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東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!

作者:織部
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ある夜のふたり~月語り~

 半径は地球の四分の一。重力は六分の一。表面温度は最高で一一〇度。最低で零下一七〇度。
 時に寺山修司が『トラコーマにかかったかのような』と表現するほど赤く、時にレイ・ブラッドベリが『ミントを盛りつけたような』と表現するほど青い。
 ジュール・ヴェルヌが砲弾で周回軌道を目指し、ハーバート・ジョージ・ウェルズは反重力物質で着陸を成功させた神秘の天体。魅惑の衛星。

 月。
 
 湖面に白い月が浮かんでいる。
 天上の月を地上の水が鏡となり映しているのだ。
 日本や中国には月を愛でる風習が昔からあり、日本では縄文の昔からあったという。
 平安時代では貴族などの間で舟遊といって、月を直接見るのではなく船などに乗り、水面に揺れる月を見て楽しむ宴がひらかれた。杯や池に月を映して楽しんだのだ。
 なんとも雅なことである。
 それを現代に再現して月見を楽しむ者がいた。
 アマゾン川流域に生息している世界最大級の葉をもつ水生植物オオオニバス。人が乗れるほどの大きな葉をしたその植物よりもさらに巨大な蓮の葉が水に浮かんでいる。
 自然界にはこのように巨大な蓮は存在しない。木行符によって、呪術によって生じた蓮の葉だ。
蓮の上には料理の盛られた膳と酒の入った瓶子と盃。ススキの入った花瓶。そして二人の男女が乗っていた。
 賀茂秋芳と倉橋京子だ。

「――『竹取物語』には月をながめるかぐや姫を(おうな)が注意する場面があり、『源氏物語』にも同じようなくだりがある。月見を楽しむと同時に忌む習慣があったのではといわれる。……なぜだろうな」
 酒に満ちた盃に映った月を愛でながら、ふと浮かんだ疑問が秋芳の口から出た。
「あんまり綺麗だから、逆に怖いと感じちゃったんじゃないの? それにほら、大きな満月って夜空に開いた穴みたいに見えない? なんだか別の世界へ通じる扉みたいで、ちょっと不気味。向こう側からなにかが出てきそう」

 水面に映った真円の銀盤をながめている京子がそう答える。

「想像力が豊かだな。京子なら幻術も巧みそうだ」

 いわゆる幻術には二種類ある。本来その場にないものを立体映像のように作り出すタイプのものと、対象の精神に働きかけて、その者にしか見たり聞こえたりできない幻を知覚させるタイプのもで、特に前者は術者の『どんな幻を創るか』という、想像する力。イマジネーションの強さが重要になってくる。

「そう言えばあなたからはまだ幻術を教えてもらってないわ」
「正直苦手なんだよな、こと幻術に関しては俺よりも笑狸のほうがずっと上手く使えるぞ」
「まぁ、あの子は本物の化け狸だものね」

 ここは都内某所、かつて総理大臣を務めたこともある高名な政治家の別邸の敷地内にある日本庭園の中の池だ。
 今夜は後の月見、十三夜。秋芳と京子は当初、近場の月見スポットで月見をする予定だったのだが、やはり二人きりで観月を楽しみたいとあって、この庭園にある大池を拝借することにした。とはいっても家主の許可は得ていない。
 ここの住人が今宵今晩この時間に庭を使うかを確認し、使わないという答えを聞いたうえで、月見に利用するから貸して欲しいと頼んだのだが、ことわられた。
 とうぜんだ。知り合いでもないのに庭先を貸してくれなどと言われ、軽々しく貸すような者はまれだろう。まして相手は家格も財産もある政治家である。どこの馬の骨とも知れぬ若者を敷地内に入れるなどありえない。

「清風朗月不用一銭買。江山風月、本無常主。それなのに今の世は美しい自然はほとんど金持ちや大企業によって買い占められ、小は高い塀に囲まれた私有地に、大は人工的に開発されたリゾート地になり、自由に立ち入ることができないばかりか観賞すらままならないようになっている。まったくなげかわしいことだ。それに自分たちが利用するというのならともかく、使いもしないのに絶好の月見場所を捨て置くのはおかしい、もったいない。――だいたいこの国の政治家や資産家と呼ばれる連中は土地や物を買いあさるばかりで社会に貢献しようとする者が実に少ない。自分で愛でるならともかく、転売や示威目的で作者の名前も価値もわからない美術品を購入し、倉庫で埃まみれにするなどもってのほかだ。博物館で国民みんなに公開すべきだろうに。ここの庭の持ち主なんかもバブルの時に青花釉裏紅大壺を手に入れたようだが、なんでも『明日には値の上がっている物を』などと言って買い求めたそうだ、まったく下品極まりないな。価値のわからないやつに価値のある物をあてがうなどもったいない。俺ならひとしきり愛でた後で博物館や美術館に寄贈するのに」
「わかったから、盗んだりしちゃダメよ」

 そんなやり取りの後、人払いの結界を張って二人きりの月見を堪能しているのだ。
「少し趣を変えるか」

 秋芳はそう言うと左手を池に入れ、右手を口もとに寄せて剣指を作り、なにか呪を唱えた。
 ぽつり、ぽつり、ぽつり――。
 しとしとと小雨が降り始めた。不思議なことに雨粒は二人の乗る蓮は避けて落ちている。
 これもまた呪術のなせる業だ。
 水面に映った月の形をくずさない程度の細雨が奏でる心地の良い水音があたりをつつむ。
 青い光に照らされ、小雨のヴェールにつつまれた湖面に浮かんでいると、まるで水の底にでもいるかのような気持ちになる。

「俺は秋に降る雨が好きだ。夏場のそうぞうしいゲリラよりも情緒があり、春のじめっとした小ぬか雨よりもさわやかで、冬のかじかむような寒の雨より温かい。そんな秋の雨が大好きだ」
「あたしも好きよ。雨っていうか、雨の降る情景が好き。音のある静けさとでも言うのかしら、雨音ってまわりの雑音をさえぎってくれるでしょ。あと、サティのジムノペディが聴きたくなるの」
「あー、それ俺も」

 耳を煩わす雑音は雨粒が地を打つ響きの中に溶かされ、さらに重く湿った大気がそれを真綿のようにくるみ、吸収してしまう。変化のない単調な雨音はいつしか意識されることもなくなり疑似的な静寂が耳をおおう。
 雨雲にさえぎられた陽光は大地に明確な影を刻まず、すべての情景が灰色の薄幕が垂れたかのようにぼやける。彩りの減った視界はさながら追憶の情景のように現実味を失い、瞑想にも似た心持ちになってくる――。

「天の原~ふりさけ見れば春日なる~」
「三笠の山に出でし月かも」
「いま来むと~言ひしばかりに長月の~」
「有明の月を待ちいでつるかな」
「月見れば~ちぢにものこそ悲しけれ~」
「わが身一つの秋にはあらねど」

 雨に煙る満月を見ていて月を題材にした歌が自然に出たのを皮切りに、二人きりの百人一首暗唱大会が始まった。

「朝ぼらけ~有明の月とみるまでに~」
「吉野の里にふれる白雪」
「夏の夜は~まだ宵ながら明けぬるを~」
「雲のいづこに月宿るらむ」
「めぐりあひて~見しやそれとも分かぬまに~」
「雲がくれにし夜半の月かな」
「やすらはで~寝なましものを小夜更けて~」
「かたぶくまでの月を見しかな」
「心にも~あらでうき世にながらへば~」
「恋しかるべき夜半の月かな」
「秋風に~たなびく雲の絶えまより」
「もれ出づる月の影のさやけさっ」
「ほととぎす~鳴きつる方をながむればっ」
「ただ有明の月ぞ残れるっ!」
「なげけとて~月やはものを思はするっ!」
「かこち顔なるわが涙かなっ!」     
「ふふうーん? じゃ、これはっ? ――ひさかたの天つみ空に照る月のっ」
「ううん?」

 それまで調子良く答えていた秋芳がつまった。

「百人一首じゃないな。聞きおぼえはあるんだが……、だれの歌だったかな……」
「失せなむ日こそ我が恋止まめ。――万葉集より、詠み人知らずよ」
「月がなくなる日があるとしたら、その時が私の恋心がなくなる時です、か……。月がなくなることなど
まずない、つまり私のあなたを想う気持ちは不変です。そんな意味合いなんだろうが、俺ならたとえ月がなくなろうが太陽が消えようが永遠にあなたを愛し続けます。という歌を作るな」
「じゃあ作って詠んでみせて」
「む……」

 いざ即興で作るとなるとこれが存外むずかしい。伝えたい想いを現す言葉がなかなか出てこない。
これでは平安の昔などにひらかれた曲水の宴などに参加すれば恥をかくことになるだろう。

「どうしたの秋芳君、長考?」
いたずらな笑みを浮かべて、こちらの顔をのぞき込むように頭を下げた京子。その瞬間、秋芳が動いた。
「ひゃんっ!?」

 マシュマロのように柔らかく、日だまりのように温かい京子の身体を緑の褥に組み伏せ、耳元でささやく。

「雅やかな美辞麗句をこしらえるのは、どうにもガラじゃあないな。言葉よりも行動で、百の無駄言よりも一つの至言でしめしたい。『永遠に君を愛する』と……」
「永遠に生きるつもりなの?」
「そうだ。いっしょに仙人になってずっとそばにいて欲しい」
「いいわよ、いっしょに仙人になってそばにいてあげる。でも、そのかわりあたしだけを見てちょうだい。浮気は絶対にゆるさないわ」
「もちろん、ずっと君だけを見続ける。ずっと愛し続ける」
「月がなくなっても?」
「月がなくなっても」
「太陽が消えても?」
「太陽が消えても」
「太陽の寿命はあと五十億年はあるわ。永遠には程遠いわよ」
「なら永遠を作るため力を貸してくれ」
「どういうこと?」
「太陽はその寿命が尽きる前に膨張し、地球を焼き尽くすだろう。それを阻止するために力を貸してくれ」

 太陽は水素を核融合させてそのエネルギーで輝いている。それにより水素はヘリウムになる。
そしておよそ五十億年後に中心核にため込んだヘリウム自体が核融合を始め、それによって膨張し、太陽は赤色巨星に変化する。
 赤色巨星の放射する強大無比なエネルギーの波にさらされた地球の大気は飛ばされ、海は蒸発し、すべてが干からびた不毛の惑星になると予測される。いや、それどころか飲み込まれて地球そのものが消滅するかもしれない。
 地球に存在するあらゆる生命体がなくなる。

「さて、呪術の力でなにができるか……。太陽を鎮める? 壊す? 移す?」
「地球のほうを移動させるって方法もあるわ。それともいっそ他の星に移っちゃうとか」
「それなら人類好みの自然のある星が良いなぁ。峨眉山の霧、廬山の朝日、洞庭湖の夕日、銭塘江の海嘯……。地球にはいたるところに美しい風景がある」
「春は京都御所や乙訓寺で桃や牡丹の花を見て、夏は金引きの滝のそばで涼しくすごし、秋は東福寺で紅葉を見物し、冬は三千院の雪景色を愛でるなんて最高よね」
「初夏のイングランドの湖水地方でゆったり釣りに興じたり――」
「――秋のプリンスエドワード島をゆっくり散歩したいわ」

 何百年もたてば歴史はうつりかわり王朝や国家は興亡をくり返す。それにかかわる人々の運命は大きく変転し、歴史をつむぐ。どの時代にもすぐれた芸術家や作家があらわれて書物を書き、詩を作り、絵を描き、彫刻や楼閣を造り、音楽を奏でる。それらを鑑賞するだけでも飽きないだろう。
 中国の仙人は皇帝を始めとする時の権力者をからかったり、妖怪をやっつけたり、美味い酒を飲んだりして退屈などとは無縁に永遠の生を楽しんだ。
 于吉や左慈は小覇王や乱世の奸雄を翻弄し、羅公遠は唐の玄宗皇帝を月へつれて行ったという。
 ひとりでも楽しいそんな暮らしを最愛の人と過ごせたらどんなに幸せなことか――。
 秋芳と京子は蓮の上で猫の兄妹のようにたわむれ、たわいもない会話をしているうちに、ふたたび月の話題にもどった。

「月にまつわる体験談とか、なにかある?」
「そうだな……。あれは山での修行を終えて京の町を中心に働いていた頃なんだが、こんなことがあった――」





 京都。
 土御門夜光が執り行った禁呪の儀式『泰山府君祭』が失敗して以降、霊災多発地帯となった東京だが、それ以外の地域にも霊災が起こる可能性はあった。まして京都といえば一二〇〇年の歴史を誇る古都であると同時に、昔から怨霊や鬼が跳梁する魔界都市でもある。東京に次ぐ霊災多発地帯だ。
 なにせ帝のおわす内裏の中にも平気で鬼が出る。宴の松原という平安宮の大内裏の西側にあった松林で女房が鬼に喰われた話は有名だ。
 作家の司馬遼太郎が宿泊したさい不思議な体験をした志明院。
 安倍晴明が式神を隠し、渡辺綱が美女に化けた鬼に遭遇した一条戻り橋。
 源頼政が鵺退治に使った矢尻を洗った鵺池。
 源頼光が髭切とともに源氏に伝わる名刀膝丸で退治したとされる巨大な土蜘蛛を封じた蜘蛛塚。
 小倉池、深泥ヶ池、千鳥ヶ淵、清滝トンネル、旧粟田口刑場近くにある歩行者トンネル、打合橋から尼子谷橋までの間の通称幽霊街道などなど――。
 様々なタイプの怪奇現象の報告があり、妖しき場所の枚挙にいとまがない。
 京都とは、そういうところだ。
 そのような場所に、ひとりの男がいた。
 まだ若い。少年のおもかげを残した青年、僧侶のように頭髪を剃った短身痩躯の青年。賀茂秋芳だ。
 血の色をした矢が全身に突き刺さっている。
 ――いや、ちがう。矢ではない。
 蛇だ。
 まっすぐに伸びた蛇が秋芳の身に喰らいつき、肉に牙を突き立てているのだ。
 ただの蛇ではない。呪力によって象られた魔性の妖蛇が一匹、二匹、三匹――。十匹も喰いついていた。
 激しい痛みが全身をさいなむ。だがそれ以上に苦痛をもたらすものがあった。
 呪詛だ。
 呪詛毒とでも言おうか、呪いの力が毒に変じていた。
 出血毒、神経毒、筋肉毒、発癌毒、腐食毒――。ありとあらゆる呪詛毒が蛇の牙から流れ出し、身体を蝕んでいる。
 常人ならばとっくに絶命し、死体はぐずぐずの肉塊に成り果てている。それほど強力な呪詛毒だった。
 全身に気をめぐらせ呪いに抵抗している。治療をするいとまもなく、ここまで遁走して来たのだ。
 一の辻で天狗の群れを蹴散らし、二の辻で百体あまりの牛頭馬頭の鬼を相手に奮戦したところまではおぼえていた。だがそこからいかにして魑魅魍魎の腕をかいくぐり、どこをどう逃げのびたのか、ここがどこなのか……。
 片目を眇めて見鬼を凝らす。あたりをうかがい、危険はないと判断した秋芳は解呪にとりかかった。

「朝日さし、小曽ヶ森のカギワラビ、ホダ になるまで恩を忘るな」
蛇避けの呪を唱えると全身に喰らいついていた蛇は一匹残らず地に落ち、煙とともに掻き消える。
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」

 続いて解毒の呪を、孔雀明王の真言を唱える。

「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」

 これも解毒の効果のある呪、薬師如来の小咒だ。

「祈願辟邪天刑星、癘鬼縛撃、疫難禳除」

 これもまた解毒の呪だ。
 やっかいなことに毒の種類だけでなく込められた術式も一匹一匹が異なるものだったので、それぞれ にもっとも効果のある解毒術を使っているのだ。

「禁毒則不能害、疾く!」

 最後に残った毒を消去したが、かすかな違和感がある。血がよどんでいるような、にごっているような、汚れているような、いやな感じ。
 体内に毒の残滓がいまだに残っているようだ。

「さすが本邦一の疫神の呪詛、一筋縄にはいかないな……」

 何本かの針を取り出すと、それらを治癒符とともに器用な手つきで腕や背中の経穴に刺していく。
 やがて針の針の先から黒くよどんだ靄のようなものが吹き出る。体内に残った毒気を外に出しているのだ。
 ようやく、すべての呪詛毒を祓い終えた。

「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」

 さらにダメ押しとばかりに光明真言を唱え土砂加持をおこない、浄めた砂を全身にふりかけて、やっと人心地ついた。木の幹にもたれかかり、目を閉じて呼吸をととのえる。
 並の陰陽医がたばになって施術しても解呪に数か月はかかる呪詛を小一時間。つまり約三十分ほどでやってのけた。これが秋芳の納めた呪禁の業だ。呪禁師とはほんらい典薬寮という薬を司る部署に所属する医療官。毒や病、ケガの対処には長けている。

(さすがに、やばかったな。……あいつらは無事に帰れただろうか?)





 ――少し前。
 満月に照らされる洛外の通りを五人の若者達が歩いていた。
 いずれもそろいの装束、陰陽塾の塾生や祓魔官が着ているようなデザインの服を着ている。
彼らはみな陰陽寮に身を置く者たちだ。
 陰陽寮。
 戦時中に軍部によって復活させられ、現在の陰陽庁の前身となった組織。あるいは律令制時代に存在した天文、暦道、卜占をつかさどる部署と同名のこの組織は関西の呪術師たちによる陰陽庁非公認のギルド。いわゆる闇寺のようなところであった。
 土御門や倉橋に呪術界筆頭の座を奪われた賀茂氏が中心となり、西国の呪術師たちをたばねていた。

「東に陰陽庁あれば西に陰陽寮あり」

陰陽寮に属する者の多くはそう自負しており、まじない働きを生業としている。

「愉快、愉快。今夜の仕事は楽しかったなぁ」

 先頭を行く長身の青年が機嫌良く笑うと、両隣を歩く青年らが追従する。

「ええ、まったく。お座敷でかんたんな呪術を披露するだけでがっぽりもらえる。これだから陰陽師はやめられない」
「しかも舞妓さんと芸妓さんの接待つきときたもんだ。いやぁ役得、役得」

 上機嫌に談笑する三人とは対象的に、少し距離をおいて歩く後ろの二人はどこか不機嫌そうだった。

「……必要のない無意味な卜占やこけおどしめいた呪術を見せつける。こんな芸人のまねごとみたいなことなんかやらされて、よく喜べるものです。呪術師としての矜持はないのでしょうか」

 中学に上がる前くらいの齢をした、少女と見間違えそうな白皙の貌に艶のある黒髪をした美少年が柳眉を逆立て不満を口にする。

「貴人に請われて術を見せる。べつにおかしいことでも卑しいことでもないだろ。賀茂忠行は醍醐天皇に射覆(せきふ)の業を披露し、安倍晴明は蘆屋道満と射覆の腕くらべをさせられた。平安の昔からある習いさ」

 となりを歩く秋芳はそう答える。 
 だが口ではそう言う秋芳だったが、内心ではこの美少年と同じ意見だった。
 特に『芸人のまねごと』という部分に大いに同意した。

(この気分はなんというか、あれだ。テレビのバラエティ番組で大御所と呼ばれるような声優が、あの声やってキャラやってと、若い芸人どもにオモチャや珍獣あつかいされているのを見る感覚だ。……しかしあれって見ているこっちが気恥ずかしくなるよな。自分がいじられているわけでもないのに、なんでだろう?)

「――東京の陰陽師……、祓魔官達は霊災相手に華々しい活躍をしているというのに私達は有閑者相手に占いや手品じみた呪術を見せて小遣い稼ぎ。おもしろくありませんっ」

 秋芳が散文的なことを考えているあいだにも美少年の愚痴は続く。興奮のあまり変声期前のボーイソプラノがさらに高くなる。こうなるとほとんど女子だった。
 この美少年の名は咲耶という。賀茂家の分家である勘解由小路(かでのこうじ)家の者で、それだけに呪術師としての誇りが高いのであろう。

「……名門名家のお二人には今回の仕事はくだらなく感じたようですね」

 咲耶の声が耳に入り、長身の青年が歩みを止めふり返る。

「けれどおれたちのような家格も血筋も平凡な凡人は名門様とちがって仕事の選り好みなんかしている余裕はないのでね、悪しからず」
「ご不満なら次からは無理につき合わなくてもいいんですよ、名門陰陽師様には東京あたりでそれにふさわしい仕事をしてもらってけっこうです」
「そうそう、東京でおれたち庶民には荷の重いお役目をこなしてください。名実ともに優秀な名門出の陰陽師なら簡単なことでしょう?」

 青年達の言葉には三割の皮肉と七割の嫉妬に棘のコーティングがほどこされていた。ことさら東京と口にするのは、現在最も権勢を誇っている倉橋家が東京を拠点としているから。
 かつては陰陽頭を務めた賀茂家も、いまでは見る影もない。そうあてつけているのだ。
 彼らは普段このようなあからさまに悪意のある口ぶりはしない。むしろ秋芳らに対して遠慮というかよそよそしい態度を取ることが多い。
 先の座敷では酒もふるまわれた。アルコールの勢いでついつい普段は心の奥にしまい込んでいる心情がもれ出てしまったのだろう。
 皮肉と嫉妬にくわえて愚痴も追加された。

「――まったくよぉ、これくらい最初から決まってる業界なんて呪術界くらいだぜ。金もコネもある名門に生まれて、ガキの頃から呪術界入りして働いてりゃ、いやでも上手くなるっての」
「大人になって一から修行して業界入りするのにくらべ、最初からコネで業界に入れるんだもんな。一般呪術者にくらべて一歩も二歩もリードしてるわけだ。うらやましいねぇ」
「周りの敷いてくれたレールに乗っかるだけの楽な人生だよな、名門陰陽師ってのは」

 さんざんな言いようである。
 その名門に生まれてしまったがゆえに死ぬようなスパルタ教育を受けて育ってきたわけだが、おまえらにはそれがうらやましいのか? 成人男性でも気を抜けば命を落としかねない真冬の滝行を幼少の頃から幾度もおこない、入峰修行では野草を食べ雨水をすすり動物や昆虫を捕らえて胃袋に入れた。
 不眠不動、土中入定、火渡り、捨身――。
 これらのうち一つでも楽な修行だと、おまらは思うのか?
 そう口にしてもよかったのだが、どうにも不毛な口論になりそうに思えたのでやめた。他人の言葉、周囲の目なんて気にし出したらきりがない、身が持たなくなる。
言いたいやつには言いたいことを言わせておこう、ここは自由の国だ。
 青年達は言論の自由を享受している。
 秋芳は馬の耳に念仏と決め込んだが咲耶はそうではなかった。あちらに言論の自由があればこちらにもあり。咲耶がなにかを言いかけようとした時、その表情に緊張が走った。青年らのはるか後方から近づくものに気づいたからだ。
 夜の闇よりもなお暗い、地にうごめく雲のようなもの。
 遠くからでも感じられるおびただしい量の瘴気――。
 秋芳もまたそれを見鬼た。

「百鬼夜行だ」
「なにっ!?」

 秋芳のつぶやきに驚愕した青年達は見鬼を凝らしてあたりを見回す。
 だが――。

「なにも来ないぞ」
「おどかすなよ」

 青年達には見えない。遠くからやってくる百鬼の群れが。

「おれたちをバカにしようとしているのか?」

 長身の青年がずずいと秋芳にせまる。

「あのあやしい雲気が見えないのか?」 
「ああ、見えない」

 青年は秋芳の言を一笑にふして短身痩躯の相手を見下ろし、身長差からくる優越感にひとしきりひたった後になにかを言おうとした。
 だがその矢先、その表情がこわばった。

「ば、バケモノ!?」
「ほんとうに百鬼夜行だ!」

 ここにきてやっと数え切れない量の瘴気を放つものどもの気配をひしひしと感じとったからだ。

「に、逃げるぞ!」
「いそげ!」

(だから言っただろうに……)

 あやしき雲気はすでに目前に迫っている。

「もう間に合わん、隠形しろ」

 そう言う秋芳の姿はすでにかき消え、声もかすかにしか響かない。
 禁感功。いっさいの気配を絶ち、存在を隠す呪禁の業。

「お、おいっ、おれたちはおまえほど穏形が上手くないんだぞ」
「なんとかしてくれ!?」

 急速に近づいて来る異形の群れの気配に恐怖した青年達が泣きついてくる。咲耶もまた穏形をこころみるも、なんとも心もとない。不安げな表情で秋芳を見上げている。
 実にいじましい。

(なんとかって、俺にどうしろってんだよ)

 わずらわしく思いつつ、捨て置くこともできない。秋芳は百鬼夜行除けの結界を張り、やり過ごそうとこころみた。

「結界を張る。動いたり声をあげたりするなよ」

 異形の群れが、眼前に迫る。
 秋芳は一同を道のすみまでうながすと、舞うような仕草であたりを歩きだした。地を踏み、片膝をつき、地に指先をついて口中でなにかの呪を唱える。
 反閇による結界が完成した。
 秋芳達の姿が、気配が消えた。そこに異形の群れが殺到する。
 一つ目の小人、三つ目の大入道、足のはえた畳、二つ首の犬、尾にも首のある蛇、人の胴をした釜、 角一つある鬼、角二つある鬼、牛ほどもある人の顔、首のない馬に乗る首のない武士、嘴のある蛙、根を足がわりに歩く樹、髪を足がわりに歩く女の逆さ首、火の粉を散らす大蜘蛛、氷の息を吐く女、百の目を持つ肉塊、血まみれの髑髏、宙を舞う刀、光る猫、猿の顔と狸の胴と虎の手足と蛇の尾をした獣――。
 あらゆる種類の妖怪達がゆらゆらと踊りながら通り過ぎて行く。

「…………ッ!!」

 秋芳以外は恐怖に身体を震わし、膝をがくがくと揺らし、今にも白目をむいて卒倒しそうだった。

(これが妖怪、陰陽庁の言う動的霊災……!)

 咲耶もまた恐怖を感じ、震えていた。ここまで実体化した霊災を実際に見るのは始めてだ。しかも一体や二体ではない。百鬼夜行なのだ。
 妖怪達の中に手になにかを持っている者もいた。
 人の腕、人の指、人の足、人の頭、人の鼻、人の目、人の耳、人の唇、人の舌、人の歯、人の髪、人の心臓、人の肝臓、人の胃、人の腸、人の膀胱、人の睾丸――。
 不運にも百鬼夜行に遭遇した犠牲者の身体だった。
 妖怪達はばらばらになった人肉を口にはこび、旨そうに食べていた。
 ちゅるちゅると眼球をすすり飴玉のように舐める。碗に満たされた人血を舌ですくい飲む。耳をこりこりとかじり、太ももにぞぶりと喰らいつき、ぶつりと喰いちぎる。
 一体の鬼がかじりついた足首から口を離した。切断面から黄色と白の筋繊維が限界までのび、ぶつりと音を立て切れる。
 それを目のあたりにした咲耶は両手を口に強く押しあて、唇から悲鳴がもれそうになるのを懸命にこらえて、飲み込んだ。

「ヒッ!」

 それができなかった者がいた。三人の青年のうちのだれかが、かすかではあるが悲鳴をあげてしまったのだ。

「止まれ」
 
 豪奢な装飾のほどこされた大きな輿の中から物々しい声が響くと妖怪達はいっせいに歩きを止めた。
巨大で、なおかつ豪華な輿だ。屋形の上に金銅の鳳凰が飾られている。まるで天皇のみが乗ることをゆるされた鳳輿のような造りだが、牽いているのは馬でも牛でも人でもない。巨大な手だ。紐につながれた牛馬よりも大きな人の手が五本の指を器用に動かして輿を牽いているのがなんとも不気味だった。

「いかがしました?」

 一本角の鬼が中の人物にうかがいを立てる。

「なに、今このあたりから人の声が聞こえたような気がしたのでな」
「なんと、人ですと?」

 鬼が言うと、その知らせが次々と妖怪達の間に広がっていった。

「人じゃ」「人だと」「人じゃと」「人がおる」「人がおるのか」「人がおるとな」「人がいるぞ」「人がいるそうな」「人がいるそうじゃ」「人じゃ」「人じゃ」「さがせ」「人をさがせ」「さがせさがせ」
「そういえばさっき遠くから人の姿が見えたような気がした」
「はやく言え」「おまえそれをはやく言え」「はやく言わぬか」「なぜはやく言わぬ」「さきに言え」「なぜ言わぬ」「どこじゃ」「どこで見た」「どこにおる」「このあたりか」「ここか」「ここか」

 妖怪達が右往左往しあたりを探っていると、ふたたび輿の中から重い声が響く。

「犬神を呼べ。あやつならば鼻が利くゆえ、見えぬ者も臭いで見つけられよう」

 烏帽子をかぶり直衣を着た二本足で立って歩く犬が列をかき分けあらわれた。鼻をくんくんとさせて秋芳らのほうに近づいて来る。

「このあたりで臭いまする」

 他の妖怪達も同様に鼻をくんくんとさせて寄ってきた。

「おう、言われてみれば」「うむ、臭うぞ」「臭うな」「うん、臭う」「臭う」「臭う、臭う」「人の臭いじゃ」「人の臭いじゃ」「近いぞ」「さあて、人はどこかな」「どこにおる」

 血腥い息を吐きながら、すぐ目の前をうろうろと徘徊する。咲耶と青年達はもう生きた心地もない。
 とん、と咲耶の身体が秋芳にぶつかった。
 血の気の失せた蒼白な貌に玉のような汗が浮かび上がっていた。恐怖のあまり失神する寸前のようだ。
 見れば他の三人も同様の状態。次にだれかがわずかでも悲鳴をあげたり、崩れ落ちればその音で気付かれる。結界は破綻することだろう。

(これはもう限界だな、しかたない――)

 秋芳は咲耶の肩を強く抱き、しっかりと立たせた後、その耳元で妖怪達の注意をそらし、いざとなれば自分が囮になるという一計を告げ、みずから結界の外に一歩足を踏み出した。
 秋芳は禁感功を駆使している。それゆえ妖怪達には認識できない。目はそこに術者がいることを見ているのだが、心がそれを認識できない。まるでころがっている小石のように気にとめられることなく、他者は無意識のうちに目をそらし、避けて通る。すぐれた隠形とはそういうものだ。
 それをいいことに手近な妖怪をどついた。

「あなや!?」

 蹴倒した。

「痛や!」

 密集している間隙を縫ってどついてまわる。

「なにをする?」「痛や!」「われを打ちたるはぬしか!」「おのれ」「こはいかに!?」「なれ!」「ゆるさじ!」「おのれ!」「あな憎し!」「いとうるさし!」「むくつけしやつかな」「くちおし!」「こなくそっ」「Ouch!」「けやけきやつめ」

 たちまち同士討ちがおこり、水面に生じた波紋のように混乱が広がっていく。
 そろそろ頃合いと見て結界にもどろうとした、その時。一振りの矛がうなりをあげて秋芳にせまった。
 隠形を維持しつつ身体を動かすことはむずかしい。初心者はゆっくり歩くことすらままならないくらいだ。なにか激しい行動をしようとした瞬間に解ける。秋芳の隠形は極めて高いレベルにあったが、それでも完璧というわけではない。能動的なおこないをすれば隠形にほころびが生じ、勘の鋭い者には知覚される。
 どうやら百鬼の群れの中に勘の鋭い者がいたようだ。
 とっさに避ける。が、それにより禁感功は完全に解かれた。

「おのおのがた、かき乱るることなかれ。これなるくせ者のしわざぞ!」

 矛を手にした埴輪が叫ぶ。 
見つかった。
 秋芳は即座に動いた。木行符、火行符、土行符、金行符、水行符。五行符をまき散らし、呪を唱える。
 無数の細い木の枝が雨のように降りそそぎ、妖怪達に突き刺さると同時に火行符が起爆し枝から火炎が生まれた。
『刺す』と『焼く』とを同時に受けて、さしもの百鬼らも苦痛の声をあげる。燃えた尽きた枝の灰塵は土塊となるも、土行符の作用で爆散し、さらなる痛手を負わせた。
 さらに爆ぜた土塊の中より無数の刀刃が踊り出て乱舞し、まわりの妖怪をめった斬りする。水行符が血脂を洗い流し、それだけにとどまらず激しい水しぶきをあげてまわりの妖怪を押し飛ばす。
 水流の中に投じられた木行符は猛烈ないきおいで水気を吸収すると暴風と化した。風は木気と金気のいずれかに属す。今回は木気の風だ。風に乗った火行符が火を放ち、火炎が渦を巻く。炎の竜巻から灼熱の石弾が飛び散ったかと思うと――。
 相生効果により威力を倍々化させた呪符の舞いが百鬼の群に甚大な被害をもたらした。

「洛中の陰陽師ここにあり! 狭蝿なすもののけども、捕まえられるものなら捕まえてみろ!」

 身をひるがえし、路を駆ける。

「おのれなめげなまねを、ゆるさぬ!」
「とりて喰らわん!」

 おびただしい数の妖怪達がその後を追いかけ消えていく。
 やがて妖怪達の怒号や悲鳴は次第に遠ざかり、結界にひそんでいた四人はほっと胸を撫で下ろして生きた心地を取り戻した。





 咲耶達が隠れている場所からじゅうぶんに離れたのを確認した秋芳は攻勢に転じた。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行!」

 九字を切ると同時に四縦五横に足を運び反閇を踏む。刀印を結んだ指が空を切るたびに、足を一歩踏み出すごとに呪力が拡散し、邪気を祓う剣となり瘴気を防ぐ盾となり、群がる百鬼を打ちすえる。
 たちまち数十体の妖怪がその身にラグを生じさせて消え失せた。さらに――。

「禁妖則不能在、疾く!」

 あやかしを禁ずれば、すなわち在ることあたわず。弱ったところを強引に呪殺し、一体一体確実に修祓していく。
 ここな陰陽師手ごわし。
 血肉を喰らわんと殺到していた妖怪達だが、思わぬ反撃に包囲の輪がくずれる。
 そのすきをついてさらなる術を展開。

「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」

 刀印で五芒星を描き、足もとにむけて放つ。秋芳を囲う形で光の呪印、五芒星が煌めく。

「こしゃくなまねを、うちてしやまん!」

 力自慢の大入道や鬼が打ちかかるが、五芒星の結界はびくともしない。

「痛し!」

 それどころか結界の霊気に弾かれ、逆にダメージを受けている。堅固な障壁で守りを固め、安全を確保したのち、呪文を唱える。

「あんたりをん、そくめつそく、びらりやびらり、そくめつめい、ざんざんきめい、ざんきせい、ざんだりひをん、しかんしきじん、あたらうん、をんぜそ、ざんざんびらり、あうん、ぜつめい、そくぜつ、うん、ざんざんだり、ざんだりはん!」

 長い。あまりにも長い呪文詠唱。だが周りの妖怪達は結界にはばまれそれを阻止することができない。
 術の締めくくりに柏手を打つ。
 パンッ! と両の手の平を打ち合わせた瞬間、秋芳を中心に呪力が爆発した。周囲に衝撃波が走る。
 神仙道系の遠当法。こんにちでは帝国式陰陽術――土御門夜光が軍事用に再編成した呪術体系――に属する、きわめて攻撃的で強力な呪術。
 まわりにいた妖怪のほとんどが消し飛び、残ったものもほうほうの体で逃げ出していく。これでしまいかと思った時、音を立てて輿が割れた。
 例の巨大な手に牽かれていた豪勢な輿だ。
 動的霊災のくせして貴人が乗るような輿を使うとは。どんなやつが乗っているのかと見れば、しぶみのある緑色をした束帯姿で垂纓(すいえい)の冠をかぶり手に笏を持っている。なるほど、たしかになりは高貴な身分の人のものだった。
 だがその姿は異様としかいいようのないものだ。三メートルほどの巨躯に牛のような顔と牛のような角、束帯から出た手足は獣毛におおわれている。
 目は爛々と輝き、鼻からは蒸気のような白煙が吹き出し、全身から放出される気が時たま雷火のように爆ぜ光る。

(あの緑色の束帯はまるで帝のみが使用をゆるされた麴塵袍(きくじんのほう)のようじゃないか。化け物のくせになんと不敬な……)

 秋芳がそのような考えをいだいた瞬間、牛頭の異形が激しく吠えた。

「この無礼者が、頭が高いっ!」

 咆哮に込められた霊気が秋芳の身を打つ。今まで相手にしていた妖怪達とはけた違いの気、異なる霊相。
 鬼の打撃を防いだ五芒星の結界を軽々とすり抜け、身心を穿った。

「うぐっ!?」

 視界がぐらつき目の前が暗くなる。ひどい貧血になった時のように全身から力が抜けていく。

(これは……、呪詛か! しかしなんと強力な。これほどまでに凄まじい呪は始めてだ!)

 いそぎ解呪を施しつつ相手をしっかりと見鬼る。
 強い。
 とてつもなく、強い。
 こいつはちがう。
 先ほどまで相手をしていた有象無象の動的霊災とはちがう。
 荒々しくも神々しい、尋常ならざる霊気に畏怖すらおぼえる。こいつは――。

「牛頭天王……!」

 牛頭天王。八坂神社に祀られる、素戔嗚尊や薬師如来を始めとする多種多様な神仏が習合された謎多き神。
 相手は神。それも多くの神格を有し、畏れ多くも皇祖神につらなる存在。
 一瞬、わずか一瞬だが秋芳の心に恐怖が生じ、その脳裏に「逃走」の二文字が浮かんだ。圧倒的な実力差。逆立ちしても勝てない相手。だが後ろを見せれば、その瞬間殺される。打つ手なし。万事休す。
 どうする?
 逡巡する前に身体が動いた。闘争本能に従い、全力で戦う。相手に立ち向かう。
 いつでも逃げれば生きられるというものではない、突き進んだほうが生きのびられる場合もある。
 戦闘とはそういうものだ。秋芳は経験でそれを知っていた。それゆえ戦うことを選んだ。

「我咆哮金城穿孔、鉄壁崩壊。吼っ!」

 我が咆哮は金城を穿ち、鉄壁を崩す。
 おのれ自身にかけた甲種言霊。自己催眠によって強化された純然たる霊気の波動が牛頭天王に放たれるも、微動だにしない。

「人の子風情が、図に乗るなッ!」

 声とともに口から吐き出た猛気は周囲の霊気のバランスを急速に乱し、陰の気へと転じさせた。
 いびつにかたよった霊気はある段階から瘴気へ変わり、濃厚な瘴気は血肉を宿して具現化した。
 青黒い肌に獣の顔と鳥の羽と嘴を持った無数の異形が、天狗の群れが姿をあらわす。規模こそ小さいが、これは小型の霊的災害。霊災だ。
 それも初期の霊災どころか、霊災が連鎖する百鬼夜行。フェーズ4に該当する。
 たった一体から、ふたたび百鬼の群れが生まれ、踊り出る。
 死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。
 秋芳は無我夢中でおのれの力を、呪力をふり絞り、全身全霊をかたむけて戦った――。




 
 時間にすればわずか数分だが、木の幹を背にして眠ってしまったようだ。
 秋の夜風にくすぐられ、目を覚ました。
 ここはどこだろう? どこかの小山の頂にいるようだが……。
 松や杉の木の生い茂る山中から下りようとした、その時。林の中から堂宇がこつ然とあらわれた。
 ちょうど雲ひとつない夜空で、東の空のほうに大きな満月が皓々と光り、地上を照らしていた。その月光を浴びて堂宇全体が白銀に輝いていた。まるで月の光が銀箔と化して屋根の上から垂木の一本一本、窓や障子、壁から高欄、果ては庭の砂にいたるまで、すみずみに光がたゆたい銀のしずくが弾けているような錯覚をおぼえた。

「なんと美しい……!」
 
 秋芳は圧倒的な美しさに総毛立ち、ふらふらと吸い寄せられるように堂宇に近づいた。
 唐破風が前後についた造りの向唐門。これもまた銀色に輝いていたが、おどろいたことにその屋根には本物の銀箔が貼られているではないか。
 門をくぐり中に入ると石庭が広がり、月の光を反射して真っ白い砂が銀色に輝いていた。花園には竜胆を始めとする秋の花々が咲き誇り、蓮の花が浮いた大きな池は満月をくっきりと水面に映し、こちらもまた金色に輝いているようだ。
 そのような美しい庭園の奥に白銀の光を放ち、鎮座する堂宇が堂々とそびえ立っている。

「これは……、月の光が反射しているんじゃない。門と同じく瓦や壁に実際に銀箔が貼られてるじゃないか!」

 しばらくのあいだ周囲を眺望し、その美しさを堪能すると、池のほとりにある大きな石に手をついて座る。すっかりこの場の〝美〟に呑まれてしまったようだ。

「……大運山龍安寺のような石庭に鹿苑寺の金閣を銀にしたかのようなお堂。これほどの古刹名勝が京都にあっただろうか?」

 ひょっとしたら自分は隠れ里や桃源郷と呼ばれる異界にでも迷い込んでしまったのかもしれない。そう思い眼下の池を見れば、こちらもまた美しい。若竹色の水をなみなみとたたえた池の水面は大きな月が丸く映り、少しも揺れていない。
 まるで磨き上げた鏡をそっと池に浮かべたような、いや、池そのものが大きな鏡のようだった。
 こちらもまた、美しい。思わずため息がもれた。

 ふふふ……

「!?」

 どこからか忍び笑いが聞こえた。
 すぐに見鬼を凝らして周囲にさぐりを入れるが、判然としない。

 ふふふ……

 笑い声は男のようでもあったし、女の声のようでもあった。死ぬ間際の老人のそれのようにも聞こえ、幼児の無邪気な笑い声にも聞こえた。
 右から、左から、後ろから、前から、上から、下から――。
 笑い声が延々と響く。

「皎如飛鏡臨丹闕皎として飛鏡の丹闕に臨むがごとし――。飛鏡とは皓々たる望月のまたの名でございます」

 こんどは嫣然たる女の声が上のほうからした。
 月だ。声は月から発せられている。
 月が迫っていた。ありえないほどの大きさの月に老若男女の顔が浮かんでは消えている。それはまるで夜空にかかった銀幕。スクリーンの場面のように人々の顔が映し出されていた。

「時は昔、寛正五年は長月十三夜。高倉御所にてもよおされた月下の宴の夜も、ちょうどこのような飛鏡のごとき見事な満月の夜でございました……」
 仰々しく芝居がかった口調でそのような前置きをした妖月は物語を話し始めた。
 あやしき月の表に三人の男女の姿が浮かび上がる――。





 寛正五年。
 京を騒がした畠山一族の内紛が一段落したころ、高倉御所にて月見の宴がもよおされようとしていた。
 宴といっても参加者は三名のみのごくごく内輪のもの。
 中庭に特別にしつらえさせた二十畳ほどの御見台。月の光をぞんぶんに愛でるため、かがり火は禁じたうす暗き場所に二人の男女が座っていた。

「いささか遅すぎませぬか。ギジン殿はご自分を御所様よりも偉いとでもお思いか」

 陪席に座っている女から焦れた声が発せられた。
 竜胆の打掛に千鳥の小袖をまとった、いかにも高貴そうな二十歳前後の女性がけわしい表情を浮かべている。もともときつめの顔立ちが、いら立ちのためさらに峻烈なものになっていた。

「ほほほ、そう怒るなトミコ。あれは昔から約束の刻限というものを守ったことのない男。短気は損気ぞ」

 上座にいる面長の男はおっとりと応えると朱塗りの大杯をぐい、と前につきだした。
 すかさず腰元が近づき酒をそそぐ。
 腰元は青磁の皿に盛られた茱萸(ぐみ)の実を一つつまんで大杯に落とす。唐様の月見酒だ。

「遥知兄弟登高処、遍挿茱萸少一人。ほほほ、唐様よのう。余は満足じゃ」

 小さな果実を酒とともに飲みこむと酒の甘さと果実の酸味が口中に広がっていく。いよいよ満悦の表情がにじむ。
 するとそこに正座して上り込んで来る者があった。ギジンだ。

「せっかくの兄上、いや御所様のお招きに預かりましたが、遅参してしまいまことにもうしわけございません。このギジン汗顔のいたりでございます……」
「よいよいギジン、面を上げい。今宵は無礼講じゃ、立場を忘れただの兄弟にもどろうぞ。さぁ、近うよれ、ともに良き酒、良き月を愛でようぞ。……うん? なんじゃその箱は?」
 御所様と呼ばれている面長の男はひれ伏して詫びを入れるギジンの横に一抱えほどの桐箱があることに気づく。かなり年季の入った物で、紫のひもで十文字にかたく結ばれていた。

「ははっ、今宵の宴の座興にと比叡の倉を探らせて持って参らせた品でござる。秦代より伝わるまじないの品だとか」

 面を上げたギジンは見事に剃髪していた。面長の御所様とは対照的に端正で彫りの深い顔立ちをしていた。

「ほう! 秦の時代より伝わるまじわいの……。余のために比叡の倉を、とな」

 唐様を好む御所様は感じ入ったようで、機嫌良く大杯を口にはこぶと腰元に命じて目の前に持ってこさせた。
 ギジンはそっと陪席に瞳を流すと、そこにいるトミコと目が合った。ギジンの目の奥は炎のように赤くたぎり、トミコの目は月よりも青く凍っていた。
 そして二人はかすかにうなずき合う。
 そのようなやりとりも知らずに御所様は固く結ばれたひもをほどき、ふたに記された文字を月光にすかして見る。

「ふうむ、この箱は康暦……。今から九十年も前の物か。骨を、照らす?」
「それは照骨鏡と読みまする。ささ、まずはその品をご覧くだされませ。お気に召しませばこのギジン、欣快至極」

 そう言うとあらためて両手をつき頭を下げる。

「どれ……」

 箱の中に手を入れ、静かに中の物を取り出す。琥珀色とも飴色とも象牙色ともつかない微妙な色合いをした半球状の物体が姿をあらわす。
 半球の裏側が一瞬、輝いた。鏡だ。
 半球状のなにかに青銅の鏡がはめ込まれている。

「ほうぅ、これは精緻な……。ふむ……、おう、見事な作りじゃ……」

 御所様は照骨鏡なる奇妙な鏡に顔を近づけ、とり憑かれたようにためすがめつ観賞を続ける。
その様子を見てギジンは得たり、とばかりの笑みを浮かべ、陪席の貴女も忍び笑いをこらえていた。

「む、ここになにやら刻まれておるのう……。なになに……、立川流……、見蓮……、人間の髑髏……、照骨鏡に念を入れる……、だと?」

 ぎくり、ギジンとトミコの表情がこわばる。

「大治五年だと……、崇徳帝の御世か。ははは、秦の時代の鏡が三百年前に細工され九十年前の箱に納められる。いささか無理があるのではないか、ギジンよ。戯れもたいがいにいたせ」
「では御所様。ひとつお座興にその鏡に今宵の望月の光を映しこみ、ご自身の姿をごろうじてはいかがでしょう」
「うん?」
「その照骨鏡。その名の通り生身を透かし骨をも見通せるまじない鏡なのですが、望月の夜にはその魔力いよいよ高まり、映りし者の未来がありありと浮かんでくるとか」
「しかとさようか!」

 子どものように目を輝かせ、珍しき鏡の妙なる力を試そうと鏡を満月にかざしかけ、ふと手を止める。

「じゃが立川流といえばたしか後醍醐帝が深く傾倒あそばれし淫祀邪教ではなかったか? その教えの祖は仁寛。後醍醐帝が帰依されしは小野文観上人。この見蓮なる人物もたしかその創設に関わる者ではなかったか」
「邪教などとは今は昔のことでございましょう。そも、立川流があがめし荼枳尼天は夫婦円満、子宝の霊験あらたかだとか。今の御所様にはかっこうの護り本尊かと」
「ふむ、たしかに……」

 すっと、鏡をのぞきこむ。
 満月の光が青銅の鏡に吸い込まれ、虹の色彩を持つ蛋白石(オパール)の輝きを放ったかと思うと、秋の青き空の色を見せる。

「おおう、見事じゃ。いや、この色の変わりようを見るだけでも未来を見るより価値があろうぞ」
「なにか、色のほかには見えませぬか?」

 ギジンのその問いにはあせりがにじんでいた。そんな彼に陪席のトミコがじっとねばりつくような視線を送る。

「いや、なにも……。特には……」

 鏡の中をじっと見つめる。するとやがて、青い光を放つ鏡の中に彼自身の顔が浮かんだ。
 だがその顔は実際の彼自身の顔よりも端正で、より美しく聡明で凛々しく、『かくあるべし』と常日頃からみずからが考える、理想の己の容貌であった。

(ヨシマサ、ヨシマサ聞こえるか)

 ヨシマサ。それは先ほどから御所様と呼ばれる男の名だ。

「ぬぬ、この声は……。いったいだれの声じゃ?」
(だれでもない、余は汝である)

 美しく尊大な表情で鏡のヨシマサが応えた。

「なんと面妖な……」
(聞け、ヨシマサ。この照骨鏡をギジンが汝に献じたのはなぜだと思う?)

 美貌の鏡影がゆらいで消えた。かわって現れたのはどこかの茶室で密会するギジンとトミコだった。ふたりはかたく抱き合って唇を吸い合っている。

「もうがまんならん、あの数寄かぶれの兄めを始末してくれる」
「いつもそのような……、お言葉ばかりではありませぬか」
「言葉だけではない。それがしが起てばともに戦おうとしてくれる大名は十や二十はいる。それがしには大義がある」
「大義がございますれば帝をお味方につけるもたやすいこと。なにも乱を起こすまでもございますまい」
「…………」
「わが家に伝わるお話でございますが、比叡山の宝物殿にはかの邪教立川流の呪具が数多く封印されておりますとやら。その一つを御所様に触れさせたなら毒や刀でもってしいするよりも、いとも易きことかと」
「それがしに呪具で兄上を暗殺せよと、そうもうされるのか……。よし、覚悟を決めようぞ――」

 ギジンの顔に殺意が広がっていった。
 そこにふたたび鏡の声が響くと、鏡の光景は消え、かわりに能の恵比寿の面が映る。

(さぁさぁ、なんとするヨシマサ。この姦夫姦婦めらをどう裁く?)

 青銅の鏡から昏く冷たい光が放たれる。月の光にしては明るく、影の色にしては暗すぎるそれが、じっとりとヨシマサの双眸に吸い込まれる。
 じっと鏡をのぞき込んでいたヨシマサがなにごともなかったかのように照骨鏡を床にもどした。

「良き趣向であったぞギジン。近う寄れ」

 かしこまって近づいたギジンに耳元でささやきかける。

「ふふふ、そのほうらの戯れを見てすっかり楽しんでしまい、余が肝心の所用を忘れるところであった」
「は? 御用と言いますと?」

 ギジンはなにごともなく語りかけてくる兄の様子に拍子抜けして問うた。毒を盛られたかのように苦しむでもなく、剣で斬られたように倒れるでもない。古来恐怖の対象であった立川流の呪具といえど、しょせんは迷信だったのか。風流狂いの兄一人どうすることもできぬとは――。

「うむ。トミコとはもうすでにじゅぶんに話し尽くしたことなのだが――。余とトミコには子が授からぬ。そこで余は隠居し、弟であるその方を次代将軍に指名することにした。さよう心せよ」
「なっ!?」
「来たる師走には還俗し、名もギジンからヨシミと改め精進するがよい」

 唖然とするギジンは陪席のトミコをねめつける。なぜこのことを教えてくれなかったのか? 将軍の位をゆずろうとする、この『心優しい兄上』を殺させようとは――。

「さぁ、次はおぬしの番ぞ。照骨鏡をのぞくがよい」

 感情の見えぬ、おっとりとした表情で大杯を口にし、鏡をギジンにまわすよう腰元に命じる。

「それがしが九代将軍に……」

 呆然としているギジンの目の前に照骨鏡がはこばれる。無防備にそれをのぞきこんだ瞬間、鏡面が紅色に輝いた。
 燃え盛る炎。人馬より流れるおびただしい血。飛び交う火箭。血に濡れた刃。返り血をあびて夕陽に照らされる陣羽織――。

「うぬ、これはいったい……」
(ギジン。いや、ヨシミよ)

 冷笑をふくんだ声が銅鏡から発せられる。

「む、何者だっ」
(さわぐでない、それがしは、汝だ。いま一人のおぬし、未来のおぬしだ)
「未来、とな……」

 ゆらいだ鏡面に剃髪をしていない、武者姿のおのれが浮かび上がる。

「その姿は……」
(おどろくことではないぞ、今のそれがしは帝や管領殿の後ろ盾を得ておる)
「しかし、その姿は、戦装束とはなにごと……」
(あれなる女、トミコめが南朝の残党をあつめて東国で兵を挙げたのだ。それゆえの戦装束よ)
「なんと、しかし、しかし……、しかしトミコ殿は御所様を捨ててそれがしを選ぶと約束して……」
(まどわされるなヨシミ。殷の妲己、唐の楊貴妃。いつの世にも大乱の因は女にありじゃ。これより十年先を教えようぞ。――霜月に管領細川殿の軍は河内で川野通春の軍と矛をまじえよう。あけて葉月、京と河内の一帯は大風雨や水害に見舞われ、地獄と化そう。そしてヨシマサは死ぬ。おぬしが将軍になる。だがそれに不服をおぼえたトミコめがおぬしの首を狙い乱を起こす。その時、帝は応仁と改号される。それが合図じゃ。ようおぼえておくがよい)

 ギジンは鏡の中に見た。北は陸奥の国から南は薩摩の国までもが朱に染まる戦乱の世を。
 戦乱の鏡影が消えると、かわりに能の怪士の面があらわれる。

(さぁさぁどうする。傾国の毒婦トミコをなんとする?)

 青銅の鏡から昏く冷たい光が放たれる。月の光にしては明るく、影の色にしては暗すぎるそれが、じっとりとギジンの双眸に吸い込まれた。

「照骨鏡を御台様にもご上覧あそばしめるがよい。それと酒を持て」

 ギジンは怒ったように腰元に命じ、大杯に注がれた酒を飲み始めた。
 今度はトミコの目の前に銅鏡がまわされる。鏡をのぞき込んだトミコもまたあやしき鏡影を見た。
 楽しげに笑う赤ん坊の姿。楽しげな男女の笑い声にわらべ歌が見え、聞こえた。

「な……、こ、これは……」
(トミコよ、トミコよ)

 鏡面に幻影が浮かぶ。現在の彼女より数歳齢を重ねた姿の、けれどもまぎれもなくトミコ自身と見分けのつく女性の姿が浮かび上がる。その女は産着につつまれた赤子を抱いていた。

「そちは何者……」
(わらわは汝じゃ。ただし九代将軍ヨシヒサの母となったトミコなるぞ)
「九代将軍……。わらわが将軍を、産む……」
(いかにもそのとおり。今はまだ徴はないが、汝の胎にはやや子が宿っておる)
「やや子が!?」

 小さく叫ぶとそっと気づかれぬように男二人を見やった。

「して、父御はだれじゃ? 御所様か、ギジン殿か?」
(おなごにとってそのようなことにどれだけの意味があろうか、大切なのは汝が将軍の正室であること。そして次期将軍となる子を身ごもっていることよ)
「たしかに、たしかにそうじゃ、な……」

 そこで鏡影は能の大飛出の面に変じた。

(じゃがたった今、あの八代様はこともあろうに弟君に将軍の座をゆずり九代将軍にしようとしておる。正室たる汝になんの相談もせずにこのような宴の場で勝手に決めておしまいになられた!)
「そんな、ではこの子は、次期将軍になるはずのやや子は、ヨシヒサはどうなってしまうのです?」
(ああ、ああ、いつもそうじゃ。御所様はなにごとも汝に一言も相談をせずに勝手に決められる。そうして何十万貫もの銭を使い捨て、民百姓の憎しみはすべて汝が一身に浴びることになる。生まれてくるヨシヒサもどうなることやら……)
「……なんとしてもヨシヒサを次期将軍に、九代将軍にしてみせます」
(どのようにして?)
「どのような手を使ってもです」

 青銅の鏡から昏く冷たい光が放たれる。月の光にしては明るく、影の色にしては暗すぎるそれが、じっとりとトミコの双眸に吸い込まれた。

「腰元、酒をもて」

 ヨシマサが上機嫌で命じる。
 彼は自分を虚仮にした姦夫姦婦が近いうちにたがいを裏切り、憎しみ合うと鏡より教えられ、満悦至極で酒を味わい始めた。

「それがしにも、酒を」

 ギジンも血走った目で酒を飲んだ。近い将来、応仁なる元号に変じたその時には、かならずやこの裏切り者の毒女の首を……。と鏡に誓って大杯を干していた。

「わたくしも久しぶりに少しいただきましょう」

 トミコも小さな器を持ってこさせると、そっと飲み干した。
 やや子さえ生まれてしまえばこちらのもの。管領や帝。細川様や山名様の後見を得て早く生まれた子を将軍職に就けてしまおう――。
 三者三様が想いを浮かべていたその時、置かれていた照骨鏡がかん高い音をたてて真っ二つに割れた。
 三人がはっと息を飲んで見ると鏡はその内側より青い光を立ち昇らせ空に吸い込まれた。そして三人が気づいた時には鏡は、秦代より伝わり邪教立川流の呪具もまた煙のように消えてしまっていた。





 妖月に映し出されていた物語はそこで終わった。

「……ヨシマサ、トミコ、ギジン、ヨシミ――。足利義政とその弟の義尋に日野富子、応仁の乱の原因になった人たちだな。今のお話はその前日譚といったところか」
「ご名答でございます。さて翌年八代将軍義政公と富子様に玉のようなお世継ぎがお生まれになり、義尚(よしひさ)と名づけられました。さらにその翌年。なんと足利義尋あらため義視(よしみ)様は義政様の手の者に襲われたのです。しかし予言の甲斐あって刺客の手を逃れ、先の管領、細川勝元の屋敷に逃れました――」

 我が子である義尚を将軍職に就かせたいと熱望する富子は有力大名である山名宗全に接近し、義視が将軍になるのを阻止しようと暗殺までくわだてた。
 やがて義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し、勝元派と宗全派。東軍と西軍にわかれて京の町で真正面から衝突。
 これが京を荒野へと変じさせた十年の大乱の、世にいう応仁・文明の乱の始まりだ。

「うん、なかなか凝った見世物だった。さてお代を払いたいところだが、この美しい堂宇や庭園といい、拝観料は一万円でも安いくらいだから出したいところだが、あいにく仕事帰りでたいした持ち合わせがない。家まで取りに来るか?」
「一万円でも安いとは太っ腹だね、お兄さん。でもお金はいらないよ、お代は陰陽師。あんたの生き肝さ!」

 先ほどまでの芝居がかった重々しい声から一転。少年とも少女ともつかぬ快活な声色が月から響く。
 オオーン!
 獣の鳴き声のような音を発し、異形の月がうごめいた。
 金色に輝く月面の中央に血のような赤い点が浮かび上がる。そこから触手が枝分かれしながら伸びだして全体を覆い、血走った瞳のごとき姿に変容した。
 触手は蛇の大群のごとくうねり、のたくり太くふくれながら、毒々しい粘液をしたたらせ、秋芳に襲いかかった。
 血の色をした無数の肉鞭が殺到するがしかし、秋芳はそちらを一瞥すると池に視線を落とす。鏡のごとく澄み、波紋ひとつ生じていないそこには青白い満月が映っていた。
 もはや怪物と化した妖月のほかには、中天に輝くものはないというのに。

「疾ッ!」

 池を目がけて気合とともに刀印を振るう。
 キィンッ、ぎゃんっ! 
 なにかが割れるような金属的な音と獣じみた鳴き声が重なり響く。
 次の瞬間、秋芳を襲おうとした妖月は消え失せ、あたりの景色も一変した。
 銀色の月光にあふれた神秘的な光景はなくなり、銀光に満ちた堂宇のあった場所には黒ずんだ壁に簡素なこけら葺きの屋根をした、詫びた風情の建物がうずくまっていた。
 一階は書院造り、二階は禅堂。
 秋芳はこの建物を知っていた。観光地として有名な寺院、東山慈照寺。俗にいう銀閣寺だった。

「あ、いたたた……」

 白い砂の敷き詰められた枯山水の上に一匹の獣が煌めく破片にまみれ、ラグをまといながら痛みに悶えている。
 大きめの犬くらいのサイズだが胴体のラインは犬よりもふっくらとして愛らしいといえなくもない、人によってはモフモフしたくなるだろう。
 毛皮は明るい茶色をしていて、体長の半分近くを占めているのはしゃもじの形をしたひらたい尻尾だ。頭は大きくて丸く犬に少し似ているが鼻は短く耳も小さい。ガラス玉のような目の周りだけ毛が黒く、濃いアイラインを引いているように見えた。
 狸だ。
 ただし本物の狸ではなく、絵物語に出てくるようなデフォルメされた姿形をしている、化け狸だった。

「おっかしいなぁ、ボクの幻術は完璧で穏形も完全だったはずなのに、なんで見破られちゃったのかなぁ……」
「幻術や隠形に完璧だの完全だのってのはない。あるのは彼我の実力差のみだ。俺の見鬼がおまえの目くらましを上回っていた、ただそれだけのことだ。だいたいなにを指して完璧だと言ってるんだ?」
「幻術で作ったお化け月に襲わせると同時に幻術の池に隠れてたボクが攻撃する。上に注意がむけられてるから成功すると思ったのに……」
「なるほど、月面に映ったあの寸劇は月に意識をむけさせるためのものか」

 言いながら散乱する破片を手に取ってしげしげと見遣る。

「この鏡は、呪具だな。……雲外鏡か?」
「そうだよ。伝説の照骨鏡じゃないけど、幻を強化するすぐれ物だったんだ」
「月光に照らされ銀色に輝く堂宇のイリュージョンは絶景だったな。銀沙灘と向月台のある銀閣寺で〝月〟と〝銀〟を前面に押し出すのはなかなか良い選択だ、悪くない」

 そう言って本堂の前に広がる枯山水を指さす。白砂が波状に盛られている銀沙灘と円錐型の向月台があった。
 この銀沙灘。月の光を浴びると銀色に反射し、たいそう美しいという話があるが、夜の拝観はないため真偽のほどはさだかではない。
 では今夜、この時、幻ではない本物の月に照らされた銀沙灘はどうかというと、たしかに月光を浴びほのかに輝くさまは美しいが、さすがに先ほどの幻には派手さで劣る。

「あと月の怪物もリアルだった」
「そうでしょ。それなのにどうして……」
「本物の池なら上空や対岸の光景が水面に正反射して映るが、それがなかった。バケモノ月の姿がなく、普通の月が浮かんでいたからおかしいと思ったんだよ。見鬼でさぐる以前の問題だ。肉眼でもあやしいとわかる」
「そうだったんだ、次からは気をつけないと……」

 ラグが走る身体をのっそりと動かしその場を逃れようとする化け狸の動きを秋芳が制す。

「俺は相互主義者だ。生き胆を喰らうなどと命を狙ってきた相手を見逃すほど甘くはないぞ、覚悟しろ」

 秋芳の指先が縦横に交差し、虚空をなぞるとマス目上の軌跡が輝く。九字を切ったのだ。そこに込められた呪力は目の前の化け狸を修祓するのにじゅうぶんなものだった。

「わわわっ、命ばかりはお助けを!」

 そう言うとドロンと煙につつまれ、一人の少女の姿になった。
 肩口まである柔らかそうな明るい茶髪にアーモンド型の瞳、華奢だが丸みをおびたしなやかな肢体をタンクトップとデニムの短パンでつつんでいる。

「ねぇ、お願い。見逃して! もう二度とこんなことはしないから……」

 ひざまずいてこちらを見上げ、両手を胸の前で合わせ涙を浮かべて懇願する可憐な少女の姿に心を動かされない者は少ないだろう。だが――。

「俺に美少女無罪は通用しない」
「ふぎゃっ!?」

 放たれた呪力が命乞いをする少女を容赦なく打ちすえた。ラグが走って一瞬だけ野獣の姿にもどった化け狸がふたたび人の姿になる。
 こんどは長い黒髪をした大人の女性だ。簡素な白いブラウスとスカートという姿だが、先ほどの少女よりもはるかに豊満な身体をしていて、飾り気のない装束が逆にその肢体の凹凸を際立たせ、メリハリの利いた身体の線がむっちりと浮き出ていた。

「お願い! 助けて! あなたは無抵抗な者を殺そうとするような残酷な人じゃないでしょ!?」
「くどい」
「ぐぎゃっ!?」
「見えすいた色仕掛けの命乞いが通用するわけないだろう。おとなしく修祓されろ」 

 二度も祓魔の術を喰らい、ボロ雑巾ならぬラグ雑巾状態になった狸の口からはなお延命を願う言葉が漏れる。

「あ、あのさ……。三日だけ、あと三日だけでいいから見逃してくれないかな」
「……なんで三日なんだ?」
「明日の深夜、ボクがすごい楽しみにしてるアニメの最終回なんだよね」
「…………」
「すっごい面白いアニメでさ、1話を見た時は、なんかちょっと面白そう。程度だったんだけど、3話のマミさんが首ちょんぱされるシーンで一気に引き込まれて、それからも見続けるうちにどんどん評価が上がってさ。特に10話は見てて圧倒されちゃった。これまで納得いかなかったほむらの言動の数々には、ちゃんと意味があったのかを知った時はもう愕然としたよ。このアニメは傑作じゃない、大傑作だ! て――」
「…………そのアニメ、俺も見てる」

 物心ついた頃から修行修行の日々を送っていた秋芳だったが、山を下り京の町に住んで一人の時間を自由に使えるようになってからは道楽に目覚めた。
 ありとあらゆる娯楽を犠牲にし、すべてを修行についやしていた反動からか、映画や読書に始まり、音楽、演劇、歌舞伎、能、落語、釣り、スポーツ、料理、ゲーム、華道、香道、茶道、インターネット……。
 などといった各種の娯楽に触れ始めて楽しんでいたのだが、アニメ観賞もまたそれらにふくまれていた。

「俺はキャラとしては杏子が好きなんだよ。なんというか一番性格が合う気がする。でもさやかが不憫で不憫で……、だから選ぶとしたらさやかかな」
「時間を遡ってキュゥべえの星をぶっ壊しに行くってのは?」
「なるほど、そのためのほむらの能力か」
「9話のエンディングは泣けたな」
「歌詞が深いよね。読み解いていって何度も聴き入っちゃう」
「情感たっぷりに歌うから好きだ」
「あの人の歌は『アオキキヲク』が一番好きかな、それと『Before the Moment』は隠れた名曲だね」
(しるし)も良いな。俺は和系が好きなんだよ、陰陽座みたいの歌ってくれねーかな」
「陰陽座のコピーバンドで陽炎座ってのいそうだよね」
「あー、いそう。ありがちだな」

 小一時間ほど雑談したあと、『あさってここで、まどマギの話をしよう』そう言ってわかれた。





「――以上、月にまつわる思い出話でした」
「ねぇ、ひょっとしてその化け狸って、笑狸ちゃん?」
「そう」
「ちょっと! 月っていうか二人のなれそめ話じゃない! なにさらっと語ってるのよ」
「おいおい、なれそめって恋人同士に使う言葉だぞ……」
「そんな出会いだったのね、二人は……」
「ああ、出会いはいつだって唐突だ。そして恋もな」

 くしけずるように京子の髪をなでて、よせる。

「ひと目惚れだった」
「あたしは、ふた目惚れくらいだった、かな」

 いつ好きになった。などとは聞かない。今、そしてこれからも好きでいてくれるならそれでじゅうぶんだからだ。

「なぁ、今度は君の話を聞かせてくれないか?」
「ん……、いいけど、秋芳君ほどドラマチックなお話はないわよ」
「なんでもいいさ、きのう見た夢の話でもなんでも」
「そうね、それじゃあ――」

 秋の夜長、月明かりに照らされた二人の逢瀬はまだ続く――。 
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