事実が、たまらなく嬉しい。このまま嬉しさで死んでしまいそうだ。

「どうしたの曜ちゃん? 顔赤いよ、大丈夫?」
「だ、大丈夫であります……」
「本当かな……ちょっと失礼」
「ふわぁっ!?」

 梨子ちゃんの手が私の額に置かれて、驚きのあまりヘンな声を出してしまう。急にそんなことをされて、私の体温はますます上がる一方だ。

「うーん……ちょっと熱っぽいかも?」
「だ、大丈夫だから! 本当、ほらこのとーり!」

 私は腕をせわしなく動かして、梨子ちゃんに元気だとアピールする。このまま熱があるからと家に帰らされるのだけは避けたかった。今は梨子ちゃんとの時間を、大切にしたい。

「そ、そうだ! このあと梨子ちゃんが働いてるピアノバーに行こうよ! 梨子ちゃんも従業員じゃなくて、お客さんとして。ねっ!」
「う、うん。私は構わないけど……曜ちゃん本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ! じゃあ決まりね、楽しみだなー!」

 もっと梨子ちゃんと一緒にいたい。そして私に熱はないんだと梨子ちゃんに分からせたい。そんな思いでピアノバーに行こうと提案してみたけど、思ったより梨子ちゃんに心配されているみたいだ。

 熱がないと言えば、嘘になるのかもしれない。風邪をひいたとき等の病気に使われる熱は全くない。だけど別の意味での熱はある。

 それは梨子ちゃんにお熱だと、恋をしているという意味で。

 恋を病だとするならば、私は現在進行形で病気にかかっている。だとするなら、私は大丈夫ではないのだろう。




 夜になって、私は梨子ちゃんとピアノバーにやって来た。

 私たちはバーカウンターのいつもの場所に並んで座り、それぞれマスターにカクテルを注文した。
 梨子ちゃんと再会してから何度も訪れているピアノバーだけど、今日は少しいつもと違う雰囲気だった。

 まず、梨子ちゃんの演奏するピアノが流れていないこと。今日の梨子ちゃんは休みを貰って、客としてここに来ているのだから、当然といえば当然だ。

 そしていつもと一番違うのが、梨子ちゃんの服装だった。バーでピアノを演奏するときの梨子ちゃんは、きまってドレスを身にまとっている。だけど、今日の梨子ちゃんは私服姿。

 思えば、再会してから目にする梨子ちゃんは、いつもドレス姿だった。だから今日目にしている私服姿は、新鮮さを感じながらも、高校時代に遊んだときのような懐かしさを覚えてしまう。

「お客さんとして曜ちゃんとここに来るなんて、思ってもみなかったなぁ。なんだか不思議な気分」
「私も、自分から誘っておいてなんだけど、すごく不思議」

 今この時間がとても愛おしい。
 今日は本屋で梨子ちゃんと偶然会って、そのあとカフェで漫画を読んで。そして今、梨子ちゃんの働くピアノバーに客として来ている。

 ――この時間が、ずっと続けばいいのに。

 そう願わずにはいられない。本当に高校時代に戻ったような感覚。今過ごしている時間は間違いなく、輝いていることだろう。

「ねえ、曜ちゃん」

 梨子ちゃんを見ると、なにやら思いつめたような表情で床に視線を落としていた。なにか言いたいことでもあるのだろうか。

 すると梨子ちゃんは、勢いよく顔をあげた。私たちの視線が重なる。


「曜ちゃんって今……す、好きなひとって、いるの?」


 ――梨子ちゃんだよ。

 とは正直に言えなかった。
 過去と向き合うとは決めたけれど、その想いを告白するまでの勇気を、私はまだ持ち合わせていなかった。

 言葉に詰まる。梨子ちゃんが私の返事を待っているのが分かるだけに、できるだけ早く答えてあげたい。
 必要なのは、勇気だけ。ほんの少しの勇気さえあれば、梨子ちゃんに伝えられるのに……。

 ふと、梨子ちゃんに再会するまでの時間を思い出した。
 高校時代、梨子ちゃんに想いを告げずに捨て去った私。梨子ちゃんのことを忘れるように、無我夢中で高飛び込みに取り組んで、気がつけば日本代表にまでなっていた。

 完全に忘れたと思っていた。
 だけど偶然訪れたピアノバーで梨子ちゃんの姿を見て、梨子ちゃんのピアノを聴いた途端、私の初恋はいとも簡単によみがえってきたのだった。

 その偶然さえなければ、私は捨てたと思い込んでいた初恋に気づくことすらできなかっただろう。気づけたこと、再び出会えたこと自体が、奇跡のような出来事なのだ。

 だから、ここは勇気を出そう。
 巡り会えた奇跡に、背中を押してもらおう。


「いるよ、好きなひと」


 言った、言ってしまった。
 心臓がバクバクする。身体が熱くなっているのは、恋に熱せられたせいだろう。

「そう、なんだ……」

 だけど、私の答えを聞いた梨子ちゃんは、どこか辛そうな表情を浮かべて私から視線を逸らした。

「……そうだよね! 高校生の頃とは違って、もう十年も経ってるんだし! 曜ちゃんにも好きなひとぐらいできるよね……!」

 なぜか取り繕うように言っては、梨子ちゃんは笑ってみせた。ぎこちない、明らかに無理している笑顔。

「ごめんね、曜ちゃん……」

 そして、謝る。どうして梨子ちゃんが謝る必要があるのだろうか。

「私ね、高校生の頃から、ずっと曜ちゃんのこと好きだったの。だけど伝える勇気がなくて、そのまま卒業しちゃって」

 待って、もしかしてこれ、梨子ちゃん勘違いしてるんじゃ……。

「でも、曜ちゃんがバーに来てくれて、また曜ちゃんのこと好きになっちゃったの。だから今、想いだけでも伝えられて……良かった」

 ――良くないよ。

 勘違いしたまま終わらせるなんて、絶対に良くない。

「梨子ちゃんだよ」
「えっ」

 梨子ちゃんもずっと、私と同じだったんだ。
 高校時代、お互いに恋をして。でも想いは伝えられなくて。バーで再会して、また恋をして。

 今、勇気を振り絞って、想いを伝えて。


「私もずっと、梨子ちゃんのこと好きだった。高校生のときから、今もずっと」


 私たちはずっと、同じ想いをしてきたのかもしれない。

 すれ違って、離れて。
 近づいて、またすれ違って。

 だけど最後には、想いを伝え合って。


「梨子ちゃん、私と付き合ってください」

「……はい」


 必要なのは、ほんの少しの勇気だけだった。それだけで、私たちは結ばれたのだから。





 お互いに想いを伝え合って、見事結ばれた私と梨子ちゃん。だけど今、私の隣に梨子ちゃんはいない。

 ――今の気持ちをピアノで奏でたい。曜ちゃんに聞いてもらいたいの。

 そう言った梨子ちゃんは、マスターにピアノを弾かせてもらえるよう頼んだ。梨子ちゃんの頼みは快諾され、今梨子ちゃんは裏でドレスに着替えているのだとか。

 バーカウンターに座って梨子ちゃんの登場を待つ。するとほどなくして、ドレスに身を包んだ梨子ちゃんが現れた。今日はいつもの暖色系のドレスではなく、淡い水色のドレス姿だった。

 ピアノの前で梨子ちゃんが客に一礼すると、温かい拍手がバーに響きわたる。

 そして梨子ちゃんはピアノの前に座り、曲を演奏し始めた。

 その音色は、淡い桜色。

 目を閉じて音を聴く。目に浮かぶ風景は、満開の桜と、広大な海だった。岸に打ちつける波の音に乗って、桜の花びらが運ばれてくる。
 
 まるで私への愛を奏でるようなその音に、少し恥ずかしさを覚えながらも、私はこの上ない幸福感で満たされていた。

 温かな梨子ちゃんのピアノ。

 その音は、私を優しく包み込んでくれているようで。


 桜の音色に包まれて、私は愛するひとと幸せな時間を手にした。


 それは私の手に余るほどの大きさで。
 零れ落ちないように、両手をギュッと握りしめるのだった。 
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